2024年5月9日木曜日

ペンテコステに火は降らない

 

新約の御霊

以前、旧約と新約で聖霊の働きが違うことを見てきました。旧約では特別な任務のために、特定な人に、上から神の霊が激しく下ったのです。サムソンのように、必ずしも、人格者では無いけれど、神の霊が一方的に下って、ある働き(この場合、イスラエルの敵であるペリシテ人を討伐する)をさせたのです。

 

新約ではイエス・キリストを信じるときに、聖霊が賜物として与えられます。(使徒2:38)しかも、神に召される人なら誰でも、すなわち、信じる人誰にでも与えられるのです。(使徒2:39)与えられるだけでなく、神の御霊は信者のうちに住むのです。(コリント3:16)また御霊は信者がやがて受ける「御国」の保証であり、(エペソ1:14)、また朽ちない体に復活する保証でもあるのです。(IIコリント5:5)そもそも聖霊によるのでなければ、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント12:3)知識を増しても、洗礼を受けても、教会員名簿に載っていても、聖霊の働きがないと、心から「イエスは主=神=救い主」と告白できないということです。もっとはっきり言うと、聖霊を持ってなければクリスチャンではありません。(ローマ8:9)そして、自分が神の子供であると確信を持つことができません。(ローマ8:16)

 

ペンテコステに付きまとう「ファイアー」のイメージ

イエスご自身が約束されたように(ヨハネ7:37−38、ルカ24:49)、聖霊はやってきたのです。(使徒2章)よく、聖霊と火が結びつけられます。クリスチャンの大会で「聖霊の火をいま、ここに下してください!」と語る説教者がいますが、使徒2章3節は「炎のような舌」とあり、炎そのものではありません。ペンテコステの日に天から「火」が降ったのでもありません。「火」よりも、「響き」(2節)、「物音」(6節)の方が強調されています。

 

またマタイ3:11に「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と確かに「火」が関連づけられて出てきます。しかし、ここで「火」は、さばきの事を語っている文脈で使われています。11節のすぐ後の12節には「火で焼き尽くされる」とあります。つまり、ここでの火は聖霊から来る「力や情熱」を表すというより、「さばき」の火なのです。裏を返せば、神の「聖さ」の証明と言ってもいいでしょう。また聖書の他の箇所では「火」は試練を通って浄化、純化されるという意味で使っており、信者が成長のために通る試練・訓練(ヘブル12:5−11、Iコリント3:15)の意味と取るのが相応しいと思います。特に当時、クリスチャンとなるということは迫害を受けることだったのです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」IIテモテ3:12)

 

旧約での火という表現を見てみましょう。出エジプトでは、モーセの「燃える柴」や、イスラエルを導いた「火の柱」は、神のご臨在と栄光を表しています。聖霊を受けると私たちが神の宮となり、キリストは私たちのうちに「栄光の望み」として内住されるのです。(コロサイ1:27)エリアがバアル信者と戦った時、祭壇に天から火が降りました。神が神であることの「証明」だったのです。エリヤやエリシャが見た「火の戦車」、「火の馬」は、天的なもの、この世のものでないを表しているようです。聖霊を受けると、天的な(聖書的な)価値観に浸されるのです。ソドムに降った火は裁きであり、神の聖さの証明です。そのように、旧約でも、「火」は私たち側の情熱や力より、神ご自身の臨在、栄光、存在の証明の描写なのです。だから、「火のバプテスマ」は神のご臨在、栄光に浸されると考える方が聖書的なのではないでしょうか。

 

使徒1:8では、聖霊が来られると宣教の「力」を受けることが約束されていますが、「火」という表現はありません。

 

そもそもバプテスマの意味は「浸す」です。白い布を赤い染料に浸すと、真っ赤に染め上がります。聖霊のバプテスマとは聖霊に浸されることです。またキリストと一体化することです。(Iコリント12:13)従って、聖霊のバプテスマとは信じた時に御霊によってキリストの体に同一化されること、キリストの体の一部となることです。

 

「異言」は聖霊が来たしるし?

「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めた。」(2:4)と不思議な現象が書かれています。これは、新約時代(聖霊時代)の幕開け、オープニングイベントとして、まず弟子たち自身、そしてユダヤ人信者たちへの

「しるし」ないし確証(confirmation)だったと言えます。つまり、「本当だ、イエス様の約束した通り聖霊が来られたのだ。」と知るためです。また、これはそこに居合わせた神を敬う外国から来ている人々への証でもあったでしょう。事実、この現象を見て、ペテロの説教を聞いてキリスト信者になり、ローマに戻った人々がローマでエクレシアを始めたようです。ローマ教会はパウロが始めたのではありません。すでに始まっていたエクレシアに向けてパウロが書いた手紙が「ローマ人ヘの手紙」です。つまり、ペンテコステの一連の出来事は、ペテロが語る福音を確証(confirm)するためであったと思われます。オープニングイベントが終わった今、そのような劇的な事は、もはや必要ではありません。聖書の権威も確立しています。個人がイエスを信じ、聖霊が来られた「しるし」として「異言」を語る必要性はなくなりました。

 

ただ、個人の霊的成長に役立つ賜物としての「異言」はあるようです。コリント教会で問題となった「異言」(Iコリント14章)は、使徒2章の「異言」とは異なります。使徒2章の「異言」は「人に向かって語る」ものであり、「異国の言葉(外国語)」だったのです。だから外国人は話の内容が分かったのです。(使徒2:8−11)それに対してIコリント14章の「異言」は「人に向かって語るのではなく、神に向かって語る」(コリント14:2)のです。聞いている人は理解できないのです。(14:2)この異言は個人的な成長に役立ちます。(14:4)個人デボーションなどで用いられるでしょう。このような個人的に与えられる「賜物」としての「異言」はあるのです。ただ、ことさらに「異言」の賜物だけを強調して、受けるように指導するのは違うのではと思っています。賜物なら与えられるのです。また、教会の中での使用は注意すべきです。パウロは14章で細かく指示していますね。また「種々の異言」(コリント12:10)とあり、他の人が聞いて益となるものもあるようです。(預言に近い?)ただし、この場合「解き明かし」が必要になります。(コリント12:10)

 

第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」?

自分は「きよめ派」の教会で洗礼を受け、その神学の中で育てられ、献身してから、アメリカの「きよめ派」のバイブルスクールで学びました。そこでは第二の祝福としての「きよめ」の体験が語られていました。あなたは「救われていますか?そして、きよめられていますか?」と2段階で問われるのです。「聖くなければ、誰も主を見ることができません。」(ヘブル12:14)が強調され、「きよめ」られていないと携挙の時に主に会えないのではと不安になりました。

 

今は、ヘブル10:10が言うように「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」をベースに平安が与えられています。ともあれ、救われて、そして、次に第二の祝福として「きよめ」の体験を受けることが重要と教えられていたのです。これは、構造的にはカリスマ・ペンテコステの人たちが言う「聖霊のバプテスマ」と同じです。信じた後に受ける、第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」です。

 

ただし、聖書の中には「聖霊のバプテスマを受けなさい」という命令はありません。その代わりに「聖霊に満たされなさい」との命令はあります。(エペソ5:18)コリント3:1―3では、生まれながらの人(ノンクリスチャン)、肉に属する人(クリスチャンだけれども、自分の心の王座には自我が座っている状態。言動は「生まれながらの人」と変わらない。)、そして御霊に属する人、すなわち、御霊に満たされ、心の王座にキリストが座している人の3種類の人間が出てきます。それからも分かるように、確かに救われた後、御霊に満たされることを学び、体験する必要があるのです。肉のクリスチャンの間には「妬み」や「争い」があります。教会がその状態のままでは主に喜ばれることはできませんね。

