2011年11月12日土曜日

霊的コミュニティを建て上げる (5)



ラリーは2つの部屋について説明している。1階と2階。1階は「この世」「肉」「現実の日常生活」と言ってもいいだろう。そこには常にコンフリクトがあり、罪があり、傷つけ合いがあり、痛みがある。なぜなら、人はそこでは自己中心であり、自分の価値を見せつけるプレッシャーの元にあり、自分を自分で守ることに精一杯だからだ。

「私の人生これだけなの?何かこれ以上のものがあるはず」と未信者でも2階の存在を意識している。アッパールーム(2階)には主がいて、COMMUNIONの用意が出来ている。そこはキリストによってのみ変えられた世界、変えられた自己がおり、自分中心の態度はキリストをワーシップする情熱に変えられ、人間不信はキリストへの信頼、自己破滅的な快楽はキリストにあって霊的に成長する情熱へと変えられる。自分の人生、自分でマネージできると思っていた自分は、キリストへ服従することへの思いが与えられる。

未信者でも人生が1Fだけじゃないことを感じている。隠れ場を求めている。だから、スピリチュアルにハマる。すべての孤独は神への渇きだから。しかし、未信者には2階があっても鍵がかかって入れない。鍵を解くことはイエスとの交わりを始めるということ。2Fを知っていることは何という幸いか。二階に行く事により、キリストと交わることにより、以下の移行が起こる。


1)自己にフォーカスする → 神をワーシップ

2)自分が判断基準 → 神のことばが判断基準

ちなみに、人は善悪を知る木の実を食べて、(神なしに)善悪をわきまえる、すなわち、自分が判断基準となった。だから、人間は神はいない、信じるに足りないと結論することさえできる。

3)自分の生活を自分だけで管理する → キリストを信頼する歩み。


それにより、自由になる。平安になる。Dead Endが無くなる。行き詰まっても、常に2階がある。そこへ行けば、キリストがいる。祝宴の用意がある。だから、Spiritual communityとは、この2階を知っている者の交わりなのだ。
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2011年11月6日日曜日

霊的コミュニティを建て上げる(4)



 ラリー・クラブは、霊的コミュニティは「奇跡」だという。人間的には作り出せない。参加者全員がへりくだり、キリストを見上げる(ワーシップ)態度が無いと起こりえない。形だけスモールグループをやっても、それが無いと全然違ったものになる。愛とは他人に関心を注ぐ事。そのためには他の人が言っていることに誠実に、耳を傾ける必要がある。スモールグループが失敗する一つの理由は、ある人が会話を牛耳ってしまい、自分のことばかり喋ってしまうことにある。

Are you really listening? Key to successful communication」(Paul J. Donoghue & Mary E. Siegel著)によると、アクティブリスニングは贅沢ではなく、必要であると。愛とはその人に注意を注ぐこと。それを妨げるものに4つあるという。


アクティブ・リスニングの障害となる4つのこと

1)     Defending (防御的になる)

2)     “Me, too” identifying (自分の事ばかり話す)

3)     advice giving (いわゆるお説教をする。)

4)     judging the speaker (相手を裁く)


お互いに相手を自分より優れた者と思う謙遜さ(ピリピ2:3)が無いと、競争心が生まれる。お互いの業績(あるいはミニストリー)の自慢話になってしまう。また相手を裁いたり、見下したり、あるいはお説教したりが始まると一気に雰囲気が壊れてしまう。安全な場所でないと、正直になれないから。誰も正直になることは怖いので、貝のようにちょっとでもアブナイ雰囲気を感じると閉じてしまうのだ。だからお互いの謙遜さが絶対に必要となる。

たとえ良い動機であっても一人の決まった人が一方的に長いメッセージを語って終わりというスタイルでは「お互い」にの部分が起こらない。その「お互いに」が霊的コミュニティの本質的な部分だからだ。ラリーは言う、霊的コミュニティがあまりに稀なので、人々はプロのカウンセラーに頼るようになると。逆に霊的コミュニティが機能すると、かなりの部分、お金を払って会いに行くカウンセリングが必要なくなるとラリーは見ている。しかし、また、あまりに仲良しグループになってしまうと、人間的なものが先行し、なあなあ主義になりチェック機能が効かなくなる危険がある。キリストの前に出ないとお互いの罪を容認してしまう危険があるのだ。愛をもって真理を語れる関係でなくてはならない。あるいは、注意しないと、単なるはけ口としての他人の批判や教会の批判、傷のなめ合い集団になる可能性もある。だから、霊的コミュニティは「奇跡」。しかし、追い求める価値あるもの。ラリーは言う。

It’s time to build the church , a community of people who take refuge in God and encourage each other never flee to another source of help, a community of folks who know the only way to live in this world is to focus on the spiritual life – our life with God and others. It won’t be easy, but it will be worth it. Our impact on the world is at stake.
(p.20)

今こそ、教会を建て上げる時だ。教会、すなわち神に隠れ場を求める人々のコミュニティ。彼らはお互いに励まし合い、神以外のものに助けを求めに逃れない。彼らはこの世に生きる術は霊的生活(すなわち神と他者と共にある我々の人生にフォーカスすること)しかないことを知っている。それは容易ではない。しかし、価値あることだ。この世へのインパクトが懸かっているから。
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