2012年10月25日木曜日

王様マインドと危機管理



 8月31日、内閣府中央防災会議が南海トラフ地震被害予測の見直しを正式発表しました。それが各新聞のトップニュースになりました。東京新聞には「最悪で死者32万人、7割が津波被害。しかし、対策、避難で6万人に」との見出しが付きました。「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。上の新聞記事にあるように、死者32万人が6万人になるのです。ここに防災の意味があります。

クリスチャンにとって危機管理は、さらに大きな意味があります。ビジネス書を出版しているサンマーク出版から最近出された、「王様マインドと奴隷マインド」という本があります。著者は日本で最大の投資顧問会社の社長であり、クリスチャンである松島修氏。奴隷マインドはリスクに無頓着、王様マインドは危機管理ができているというのです。「王様は、国民を守るために、突然の災害や、敵の侵略などに対処する危機管理能力を持つ者です。これは仕事でも家庭でも適用できます。危機管理能力とはリスクを先読みして、それに備えるということです。」(P.140)企業にとっては、サーバーがダウンすれば大変な損失になります。リスクを先取りして社長の立場でものを考え提言する人が必要だというのです。一社員であっても、与えられた分野で王になるという「王様マインド」です。それが、企業を救い、日本を救うことに繋がるのです。奴隷は他人任せで、事が起った時、被害を嘆き、人のせい(あるいは神のせい)にするだけです。

神の国シリーズでも見て来たように、もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。教会はキリストをかしらとする「キリストの体」なのです。この地上で「神の国」を表す出先機関なのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地」を統治し、管理する責任があるのです。聖書の言う「御国」は一般で考えられている「死んだらフワフワした天国で遊んで暮らしている」というイメージとは違うようです。むしろ、ナルニア国物語でペベンシー家の普通の子供達がナルニア国では剣を持ち、王として国を統治しているあの姿のほうが近いのです。だからイエス様がタラントの話をされたように、今から管理能力が問われるのです。

「3:11大震災をクリスチャンは聖書的に信仰的にどうとらえたらいいのか?」のテーマを真正面から取り組んでおられる大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

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これまでの福音派は、人間が被造物に侵害した問題については「キリスト者の社会的責任」として取り上げてき た。しかし、自然災害については、手をつけてこなかった。人間に責任があるわけではないし、神に責任を問うわけにもいかなかったのである。とはいえ、もしキリストの贖いが、被造物すべての管理権を人間に回復したというの であれば、自然災害を避けることはできない。自然災害は、自然の法則(あるいはリズム)の中で生じるものであり、それを防ぐことはできない。被造物の管理者としては、ただそれをそのまま受け止め、どのように対処すべきか考えるだけである。

西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。すると、神の義を守 るために、人間の罪が自然災害をもたらしたということになり、神の裁きにまでいってしまう。さすがにそこまでには行けない人たちは、結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない厳しい状況に対し、何の役にも立たない。

そこで私は、自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」に属する問題と提唱したい。

そうすれば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。そこまでいかない神学など、机上の空論に過ぎない。
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さらに、中澤師は、「王様マインド」についても、次のように整理されています。

この後のヘブル 2:15 では、キリスト者以前の人間の姿を「奴隷」と描写している。その言葉と本節の「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということである。「相続権」とはむろん、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ 8:15-­17)が受け取るものである。キリスト者は、神の子になったのだが、 その意味は、被造物の相続権を受けている者たち、ということである。新約聖書は、贖われたキリスト者は「王」であり、「祭司」であると述べている。これは、驚くべき表現である。自分を「王」と見立てて信仰生活を送っているキリスト者はどれくらい いるだろうか。「王」とは明らかに支配権を持つ者である。これは今後、永遠に続く立場である。黙示録はキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)、「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」として描いている。 前の二箇所は「千年王国時代(それがどのようなものかは、今は問わない)」のキリスト者像であり、三番目は「新天新地」におけるキリスト者像である。贖われた民は、千年王国時代でも、新天新地の時代でも「王」として描かれている。これ以下のキリスト者生活を送ってはならない。」
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片手に「聖書」、片手に「新聞」という言葉もあるが、この世で起っている事と自分の信仰生活とは関係があるのです。信仰生活とは日曜朝のプログラムに出席することではない。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し、「王様マインド」で、「天に御心が成るように、地でも成させたまえ」と祈りつつ、地で御心が成るように(つまりは、この地の管理が為されること)、この世とかかわり、行動してゆくことなのではないでしょうか?
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asktmc@gmail.com (栗原)

