続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。
謙遜から高慢へ
サウル王の生涯は後半に向けて失落して行きます。華々しいスタートを切るのですが(10:24)、終わりは惨めで悲惨です。サウルは初め謙遜だったのです。(Iサムエル9:21、10:22)しかし、少しずつ高慢になり自分の判断に頼るようになります。ペリシテ人との戦いの時、祭司がなすべき捧げ物を自分で捧げるという越権行為をしてしまいます。これは致命的であり、主の御心を損なうものでした。(13:12−14)いちいち主にお伺いをたてるダビデとは対照的です。(23:4−12、30:8)
さらに「アマレク人を聖絶せよ」(15:18)との主の命令に聞き従わず、自分の判断で肥えた羊や牛、アガグ王を生け捕りにして、値打ちのないものだけを聖絶しました。(15:9)この時、サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさる。」と叱咤しています。
主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、牡羊の脂肪にまさる。(第一サムエル15:22)
またバテシェバ事件で、その罪を指摘されたダビデが真の悔い改めをしたのとは対照的に、サウルは言い訳をしたり、煮え切らない悔い改めをしています。
15:24節以下)そして、まだ民の前でメンツを保とうとしています。(15:30)往生際が悪いですね。この時点で主はサウルを王としたことを悔やまれています。(15:35)
現代的適応
「その人に高いポジションを与えてみよ。その人の本性が現れるから」というフレーズを聞いたことがあります。初めは謙遜でも、一旦、権力を持つと人は変わるのです。謙遜であることは比較的容易です。しかし、謙遜であり続けることは神の業です。「もし、誰かが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」(I テモテ3:1)とあり、リーダー職に就くこと自体が悪いわけではありません。それは立派な、またご苦労なお仕事です。しかし、パウロは2節以下で、監督に就く人の条件を語っています。特に高慢になって悪魔と同じ裁きを受けることのないようと警告しています。(3:6)パウロはこう言っています。
神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(I コリント15:10)
すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)
自分の部下を守るために強い境界線を引くリーダーがいます。それ自体、悪いことではないのですが、多くの場合、それが高じて自分より上の権威にぶつかり、上の権威に反抗的になります。良かれと思ってやっているかも知れませんが、知らずして高慢になっている可能性があります。
権威の乱用による意味のない命令
さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。
(I サムエル14:24)
どうも、神が命じたのではないようです。勝手なサウル王の理不尽な命令により兵たちは苦しんでいたのです。その日、その命令を聞いていなかったサウル王の息子のヨナタンは、少人数で大勝利を上げます。(14:1−16)信仰による勝利です。(14:6)この日、主はイスラエルを救われたのです。(14:23)
命令を聞いていなかったヨナタンは蜂蜜を食べて元気を回復します。(14:27)その理由でサウル王はヨナタンを裁いて殺そうとします。(14:38−44)
しかし、民の声で王の間違いが指摘されて、ヨナタンは死なずに済みました。
(14:45)意味のない命令を出し、兵を苦しめ、国を悩ませ(14:29)、その上、意味のない裁きを実行しようとします。なんと民に間違いを指摘されてその決定を引っ込めます。一貫性がありませんね。元々、神から出た命令ではなかったのです。権威の乱用です。
リーダーの下す判断、命令は民に影響します。民を生かすのか、殺すのか、時に致命的な結果にもなります。II サムエル24:15を見ると、ダビデの間違った判断で、民の7万人が神に裁かれ死んだ記事があります。リーダーの判断の影響は大きく影響するのです。サウル王がダビデを妬んで、殺そうとしたため、国が分断してしまいます。敵に囲まれて状況下、一致して戦わなければならない時に、無駄な分断を生んだのはサウルの間違った態度によったのです。
現代的適応
Insecure(不安定で警戒心の強い)リーダーは、部下の業績に対して正しい評価をしません。自分より優れている人を認めたくないのです。残念なことに、教会や、キリスト教団体でも見られます。こうであってはなりません。クリスチャンリーダーは自分より優れている人を喜び、尊びます。なぜならチームとして自分にないものを持っているので、助かるからです。
権威の乱用による理不尽な命令も部下を苦しませます。権威を乱用することでアイデンディディを確認する必要はありません。クリスチャンはキリストに愛されている神の子であるというアイデンディディがあるのです。人の評価より神の評価です。自分を大きく見せる必要はありません。もうあなたは「王の息子」ですから、奴隷マインドではなく、「王様マインド」で過ごしましょう。大丈夫、もう愛されているのですから。その余裕を持って、他の人の成果を正しく評価しましょう。この世のリーダーはどれだけ顎で人を使えるかを喜びとする傾向がありますが、クリスチャンリーダーはキリストの体に仕え、体全体が成長することを喜びとすべきです。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
(マタイ20:25−28)
(つづく)
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執筆者:栗原一芳
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