「人権フィルター」で聖書を読むと・・・
昨今の道徳観、人権フィルターで旧約聖書を読むと、理不尽な記事が多々あるのです。
*預言者エリシャのはげ頭をからかった子供42人が神の呪いで2頭の雌熊に
引き裂かれて死んだ。 (II 列王2:24)
*ダビデの人口調査の罪のために、自国の民が7万人主に打たれて死ぬ。
(IIサムエル24:15)
*アハズヤ王に命じられて預言者エリアを迎えに来た50人隊に天から火が降
って50人が焼き尽くされた。こんなことが2度立て続けにあった。
(II列王記1:8-14)
*450人のバアルの預言者はエリヤの命令で殺された。
(I 列王18:40)
えっ!どうして?かわいそうと思ってしまいますね。また、神の箱を荷台に乗せて運んでいる時、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえたために神罰が降って、その場で死んでいます。(第一歴代13:10)なんで親切心を起こして行動したウザが神罰に遭うのか分かりませんね。まあ、これは本来、神輿のように担いで運ぶように規定されていたのに、異教の方法で運んだからという解釈もあり、それなりに納得できますが・・・。
極め付けは「ノアの洪水」では無いでしょうか?全世界が滅んでしまったのです。たった8人以外は、動物を含め絶滅です。「万人救済説」を唱える人はこれをどう解釈するんでしょうね。世界的裁きは、すでに一度行われているのです。
ソロモンが神殿を奉献した時には、牛2万頭、羊12万頭を捧げています。(I I 歴代7:5)病気でもない多数の動物を殺傷したとなると、動物愛護協会からは非難されそうですね。
祝福としての戦果
旧約聖書で神が活躍する場面の多くは「戦争」です。神は「万軍の主」と表現され、文字通り、神の祝福とは敵に勝って領土を広げたり、保持したりすることだったのです。
*エジプトの軍隊
映画「十戒」で有名なシーンですね。出エジプトしたイスラエルの民は、紅海を目の前に行手を阻まれてしまいます。そこに、なんとエジプト軍が迫ってくるのです。まさに「前門の虎、後門の狼」状態。神は紅海を割り、イスラエルの民は乾いた海底を渡りきり、その後、海が戻ってエジプト軍は水没したという記事です。イスラエル側から見ると勝利であり、ハッピーエンドです。しかし、王の命令を受けて、イスラエルを追ってきたエジプトの兵士たちは忠実だった訳です。彼らにも家庭があり、愛する者たちがいた事でしょう。それが、全員、水没です。エジプト兵士側からは理不尽な話です。人権派からは、「こんな事を教会学校で子供達に教えているのか?」と文句を言われるでしょうね
*カナンの地の占領
約束の地、カナンの占領の時は先住民を聖絶する命令が下されます。女も子供も皆殺しです。命じられた通りに聖絶しなかったサウロ王は預言者サムエルに咎められます。(Iサムエル15)先住民は、それまでは平和に生活していたのです。偶像礼拝者とはいえ、彼らにも家庭があり、日常生活があったのです。一瞬にして破壊され、滅ぼし尽くされます。そして、それは「良いこと」であり、「勝利」として記録されます。人権派からは一番、攻撃される分野でしょう。
主の使いにより敵国アッシリアの兵士18万5千人が殺されます。(I I列王19:35)ダビデはアラムの歩兵4万人を殺します。(I 歴代19:18)現在のガザの2万数千人の犠牲者どころではありません。イスラエル生存のために、他国の兵士を大虐殺しているのです。
これらは今の「人権フィルター」を通して読めば、許し難い事でしょう。
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いわゆる「聖戦」の理解
ただし、「聖絶」は、カナン占領の時のみであり、「ある特定の状況」、「ある特定のエリア」で神が、イスラエル民族に命じた「特別な」命令であり、これを現代に適応することはできないのです。このような状況で神が命じた戦争は現在、存在しないのです。現代においては、「聖戦」は無いというのが私の立場です。神が命じた戦争はないのです。ロシア、イラン、トルコなどの連合軍がイスラエルに攻めてくる、「エゼキエル戦争」(エゼキエル38章の預言)では、神の介入により、イスラエルは「戦わず」して勝つのです。今は、異教徒だから抹殺して良いとか、異教の宮は破壊して良いとかとはなりません。旧約時代でさえ、ヨナの願望に反して神は異教徒の街、ニネベを救いました。「捕囚」の時は、異教の地、バビロンの町の繁栄を祈り、そこで生き延びることが御心だったのです。1つの例でパターン化することはできません。さらに、敵を倒して、どんどん際限なく領土を広げていく「帝国」主義とは全く違います。神が与えると約束した「約束の地=カナンの地」は、範囲が定められていました。(創世記15:18−21)それ以外の土地に手を出してはいけなかったのです。そして、主に従えば領土を守ることができ、従わなければ領土を失うという「契約」付きなのです。現に、ソロモン以降の不信のためにイスラエルは土地を失い、「捕囚」という屈辱を経験します。
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聖書は発禁本に?!
