新約の御霊
以前、旧約と新約で聖霊の働きが違うことを見てきました。旧約では特別な任務のために、特定な人に、上から神の霊が激しく下ったのです。サムソンのように、必ずしも、人格者では無いけれど、神の霊が一方的に下って、ある働き(この場合、イスラエルの敵であるペリシテ人を討伐する)をさせたのです。
新約ではイエス・キリストを信じるときに、聖霊が賜物として与えられます。(使徒2:38)しかも、神に召される人なら誰でも、すなわち、信じる人誰にでも与えられるのです。(使徒2:39)与えられるだけでなく、神の御霊は信者のうちに住むのです。(I コリント3:16)また御霊は信者がやがて受ける「御国」の保証であり、(エペソ1:14)、また朽ちない体に復活する保証でもあるのです。(IIコリント5:5)そもそも聖霊によるのでなければ、「イエスは主です。」と言うことはできません。(I コリント12:3)知識を増しても、洗礼を受けても、教会員名簿に載っていても、聖霊の働きがないと、心から「イエスは主=神=救い主」と告白できないということです。もっとはっきり言うと、聖霊を持ってなければクリスチャンではありません。(ローマ8:9)そして、自分が神の子供であると確信を持つことができません。(ローマ8:16)
ペンテコステに付きまとう「ファイアー」のイメージ
イエスご自身が約束されたように(ヨハネ7:37−38、ルカ24:49)、聖霊はやってきたのです。(使徒2章)よく、聖霊と火が結びつけられます。クリスチャンの大会で「聖霊の火をいま、ここに下してください!」と語る説教者がいますが、使徒2章3節は「炎のような舌」とあり、炎そのものではありません。ペンテコステの日に天から「火」が降ったのでもありません。「火」よりも、「響き」(2節)、「物音」(6節)の方が強調されています。
またマタイ3:11に「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と確かに「火」が関連づけられて出てきます。しかし、ここで「火」は、さばきの事を語っている文脈で使われています。11節のすぐ後の12節には「火で焼き尽くされる」とあります。つまり、ここでの火は聖霊から来る「力や情熱」を表すというより、「さばき」の火なのです。裏を返せば、神の「聖さ」の証明と言ってもいいでしょう。また聖書の他の箇所では「火」は試練を通って浄化、純化されるという意味で使っており、信者が成長のために通る試練・訓練(ヘブル12:5−11、Iコリント3:15)の意味と取るのが相応しいと思います。特に当時、クリスチャンとなるということは迫害を受けることだったのです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」(IIテモテ3:12)
旧約での火という表現を見てみましょう。出エジプトでは、モーセの「燃える柴」や、イスラエルを導いた「火の柱」は、神のご臨在と栄光を表しています。聖霊を受けると私たちが神の宮となり、キリストは私たちのうちに「栄光の望み」として内住されるのです。(コロサイ1:27)エリアがバアル信者と戦った時、祭壇に天から火が降りました。神が神であることの「証明」だったのです。エリヤやエリシャが見た「火の戦車」、「火の馬」は、天的なもの、この世のものでないを表しているようです。聖霊を受けると、天的な(聖書的な)価値観に浸されるのです。ソドムに降った火は裁きであり、神の聖さの証明です。そのように、旧約でも、「火」は私たち側の情熱や力より、神ご自身の臨在、栄光、存在の証明の描写なのです。だから、「火のバプテスマ」は神のご臨在、栄光に浸されると考える方が聖書的なのではないでしょうか。
使徒1:8では、聖霊が来られると宣教の「力」を受けることが約束されていますが、「火」という表現はありません。
そもそもバプテスマの意味は「浸す」です。白い布を赤い染料に浸すと、真っ赤に染め上がります。聖霊のバプテスマとは聖霊に浸されることです。またキリストと一体化することです。(Iコリント12:13)従って、聖霊のバプテスマとは信じた時に御霊によってキリストの体に同一化されること、キリストの体の一部となることです。
「異言」は聖霊が来たしるし?
