初代教会には、今のような「説教」はなかった!?
通常、教会といえば、三角屋根の会堂があり、牧師がいて、日曜の朝に説教があります。日曜の朝に「教会に行く」とは、「牧師の説教を聞きに行く」とほとんど同義ですね。もし、説教がないとしたら、どうでしょう?「えっ!説教の無い教会なんてあり得ない!」という事になりますね。
ところが1世紀の初代教会には、教会堂もなかったし、専門の牧師もいなかったし、毎週日曜の説教もなかったのです。当時は家々で集まっていました。経験ある長老たち(複数)がお世話役をしていたのです。しかし、同じ長老が、毎回、同じ会衆に説教をしていた記録は無いようです。むしろ・・・
詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。 (エペソ5:19)
とあり、牧師のワンマンショーではなく、「互いに」語り、「互いに」教え合っていたのです。この「互いに」が、エクレシアの大事な要素です。ローマ15:14、コロサイ3:16も参考にしてください。専門職の牧師先生から一方的に話を聞く場では無かったのです。一方的に話を聞くことは、会衆を受動的にしてしまいます。また、皮肉なことに、いい説教をすれば、するほど、会衆は牧師に依存し、自分で聖書を学ぼうとする意欲が削がれます。また、教会の雰囲気は・・・
しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
(Iコリント11:20−21)
コリントの教会の様子です。ずいぶん、自由な感じですね。「家族」として「家」で集まっていたからです。儀式的な雰囲気は全くありません。むしろ自由すぎて奔放になっていたので、パウロは戒めたのです。ちなみに、聖餐式は、この頃、「主の晩餐」と呼ばれ、食事の一部でした。楽しい雰囲気の中で行われていたのです。食事から切り離されて、ガウンを着た聖職者が執り行う荘厳な「儀式」としての聖餐式は異教に影響を受けた後世の産物です。
同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 (I コリント12:11−12)
聖書は、一人一人それぞれに賜物が与えられていると明言しています。エクレシアはキリストのからだであり、それぞれが器官なので、全員参加で、全員が貢献する特徴を持っています。
それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。
(I コリント14:26)
また、聖書は「それぞれが教え、分かち合う」ことができると明言しています。そして、その目的はキリストのからだを建てあげるためです。ちなみに、この当時は、神学校なるものも存在していませんでした。従って、「教職者」と「平信徒」という区別もありませんでした。それぞれが、示されたことを分かち合っていいのです。正し、異言には解き明かしが必要であり、預言の場合は吟味が必要です。(I コリント14:29)
席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。(I コリント14:31)
ここでも、聖霊に導かれるまま、示されたことを分かち合うスタイルが書かれています。後半には「だれでも一人ずつ預言することができるのです。」と書いてあります。
ずいぶん、今の典型的なプロテスタント教会の礼拝と違いますね。
パウロやアポロの働きは?
パウロは地方のシナゴグを巡って語りましたよね?アポロは伝道者としてメッセージしましたよね?説教は必要では? はい、説教自体を否定するのではありません。しかし、彼らは使徒、伝道者、預言者という教会の土台を据えるために神から特別な任務が与えられた人々でした。それは、「使徒的」な働きであって、「ローカルチャーチの牧者」ではなかったのです。地方に散らばるエクレシアを訪ねて指導し、説教する役目をもった人々だったのです。あるいは、まだ福音の宣べ伝えられていない地域に福音を伝え、チャーチ・プランティングをする特別な働き人だったのです。事実、エクレシアの土台が据えられると、使徒たちは、そこを去っています。役目が終わったからです。あとはローカルチャーチの信者たちが、御霊の導きの下、「お互い」に教え合い、励まし合っていたのです。
現在でも複数のエクレシアに仕え、アドバイスしたり、励ましたりする「使徒的」働きをする人は必要でしょう。ただし、それは「権威者」としてではなく、「兄弟」として「役割」を果たすだけです。トップダウンの教団的組織は、エクレシアには相応しくないのです。
地域エクレシアの牧者とは違う働きをする人たちは、今日もいます。第1世紀のような権限と任務を持った「使徒・預言者」ではありませんが、「使徒的」、「預言者的」働きをする人はいるのです。異国に行ってチャーチプランティングをする宣教師たちがいます。この人たちは「使徒的」働きをしているのであり、経済的に支えられる必要があります。パウロは諸教会からの献金と自活とのハイブリッド型で奉仕していました。また巡回伝道者は今日でも有効でしょう。特に日本のような圧倒的にノンクリスチャンが多い場所では、分かりやすく福音を説き、人々をキリストに導く働きをする人は必要です。また、超教派の働き人として、諸教会で、その時代に語られるべき預言者的なメッセージをしたり、宣教のビジョンを与えるメッセージをする人もいるでしょう。ただ、この人たちは定期的に集まるエクレシアで毎週メッセージする人ではありません。
虚しい説教?