いずれにしても現在の「人権フィルター」で読むと聖書はとんでもない書物ということになります。アメリカ発の異様なポリコレが世界に広がっています。多様性や人権思想が広がっています。聖書の内容は許し難いものとなります。近い将来、聖書が発禁本となることは十分ありうるのです。あるいは、書き換えられて発刊されるかも知れません。また、LGBTの解釈を含め、「理不尽」な聖書を、今日の「人権フィルター」で解釈し直すことを勧める動きも進むでしょう。「ジハード」(布教のためのテロや殺戮を良しとする教え)を勧めるイスラム教のコーランを世界のマスコミは問題視しないのも不思議ですけどね。
聖書的世界観VS 世俗の世界観
聖書の世界観では、「初めに神が天と地を創造した」のであって、最終主権は神にあるのです。命の与え主は、それを奪う権威も持っています。(ヨブ1:21)創造主だけは、それができるのです。神が命じたこと、神が直接手を下したことは神の主権によるという理解です。そして、この神は全知・全能の神で間違いを犯さない方だという前提によるのです。この理解が非常に重要です。
例えば、創造主を否定する世界観では、キリスト教を含め、すべての宗教は人間文化の産物です。ですから、仏教もイスラム教もキリスト教も、まな板の上に横並べに置いて、比較されるのです。人間の文化の産物である「神」が人間を殺すことは「理不尽」だという事になります。しかし、創造主がおり、キリストは「万物の主」であるという世界観ではどうでしょうか?この世界観では「創造主」と「被造物が造った産物としての宗教」の対比となるのです。ローマ書1章を読むと、諸宗教は真の神を離れた堕落の結果として描かれています。黙示録を見ると、このキリストは諸国の王として将来、世界に君臨されることが書かれています。最高権威者である「王の王」は、お一人なのです。
キリストは、万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン
(ローマ9:5)
判断基準はどこに?
聖書の神は全知全能であり、人間のような日本神話や、ギリシア神話の神々とは違います。聖書の神はアルファであり、オメガなのです。歴史の初めから終わりまで知っておられます。また、神は偏在の神であり、世界のどこにも存在できます。つまり時間空間を超えています。また、地球上すべての人の心のうちを知っておられます。(I 歴代28:9)今、AIの時代ですが、将来、経営判断もAIに任せるようになるでしょう。AIが人間の知能を超えるからです。聖書の神はそれ以上です。全知全能、完全であり間違うことがないのです。このお方が判断し、命じたことは、それでいいのです。神は完全で正しい方です。歴史の初めから終わりまでを分かっておられるのです。人は違います。人は罪人であり不完全なのです。従って、常に間違った判断をします。
未だに戦争があり、人権侵害があり、不平等があり、賄賂や汚職があり、窃盗があり、嘘が広がっています。先の例を見て、神が不条理という前に、そもそも人が罪を犯して歪んだ世界になってしまっていることが問題なのです。その枠組みの中では、「必要悪」も生じてしまうのです。ダビデが主にあって戦争に勝利し、神を褒め称えていた反面、神は「あなたは、人の血を流した」として神の宮を建てることを許さず、その子、ソロモンに託すのです。(I 歴代28:3)ここに捻れ(必要悪)を見ます。本来、被造物である人が、人の命を奪うことはできないことなのです。
基本は、十戒にあるように、「殺してはならない」(出エジプト20:13)なのです。しかし、同時に、旧約では「死刑」が神によって定められています。偶像礼拝や極度の性的逸脱行為など、人が致命的な罪を犯した場合(出エジプト22:18−20)、人の命を奪うことが許されています。また故意の殺人には報いがあるのです。「いのちにはいのち」(出エジプト21:23)。罪の世ではそれが起きるからです。罪の世では、住民が守られるために刑法や、刑罰があるのです。ある意味、仕方ないのです。「命絶対主義」ではありません。
自分は正しい判断をしたと思っても、後で間違っていたということはないでしょうか?私たちにはこの経験があります。神にはないのです。もちろん人が間違った判断をしたことを神は悔います。しかし、ある意味それは想定内なのです。
イスラエルの人々が目に見えない神を退けて、目にみえる王を欲した時、神は渋ったのです。どうなるか結果が分かっていたのです。しかし、あえてサウルをお立てになりました。サウロは途中で失落し霊媒者に頼るようになります。ダビデは戦いで多くの血を流し、神殿の建設はソロモンに託されます。ソロモンが神殿の奉献式をした時、民は神に従いますと誓ったのですが、ソロモンも後半、外国人妻により偶像礼拝に傾き、結果は国の分裂、最後は捕囚で国を失います。それでも回復の神は70年後にイスラエルの民を約束の地に戻すのです。神の知恵は人の知恵を超えているのです。お見通しなのです。そして、人の失敗に輪をかけて恵みを施し回復される方なのです。(ローマ5:20)
神から出たことであるなら、それは正しいのです。最後には精算をつけます。最後には悪は滅びます。その悪を決めるのは神なのです。さばくのは裁き主であるキリストなのです。黙示録は最終的な清算の書です。
「良い」とか「悪い」とか、「フェア」だとか、「アンフェア」とかは、それを決める基準があるわけです。何を基準にするかです。日本では戦時中、天皇のために死ぬことは「良い」ことでした。戦後は天皇中心の軍国主義的思想は「悪」となりました。そんなもんです。人間の社会の中では、基準は変わるのです。
知能の限界のある私たち人間には、すべての事は分かりません。判断もつきません。ましてや神のしていることをジャッジできないのです。「そんなのは神でない!」、「神ならそんなことはしない!」と神の代わりになって、いや、神の上に立って神を評価、判断してしまいます。「神が天と地を創造した」のです。神が人を創造したのです。(創世記1:27)神は完全無欠の創造主であり、私たちは有限なる被造物です。人は神を超えられないのです。最終的な裁判官は神ご自身です。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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