 

聖書的にはキリストを信じる人は、義と認められ、神の家族として「聖別」されています。ステイタスは「聖人」です。同時に、実質的にも御霊に満たされ、御霊によって歩む必要があると言うことです。(ガラテヤ5:16)御霊に満たされることは一度、満たされたから、それでいいのではなく、御霊に満たされ続ける、御霊によって歩み続ける必要があるという事です。

 

私の理解では、「聖霊のバプテスマ」とは、信じた時にキリストと同化すること(キリストの体の一部になること)です。

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。 I コリント12:13)

 

ですから第二の祝福として「聖霊のバプテスマを受けよ」という表現は相応しくないのではと思っています。これは「聖霊に満たされる=聖霊にまったく浸される」体験と理解されるべきでしょう。すでに与えられている「御霊」が、もう一度「下る」のはおかしい話です。そして、第二であろうと、第三であろうと、祝福としての「霊的体験=神に触れられる体験」はクリスチャン生涯の中で様々体験することでしょう。私が学んだケンタッキーのバイブルスクールでは、集会中に、主に触れられ、叫んだり、飛び上がったり、駆け回ったりする学生がいました。また主に語られたとアラスカに宣教師に行ったクラスメートもいます。そういう体験はあるのです。しかし、それはあくまで結果であり、そういう「体験」を求めるのは間違っているでしょう。彼らが今日、主と誠実に歩んでいるのかという方が大事なのです。

 

「今、ここにペンテコステの日のように聖霊の火を下してください!」と聖霊に「情熱」、「力」としての「火」が結びつけられやすいのですが、聖書的には、どうも根拠が薄いのです。大会で一時的に盛り上がるより、日常生活の中で、「御霊に満たされて」、ご臨在の中で、淡々と歩む方が大切なのではないでしょうか。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年5月2日木曜日

理不尽な神?

 

「人権フィルター」で聖書を読むと・・・

昨今の道徳観、人権フィルターで旧約聖書を読むと、理不尽な記事が多々あるのです。

 

*預言者エリシャのはげ頭をからかった子供42人が神の呪いで2頭の雌熊に

引き裂かれて死んだ。           (II 列王2:24)

 

*ダビデの人口調査の罪のために、自国の民が7万人主に打たれて死ぬ。

                                        IIサムエル24:15)

 

*アハズヤ王に命じられて預言者エリアを迎えに来た50人隊に天から火が降

って50人が焼き尽くされた。こんなことが2度立て続けにあった。

II列王記1:8-14

 

*450人のバアルの預言者はエリヤの命令で殺された。

列王18:40)

 

えっ!どうして?かわいそうと思ってしまいますね。また、神の箱を荷台に乗せて運んでいる時、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえたために神罰が降って、その場で死んでいます。(第一歴代13:10)なんで親切心を起こして行動したウザが神罰に遭うのか分かりませんね。まあ、これは本来、神輿のように担いで運ぶように規定されていたのに、異教の方法で運んだからという解釈もあり、それなりに納得できますが・・・。

 

極め付けは「ノアの洪水」では無いでしょうか?全世界が滅んでしまったのです。たった8人以外は、動物を含め絶滅です。「万人救済説」を唱える人はこれをどう解釈するんでしょうね。世界的裁きは、すでに一度行われているのです。

 

ソロモンが神殿を奉献した時には、牛2万頭、羊12万頭を捧げています。(I I 歴代7:5)病気でもない多数の動物を殺傷したとなると、動物愛護協会からは非難されそうですね。

 

祝福としての戦果

旧約聖書で神が活躍する場面の多くは「戦争」です。神は「万軍の主」と表現され、文字通り、神の祝福とは敵に勝って領土を広げたり、保持したりすることだったのです。

 

*エジプトの軍隊

映画「十戒」で有名なシーンですね。出エジプトしたイスラエルの民は、紅海を目の前に行手を阻まれてしまいます。そこに、なんとエジプト軍が迫ってくるのです。まさに「前門の虎、後門の狼」状態。神は紅海を割り、イスラエルの民は乾いた海底を渡りきり、その後、海が戻ってエジプト軍は水没したという記事です。イスラエル側から見ると勝利であり、ハッピーエンドです。しかし、王の命令を受けて、イスラエルを追ってきたエジプトの兵士たちは忠実だった訳です。彼らにも家庭があり、愛する者たちがいた事でしょう。それが、全員、水没です。エジプト兵士側からは理不尽な話です。人権派からは、「こんな事を教会学校で子供達に教えているのか?」と文句を言われるでしょうね

 

*カナンの地の占領

約束の地、カナンの占領の時は先住民を聖絶する命令が下されます。女も子供も皆殺しです。命じられた通りに聖絶しなかったサウロ王は預言者サムエルに咎められます。(Iサムエル15)先住民は、それまでは平和に生活していたのです。偶像礼拝者とはいえ、彼らにも家庭があり、日常生活があったのです。一瞬にして破壊され、滅ぼし尽くされます。そして、それは「良いこと」であり、「勝利」として記録されます。人権派からは一番、攻撃される分野でしょう。

 

主の使いにより敵国アッシリアの兵士18万5千人が殺されます。(I I列王19:35)ダビデはアラムの歩兵4万人を殺します。(歴代19:18)現在のガザの2万数千人の犠牲者どころではありません。イスラエル生存のために、他国の兵士を大虐殺しているのです。

 

これらは今の「人権フィルター」を通して読めば、許し難い事でしょう。

 

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いわゆる「聖戦」の理解

ただし、「聖絶」は、カナン占領の時のみであり、「ある特定の状況」、「ある特定のエリア」で神が、イスラエル民族に命じた「特別な」命令であり、これを現代に適応することはできないのです。このような状況で神が命じた戦争は現在、存在しないのです。現代においては、「聖戦」は無いというのが私の立場です。神が命じた戦争はないのです。ロシア、イラン、トルコなどの連合軍がイスラエルに攻めてくる、「エゼキエル戦争」(エゼキエル38章の預言)では、神の介入により、イスラエルは「戦わず」して勝つのです。今は、異教徒だから抹殺して良いとか、異教の宮は破壊して良いとかとはなりません。旧約時代でさえ、ヨナの願望に反して神は異教徒の街、ニネベを救いました。「捕囚」の時は、異教の地、バビロンの町の繁栄を祈り、そこで生き延びることが御心だったのです。1つの例でパターン化することはできません。さらに、敵を倒して、どんどん際限なく領土を広げていく「帝国」主義とは全く違います。神が与えると約束した「約束の地=カナンの地」は、範囲が定められていました。(創世記15:18−21)それ以外の土地に手を出してはいけなかったのです。そして、主に従えば領土を守ることができ、従わなければ領土を失うという「契約」付きなのです。現に、ソロモン以降の不信のためにイスラエルは土地を失い、「捕囚」という屈辱を経験します。

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聖書は発禁本に?!