み言葉の真理の適用が目的であるなら、一方的なメッセージを聞くより、参加して分かち合った方が身につきます。これは体験的に確信しているところです。分かち合い方式だと、反応がビンビン伝わってくるのです。「み言葉が入ってるな」と分かるのです。
一方的なメッセージでは途中で質疑応答ができません。また通常、会衆の一人一人からコメントを聞けませんのでメッセージしっ放しなのです。反応を聞かないと、どのくらいみ言葉が浸透したのか分かりません。それなのに虚しく毎週、毎週、「説教」を繰り返しているのです。そして、多くの信徒は先週の牧師のメッセージの内容を忘れているかも知れません。私自身、時々お招きを受けて他教会でメッセージさせて頂くのですが、多くの場合、一人一人からコメントを聞けないので、どのくらい理解されたのか、どのくらい役に立ったのか・・分からないままで教会堂を出るのです。メッセンジャー側も何とも虚しいのです。
具体的な提案
現在の礼拝スタイルをいきなり全員参加の分かち合いスタイルに変えることは難しいかもしれません。まずは、スモールグループ体験から始めてみてはいかがでしょうか?メッセージを短くして、聞いたメッセージに関して分かち合うスモールグループです。そして、祈り課題を聞いてお互いに祈り合うようにしたらいかがでしょうか。全員参加を少しずつ練習します。
よく、「毎回、魚を料理して出すより、魚の取り方を教える方がいい。」と聞きますが、同じ事で、聖書の読み方を教えて、自分で栄養を取れるように教えることが大事なのではないでしょうか。こちらに関しては、2021年9月23日からシリーズで掲載したアーカイブ記事「聖書が分かるようになる7つの視点」をご参考ください。
T M Cエクレシアでは、数名が定期的に集まり、司会はメンバーが順番でします。流れはこれ以上できないほどシンプルにします。1。近況報告 2。分かち合い式のバイブルスタディ 3。祈り合い 以上です。オンラインでも、対面でもできます。鍵は人数が多すぎない事と、ファシリテーターが喋りすぎない事です。聖書の箇所によっては、いきなりオープンディスカッションが難しいので、ハーベストタイム出版の「クレイ」の解説を司会者が読んだり、教える賜物があるメンバーがまず、短く解説したりします。しかし、メインは「お互い」による分かち合いです。最近はYouTubeで聖書講解メッセージが聞けるので、勉強は個人的にもできます。せっかく「集まる」機会は、「お互い」を実践できる機会として活用した方がいいと思います。
ただ、分かち合いが好きではない、あるいは、身体的、メンタル的に分かち合いに参加するのが難しい、また、個人的なことを分かち合いたくない人、ただ、座って静かに礼拝し、静かに会堂を去りたい人もいることは理解しています。キリストのからだが、この人たちを排除してしまってはいけません。これは課題ですね。この人たちに対しては、また、別の対処が必要なのでしょう。
――――――――――――――――――――――
*「Pagan Christianity?」のフランク・バイオラさんは100%フラットな形を推薦しています。彼はワーシップリーダーやスモールグループの司会者まで否定しています。キリストだけを頭とすることを強調し、実践しています。ただ、自分的にはある程度、シンプルな流れがあり、司会者がいていいと思っています。ただ、プログラムより人間関係を大事にするよう心がけています。
==========================
意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
0 件のコメント:
コメントを投稿