教会に人が来ない!
かつて、この日本でも戦後、若い人たちが教会に押し寄せて来ていたと聞きます。
魅力的な場所だったんでしょうね。今は日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、韓国でさえ、教会離れ。特に若者が来なくなりました。アメリカでは若者を惹きつけるために教会にコンピューターゲームを置いたところもあるとか・・・(そこじゃないですよね。)また、アメリカの教会は会堂が大きいので、会堂内にカフェがあったり、書店があったりするようです。日本ではそういう訳にもいきません。数だけ集めたいなら、手っ取り早いのは教会をカルト化することでしょう。牧師がカリスマ指導者となり、「恐れ」を使って教会員をマインドコントロールし、伝道や献金を煽ります。それなりに教会は成長するでしょうが、健全ではありません。やがて問題が起こるでしょうね。もちろん、主も喜ばれません。そこまであからさまでなくても、ボーダーラインの教会も結構あるかも知れません。教会に人が来ないので焦るのです。
分かりやすい話を
どうしたら人が教会に来るのでしょう? 信徒が説教者に言うでしょう。「もっと分かりやすい話をしてください。」この「分かり易い」が難しいのです。もちろん、聖書の概念や用語を分かりやすく説明することは必要です。しかし、「分かり易い」を強調するあまり、聖書のトンデモ話を省略してしまうと福音は伝わりません。「いいお話」で終わってしまいます。感動の涙を流したとしても人は救われません。メッセージの中心は「十字架」と「復活」なのです。パウロもこう語っています。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、(I コリント1:21−23)
本質は「霊的」なことなので、説明を尽くしても信じる人もいれば、信じない人もいるのです。イエス様が説教しても信じない人はいたのです。
そのままでいいんだよ?
救われたいと願った酒飲みが「断酒してから教会に来て、洗礼を受けなさい」と言われたらどうでしょうか?自分の力で自分を変えられるならイエス様はいらないのです。「そのまま」の姿で主の前に来ていいのです。主が変えてくださるのです。かつて遊女や収税人という「罪人」たちがイエスのもとに来て話を聞きました。イエスは嫌がらず近づかれました。学者パリサイ人とは違うところです。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人」なのです。アルコール中毒者もL G B Tの人も、イエスを信じたい気持ちがあれば、「そのまま」でイエスの御元に来ていいのです。イエスに会うために教会堂に来てもいいのです。
ただ、イエスを信じた後に、そのライフスタイルを変えなくても「いいんだよ」という意味ではないのです。イエスに出会った人は「そのまま」ではないのです。「変えられる」のです。ザアカイは、イエスの話を聞いて御国に入るため「思い改め」をしたのです。そして、自ら不当に取った金を返す行動に出ました。価値観が変わり、行動が変わったのです。
ある人は「放蕩息子」の話を持ち出すでしょう。放蕩して帰ってきた息子を父は咎めなかったではないか。ハグして受け入れたではないか。しかし、あの息子はブタに餌をやっている時、「思い改め」たのです。方向転換したのです。だから帰宅したのです。もう「放蕩」息子ではありません。「父の息子」です。もちろん、父の愛を知った息子は、見違えるように変化して、父のために農場で一生懸命働いたでしょうね。
「そのままでいい」とは「メタノイア=思い改め」しなくていいという意味ではありません。
姦淫現場で捕まって石打ちにされそうになった女に、イエスは「これからは、決して罪を犯してはいけない」(ヨハネ8:11)と語られています。「そのままでいい」のではありません。ここをしっかり語らないと、教会は「そのままでいい=新生していない罪人」の集まりになってしまいます。
神の御心は、あなた方が聖なる者となることです。(I テサロニケ4:3)
聖書は、「罪赦され」、「救われ」たら、次に、「きよい」歩みに向かっていくことを教えています。それはチョイスではなく、召しなのです。(I テサロニケ4:7)そのために神は御霊を与えました。御霊に満たされ(エペソ5:18)
御霊によって歩む(ガラテヤ5:16)ことは神の命令です。それは肉の欲望を満たすことと対比されています。
終末の「アダム系教会」
初代教会にはパウロの恵みの福音を誤解して、「そのままでいいんだよ」教会を形成している群もあったようです。事実、コリント教会には性的奔放が見られます。グノーシス主義の影響もあり、霊の救いがあれば、地上の肉体が犯す罪に責任はないとして、そのような行動をしていたようです。パウロはそれを放任するのではなく、対峙して、矯正しようとしています。(I コリント5〜7章)つまり、「そのままじゃ、ダメだと」言っているのです。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」 (II テモテ3:16)
終末時にはいわゆるラオデキヤ教会=イエスを追い出す自称「教会」が広まります。キリストの教会ではなく「アダム系教会」です。「生まれ変わって」いない教会員や指導者が増えるでしょう。これは恐ろしいことです。彼らは御霊を持っていないので神の知恵がなく、聖書を正しく読むことができません。
神の「愛」と「恵み」だけを語り、神の命令を語りません。その方が人が集まるからです。人の気持ちを害する「罪」や「きよめ」を語りません。気持ちのいい教会、コミュニティに開かれた教会。社交クラブ的な教会。しかし、それが極端に進むと、「そのままでいいんだよ」が、「思い改め」をしなくていい、「新生」しなくていい教会になります。
仏教徒も、イスラム教徒もLGBTも「そのままでいいんだよ」と。ライフスタイルを変える必要はない。「信条」を変える必要はない。大事なのは「愛」、「一致」、排除しないこと。人が傷つくメッセージはしない。罪を指摘するメッセージはしない。大事なことは「愛」を実践すること。宣教地に行って井戸を掘ることは良い。しかし、イエスに改宗させることはしない。それは現地の人に失礼だ。彼らは、彼らの独自の文化と宗教を持っているのだから。キリストが「唯一の救い」なんて排他的なことを言わないで、世界の宗教は仲良くすべき・・・愛、愛、愛こそがすべて、それがイエスの教え、それが聖書のメッセージ・・・という具合に。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、(I テモテ4:3)
そうやって「受け入れること」が、聖書の「真理」の上に来るのです。聖書が言うとおり、そういう時代が、もう始まっています。そして、この勢力が広がっています。このようなリベラル思想の教会は世界統一宗教への門を開くことになるでしょう。そして、やがて真の信者を迫害するまでになるのです。そう、「教会」が真の信者を迫害する時代になるのです。(戦争中、この日本で、実際に起こりました。)
真の愛は「何でもいいよ」と放任することではありません。天の父は愛するゆえに、ご自分の聖さにあずからせようと私たちを訓練されるお方です。(ヘブル12:10)
私たちは、このみ言葉に忠実でありたいものです。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
(II テモテ4:2)
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Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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