いずれにしても現在の「人権フィルター」で読むと聖書はとんでもない書物ということになります。アメリカ発の異様なポリコレが世界に広がっています。多様性や人権思想が広がっています。聖書の内容は許し難いものとなります。近い将来、聖書が発禁本となることは十分ありうるのです。あるいは、書き換えられて発刊されるかも知れません。また、LGBTの解釈を含め、「理不尽」な聖書を、今日の「人権フィルター」で解釈し直すことを勧める動きも進むでしょう。「ジハード」(布教のためのテロや殺戮を良しとする教え)を勧めるイスラム教のコーランを世界のマスコミは問題視しないのも不思議ですけどね。

 

 

聖書的世界観VS 世俗の世界観

聖書の世界観では、「初めに神が天と地を創造した」のであって、最終主権は神にあるのです。命の与え主は、それを奪う権威も持っています。(ヨブ1:21)創造主だけは、それができるのです。神が命じたこと、神が直接手を下したことは神の主権によるという理解です。そして、この神は全知・全能の神で間違いを犯さない方だという前提によるのです。この理解が非常に重要です。

 

例えば、創造主を否定する世界観では、キリスト教を含め、すべての宗教は人間文化の産物です。ですから、仏教もイスラム教もキリスト教も、まな板の上に横並べに置いて、比較されるのです。人間の文化の産物である「神」が人間を殺すことは「理不尽」だという事になります。しかし、創造主がおり、キリストは「万物の主」であるという世界観ではどうでしょうか?この世界観では「創造主」と「被造物が造った産物としての宗教」の対比となるのです。ローマ書1章を読むと、諸宗教は真の神を離れた堕落の結果として描かれています。黙示録を見ると、このキリストは諸国の王として将来、世界に君臨されることが書かれています。最高権威者である「王の王」は、お一人なのです。

 

キリストは、万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン

                           (ローマ9:5)

 

判断基準はどこに?

聖書の神は全知全能であり、人間のような日本神話や、ギリシア神話の神々とは違います。聖書の神はアルファであり、オメガなのです。歴史の初めから終わりまで知っておられます。また、神は偏在の神であり、世界のどこにも存在できます。つまり時間空間を超えています。また、地球上すべての人の心のうちを知っておられます。(歴代28:9)今、AIの時代ですが、将来、経営判断もAIに任せるようになるでしょう。AIが人間の知能を超えるからです。聖書の神はそれ以上です。全知全能、完全であり間違うことがないのです。このお方が判断し、命じたことは、それでいいのです。神は完全で正しい方です。歴史の初めから終わりまでを分かっておられるのです。人は違います。人は罪人であり不完全なのです。従って、常に間違った判断をします。

 

未だに戦争があり、人権侵害があり、不平等があり、賄賂や汚職があり、窃盗があり、嘘が広がっています。先の例を見て、神が不条理という前に、そもそも人が罪を犯して歪んだ世界になってしまっていることが問題なのです。その枠組みの中では、「必要悪」も生じてしまうのです。ダビデが主にあって戦争に勝利し、神を褒め称えていた反面、神は「あなたは、人の血を流した」として神の宮を建てることを許さず、その子、ソロモンに託すのです。(歴代28:3)ここに捻れ(必要悪)を見ます。本来、被造物である人が、人の命を奪うことはできないことなのです。

 

基本は、十戒にあるように、「殺してはならない」(出エジプト20:13)なのです。しかし、同時に、旧約では「死刑」が神によって定められています。偶像礼拝や極度の性的逸脱行為など、人が致命的な罪を犯した場合(出エジプト22:18−20)、人の命を奪うことが許されています。また故意の殺人には報いがあるのです。「いのちにはいのち」(出エジプト21:23)。罪の世ではそれが起きるからです。罪の世では、住民が守られるために刑法や、刑罰があるのです。ある意味、仕方ないのです。「命絶対主義」ではありません。

 

自分は正しい判断をしたと思っても、後で間違っていたということはないでしょうか?私たちにはこの経験があります。神にはないのです。もちろん人が間違った判断をしたことを神は悔います。しかし、ある意味それは想定内なのです。

イスラエルの人々が目に見えない神を退けて、目にみえる王を欲した時、神は渋ったのです。どうなるか結果が分かっていたのです。しかし、あえてサウルをお立てになりました。サウロは途中で失落し霊媒者に頼るようになります。ダビデは戦いで多くの血を流し、神殿の建設はソロモンに託されます。ソロモンが神殿の奉献式をした時、民は神に従いますと誓ったのですが、ソロモンも後半、外国人妻により偶像礼拝に傾き、結果は国の分裂、最後は捕囚で国を失います。それでも回復の神は70年後にイスラエルの民を約束の地に戻すのです。神の知恵は人の知恵を超えているのです。お見通しなのです。そして、人の失敗に輪をかけて恵みを施し回復される方なのです。(ローマ5:20)

 

神から出たことであるなら、それは正しいのです。最後には精算をつけます。最後には悪は滅びます。その悪を決めるのは神なのです。さばくのは裁き主であるキリストなのです。黙示録は最終的な清算の書です。

 

「良い」とか「悪い」とか、「フェア」だとか、「アンフェア」とかは、それを決める基準があるわけです。何を基準にするかです。日本では戦時中、天皇のために死ぬことは「良い」ことでした。戦後は天皇中心の軍国主義的思想は「悪」となりました。そんなもんです。人間の社会の中では、基準は変わるのです。

 

知能の限界のある私たち人間には、すべての事は分かりません。判断もつきません。ましてや神のしていることをジャッジできないのです。「そんなのは神でない!」、「神ならそんなことはしない!」と神の代わりになって、いや、神の上に立って神を評価、判断してしまいます。「神が天と地を創造した」のです。神が人を創造したのです。(創世記1:27)神は完全無欠の創造主であり、私たちは有限なる被造物です。人は神を超えられないのです。最終的な裁判官は神ご自身です。

 

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執筆者:栗原一芳

2024年4月25日木曜日

サタンに立ち向かえ!

 

御国は王国

「御国」は英語ではKingdom と訳されており、「王国」と言う方が、元来の意味に近いのです。つまり、王がいて、その王が統治する国が王国です。御国はキリストが王として統治する国です。もともと1つの王国だったのです。神が統治する世界・・・「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)のです。

 

2つの王国の始まり

最高位天使のケルビムが高慢になり堕落した結果、神に反抗するという「悪」がこの世に入ってきたのです。(エゼキエル28章)堕落した天使はサタンとなりました。神が用意された宝石のエデンの園は廃墟と化しました。(創世記1:2)

 

神は新しいエデンの園を創造され、そこにご自身のイメージに人を造られました。これにサタンは驚きと大変な嫉妬心を起こしたことでしょう。「本来、自分が享受すべき祝福を人間に取られた!」と。そこでサタンのメラメラと燃える嫉妬心と情熱は人を騙して神に逆らわせることに向けられたのです。どうしても人間を失落させたい、自分と同じ堕落の運命の道連れにしたいと。そういう意味では人が罪を犯す前から「悪」が存在したことになります。サタンの誘惑に負けてアダムとエバは罪を犯してしまいました。何より神が大事に思い、愛している人間が、その創造主なる神に反抗し、神を憎み、神を否定するように仕向けられれば、最高に嬉しいわけです。以来、サタンは今日に至るまで、それをし続けています。

 

つまり、1つだった王国は今、2つの王国の対立になってしまいました。「神の王国」と「サタンの王国」。「光の王国」と「闇の王国」です。サタンは一時的にこの世を支配することが許されているのです。(エペソ2:2、II コリント4:4)サタンを拝せば、世界の栄華を手に入れることが可能なのです。(ルカ4:5−6))また、「この世の神」として人々に快楽と異端的思想を植え込み、人々の霊的目をくらますことが許されています。キリストを王とする神の国に対抗して、今やサタンは「闇の帝国」を支配し、広げているのです。人々はどちらかを選択することができるのです。

 

真似をするサタン

サタンは神の代わりになろうとしています。サタンは真理を見せたくないのです。誘惑し、惑わし、騙すのです。自分が礼拝されたいので、神を真似るのです。例えば、神は、父・子・御霊の三位一体です。黙示録を見るとサタンは竜(サタン自身)・獣(反キリストなる人物)、偽預言者(獣を崇めさせる)として悪の三位一体を形成します。また、神は契約の神であり、アブラハムやダビデと契約をしました。そもそも「旧約」とは古い契約であり、「新約」とはキリストにある新しい契約です。罪なき「子羊の血」が流されたことにより、人の罪が赦され、贖われます。新しい「契約」が成立しました。神が契約したことであり、それは確かなのです。神はご自分の忠実さにかけて契約を実行されます。