2012年10月18日木曜日

Kingdom Story 第4章


4章 - 回復、これからのこと

講読箇所:ヨハネの黙示録 21:1-11

最後の章は回復について書かれ、聖書はここで帰結します。ウィクリフ聖書注解はヨハネの黙示録21:1-2を次のように注解しています:

  さて、私たちは聖書の最後の章にやってきました。これは、何世紀にもわたって神がご自身の民を啓発してきたことが書きとめられている栄光に満ちたクライマックスです。この箇所を読むと、私たちは時間という制限されたものから永遠へと移されます。罪、死、そして神に敵対するあらゆるものは、永遠に消し去られるのです。

  このような記述は他のどのような古代文学の中に見られるものではありません。それはヨハネが新しい天と地を見るところから始まっています。新約聖書にはふたつのギリシャ語がここで新しく翻訳されて用いられています。それはneoskainosという語で、これは私たちの朽ちたひびの入った古い世界から湧きあがってくる新しいいのちという意味です。ですから、この箇所は天と地がここで初めて存在したと語っているのではなく、それらは新しい性格を持つようになったと教えているのです。

  古いエルサレムが「聖なる都」と呼ばれたように、新しいエルサレムは神に特別に任命されたものです。この時になって初めて贖われた人たちがどのような性格を帯びているかについて記述されるようになりました。それは神の全きご性質であるきよさに与ることであり、神の民が目標とすることでした。私たちの永遠の住まいは旧約聖書においても都と表現されています。(詩篇48:1,8;ヘブル書11:16)

贖いのプロセスを通して、すべてのものは永遠に神のご支配の下に置かれるようになります。罪は取り去られ、私たちは新しく創造された者として生きるようになります。自分の魂やまわりの世界に対してうめきを感じることもありません。御国には神に敵対するものは何もないのです。


この最後の章で、聖書が帰結しているいくつかの事柄を見ていきましょう。

1.贖いは完了し、神はご自身の民のためにきよさを全うしてくださいました。

キリストの死、復活、昇天は神の贖いのクライマックスですが、贖いのわざの最終的な結末ではありません。これは、創造における秩序は今も乱れ、人類は今も罪と死と戦っていることの所以です。神の贖いのわざはキリストが再び戻って来られて、すべてのものが新しくされるまで完成することはありません。

最後の章から、贖いはもたらされたが、完成したわけではないことがわかります。この世にあって、私たちは「すでに起こったこと」と「まだ起こっていないこと」の間、「現実」と「将来起こること」の間で、ジレンマを経験します。

このジレンマは聖化の中に見られます。私たちはすでに聖化され、今現在、聖化されつつあるという感覚があります。と同時に、私たちはいつか御国に迎え入れられた日、完全に聖化されることになります。

コロサイ書3章で、このことがうまく書き記されています。1-3節に、私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえったと書かれています。キリストの死と復活に結び合わされることによって、私たちは罪に死に、いのちにある新しい歩みをするようになったのです。(ローマ書6:1-10)けれども、これはもはや罪を犯すことはないと言っているのではありません。罪を犯すのを止まらせるものが派生したという意味です。私たちはもはや罪の奴隷となって、その中で抑圧されることはないのです。罪が私たちを支配することはありません。私たちには正しく歩むことを可能にしてくださることのできる新しい主人がいます。罪に対して死ぬ前の私たちには、罪を犯さずにすむことは不可能でした。今や私たちはキリストにあって従順な歩みをすることができます。罪と格闘することがあっても、聖化へと進んでいっているのです。罪との葛藤は聖化を消し去るものではありません。

