2024年2月22日木曜日

反面教師 サウル王(1)

 

旧約聖書中、非常に興味深い人物がいます。それがイスラエルの初代王、サウルです。華々しいデビューをしたのに、後半はどんどん失落して行きます。暗い、孤独な王、サウル。彼を反面教師として、あるべきクリスチャンリーダー像を探っていきましょう。第一サムエルを開いてください。

 

人はうわべを見るが、主は心を見る

サウルは有力者の息子で、長身で、ハンサムだったのです。(サムエル9:2)

人も羨む条件が揃っていますね。この世的には、こういう条件は大事です。しかし、クリスチャンリーダーとしては、それだけでは不十分です。事実、サウルは王として失落してしまいます。預言者サムエルは、次の王を探しにエッサイの家に行きました。そこで容姿の立派なエリアブを見た時、「きっとこの者が主に油注がれるものだ。」と思ったのです。しかし、主の答えは「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル16:7)でした。リーダーの「心」が何よりも大切にされなければならないのです。

 

現代的適応

教会に大企業の社長さんがいるとしましょう。この世的には、こういう人に教会の役員になってほしいと思うでしょう。しかし、この社長さんが霊的に未熟だった場合に、正しい霊的な判断ができないこともあるのです。社会的に影響力ある人が役員会にいれば、当然、発言力が大きくなります。注意が必要ですね。ルックスのいい、プロのバイオリストが教会に通い始めました。まだ信仰について十分理解していません。この世的には、こういう人をワーシップチームに入れたいでしょう。しかし、ワーチップチームのメンバーは音楽の奉仕者である前に、礼拝者であるべきなのです。礼拝の手段としての音楽なのです。礼拝できない人は才能があっても、ワーシップチームに入るのはふさわしくないのです。

 

この世では判断する時に、この世の常識で判断するでしょう。教会では、この世の基準と違う価値観があります。判断する時に「祈って、主に聞く」という特殊な文化があるのです。サウルとは対照的にダビデ王は常に主に伺いを立てています。多数決では決められないこともあるのです。霊的なことは、御霊によって判断するのです。

 

以前、韓国の大教会を訪ねたとき、その会堂の大きさに度肝を抜かれました。しかし、「どうだ、うちの教会はすごいだろう」と世の中に誇る意味で建てられていたとしたら〜つまりルッキズム〜意味がありませんね。神は大きな会堂を建てろとは命じておられません。大宣教命令は「弟子をつくれ」(マタイ28:19)であり、「教会堂を建てよ」という命令ではありません。いずれにしても、忍び込んでくる、この世的価値に気をつける必要があります。

 

神の霊と新しい心

信仰の世界でリーダーとなるには、当然の如く、神の霊によらなければなりません。サウルはサムエルに油注がれ、正式に神の御前で王と任命されました。(10:1

その後、主の霊が下り、新しい人に変えられました。(10:6)新しい心も与えられました。(10:9)神が召される時、必要なものが与えられるのです。丸腰で遣わされるのではありません。ただ、忠実に主に従い続けるかどうかは、その人次第です。サウル王は王としてスタートを切るにふわさしい備えは頂いたのですが、だんだん、それが自分の力のように誤解し始めます。そして自分の判断や自分の力に頼るようになります。リーダーは神に頼らなければやっていけないのです。

 

現代的適応

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは、その人には愚かなことだからです。理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」コリント2:14)

 

クリスチャンとは洗礼という儀式を受けた人のことではなく、教会員名簿に載っているという事でもありません。御霊により「新生」し、御霊を宿すようになった人のことです。リベラル教会には新生し、御霊を持たない信徒や、牧師がいるのです。(復活を文字通りに信じない牧師はたくさんいます。)それは恐ろしいことです。キリスト教会と看板は出ていても、キリストがいないのです。クリスチャンリーダーは新生して、御霊を持つ人でなければなりません。そうでないと、この聖句のように、御霊のことが理解できず、霊的判断ができません。

 

神が神の仕事に召された時には、神が御霊により必要な賜物(能力)を備えます。神が召された仕事にふさわしい賜物を、神が召された期間、備えてくださるのです。それは神の力なのであって、自分の力ではありません。しかし、長年、リーダーのポジションにいると自分の力のように思ってしまいます。「先生、先生」と長年呼ばれていると、その気になってしまいます。ここに誘惑があるのです。クリスチャンは、そして特にクリスチャンリーダーは御霊に満たされ、御霊に導かれている必要があるのです。一度、聖霊に満たされれば十分なのではなく、御霊により「歩み続ける」ことが必要なのです。リーダーは、常に神を恐れて治めなければならないのです。

 

神を恐れて治める者。その者は、太陽が昇る朝の光。雲一つない、朝の光のようだ。                     II サムエル23:3−4)

 

(つづく)

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

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