 

サタンも契約を真似します。サタンも自分と契約し、自分に献身させることで、悪魔的なパワーを人に授けます。動物の血を流させ、同じく血の契約をさせるのです。そうすれば、人を呪う力や快楽を手に入れられるのです。サタンを拝すれば、名声や成功も手に入るでしょう。有名な歌手や映画俳優で、そのようにしている人もいるようです。サタンに献身するとは、サタンの奴隷になるということです。ヤクザ世界に入るようなもので、簡単には出られません。出ようとすれば脅しに会うのです。それは偽りの幸せです。サタンは人間を愛していないのです。人間の幸せなど願っていないのです。サタンは、最後は「奪い、殺し、滅ぼす」だけが目的です。(ヨハネ10:10)反対にキリストは「豊かないのち」を与えるために来られたのです。

 

サタンの戦略

哲学的には無神論や懐疑論、また進化論思想を用いて聖書を否定します。宗教的には、諸宗教を使い、またキリスト教の異端やリベラル神学を用い人を騙します。「宗教は皆同じ、結果、同じ神にたどり着く」という万人救済論に導きます。そうやって唯一の救い主、キリストを否定します。また、ポワースポットや霊媒、占い(星占いやタロットカードなど)を通して、偽りのスピリチュアリズムを広げます。終わりの時代には多くのものが「魔術」に惑わされます。(黙示18:23)今もハリーポッターが大流行りですね。しかし、神は「魔術」を嫌います。(黙示22:15)聖書を知らなければ、霊はすべて同じものと考え、それらが「悪霊」であることが分かりません。

 

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」ヨハネ4:1)

そして究極は、悪魔礼拝です。サタンに献身し、サタンを直接礼拝してしまうのです。サタンを賛美し、サタン的な価値観の伝道者となるのです。恐ろしい事です。ここまで行くと実際に呪いの力や予見力が与えられ、人が空中浮揚するのを見たり、幽霊を見たり、身近に悪霊の存在を体験するようになるようです。元悪魔礼拝者で、救われて伝道者になっているジョン・ラミレス氏の証を聞くと、この辺の事情がよく分かります。

 

サタンは賢いので、次世代を汚染すれば人類を失落させられることを知っているのです。最近は、ゲームや、ネット動画を通して子供達に「闇の王国」を意識づけ、無意識的に神を否定したり、憎んだりするように仕向けています。多くの人々は、当たり前のように進化論的世界観に洗脳され、快楽・繁栄、栄華を求めることが幸せに通じると騙されています。それらは、サタンが提供する偽りの幸せです。

 

罪の社会の中で傷ついた人が増えています。うつや孤独感の中で漠然と世の中を恨む人が増えています。「誰でも良かった。人を殺したかった」という犯罪はまさに悪魔的です。また、サタンは自殺しようとする人の後押しをします。サタンは、憎しみや嫉妬心を持っている人を狙ってきます。そういう人は「足がかり」を持っているので、攻撃されやすくなります。

 

また、サタンが高慢から堕落したように、サタンは高慢な心に棲み着くのです。もうすぐAIが人間の知能を追い越すと言われています。人は神に聞くより、AIに判断を仰ぐようになるでしょう。神なしの「バベルの塔」をまたも築こうとしているのです。残念ですが、終わりの日には、「すべての国々の民」がサタンの魔術に騙され、反キリスト側につき、神を信じる聖徒たちを迫害するようになると預言されているのです。

 

おまえの商人たちが地上で権力を握り、おまえの魔術によってすべての国々の民が惑わされ、この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。(黙示18:23−24)

 

やがて来る神の統治

患難期でも反キリストに従う人たちは「いい暮らし」ができるのです。商売は繁盛するのです。快楽に浸れるのです。(黙示18:15−16)しかし、それは一時的な王国なのです。反キリストが「神」宣言をしてから、たった3年半で終焉を迎えます。キリストが再臨されるからです。

 

「1つ」から「2つ」へ、そして「2つ」から「1つ」へです。もともと1つの「神の王国」だったのです。そこへ、「サタンの王国」が割り込んできました。今、人々は目の前に、この2つの選択があるのです。神に従うか、サタンに従うか。しかし、将来、キリストの再臨があり、サタンは滅ぼされ、また1つの「神の王国」へ戻るのです。

 

惑わされてはいけません。サタンは誘惑します。いい世界を見せます。しかし、それは惑わしなのです。重要な事実、それは、<サタンは人間を愛していない>という事です。人間の幸せなどどうでもいいのです。道連れにするために騙しているだけです。早く、目覚める必要があります。偽りがあるなら、本物もあるのです。キリストは言いました。

 

「わたしが道であり、いのちであり、真理なのです。」(ヨハネ14:6)

 

サタンに対抗せよ!

サタンは未信者に霊的覆いをするだけでなく(IIコリント4:4)、クリスチャンをも誘惑し攻撃してきます。だからパウロは霊的戦いの備えをするよう語っているのです。(エペソ6章)。神学を勉強するのはいいのですが、賢くなるとサタンや「霊的戦い」のことを語らなくなる傾向があります。「社会善」の方に関心が向きます。しかし、「イエスの血」の力を語らないなら、サタンは平然としていられます。サタンのことを真正面に語らない、お行儀の良い、物分かりの良いクリスチャンたちも、違う形でサタンにやられてしまっています。この時代、悪魔なんか・・・と訝るクリスチャンは、この聖句をどう読むのでしょうか?

 

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。               ペテロ5:8−9)

 

悪魔に対抗しなさい。(ヤコブ4:7)

 

とヤコブも言っています。サタンや悪霊の存在がリアルであり、戦いが現実のものだからです。私たちが見るもの、聞くことにも注意しないと、悪魔的価値観が滑り込んできます。そうして「思い」が汚されていきます。物分かりの良い「多様性」、「世界統一宗教」への協力も、実のところ唯一の救い主、キリスト否定であり、悪魔的な動きと言えます。サタンは賢いので、次世代をすでに狙っています。サタンは子供達に「魔術」的なものを流行らせようとします。神は魔術を嫌います。(黙示21:8)サタンに対抗しなければなりません。ゲームやYouTubeも霊的検閲をしないと、容易に悪魔的価値観やライフスタイルが入り込んできます。2つの王国のことを思い起こしてください。これは個人の道徳問題に留まりません。国同士の戦いなのです。占いをしたり、ポルノを見ることは個人の霊性が汚されるだけでなく、それは「悪魔の王国」建設に貢献していることになるのです。そういう妥協したクリスチャンが多く存在することで、実のところ「神の国」拡大の足を引っ張っていることになるのです。悪魔の王国に貢献したくないですよね。これは単なる個人的道徳問題ではなく、「霊的戦い」なのだと認識することが大事なのです。2つの「王国」が対抗しているのです。綱引きで、あなたはサタンチームに入ってロープを引っ張ることに協力していませんか?