4節には、キリストが現れると、私たちも共に栄光を帯びて現れると書かれています。私たちはすでにキリストと共に上げられましたが、栄光を帯びるのを待っているのです。私たちはまだ栄光を帯びていないのです。10節を読むと、私たちはどのように進むべきかがわかります。パウロは私たちに新しい自分を着るようにと語っています。神に似せて新しく造られた存在であることを知って刷新されるという意味です。これはもうすでに為されています。現在でさえ、私たちは新しくされているのです。「私たちの創造主に似た」という表現に心を留めてください。私たちは最初だれに似せて造られたのでしょうか。贖いを通して私たちはだれに似せられているのでしょうか。いつか私たちはだれのイメージを反映させるのでしょうか。

完全な回復が成されたあと、私たちの永遠の状態とはどんなものかウィクリフ聖書注解書を見てみましょう。「神の大いなるご性質を現わすきよさは、神の民が最初から定めている目標です。」


2.人間の壊された人間関係は回復され、神は人々の心の中にとどまってくださいます。

私たちは堕落のあと、罪が入り込み、人間関係は損なわれてしまったことをすでに学びました。(創世記3:9-16)恥と恐れがアダム、エバと神との関係に入り込んでしまったのです。アダムとエバの間にあった信頼関係は互いを咎めるものになってしまいました。これは、自分を欺くものであると同時に、他人を欺いてしまう性質をも表しています。

ヨハネの黙示録19章を読むと、神の民は神の花嫁と表現されています。神は王となって私たちに君臨される存在、羊に対する羊飼いのような存在であるだけではなく、夫と妻の関係になぞらえておられるのです。結婚における夫と妻の関係は、他のどのような関係よりも親密です。その関係は法的に結ばれており、お互いの人生のあらゆる分野に影響し合っています。信頼と愛に基づいた関係です。夫婦はそれぞれひとりでいる時よりも、その存在ははるかに価値あるものとなります。この関係には協力するという要素があります。ひとりの花嫁(神の民)は多くの人々によって成り立っています。関係には互いの協力が欠かせません。お互いがその関係によって癒され、回復されるためです。


3.最後の日に刷新され、回復されると被造物のうめきはなくなります。ローマ書8章とヨハネの黙示録21章を較べてみてください。

ローマ書8:19-22:被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

ヨハネの黙示録21:1-2:また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

ウィクリフ聖書注解は次のように記述しています。「この箇所は天と地が初めて存在するようになったと教えているのではなく、新しい性質を持つと教えているのです。」


4.神の御国は決して危険にさらされることはありません。但し、抵抗する力が働いています。

被造物が回復される時、キリストの王権とご支配の下で完全な回復が行われます。神の御国は再び平和になるのです。

回復の要点ポイント:

― 人生において、私たちはすでにあることと、これからあることの間にある緊張感を経験します。ですから、回復はまだ完全な形ではなく、最終的な回復はまだ来ていないのです。
― 最終的な回復が来ると、死も罪も消え去ります。
― 回復の時、創造されたものは、あるべき形になるのを見るでしょう。
― 聖書は新しい天と地が初めて存在するようになるとは教えていません。そうではなく、元々創造された天と地が新しい性質を帯びるようになるのです。


結論

人類の歴史は、楽園から都の堕落、贖いと刷新を経て聖なる都へと移っていきました。神が最初私たちに意図しておられたことは、私たちがきよく*なることで、私たちが永遠に住む所は聖なる都と呼ばれています。ですから、私たちの人生や歴史は、この4つの章から成る御国物語の中で進められてきました。これが福音と呼ばれるものです。

