3章 - 贖い、可能となること
イエスの生涯、死、そして復活は人類の歴史を変える転換点となりました。救いはキリスト抜きには語れません。旧約聖書に書かれているすべての贖いの行為はキリストを待ち望んでいるものです。けれども、神はイエス・キリストが人類を救うアドベントまで待たれたわけではありません。神の贖いの計画はアダムとエバの時代から始まっていました。創世記3:21に次のように書かれています。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」贖いのプロセスが神の御子イエス・キリストによって成就することが備えられていたのです。
神が彼らのために動物の皮を作ったからといって、アダムとエバは救われていませんでした。彼らはいつか女から生まれ、蛇の頭を踏み砕く御子を待ち望むことによって救われました。(創世記3:15)神が衣を着せてくださったことは、罪びとに対する神のあわれみ、恵み、慈しみです。私たちが信仰によってキリストとひとつになる時のみ、私たちは憐れみ、恵み、慈しみで覆われます。
イエスの生涯、死、そして復活は、私たちの救いに関する限り、中心となる重要な出来事ですが、それには最初も最後もありません。神は(最初から最後まで)救いのわざを続けておられ、歴史という制約された中でご自身の救いを明らかにしておられるのです。
神はアダムから始まって、ご自身を明らかにしようとしておられます。そして、アブラハム、イサク、ヨセフ、モーセそしてダビデに現れたのでした。神は犠牲と贖罪のシステムを確立されました。そして、イスラエルを整え、訓練されました。預言者も送りました。それからイエス・キリストが到来しました。歴史が進むごとに神の啓示と救いのわざが進められていきました。ガラテヤ書3:7-9を読んでください。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
ヘブル書11章には、信仰によって神の約束を信じ、待ち望んだ人々の長い歴史が書かれています。その章は39,40節の次のことばで終わっています。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束のものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
聖書は、神がご自身の被造物を贖うために働いておられることを記録したものです。アダムからあなた、そして、その先の人々に対して神は贖い続けておられます。イエス・キリストにあって私たちは完全に贖われたのです。彼の方から歴史の中に来てくださいました。そして、その結果、御国は私たちの手に届くものとなったのです。御国の中で、私たちは新しい種類のいのちに近づくことができるようになりました。御国は新しいものではありません。けれども、キリストの生涯、死、そして復活によって、御国は今すでに現実のものなのです。
ダラス・ウィラードは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2、4:17、10:7)という呼びかけについて語っています。これはイエスがご臨在くださる中、私たちが自分たちの人生をどのように進めているか呼びかけているものです。主のご臨在の中で、神が私たちの置かれている状況において永遠のご計画を進めてくださっていること、その神に自分の人生をお委ねする選択肢があるということです。
神はすべての被造物、それが堕落において失われたものとなっていても、贖おうとしてくださっています。これは、神の贖いのわざは人間の魂だけではないということです。宇宙全体、地球、全地、海、動物すべてです。また、芸術や産業、労働、休息に対してもです。新約聖書はこのことについて明らかにしています。
パウロはイエス・キリストの贖いのわざについて次のように書いています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ書1:15-20)
エペソ書1:7-9も見てください。神のご計画の時が満ちた時、天にあるものも地にあるものもすべてひとつにされたとパウロは語っています。これらすべてのものは、滅ばされるのではなくて、キリストにあってひとつにされるのです。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」(エペソ書1:7-10)
また、パウロがローマ書で語っていることについても考えてください。「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ書8:18-21)