 

霊的に眠っているクリスチャン、日曜日にただ習慣的に礼拝に出ているクリスチャン、聖書も読まず、祈らないクリスチャンたち(残念ならが多いのでは?)に関してサタンは気にもしません。サタンにとって脅威ではないからです。「イエスの御名」で対抗されたり、「イエスの血潮」を宣言されると悪霊はビビるのです。そして、悪霊ビジネスができなくなり、パニックするのです。(使徒16:18−19)今の時代、この終わりの時は「邪悪な日」(エペソ6:3)と言えるでしょう。だから武装が必要なのです。戦闘体制でいなければなりません。

 

悪霊どもは、町にのさばるヤクザと同じです。「権威」を持って取り締まらなければ、やりたい放題になります。住民は恐れ、町は荒らされ、犯罪は増え、道徳性は下がります。霊の世界でも同じです。やられたまま、サタンのやりたい放題にさせてはいけないのです。そして、私たちには、対抗する「権威」が与えられているのです。イエスの大宣教命令には、この権威の行使も含まれているのではないでしょうか。(マタイ28:18−19)天においても地においても一切の権威ある方のバックアップにより宣教に遣わされるのです。だから使徒達は、その「権威」の行使を励ましていたのです。

 

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山手線祈祷

私達は10年近くこの働きに携わっています。毎週、火曜日10時に池袋に集合し、実際に山手線に乗り込み30駅を通過しつつ、それぞれの地域のために祈ります。特に、田端から鶯谷は教会も少なく、しかも谷中墓地とラブホテルが立ち並び、霊的に暗いところです。このエリアに来た時には、特に悪霊の働きが縛られるよう、この地域の人々が解放されるよう祈ります。(Iヨハネ3:8)東京駅、有楽町駅あたりでは、国会議員や皇室のためにも祈ります。(Iテモテ2:1−4)参加者は基本、数名の宣教師さん達です。もっと、東京にいる日本人に参加して頂きたいです。時間的に会社勤めの人々は参加が難しいでしょうが、是非、東京にいる牧師や宣教団体のスタッフさん達に、この「東京を変革する祈り」に参加して頂きたいです。

 

山手線30駅の祈り課題はこちら:https://prayyamanote.com/ (英語のみ)

参加ご希望の方はご連絡を asktmc@gmail.com (栗原)

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

 

2024年4月18日木曜日

説教のない教会?


初代教会には、今のような「説教」はなかった!?

通常、教会といえば、三角屋根の会堂があり、牧師がいて、日曜の朝に説教があります。日曜の朝に「教会に行く」とは、「牧師の説教を聞きに行く」とほとんど同義ですね。もし、説教がないとしたら、どうでしょう?「えっ!説教の無い教会なんてあり得ない!」という事になりますね。

ところが1世紀の初代教会には、教会堂もなかったし、専門の牧師もいなかったし、毎週日曜の説教もなかったのです。当時は家々で集まっていました。経験ある長老たち(複数)がお世話役をしていたのです。しかし、同じ長老が、毎回、同じ会衆に説教をしていた記録は無いようです。むしろ・・・

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。                         (エペソ5:19)

とあり、牧師のワンマンショーではなく、「互いに」語り、「互いに」教え合っていたのです。この「互いに」が、エクレシアの大事な要素です。ローマ15:14、コロサイ3:16も参考にしてください。専門職の牧師先生から一方的に話を聞く場では無かったのです。一方的に話を聞くことは、会衆を受動的にしてしまいます。また、皮肉なことに、いい説教をすれば、するほど、会衆は牧師に依存し、自分で聖書を学ぼうとする意欲が削がれます。また、教会の雰囲気は・・・

しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。

Iコリント11:20−21)

コリントの教会の様子です。ずいぶん、自由な感じですね。「家族」として「家」で集まっていたからです。儀式的な雰囲気は全くありません。むしろ自由すぎて奔放になっていたので、パウロは戒めたのです。ちなみに、聖餐式は、この頃、「主の晩餐」と呼ばれ、食事の一部でした。楽しい雰囲気の中で行われていたのです。食事から切り離されて、ガウンを着た聖職者が執り行う荘厳な「儀式」としての聖餐式は異教に影響を受けた後世の産物です。

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 コリント12:11−12)

聖書は、一人一人それぞれに賜物が与えられていると明言しています。エクレシアはキリストのからだであり、それぞれが器官なので、全員参加で、全員が貢献する特徴を持っています。

 

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

コリント14:26)

また、聖書は「それぞれが教え、分かち合う」ことができると明言しています。そして、その目的はキリストのからだを建てあげるためです。ちなみに、この当時は、神学校なるものも存在していませんでした。従って、「教職者」と「平信徒」という区別もありませんでした。それぞれが、示されたことを分かち合っていいのです。正し、異言には解き明かしが必要であり、預言の場合は吟味が必要です。(コリント14:29)

 

席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。コリント14:31)

 

ここでも、聖霊に導かれるまま、示されたことを分かち合うスタイルが書かれています。後半には「だれでも一人ずつ預言することができるのです。」と書いてあります。

 

ずいぶん、今の典型的なプロテスタント教会の礼拝と違いますね。

 

パウロやアポロの働きは?

パウロは地方のシナゴグを巡って語りましたよね?アポロは伝道者としてメッセージしましたよね?説教は必要では? はい、説教自体を否定するのではありません。しかし、彼らは使徒、伝道者、預言者という教会の土台を据えるために神から特別な任務が与えられた人々でした。それは、「使徒的」な働きであって、「ローカルチャーチの牧者」ではなかったのです。地方に散らばるエクレシアを訪ねて指導し、説教する役目をもった人々だったのです。あるいは、まだ福音の宣べ伝えられていない地域に福音を伝え、チャーチ・プランティングをする特別な働き人だったのです。事実、エクレシアの土台が据えられると、使徒たちは、そこを去っています。役目が終わったからです。あとはローカルチャーチの信者たちが、御霊の導きの下、「お互い」に教え合い、励まし合っていたのです。

 

現在でも複数のエクレシアに仕え、アドバイスしたり、励ましたりする「使徒的」働きをする人は必要でしょう。ただし、それは「権威者」としてではなく、「兄弟」として「役割」を果たすだけです。トップダウンの教団的組織は、エクレシアには相応しくないのです。

 

地域エクレシアの牧者とは違う働きをする人たちは、今日もいます。第1世紀のような権限と任務を持った「使徒・預言者」ではありませんが、「使徒的」、「預言者的」働きをする人はいるのです。異国に行ってチャーチプランティングをする宣教師たちがいます。この人たちは「使徒的」働きをしているのであり、経済的に支えられる必要があります。パウロは諸教会からの献金と自活とのハイブリッド型で奉仕していました。また巡回伝道者は今日でも有効でしょう。特に日本のような圧倒的にノンクリスチャンが多い場所では、分かりやすく福音を説き、人々をキリストに導く働きをする人は必要です。また、超教派の働き人として、諸教会で、その時代に語られるべき預言者的なメッセージをしたり、宣教のビジョンを与えるメッセージをする人もいるでしょう。ただ、この人たちは定期的に集まるエクレシアで毎週メッセージする人ではありません。

 

虚しい説教?