このカリキュラムを通して私たちは、福音のフレームワークを用い、私たちの個人的状況、また世界の出来事を分析、解釈してゆくことを求め続けるのです。「本来のあるべき姿」「現状」「どうなりうるか」「将来、どうなるのか」これらひとつ、ひとつについて私たちは福音のどの章と関わりがあるかすぐ見つけることができます。そして、福音を世界で現実に起こっていることに関わらせ、他の人々と、どのように通じる会話へと導いていけばよいか知ることができるようになります。

Campus Crusade for Christ, Leaders led movement 教材より
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asktmc@gmail.com (栗原)

2012年10月11日木曜日

Kingdom story 3章


3章 - 贖い、可能となること

イエスの生涯、死、そして復活は人類の歴史を変える転換点となりました。救いはキリスト抜きには語れません。旧約聖書に書かれているすべての贖いの行為はキリストを待ち望んでいるものです。けれども、神はイエス・キリストが人類を救うアドベントまで待たれたわけではありません。神の贖いの計画はアダムとエバの時代から始まっていました。創世記3:21に次のように書かれています。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」贖いのプロセスが神の御子イエス・キリストによって成就することが備えられていたのです。

神が彼らのために動物の皮を作ったからといって、アダムとエバは救われていませんでした。彼らはいつか女から生まれ、蛇の頭を踏み砕く御子を待ち望むことによって救われました。(創世記3:15)神が衣を着せてくださったことは、罪びとに対する神のあわれみ、恵み、慈しみです。私たちが信仰によってキリストとひとつになる時のみ、私たちは憐れみ、恵み、慈しみで覆われます。

イエスの生涯、死、そして復活は、私たちの救いに関する限り、中心となる重要な出来事ですが、それには最初も最後もありません。神は(最初から最後まで)救いのわざを続けておられ、歴史という制約された中でご自身の救いを明らかにしておられるのです。

神はアダムから始まって、ご自身を明らかにしようとしておられます。そして、アブラハム、イサク、ヨセフ、モーセそしてダビデに現れたのでした。神は犠牲と贖罪のシステムを確立されました。そして、イスラエルを整え、訓練されました。預言者も送りました。それからイエス・キリストが到来しました。歴史が進むごとに神の啓示と救いのわざが進められていきました。ガラテヤ書3:7-9を読んでください。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

ヘブル書11章には、信仰によって神の約束を信じ、待ち望んだ人々の長い歴史が書かれています。その章は39,40節の次のことばで終わっています。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束のものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

聖書は、神がご自身の被造物を贖うために働いておられることを記録したものです。アダムからあなた、そして、その先の人々に対して神は贖い続けておられます。イエス・キリストにあって私たちは完全に贖われたのです。彼の方から歴史の中に来てくださいました。そして、その結果、御国は私たちの手に届くものとなったのです。御国の中で、私たちは新しい種類のいのちに近づくことができるようになりました。御国は新しいものではありません。けれども、キリストの生涯、死、そして復活によって、御国は今すでに現実のものなのです。

ダラス・ウィラードは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2、4:17、10:7)という呼びかけについて語っています。これはイエスがご臨在くださる中、私たちが自分たちの人生をどのように進めているか呼びかけているものです。主のご臨在の中で、神が私たちの置かれている状況において永遠のご計画を進めてくださっていること、その神に自分の人生をお委ねする選択肢があるということです。

神はすべての被造物、それが堕落において失われたものとなっていても、贖おうとしてくださっています。これは、神の贖いのわざは人間の魂だけではないということです。宇宙全体、地球、全地、海、動物すべてです。また、芸術や産業、労働、休息に対してもです。新約聖書はこのことについて明らかにしています。

パウロはイエス・キリストの贖いのわざについて次のように書いています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ書1:15-20)

エペソ書1:7-9も見てください。神のご計画の時が満ちた時、天にあるものも地にあるものもすべてひとつにされたとパウロは語っています。これらすべてのものは、滅ばされるのではなくて、キリストにあってひとつにされるのです。