「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めた。」(2:4)と不思議な現象が書かれています。これは、新約時代(聖霊時代)の幕開け、オープニングイベントとして、まず弟子たち自身、そしてユダヤ人信者たちへの
「しるし」ないし確証(confirmation)だったと言えます。つまり、「本当だ、イエス様の約束した通り聖霊が来られたのだ。」と知るためです。また、これはそこに居合わせた神を敬う外国から来ている人々への証でもあったでしょう。事実、この現象を見て、ペテロの説教を聞いてキリスト信者になり、ローマに戻った人々がローマでエクレシアを始めたようです。ローマ教会はパウロが始めたのではありません。すでに始まっていたエクレシアに向けてパウロが書いた手紙が「ローマ人ヘの手紙」です。つまり、ペンテコステの一連の出来事は、ペテロが語る福音を確証(confirm)するためであったと思われます。オープニングイベントが終わった今、そのような劇的な事は、もはや必要ではありません。聖書の権威も確立しています。個人がイエスを信じ、聖霊が来られた「しるし」として「異言」を語る必要性はなくなりました。
ただ、個人の霊的成長に役立つ賜物としての「異言」はあるようです。コリント教会で問題となった「異言」(Iコリント14章)は、使徒2章の「異言」とは異なります。使徒2章の「異言」は「人に向かって語る」ものであり、「異国の言葉(外国語)」だったのです。だから外国人は話の内容が分かったのです。(使徒2:8−11)それに対してIコリント14章の「異言」は「人に向かって語るのではなく、神に向かって語る」(I コリント14:2)のです。聞いている人は理解できないのです。(14:2)この異言は個人的な成長に役立ちます。(14:4)個人デボーションなどで用いられるでしょう。このような個人的に与えられる「賜物」としての「異言」はあるのです。ただ、ことさらに「異言」の賜物だけを強調して、受けるように指導するのは違うのではと思っています。賜物なら与えられるのです。また、教会の中での使用は注意すべきです。パウロは14章で細かく指示していますね。また「種々の異言」(I コリント12:10)とあり、他の人が聞いて益となるものもあるようです。(預言に近い?)ただし、この場合「解き明かし」が必要になります。(I コリント12:10)
第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」?
自分は「きよめ派」の教会で洗礼を受け、その神学の中で育てられ、献身してから、アメリカの「きよめ派」のバイブルスクールで学びました。そこでは第二の祝福としての「きよめ」の体験が語られていました。あなたは「救われていますか?そして、きよめられていますか?」と2段階で問われるのです。「聖くなければ、誰も主を見ることができません。」(ヘブル12:14)が強調され、「きよめ」られていないと携挙の時に主に会えないのではと不安になりました。
今は、ヘブル10:10が言うように「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」をベースに平安が与えられています。ともあれ、救われて、そして、次に第二の祝福として「きよめ」の体験を受けることが重要と教えられていたのです。これは、構造的にはカリスマ・ペンテコステの人たちが言う「聖霊のバプテスマ」と同じです。信じた後に受ける、第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」です。
ただし、聖書の中には「聖霊のバプテスマを受けなさい」という命令はありません。その代わりに「聖霊に満たされなさい」との命令はあります。(エペソ5:18)I コリント3:1―3では、生まれながらの人(ノンクリスチャン)、肉に属する人(クリスチャンだけれども、自分の心の王座には自我が座っている状態。言動は「生まれながらの人」と変わらない。)、そして御霊に属する人、すなわち、御霊に満たされ、心の王座にキリストが座している人の3種類の人間が出てきます。それからも分かるように、確かに救われた後、御霊に満たされることを学び、体験する必要があるのです。肉のクリスチャンの間には「妬み」や「争い」があります。教会がその状態のままでは主に喜ばれることはできませんね。
聖書的にはキリストを信じる人は、義と認められ、神の家族として「聖別」されています。ステイタスは「聖人」です。同時に、実質的にも御霊に満たされ、御霊によって歩む必要があると言うことです。(ガラテヤ5:16)御霊に満たされることは一度、満たされたから、それでいいのではなく、御霊に満たされ続ける、御霊によって歩み続ける必要があるという事です。
私の理解では、「聖霊のバプテスマ」とは、信じた時にキリストと同化すること(キリストの体の一部になること)です。
私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。( I コリント12:13)
ですから第二の祝福として「聖霊のバプテスマを受けよ」という表現は相応しくないのではと思っています。これは「聖霊に満たされる=聖霊にまったく浸される」体験と理解されるべきでしょう。すでに与えられている「御霊」が、もう一度「下る」のはおかしい話です。そして、第二であろうと、第三であろうと、祝福としての「霊的体験=神に触れられる体験」はクリスチャン生涯の中で様々体験することでしょう。私が学んだケンタッキーのバイブルスクールでは、集会中に、主に触れられ、叫んだり、飛び上がったり、駆け回ったりする学生がいました。また主に語られたとアラスカに宣教師に行ったクラスメートもいます。そういう体験はあるのです。しかし、それはあくまで結果であり、そういう「体験」を求めるのは間違っているでしょう。彼らが今日、主と誠実に歩んでいるのかという方が大事なのです。
「今、ここにペンテコステの日のように聖霊の火を下してください!」と聖霊に「情熱」、「力」としての「火」が結びつけられやすいのですが、聖書的には、どうも根拠が薄いのです。大会で一時的に盛り上がるより、日常生活の中で、「御霊に満たされて」、ご臨在の中で、淡々と歩む方が大切なのではないでしょうか。
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執筆者:栗原一芳
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