み言葉の真理の適用が目的であるなら、一方的なメッセージを聞くより、参加して分かち合った方が身につきます。これは体験的に確信しているところです。分かち合い方式だと、反応がビンビン伝わってくるのです。「み言葉が入ってるな」と分かるのです。

 

一方的なメッセージでは途中で質疑応答ができません。また通常、会衆の一人一人からコメントを聞けませんのでメッセージしっ放しなのです。反応を聞かないと、どのくらいみ言葉が浸透したのか分かりません。それなのに虚しく毎週、毎週、「説教」を繰り返しているのです。そして、多くの信徒は先週の牧師のメッセージの内容を忘れているかも知れません。私自身、時々お招きを受けて他教会でメッセージさせて頂くのですが、多くの場合、一人一人からコメントを聞けないので、どのくらい理解されたのか、どのくらい役に立ったのか・・分からないままで教会堂を出るのです。メッセンジャー側も何とも虚しいのです。

 

具体的な提案

現在の礼拝スタイルをいきなり全員参加の分かち合いスタイルに変えることは難しいかもしれません。まずは、スモールグループ体験から始めてみてはいかがでしょうか?メッセージを短くして、聞いたメッセージに関して分かち合うスモールグループです。そして、祈り課題を聞いてお互いに祈り合うようにしたらいかがでしょうか。全員参加を少しずつ練習します。

 

よく、「毎回、魚を料理して出すより、魚の取り方を教える方がいい。」と聞きますが、同じ事で、聖書の読み方を教えて、自分で栄養を取れるように教えることが大事なのではないでしょうか。こちらに関しては、2021年9月23日からシリーズで掲載したアーカイブ記事「聖書が分かるようになる7つの視点」をご参考ください。

 

T M Cエクレシアでは、数名が定期的に集まり、司会はメンバーが順番でします。流れはこれ以上できないほどシンプルにします。1。近況報告 2。分かち合い式のバイブルスタディ 3。祈り合い 以上です。オンラインでも、対面でもできます。鍵は人数が多すぎない事と、ファシリテーターが喋りすぎない事です。聖書の箇所によっては、いきなりオープンディスカッションが難しいので、ハーベストタイム出版の「クレイ」の解説を司会者が読んだり、教える賜物があるメンバーがまず、短く解説したりします。しかし、メインは「お互い」による分かち合いです。最近はYouTubeで聖書講解メッセージが聞けるので、勉強は個人的にもできます。せっかく「集まる」機会は、「お互い」を実践できる機会として活用した方がいいと思います。

 

ただ、分かち合いが好きではない、あるいは、身体的、メンタル的に分かち合いに参加するのが難しい、また、個人的なことを分かち合いたくない人、ただ、座って静かに礼拝し、静かに会堂を去りたい人もいることは理解しています。キリストのからだが、この人たちを排除してしまってはいけません。これは課題ですね。この人たちに対しては、また、別の対処が必要なのでしょう。

 

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*「Pagan Christianity?」のフランク・バイオラさんは100%フラットな形を推薦しています。彼はワーシップリーダーやスモールグループの司会者まで否定しています。キリストだけを頭とすることを強調し、実践しています。ただ、自分的にはある程度、シンプルな流れがあり、司会者がいていいと思っています。ただ、プログラムより人間関係を大事にするよう心がけています。

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執筆者:栗原一芳

2024年4月11日木曜日

教会堂が教会を阻害する?

 

そもそも「教会」とは?

教会といえば、三角屋根に十字架の会堂。そして牧師がいて日曜礼拝がある。これが当然という理解でしょう。「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」がない教会なんてあり得ないということになりますね。ところが初代教会にはこの3点セットは無かったのです。ペンテコステの日に教会が誕生して以来、300年ほど、クリスチャンたちは教会堂なしにクリスチャン生活を送っていました。それでも生き生きと教会(エクレシア)は存在したのです。そもそもエクレシアとは・・・

 

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。(コリント1:2)

 

ここで「神の教会へ、すなわち・・」と神の教会を説明しているのです。すなわち、教会とは・・キリスト・イエスにあって「聖なる者とされ」、「聖徒として召された方々」のことなのです。エクレシアは建物に言及されている箇所はなく、「人々」なのです。その「人々」は「聖なる者」とされています。クリスチャンは「罪人」ではなく、「聖なる者」です。「聖なる」とは、本来「神のために分たれる」という意味ですので、この世から「取り出され」神の民となっている点で、クリスチャンは聖徒なのです。また「聖徒として召された」人々です。これが教会の説明です。ここには、「会堂」も、「牧師」も、「日曜礼拝」というプログラムも出てきません。エクレシアは私たちクリスチャンのことです。また・・

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここでの教会の定義は「キリストのからだ」です。生きた「生命体」です。組織や制度や儀式の事ではありません。すべてのものをすべてのもので満たす方とはキリストです。そのキリストが「満ちておられるところ」と書いてあります。「ところ」は翻訳者の付け加えたもので、本来「ところ=場所」なのではなく、「お方」なのです。英語でもThe Fullness of Himとなっており、「キリストの充満」と訳す方が適切です。教会は「キリストのからだ」、「キリストの充満」なのであり、ここにも、「会堂」、「牧師」、「礼拝プログラム」は出てきません。つまり、それらは教会=エクレシアの本質ではないからです。それらがなくてもエクレシアは「存在」します。

 

福島第一バプテス教会は一番、原発に近い教会でした。東日本大震災の原発事故で強制退避をさせられ教会のメンバーはバスで流浪の旅に出たのです。しかし、彼らは会堂を失っても「私たちがここに残っている。私たちが教会なのだ」と再認識させられたとの証を聞いたことがあります。その通りです。場所でもプログラムでもなく、「主を呼び求める人々」のことです。

 

典型的なプロテスタント教会の形

プロテスタントの典型的な教会は、基本的に日曜だけに使う特別空間としての礼拝堂があります。(なので、交わりのために、わざわざフェローシップホールを別に作ってあります。)その礼拝堂には固定の長椅子があり信徒は一方方向(前方)しか見られないようになっています。牧師が説教する舞台は会衆席より一段高くなっていることが多く、大きな説教用の講壇が設置されています。(ある韓国の大会堂を訪れた時、ステージには靴を脱いで上がってくださいと言われました。特別「聖なる」ところだからだそうです。)講壇の背後には牧師が座る特別な椅子が備えられています。つまり、牧師は「特別」な存在なのです。また多くの場合、初代教会の「パン裂き」(当時、食事の一部として行われた)は「聖餐式」という荘厳な儀式になり、聖職者しか執行できないようになっています。しかも、牧師が特別な黒いガウンを纏う場合もあり、さらに特別感を醸し出します。このようなセッティングが「正しく」、かつ「聖書的」な礼拝堂の設置であり、礼拝という儀式なのだと理解されているようです。しかし、どれも聖書的根拠はありません。初代教会は、信者が家々で集まっていたのであり、「会堂」もなく、「聖職者」もなく、ただ兄弟姉妹として、「家族」として交わっていたのです。

 

教会堂が教会を阻害する?

別に礼拝堂があったっていいじゃないか?と言う人もいるでしょう。ところがこの「典型的」な形が本質を阻害しているとしたらどうでしょうか?

 

⚫️ 聖書的には「あなたがたは、神の宮=神殿」(コリント3:16)なのであ

って、他に神殿(神に会うための特別な場所)は必要ないのです。礼拝堂を「神聖」な場所、「神殿」とするなら、この新約の教えに背くことになります。

 

⚫️ 礼拝堂を「特別」な空間にすることはヨハネ4:21−23に反します。イエ

スは明確に特定の「場所」に行かなければ、礼拝できないという時代は終わ

るのだと言っておられるのです。また、「礼拝堂」を神聖なる場所とすること

で、職場や家庭にも主は居られ、臨在されるという意識を薄めます。「日曜、

礼拝堂に神に会いに来る」という概念は、日曜以外では神に会えないという

意識にさせます。また日曜だけを神聖な日とすることで、週日での主の働き

を薄めさせます。主は365日の主です。ちなみに日曜を安息日と連結させ

て考える人がいますが、「安息日を聖とせよ」は、旧約時代のユダヤ人に向か

っての戒めで、異邦人には適用できないし、そもそも安息日を守りたいなら、

日曜ではなく、土曜なのです。

 