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」(エペソ書1:7-10)

また、パウロがローマ書で語っていることについても考えてください。「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ書8:18-21)

堕落以来、私たちが神の創造を補佐する者として土地を耕したりすることによって神のイメージを表現することの中には、贖いのわざも含まれています。そこには人々も含まれ、それ以上のことも含まれています。私たちがイエスについて知らない人々に福音を伝えること、それは贖いの働きです。また、貧しい人々に食物を与え、孤児や未亡人を訪問することも贖いに関わっているのです。けれども、これよりももっと贖いに関わる生き方があります。それは、私たちが置かれている状況において神の本質を反映させていくことです。主の主権の下にすべてのものを管理し、それによって神のご性質と目的を反映させていくことです。

判事や弁護士が行う贖い方にはどのようなものがあるか考えてみてください。それは、
仕事を通して、正義も憐れみもない法律を変えていくことかもしれません。或いは、貧しい人々のために弁護料を請求しないで弁護をしていくことかもしれません。このことは、すべてのクリスチャンの弁護士は貧しい人たちにこうしなければならないということではありません。職業を通して、このように人々に仕えていくことができるという一例です。そして、もちろん、同僚やクライエント、友人、家族に福音を伝えたいと願うでしょう。

キリストが再臨してすべてのものを新しく回復されない限り、世界は神を完全に反映するもとのなることはできません。だからと言って、私たちに委託されている統治するという責任が弱められているというわけではありません。一人ひとりが神のご支配の下、置かれている状況下で果たすべき責任があります。私たちは管理するすべてのものにキリストの主権が現わされることを求めているのです。私たちは自分たちのしていることを通して神に栄光が帰されるよう、また、私たちに関わるすべての人々が良い人生を経験していくことができるよう励んでいるのです。このような行為は価値あるものです。また、次のような益ももたらされます:神が願っていることを私たちがするなら、私たちは神に栄光を帰すことができ、人々が神がどのようなお方かについてよりよく知ることができるようになります。

これが御国の働きです。ウィラードは書いています。「神のご人格、及びみこころは、御国の原則に従っているものです。これらの原則に従うものすべては、それが自然派生的なものであれ、自発的な選択によるものであれ、神の御国の中で行われているということです。」神の御国を具体的に生きるという意味は、公けの生活においても、プライベートな部分においても、私たちはキリストを主として生きるということです。

ちょっと待ってください!何かちょっとイエスの存在が薄くなってはいないでしょうか。最後の数ページの学びで私たちは福音の幅を広げるために創造と回復を含めました。また、贖いの幅を広くするために創造を加えました。これはイエス・キリストの十字架上の働きを小さくしてしまうものでしょうか。そんなことはありません。実際、福音が広く捉えられ、贖いについて十分に教えられるなら、十字架の持つ意味はより重要になります。

福音:福音を伝える時に創造や回復について広く教えると、違いがもたらされるのはなぜですか。

私たちは福音の概念に創造と回復を含むことによって、神の目的、或いは時や空間を超えて歴史に起こったことについて理解するのに必要なヒントを与えることができます。福音はもはや「別世界」のものではないのです。この世界に存在するものなのです。そこには神の世界が示され、創造が確かなものとされています。それによって神は人類が堕落して以来、すべての被造物を贖い続けておられることについて理解することが可能になります。このことを理解しないなら、私たちの信仰は個人的な経験に限定され、私たちの住むこの世界の創造と原理に関わりがあることを見出すのは難しいでしょう。

贖い:神の人類と創造に対する贖いのわざがどれほど広いものであるかを知ることによって、私たちは人生をどのように形作っていくことができるでしょうか。

贖いは十字架を通してのみ可能です。個人的なものですが、単に個人にとどめられるものではありません。イエスは最初に生まれた被造物で、そこから新しい創造が始まりました。キリストにあって新しい創造はすでに始まったのです。私たちがキリストにつながっているなら、私たちもまた新しい創造に部分的であっても(現実に)加わっているのです。あらゆるものの回復と刷新は、キリストと切り離すことはできません。キリストは死から最初に甦られた方であり、新しく創造されたからです。キリストは宇宙の贖いの始まりに立っています。そして、私たちは最後の日に完成されるのを見るのです。