堕落以来、私たちが神の創造を補佐する者として土地を耕したりすることによって神のイメージを表現することの中には、贖いのわざも含まれています。そこには人々も含まれ、それ以上のことも含まれています。私たちがイエスについて知らない人々に福音を伝えること、それは贖いの働きです。また、貧しい人々に食物を与え、孤児や未亡人を訪問することも贖いに関わっているのです。けれども、これよりももっと贖いに関わる生き方があります。それは、私たちが置かれている状況において神の本質を反映させていくことです。主の主権の下にすべてのものを管理し、それによって神のご性質と目的を反映させていくことです。
判事や弁護士が行う贖い方にはどのようなものがあるか考えてみてください。それは、
仕事を通して、正義も憐れみもない法律を変えていくことかもしれません。或いは、貧しい人々のために弁護料を請求しないで弁護をしていくことかもしれません。このことは、すべてのクリスチャンの弁護士は貧しい人たちにこうしなければならないということではありません。職業を通して、このように人々に仕えていくことができるという一例です。そして、もちろん、同僚やクライエント、友人、家族に福音を伝えたいと願うでしょう。
キリストが再臨してすべてのものを新しく回復されない限り、世界は神を完全に反映するもとのなることはできません。だからと言って、私たちに委託されている統治するという責任が弱められているというわけではありません。一人ひとりが神のご支配の下、置かれている状況下で果たすべき責任があります。私たちは管理するすべてのものにキリストの主権が現わされることを求めているのです。私たちは自分たちのしていることを通して神に栄光が帰されるよう、また、私たちに関わるすべての人々が良い人生を経験していくことができるよう励んでいるのです。このような行為は価値あるものです。また、次のような益ももたらされます:神が願っていることを私たちがするなら、私たちは神に栄光を帰すことができ、人々が神がどのようなお方かについてよりよく知ることができるようになります。
これが御国の働きです。ウィラードは書いています。「神のご人格、及びみこころは、御国の原則に従っているものです。これらの原則に従うものすべては、それが自然派生的なものであれ、自発的な選択によるものであれ、神の御国の中で行われているということです。」神の御国を具体的に生きるという意味は、公けの生活においても、プライベートな部分においても、私たちはキリストを主として生きるということです。
ちょっと待ってください!何かちょっとイエスの存在が薄くなってはいないでしょうか。最後の数ページの学びで私たちは福音の幅を広げるために創造と回復を含めました。また、贖いの幅を広くするために創造を加えました。これはイエス・キリストの十字架上の働きを小さくしてしまうものでしょうか。そんなことはありません。実際、福音が広く捉えられ、贖いについて十分に教えられるなら、十字架の持つ意味はより重要になります。
福音:福音を伝える時に創造や回復について広く教えると、違いがもたらされるのはなぜですか。
私たちは福音の概念に創造と回復を含むことによって、神の目的、或いは時や空間を超えて歴史に起こったことについて理解するのに必要なヒントを与えることができます。福音はもはや「別世界」のものではないのです。この世界に存在するものなのです。そこには神の世界が示され、創造が確かなものとされています。それによって神は人類が堕落して以来、すべての被造物を贖い続けておられることについて理解することが可能になります。このことを理解しないなら、私たちの信仰は個人的な経験に限定され、私たちの住むこの世界の創造と原理に関わりがあることを見出すのは難しいでしょう。
贖い:神の人類と創造に対する贖いのわざがどれほど広いものであるかを知ることによって、私たちは人生をどのように形作っていくことができるでしょうか。
贖いは十字架を通してのみ可能です。個人的なものですが、単に個人にとどめられるものではありません。イエスは最初に生まれた被造物で、そこから新しい創造が始まりました。キリストにあって新しい創造はすでに始まったのです。私たちがキリストにつながっているなら、私たちもまた新しい創造に部分的であっても(現実に)加わっているのです。あらゆるものの回復と刷新は、キリストと切り離すことはできません。キリストは死から最初に甦られた方であり、新しく創造されたからです。キリストは宇宙の贖いの始まりに立っています。そして、私たちは最後の日に完成されるのを見るのです。
贖いに対する理解は人間の魂にのみ言及し、救いは単に「罪の赦し」にとどまるものでした。その結果、贖いは個人的な信仰の域を出ませんでした。私は赦されたので、天国に行くことができるという理解にとどまりました。