⚫️ 固定長椅子は「一方的」に牧師の説教を聞くために機能するのであって、

 「お互いに」を実践するには不向き。フェローシップホールのない場合は特に、

 神の家族として、お互いに愛し、仕える機会が奪われてしまいます。エクレシ

アの本質は「からだ」であり、「からだの器官」がそれぞれ機能することで成

り立つ「有機体」です。一方通行では機能できません。また一方的に説教を聞

くだけでは信徒は「受動的」になり、「霊的」に成長することを期待するのは

難しいのです。そもそも礼拝は儀式ではなく、献身の行為です。(ローマ12:

1−2)儀式的な礼拝プログラムを習慣化させることで、本質より、「教会に

行く」ことが目的化する危険性があります。

 

⚫️ 会堂前のステージを高めて、大きな講壇を置くことは信徒たちとのギャップ

を増長します。本来「家族」なのに、「聖職者」と「平信徒」という階級を作

り出してしまいます。これは神の憎むことです。(黙示録2:6)洗礼や聖餐

式を聖職者のみが行えるようにすることで、新約の「万人祭司」の真理を阻

害しています。古い契約は終わったのです。今は新しい契約(新約)の時代

に生きています。キリストの十字架ゆえに、「アバ父」と呼ぶ霊を頂いている

のです。もうシナイ山の恐ろしい神の前に立つイスラエル人の姿を真似しな

くていいのです。

 

このように良かれと思ってやっている、あるいは「伝統」だからと継続している事が、実は新約のエクレシアの本質の妨げになっているということもあるのです。

 

前向きな提案

ミニストリーのスペースがあることは悪いことではありません。そこで「お互いに」を実践できるなら素晴らしいことです。ある教会施設では、礼拝のスペースはフラットな床で、そこに丸テーブルがいくつか置かれています。信者はその丸テーブルに座って、聞いたメッセージについて分かち合います。これなら「お互いに」を実践できますね。日本の家空間(とくにアパート、マンション)は比較的狭いのでアメリカのようにリビングルームに10数名集まって集会を持つことが困難かもしれません。共通のミニストリースペースが必要なことも理解できます。それなら「礼拝堂」をリビングルームのような作りにしたらいいのではないでしょうか?エクレシアが「神の家族」であることを表すには、その方が相応しいのではないでしょうか。

 

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おすすめ本

Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers

 

(以下、一部引用)

 

オーガニックチャーチの生き方とは、草の根的な経験であり、対面式のコミュニティ、数人単位の機能、オープンな参加型ミーティング、上下関係のないリーダーシップ、集団の機能的リーダーであり頭であるイエス・キリストの中心性と権威を特徴としています。別の言い方をすれば、オーガニックチャーチの生き方は、キリストの体としての「経験」だということです。最も純粋な形で、三位一体の神の交わりを地上にもたらし、人類がそれを経験することなのです。(フランク・バイオラ)

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年4月4日木曜日

エクレシアがエクレシアを取り戻す時

 

幸福度が低い日本人

最近、世界幸福度ランキングが発表されました。順位は・・・

1.フィンランド

2.デンマーク

3.アイスランド

4.スエーデン

ちなみに、アメリカは23位。日本は51位。(30歳未満では73位、60歳以上では36位)。GDPも高く、治安も良く、平均寿命も高く、物価も比較的安いのに・・どうして「幸せ」に感じられなのでしょうか?幸福度を測るインディケーターを見ると、日本の場合、「コミュニティにつながっている」ことと、「市民の政治参加」が突出して少ないそうです。特に、SNSの時代、若者の居場所がない問題はシリアスです。コロナ世代は、学校で友達が作れなかったという問題もあります。

30歳以下の若者の幸福度が73位と言うのも、その辺に問題があるような気がします。会社も実力主義に移行しており、個人主義的になってきています。平均、3年で転職してしまうとも聞いています。昭和の会社は家族の代わりとなるような親密さがありました。大人も「居場所」が必要でしょう。特に会社をリタイアした男性にとってコミュニティがないことは致命的です。コミュニティをクリエイトしていく仕事や奉仕はますます重要になってきています。ところでクリスチャンにとってエクレシア(キリスト中心のコミュニティ)があることは大変、幸なことです。

 

エクレシアはコミュニティ

もともと、エクレシアは「神の家族」であり、「コミュニティ」なのです。TMCのモットーは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」です。本来、エクレシアは、わざわざ「オーガニック・チャーチ」と言わずとも、「生命体」であり「有機体」なのです。エクレシアが「キリストのからだ」であるなら、その器官は、それぞれ役割があり、相互に助け合っているはずです。口だけが働いている(牧師のメッセージが90%)のでは「からだ」が機能しているとは言えません。エクレシアがエクレシアであるためには「お互いに」の度合いが、どのくらい強いかで測れます。場所を家に移しても、牧師が一方的にメッセージをする集会なら、「お互いに」は起こりません。意図的に牧師が存在感を無くす必要があるのです。言い換えれば、「牧師先生」ではなく、「一人の「兄弟」になる必要があるのです。一方通行の典型が「劇場型教会」です。自分の体験ですが、アメリカの「劇場型」の大きな教会の礼拝に参加した時、一言も喋らずに会堂を出たことがありました。これでは一人で映画館に行ったのと同じです。(実際、映画館を借りてやっている教会に出席したこともあります。)だいたい何百人もいたら、お互いの名前さえ分からないのです。これって「家族」でしょうか? それでも礼拝に大人数が集まることが「成功」の指標になってしまっています。もう一度、言いますが、エクレシアの成功度は「お互い」(interaction)の度合いの強さによります。

 

TMCエクレシアでの「お互い」度

TMC=Tokyo Metro Communityは名のとおり、コミュニティです。意図的にチャーチとか、チャペルとか使っていません。TMCエクレシアではメンバーは「等身大」で「至近距離」の付き合いをします。偉い「先生」はいません。「お互い」に近況報告をし、「お互い」にバイブルスタディで分かち合い、教え合います。そして、「お互い」に祈り課題を出して、「お互い」のため祈ります。メンバーは全員、「参加」し、「貢献」します。

 

先日、あるエクレシアで、一人の兄弟が会社のストレスがひどく、つらそうな顔をしていたのを見て、他のメンバーが「今度、会いに行くよ、お茶しよう!」と申し出ていました。牧師が仕事として信徒をケアするのではなく、メンバー同士がお互いにケアするのです。また、あるエクレシアでは、聖書の理解しにくい箇所があったので、一人のメンバーが「わかりにくいですね〜、どういう意味でしょう?」と質問しました。すると司会者が「私の持っているリビングバイブルでは○○○となっています。」と分かち合ってくれました。するともう一人が「私の持っている訳では○○○となっています。」と違う翻訳を紹介してくれました。違った翻訳を聞いていて、だいぶ意味が分かってきました。そのように「先生」が一方的に答えるのではなく、お互いに助け合って理解しようとします。とても刺激的でワクワクします。お互いに分かち合う中で「一人で読んでいても分からないことが、みんなで学ぶとよく分かりました。」というコメントを頻繁に聞きます。こうした「お互いに方式=Interaction」の方が、みことばの真理の適応が効果的にできることを実感しています。通常、礼拝では、こうはいきません。途中で質問できませんからね。

 

エクレシアがエクレシアを取り戻す時

TMCエクレシアは、単なる学び会ではなくコミュニティであり、家族的な付き合いです。時には食事会や散策をして楽しみます。先日は対面で2つのエクレシアの合同フェローシップをしました。レストランでランチをしながら2時間半ほど自由な会話を楽しみました。全員参加で会話し、楽しみます。コミュニティがあります。一人一人の居場所があります。もうエクレシア=「キリスト中心のコミュニティ」は、彼らの人生に、なくてはならない楽しい、そして意味のある「場」となっているのです。

高校生の時、初めて行った教会で礼拝後、牧師に「休まないで来なさいよ!」と言われました。それが楽しいコミュニティなら、そんな事を言われなくても自発的に来るでしょう。多くのクリスチャンにとって日曜礼拝が「お勤め」になってしまっているとしたら、なんと悲しい事でしょう。日本人は「宗教」にはもう、うんざり、飽き飽きしています。日本人がクリスチャンにならない、1つの大きな理由は、礼拝出席や献金の義務などで、「拘束」」されるのを恐れているようです。

今後の日本のニーズに応えるためにも、全国的にスモールグループとしてのエクレシアが広がっていくことを願います。どう考えても今後、三角屋根の教会堂にわんさか、人が集まってくるとは考えにくいです。次にキリスト教ブームが来るとすれば、それはエクレシアがエクレシア(コミュニティ)を取り戻した時なのではないでしょうか?