贖いに対する理解は人間の魂にのみ言及し、救いは単に「罪の赦し」にとどまるものでした。その結果、贖いは個人的な信仰の域を出ませんでした。私は赦されたので、天国に行くことができるという理解にとどまりました。

信仰をもっと聖書的に理解すると、「いのちをいただく」ということになります。救われると新しいいのちを経験するのです。単に、再生されるというのではなく、全く新しい生き方をするということです。私たちがキリストにつながると、現実の世界の中で今までとは違った生き方をするようになるということです。すべての被造物のために、神の使者として生きるということです。神はご自身の造られた創造の原理を諦めることはしませんでした。私たちを堕落した状態から救い出すのではなく、霊的な生活を人類に回復させることによってすべての被造物を救っておられるのです。赦しは救いを可能にしますが、それが最終的な目的ではありません。キリストに結ばれた新しい人生が最終目的です。

福音と贖いの理解は、私たちが以前とは違う新しい生き方をして救いの目的を果たすことによって、私たちの信仰(私たちの信じること)と私たちの働き(私たちのすること)は結ばれていることがわかります。私たちがこの世界をいかに生きていくかにとって、これはとても大切です。贖いを広く捉えていかないと、私たちの信仰は実生活の中で生かされることの少ないものとなってしまいます。私たちが赦しだけに焦点を当てていくと、私たちは天国に入る希望を求めるために生き、他のことに関心を払わなくなってしまいます。けれども、いのちとしてのキリストに焦点を当てるなら、私たちは自分の人生をキリストが生きられたように生きるように求められていることに気づきます。ダラス・ウィラードは「訓練の御霊」の中で次のように説明しています:

  このことは、信仰は自分たちのまわりに起こる世界の出来事とは関わりのないものであり、単に自分たちの赦しに確証を与えるために必要な内省的なものとして捉える考え方に真っ向から対抗するものです。けれども、新約聖書は信仰をそのような単に精神的なものと捉えていません。新約聖書が教えている信仰とは、ローマ書10:17に書かれているように、神のみことばによってインパクトが与えられ、生きる力となるものです。そして、私たちの肉体、社会的、政治的な環境をも含むあらゆる分野に決定的な影響を与えるものです。

私たちがこのように福音や贖いを捉えていくなら、キリストがほめたたえられることになります。

  福音を広く捉えていくと、神はご自身のわざを止められないことに気づきます。神は被造物を放棄することはなく、この世界とそこに住む人々を贖うように、最初から計画しておられました。そのためにキリストのいのちと死はどうしても必要なことだったのです。

  キリストの勝利は完全なものとされています。けれども、贖いを部分的に捉えるなら(個人の魂のみが贖われるという捉え方)あなたはまだ敗北していて、完全に勝利していないということに直面しなければなりません。なぜなら、キリストの死は人類の堕落によって失われたものを回復するには十分でないことになってしまうからです。

  贖いが十分理解されると、個人的な救いはキリストのいのちをいただくことだとわかります。自分たちの生きる世界に信仰を関わらせていきます。キリストのいのちが十字架の死によって曇らされてしまうと、キリストがこの地上に来られたことについて部分的にしか見ることができなくなってしまいます。赦されたことの重要性について認めたとしても、そこからきよい生き方へと導くいのちから切り離されてしまいます。

  キリストのいのちが十字架の死によって曇らされてしまうと、私たちはキリストが与えてくださったいのちについて確信が持てなくなり、いのちの大切さについて正しく理解できなくなってしまいます。ウィラードは私たちの救いはキリストの尊い血による犠牲によってもたらされたにもかかわらず、神の贖いのわざとしての十字架が間違って伝えられると、キリストのいのちや教えは贖いのわざにとって本質的なものではなく、単に十字架を装飾するものに過ぎなくなってしまうと警告しています。



