2024年3月28日木曜日

無牧はチャンス?

 

増える無牧教会

昨今、牧師の平均年齢も高齢化し無牧の教会が増えている。「牧師」がいないことで「教会」はパニックする。「どうしよう〜」ということになる。しかし、「牧師」がいない事は「牧者」がいないことだろうか?「牧師」がいないと「教会」は成り立たないのだろうか?通常、「教会」といえば、「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」の3点セット。これらがないと「教会」ではあり得ない。しかし、1世紀の初代教会は家々で集まり、「牧師」という専門職がいないまま、エクレシアは「キリストの体」、「キリストの充満」として、また「神の家族」として十分機能していた。牧師がいないことは、本来の教会の姿を考えるいい機会なのかもしれない。

 

そもそも「牧師」とは・・

エペソ4:11に出てくる「牧師」と訳された言葉は、ギリシア語で「ποιμήν」。原語的には「羊飼い」。教会のコンテキストでは「牧者」。新改訳2017年版の脚注には「あるいは、牧者」と、ちゃんと元の意味が記されている。元々、宗教的「専門職」や「階級」を表す意味合いは無いのだ。「牧者」は、自然発生的に信徒の群れをボランティアとしてお世話している人なのだ。それはキリストのからだを機能させるため、与えられた1つの「賜物」であり、「役割」なのだ。当時、有給の「牧師」は存在していなかった。すべての信者は「家族」であり特別階級はいなかったのだ。それが、4世紀、コンスタンティン皇帝の時代から教職と平信徒の区別が始まってしまった。

 

初代教会では会食の一部であった「パン裂き」が、聖職者しか執行できない「聖餐式」という儀式に変化してしまった。新約の万人祭司の思想から、旧約の儀式を司る聖職者(宗教専門職)の思想に逆戻りしてしまったという事だ。

 

シンプルに「羊飼い=牧者」だったのが、「平信徒」とは別の「牧師」というステイタスになり、さらには「牧師先生」と奉られる存在となってしまったのだ。

 

現代牧師の苦悩

もう10数年前のアメリカでの統計だが・・・

⚫️ 50%の牧師が、仕事の要求に応えられていないと感じている。

⚫️ 80%の牧師が、抑うつ状態にあるか、うつ病を患っている。

⚫️ 40%以上の牧師が、燃え尽き症候群、過密なスケジュール、他者からの非現実的な期待に悩まされていると回答。(*欄外に引用資料)

アメリカでは多くの教会で牧師は「職業」であり、教会との「雇用契約」にある。契約なので、給料をもらう代わりに教会の仕事を任される。平均16もの違った仕事をこなさなければならないらしい。スーパーマンでなければできないことを期待されるので、当然、燃え尽きる。もっと言うならば、聖書にない役職で働きをしようとするので無理があるのだ。メガチャーチともなれば牧師はCEOのように振る舞わなければならず、活動と予算は年々膨らみ後戻りができなくなる。そりゃ、ストレスだろう。

 

信徒は「お客さん化」する

専門職がすべてをやるので、教会堂に集う信徒は受動的な「お客さん」となる。そうなると新約のエクレシアの本質を損ねてしまう。エクレシアの本質は「お互いに」を実践すること。しかし、組織的教会においては、一方的に「与える側」と「受ける側」になってしまう。献金だけしてくれれば、後は、我々「運営側」がやります・・・となる。自分がアメリカにいたときは、そのような「劇場型」教会を実際に何度も体験した。自分は一言も喋らなくても、人との交わりがなくても「礼拝」に出たことになる。「教会に行った」ことになる。しかし、果たして、それがエクレシアだろうか?

 

教会=日曜礼拝=牧師の説教?

今日、「教会に行く」という初代教会ではあり得なかった表現が当たり前になっている。「教会=エクレシア」は神に召された「人々」のことなので「行く」ことができない。しかも、多くの場合「教会」とは「日曜礼拝」のプログラムの事を指している。「明日は日曜だから教会に行かなくては・・」と言う具合に。そして、その「礼拝」とは、聖書にあるローマ12:1―2のことではなく、礼拝というプログラムに参加することになっている。そのプログラムの中心は牧師の「説教」だ。ワーシップソングも歌われるが、なんといっても中心は「説教」。説教なしの礼拝はあり得ず、日曜礼拝のない「教会」はあり得ない。牧師は信徒の霊的成長のためと思い、一生懸命に説教を準備するが、実際は居眠りしている信徒もいるし、大体、先週何が話されたのか覚えている人は少ない。残念なことに、説教は信徒の霊的成長にはあまり役立っていないようだ。

 

ともすると、霊的成長より「教会に行くこと」が目的化されてしまう。休まないで日曜礼拝に参加しているから「いい信者」、「霊的な信者」とみなされるが、事実はそうでもない。日曜礼拝に長年参加していても、霊的に成長していない信者も多くいる。イエス様の方法は「対話式」だった。よく聴衆に質問した。一方通行ではない。パウロも多くの場合「対話式」でメッセージを語った。霊的真理を適応することが説教の目的なら、スモールグループの分かち合いスタイルの方が、真理が入りやすいのでは? 個人的な関わりなしに、信者が霊的に成長することを期待することは難しい。長年、牧師の説教を聞いて「成長」してきたはずの長老たちが、牧師(牧者)の代わりを務められないでパニックする自体が悲劇だろう。

 

問題の本質

そう悲劇なのだ。牧師がいないと存在できない「教会」に、いわば訓練されてきてしまったという事だ。今までの教会のあり方が牧師依存の体質を作り出してしまったのだ。エクレシアが「からだ」として機能するより、信者をお客さんとしてしまったのだ。奉仕の役割があったとしても、アッシャーや献金集めなど、あくまで礼拝プログラムを回すための周辺的な仕事に過ぎない。エクレシアの本質である「お互い」に、み言葉を分かち合い、教え合うことはない。また、日曜礼拝というプログラム無しに「教会」は有り得ないと訓練されてきてしまった。

 

先日、韓国の宣教師と話していて、今後、無牧の教会に韓国から(日本語で説教のできる)牧師を送り込む計画が進んでいることを聞いた。なんか、複雑な気持ちになった。もちろん、韓国側は良かれと思って計画くださっているのだが・・・それが解決だろうか?

 

無牧の教会が増える中、もう一度、立ち止まって考えてみよう。「教会堂」、「牧師」、ルーティンとしての「日曜礼拝」、この3点セットはエクレシアの本質だろうか?それらは初代教会に見出せるだろうか?それらは聖書的だろうか?大宣教命令は「弟子とせよ」という命令。教会堂を建てて、教会を「運営せよ」との命令ではない。牧師がいない今、キリストのからだが機能するチャンスなのかも知れない。

 

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(*) Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers. (P.138)

 

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執筆者:栗原一芳

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