 

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34−35)

 

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東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年3月28日木曜日

無牧はチャンス?

 

増える無牧教会

昨今、牧師の平均年齢も高齢化し無牧の教会が増えている。「牧師」がいないことで「教会」はパニックする。「どうしよう〜」ということになる。しかし、「牧師」がいない事は「牧者」がいないことだろうか?「牧師」がいないと「教会」は成り立たないのだろうか?通常、「教会」といえば、「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」の3点セット。これらがないと「教会」ではあり得ない。しかし、1世紀の初代教会は家々で集まり、「牧師」という専門職がいないまま、エクレシアは「キリストの体」、「キリストの充満」として、また「神の家族」として十分機能していた。牧師がいないことは、本来の教会の姿を考えるいい機会なのかもしれない。

 

そもそも「牧師」とは・・

エペソ4:11に出てくる「牧師」と訳された言葉は、ギリシア語で「ποιμήν」。原語的には「羊飼い」。教会のコンテキストでは「牧者」。新改訳2017年版の脚注には「あるいは、牧者」と、ちゃんと元の意味が記されている。元々、宗教的「専門職」や「階級」を表す意味合いは無いのだ。「牧者」は、自然発生的に信徒の群れをボランティアとしてお世話している人なのだ。それはキリストのからだを機能させるため、与えられた1つの「賜物」であり、「役割」なのだ。当時、有給の「牧師」は存在していなかった。すべての信者は「家族」であり特別階級はいなかったのだ。それが、4世紀、コンスタンティン皇帝の時代から教職と平信徒の区別が始まってしまった。

 

初代教会では会食の一部であった「パン裂き」が、聖職者しか執行できない「聖餐式」という儀式に変化してしまった。新約の万人祭司の思想から、旧約の儀式を司る聖職者(宗教専門職)の思想に逆戻りしてしまったという事だ。

 

シンプルに「羊飼い=牧者」だったのが、「平信徒」とは別の「牧師」というステイタスになり、さらには「牧師先生」と奉られる存在となってしまったのだ。

 

現代牧師の苦悩

もう10数年前のアメリカでの統計だが・・・

⚫️ 50%の牧師が、仕事の要求に応えられていないと感じている。

⚫️ 80%の牧師が、抑うつ状態にあるか、うつ病を患っている。

⚫️ 40%以上の牧師が、燃え尽き症候群、過密なスケジュール、他者からの非現実的な期待に悩まされていると回答。(*欄外に引用資料)

アメリカでは多くの教会で牧師は「職業」であり、教会との「雇用契約」にある。契約なので、給料をもらう代わりに教会の仕事を任される。平均16もの違った仕事をこなさなければならないらしい。スーパーマンでなければできないことを期待されるので、当然、燃え尽きる。もっと言うならば、聖書にない役職で働きをしようとするので無理があるのだ。メガチャーチともなれば牧師はCEOのように振る舞わなければならず、活動と予算は年々膨らみ後戻りができなくなる。そりゃ、ストレスだろう。

 

信徒は「お客さん化」する

専門職がすべてをやるので、教会堂に集う信徒は受動的な「お客さん」となる。そうなると新約のエクレシアの本質を損ねてしまう。エクレシアの本質は「お互いに」を実践すること。しかし、組織的教会においては、一方的に「与える側」と「受ける側」になってしまう。献金だけしてくれれば、後は、我々「運営側」がやります・・・となる。自分がアメリカにいたときは、そのような「劇場型」教会を実際に何度も体験した。自分は一言も喋らなくても、人との交わりがなくても「礼拝」に出たことになる。「教会に行った」ことになる。しかし、果たして、それがエクレシアだろうか?

 

教会=日曜礼拝=牧師の説教?

今日、「教会に行く」という初代教会ではあり得なかった表現が当たり前になっている。「教会=エクレシア」は神に召された「人々」のことなので「行く」ことができない。しかも、多くの場合「教会」とは「日曜礼拝」のプログラムの事を指している。「明日は日曜だから教会に行かなくては・・」と言う具合に。そして、その「礼拝」とは、聖書にあるローマ12:1―2のことではなく、礼拝というプログラムに参加することになっている。そのプログラムの中心は牧師の「説教」だ。ワーシップソングも歌われるが、なんといっても中心は「説教」。説教なしの礼拝はあり得ず、日曜礼拝のない「教会」はあり得ない。牧師は信徒の霊的成長のためと思い、一生懸命に説教を準備するが、実際は居眠りしている信徒もいるし、大体、先週何が話されたのか覚えている人は少ない。残念なことに、説教は信徒の霊的成長にはあまり役立っていないようだ。

 

ともすると、霊的成長より「教会に行くこと」が目的化されてしまう。休まないで日曜礼拝に参加しているから「いい信者」、「霊的な信者」とみなされるが、事実はそうでもない。日曜礼拝に長年参加していても、霊的に成長していない信者も多くいる。イエス様の方法は「対話式」だった。よく聴衆に質問した。一方通行ではない。パウロも多くの場合「対話式」でメッセージを語った。霊的真理を適応することが説教の目的なら、スモールグループの分かち合いスタイルの方が、真理が入りやすいのでは? 個人的な関わりなしに、信者が霊的に成長することを期待することは難しい。長年、牧師の説教を聞いて「成長」してきたはずの長老たちが、牧師(牧者)の代わりを務められないでパニックする自体が悲劇だろう。

 

問題の本質

そう悲劇なのだ。牧師がいないと存在できない「教会」に、いわば訓練されてきてしまったという事だ。今までの教会のあり方が牧師依存の体質を作り出してしまったのだ。エクレシアが「からだ」として機能するより、信者をお客さんとしてしまったのだ。奉仕の役割があったとしても、アッシャーや献金集めなど、あくまで礼拝プログラムを回すための周辺的な仕事に過ぎない。エクレシアの本質である「お互い」に、み言葉を分かち合い、教え合うことはない。また、日曜礼拝というプログラム無しに「教会」は有り得ないと訓練されてきてしまった。

 

先日、韓国の宣教師と話していて、今後、無牧の教会に韓国から(日本語で説教のできる)牧師を送り込む計画が進んでいることを聞いた。なんか、複雑な気持ちになった。もちろん、韓国側は良かれと思って計画くださっているのだが・・・それが解決だろうか?

 

無牧の教会が増える中、もう一度、立ち止まって考えてみよう。「教会堂」、「牧師」、ルーティンとしての「日曜礼拝」、この3点セットはエクレシアの本質だろうか?それらは初代教会に見出せるだろうか?それらは聖書的だろうか?大宣教命令は「弟子とせよ」という命令。教会堂を建てて、教会を「運営せよ」との命令ではない。牧師がいない今、キリストのからだが機能するチャンスなのかも知れない。

 

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(*) Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers. (P.138)

 

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執筆者:栗原一芳