贖いについての要約ポイント

― 神の贖いの計画は徐々に明らかにされてきた。
― 福音と贖いについての理解が拡大されると、十字架の持つ意味も重要さを増す。
― 神は天と地にあるすべてのものを贖う計画を持っておられる。
― 私たちがまわりの人々、組織、文化を神のご支配の中に戻そうとすることによって、
私たちは贖いのわざに関わっているのである。

(Campus Crusade for Christ, Leaders led movement 教材より)
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救われたということは単に天国行きの切符を手に入れて、汽車が来るまで待っているということではありません。信仰は私達がかかわっているすべてに関係があるのです。神の代理者として、神の同労者として、この地上で果たすべき責任があるのです。

asktmc@gmail.com

2012年10月4日木曜日

神の国シリーズ Kingdom story (2)


2章 - 堕落、現状

講読箇所: 創世記3章

堕落によってもたらされた混乱について考えてください。創世記からまずわかることは、人間と神の関係が破壊されたことです。恥を知らない状況に、恥と恐れがもたらされました。創世記3:9-10には次のように書かれています:神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

堕落によって人間関係も壊されてしまいました。創世記3:12、13を読むと、信頼関係が咎めに変わったことがわかります。人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

創世記3:16は結婚に生じる破綻した関係を表しています。女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

人間関係にきたした破綻がより鮮明に描き出されているのは、創世記4章のカインがアベルを殺したことです。

ついに、地球は堕落によって影響を受けた状況になってしまいました。創世記3:17-19:また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

破壊、苛立ち、死が世界に入りました。人類は神のご支配の下で喜んで生きることはできなくなってしまいました。私たちは罪によって死んだものとなったのです。神の御国は常に存在し、永遠に続くものです。けれども、そこに謀反が生じました。ダラス・ウィラードは御国について次のように記録しています:あなたの王国は、永遠にわたる王国。(詩篇145:13、ダニエル書7:14)それは決して揺り動かされず(ヘブル書12:27)完全によいものです。問題になったことがなく、これからもなりません。

堕落によって人間と神の関係が破壊してしまっても、支配し、統治するという命令は撤廃されませんでした。事実、洪水のあと、その命令は再度布告されました。(創世記9:1-7)最初に創世記1:28で与えられた責任は、そのまま残りました。けれども、そこに敵対する力が働くようになります。私たちは罪によって堕落した世界に住むようになったので、主は新しい方法で私たちの王にならなければなりませんでした。

神は目的を持って創造されたので、人類の堕落に驚かれることはありませんでしたし、
それによって神のご計画が妨げられることもありませんでした。罪のゆえに、神は最初に人類に対して持っておられたご計画、立てられた秩序を破棄しなければならないと言う事は馬鹿げています。神は私たちが堕落する前から私たちが堕落するのをご存じでした。そして、世界の創造の前から、私たちの堕落を救うためにご計画を持っておられたのでした。では、神はどのようにして私たちをあるべき形に戻すことができるのでしょうか。

堕落についての要約ポイント

― 宇宙に存在するすべてのもの、生物、無生物は堕落によって影響を受けた。
― 人間は完全な形に創造されたが、堕落した存在となり、生活のあらゆる分野にその影
響が及ばされた。これは神の似姿が消し去られたという意味ではない。損なわれずに残されている部分がある。
― 堕落後も神が人類に被造物の管理を任せるご計画は撤廃されなかった。
― 神は堕落という事態に驚くことはなかった。また、人類と天地創造に対して持って
  おられた計画を破棄することもなかった。

(Campus Crusade for Christ, Leaders led movement教材より)
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どういう世界観を持っているかで、現実の生活や社会とのかかわりが
変わってきますよね。皆さんのご感想、お聞かせください。

asktmc@gmail.com (栗原)