続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。
猜疑心に満ちた孤独な王
ダビデには多くの友がいました。当時、敵対していたサウル王の息子ヨナタンとの友情は有名ですね。「ヨナタンは自分を愛するほどにダビデを愛していた」(I
20:17)とあります。こんなに愛されているとは羨ましいですね。また、フシャイという人がいますが、彼を記述する言葉は「ダビデの友、フシャイ」です。(II
15:37) 素敵なタイトルですね。フシャイはダビデに献身的で、敵であるサウルの家に入り込み、ダビデのためにスパイ活動をする人です。また、戦場でダビデの「ベツレヘムの門にある井戸の水が飲みたい」との声を聞いて、命令を受けた訳でもないのに、ペリシテの敵陣営を突き抜けてベツレヘムの門の井戸から水を汲み、ダビデのもとに運んできた三人の勇士がいました。ダビデのためには命をかけて、それをしたのです。(IIサムエル23:16〜)ダビデには友がいたのです。また、ダビデを愛するゆえに従った人々がいたのです。これは真のリーダーの姿です。
ダビデは敵対していたサウルの家の者にも親切にします。ヨナタンの息子のメフィボシェテを王宮に呼び、王の食卓に着かせます。(IIサムエル9章)こんなダビデの人柄に惚れて、献身的になる人が多かったのでしょう。
サウルは対照的です。前回見たように権威を乱用し、国民を困らせ、怒りっぽく、すぐ怒鳴り散らすリーダーでした。サウルには友達がいなかったようです。猜疑心の強い権威主義の独裁者の特徴ですね。人のことを思いやるより、「誰も自分のことを思ってくれない!」という自己中心な思いなのです。特に、ダビデが戦果をあげ、人々が「サウルは千人を打ち、ダビデは万人を打った。」(Iサムエル18:7)と言っているのを聞いた時、メラメラと嫉妬心が湧き上がったのです。それでダビデに敵意を抱き、殺そうとさえします。人類初の殺人は嫉妬心からでしたね。(創世記4章)
サウルに関しては、すでに主の霊が去り、悪い霊に悩まされるようになっていましたが、嫉妬心が悪い霊の働きに油を注ぎ、家の中で狂い、わめくようになります。(18:10)何とも惨めです。もうダビデとサウルの明暗がここではっきりします。(*主からの悪い霊とは、主がサウルに対する悪霊のアタックを許されたと言うことでしょう。)
さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼を怯えさせた。
(I サムエル16:24)
ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼と共におられた。
(IIサムエル5:10)
結局、このダビデへの嫉妬が不必要な国の分断を招くことになります。敵に囲まれている状況で国益を損ずる方向性です。リーダーの態度は国の方向性にも影響を与えます。そして、ついに主からのお答えが無くなります。(I サムエル28:6)困り果てたサウロは自分が追い出した女霊媒師の元へお伺いをたてに行くのです。ここまで落ちぶれてしまいました。まったく惨めな暗い結末です。
現代的適応
こういうフレーズがあります。
Leader is Lover, Lover is Leader
まさにダビデですね。リーダーとは人々を愛する人。愛する人はリーダーなのです。権力で従わせる孤独な独裁者サウルのようではなく、へりくだった愛の人としてのダビデのようなリーダーが求められます。リーダーは時に孤独です。崇められる「偉い牧師先生」ほど危ないのです。初代のクリスチャンたちは「聖なる口づけ」を持って互いに挨拶していました。至近距離だったのです。誰もが兄弟姉妹として同じ「交わり」の中にいたのです。それが中世カトリックの宗教指導者たちは「高く、遠い」存在になっていき、一般会衆から離れていくのです。今日でも、ある聖会で、「牧師先生たち」だけ別の部屋で食事をする光景を見たことがあります。そのように「一般信徒(?)」と距離が生まれていくのです。牧師=牧者という「役割」が、「ポジション」と「権威」になってしまうのです。
リーダーは孤独です。だからこそ、「友」を作る必要があるのです。クリスチャンリーダーは、スモールグループのフラットな関係の中で祈り、祈られる「交わりの中」にいることを強くお勧めします。そうするには人が寄ってくるキャラ(approachable)でないとダメですね。ふんぞり返って、権威を振るう人には近づきたくないですからね。また、「祈ってください」と言える謙遜さがないとダメです。偉い先生は「祈ってあげる」という一段高い立場になってしまうのです。
聖書的リーダーはサーバントリーダー
すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)
2つの聖句を挙げておきましょう。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
(マタイ20:25−28)
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)
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執筆者:栗原一芳
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