ラリーは2つの部屋について説明している。1階と2階。1階は「この世」「肉」「現実の日常生活」と言ってもいいだろう。そこには常にコンフリクトがあり、罪があり、傷つけ合いがあり、痛みがある。なぜなら、人はそこでは自己中心であり、自分の価値を見せつけるプレッシャーの元にあり、自分を自分で守ることに精一杯だからだ。
「私の人生これだけなの?何かこれ以上のものがあるはず」と未信者でも2階の存在を意識している。アッパールーム(2階)には主がいて、COMMUNIONの用意が出来ている。そこはキリストによってのみ変えられた世界、変えられた自己がおり、自分中心の態度はキリストをワーシップする情熱に変えられ、人間不信はキリストへの信頼、自己破滅的な快楽はキリストにあって霊的に成長する情熱へと変えられる。自分の人生、自分でマネージできると思っていた自分は、キリストへ服従することへの思いが与えられる。
未信者でも人生が1Fだけじゃないことを感じている。隠れ場を求めている。だから、スピリチュアルにハマる。すべての孤独は神への渇きだから。しかし、未信者には2階があっても鍵がかかって入れない。鍵を解くことはイエスとの交わりを始めるということ。2Fを知っていることは何という幸いか。二階に行く事により、キリストと交わることにより、以下の移行が起こる。
1)自己にフォーカスする → 神をワーシップ
2)自分が判断基準 → 神のことばが判断基準
* ちなみに、人は善悪を知る木の実を食べて、(神なしに)善悪をわきまえる、すなわち、自分が判断基準となった。だから、人間は神はいない、信じるに足りないと結論することさえできる。
3)自分の生活を自分だけで管理する → キリストを信頼する歩み。
それにより、自由になる。平安になる。Dead Endが無くなる。行き詰まっても、常に2階がある。そこへ行けば、キリストがいる。祝宴の用意がある。だから、Spiritual communityとは、この2階を知っている者の交わりなのだ。
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