信仰をもっと聖書的に理解すると、「いのちをいただく」ということになります。救われると新しいいのちを経験するのです。単に、再生されるというのではなく、全く新しい生き方をするということです。私たちがキリストにつながると、現実の世界の中で今までとは違った生き方をするようになるということです。すべての被造物のために、神の使者として生きるということです。神はご自身の造られた創造の原理を諦めることはしませんでした。私たちを堕落した状態から救い出すのではなく、霊的な生活を人類に回復させることによってすべての被造物を救っておられるのです。赦しは救いを可能にしますが、それが最終的な目的ではありません。キリストに結ばれた新しい人生が最終目的です。
福音と贖いの理解は、私たちが以前とは違う新しい生き方をして救いの目的を果たすことによって、私たちの信仰(私たちの信じること)と私たちの働き(私たちのすること)は結ばれていることがわかります。私たちがこの世界をいかに生きていくかにとって、これはとても大切です。贖いを広く捉えていかないと、私たちの信仰は実生活の中で生かされることの少ないものとなってしまいます。私たちが赦しだけに焦点を当てていくと、私たちは天国に入る希望を求めるために生き、他のことに関心を払わなくなってしまいます。けれども、いのちとしてのキリストに焦点を当てるなら、私たちは自分の人生をキリストが生きられたように生きるように求められていることに気づきます。ダラス・ウィラードは「訓練の御霊」の中で次のように説明しています:
このことは、信仰は自分たちのまわりに起こる世界の出来事とは関わりのないものであり、単に自分たちの赦しに確証を与えるために必要な内省的なものとして捉える考え方に真っ向から対抗するものです。けれども、新約聖書は信仰をそのような単に精神的なものと捉えていません。新約聖書が教えている信仰とは、ローマ書10:17に書かれているように、神のみことばによってインパクトが与えられ、生きる力となるものです。そして、私たちの肉体、社会的、政治的な環境をも含むあらゆる分野に決定的な影響を与えるものです。
私たちがこのように福音や贖いを捉えていくなら、キリストがほめたたえられることになります。
・ 福音を広く捉えていくと、神はご自身のわざを止められないことに気づきます。神は被造物を放棄することはなく、この世界とそこに住む人々を贖うように、最初から計画しておられました。そのためにキリストのいのちと死はどうしても必要なことだったのです。
・ キリストの勝利は完全なものとされています。けれども、贖いを部分的に捉えるなら(個人の魂のみが贖われるという捉え方)あなたはまだ敗北していて、完全に勝利していないということに直面しなければなりません。なぜなら、キリストの死は人類の堕落によって失われたものを回復するには十分でないことになってしまうからです。
・ 贖いが十分理解されると、個人的な救いはキリストのいのちをいただくことだとわかります。自分たちの生きる世界に信仰を関わらせていきます。キリストのいのちが十字架の死によって曇らされてしまうと、キリストがこの地上に来られたことについて部分的にしか見ることができなくなってしまいます。赦されたことの重要性について認めたとしても、そこからきよい生き方へと導くいのちから切り離されてしまいます。
・ キリストのいのちが十字架の死によって曇らされてしまうと、私たちはキリストが与えてくださったいのちについて確信が持てなくなり、いのちの大切さについて正しく理解できなくなってしまいます。ウィラードは私たちの救いはキリストの尊い血による犠牲によってもたらされたにもかかわらず、神の贖いのわざとしての十字架が間違って伝えられると、キリストのいのちや教えは贖いのわざにとって本質的なものではなく、単に十字架を装飾するものに過ぎなくなってしまうと警告しています。
贖いについての要約ポイント
― 神の贖いの計画は徐々に明らかにされてきた。
― 福音と贖いについての理解が拡大されると、十字架の持つ意味も重要さを増す。
― 神は天と地にあるすべてのものを贖う計画を持っておられる。
― 私たちがまわりの人々、組織、文化を神のご支配の中に戻そうとすることによって、
私たちは贖いのわざに関わっているのである。
(Campus Crusade for Christ, Leaders led movement 教材より)
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救われたということは単に天国行きの切符を手に入れて、汽車が来るまで待っているということではありません。信仰は私達がかかわっているすべてに関係があるのです。神の代理者として、神の同労者として、この地上で果たすべき責任があるのです。
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