2013年8月20日火曜日

神の言葉によって生きる



 無教会主義の高橋三郎氏が1966年、東京女子大学で「個人の解放と民族の解放」という講演を行いました。その中で「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つの言で生きるものである。」(マタイ4:4)について興味深い考察があったので、要約してお分ちしたいと思います。

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ローマ帝国の皇帝フリートリッヒ1世が言語学上の実験を行いました。人間が親や周囲の人から何も教えられないで、みずから言葉を語り出すだろうか、もし言語を語るとすれば、その原始語はどういう物であるだろうかを確かめるためるためだったそうです。それで、生まれたばかりの赤ちゃんを島のある地区に隔離し、子供たちの世話をする者も子供達の前で決して言葉を語ってはならないと命じました。ところがこの実験は失敗に終わったのです。というのも子供達が皆死んでしまったからです。この悲惨な結果が言葉を語りかけて貰えないことによって、子供たちは生きてゆけなかったという厳粛な事実が明らかになったのです。同じような事が第二次世界大戦の時にも起りました。ドイツに戦争孤児が沢山来て、孤児院に収容されていましたが、保母の数が足りなくて言葉をかけてやることができませんでした。その結果、そこの子供達は4歳になるまで人間の言葉を全然話す事が出来なかった、ということです。人間は外から語りかけられなければ、みずから言葉を語り出すことができないとう点で、全く同じ結果となりました。

赤ちゃんが分かりもしないのに、母親は一生懸命に赤ちゃんに語りかけますね。これには大きな意味があるのです。その音声と表情を見て、その語りかけの中にこもっている愛を理解するからです。この積み重ねによって、やがて次第にいわゆる本当の理解が与えられるようになる。つまり言葉とは愛を媒介するものなのです。従って、言葉の無い世界とは愛の無い世界。愛の失われている世界。現代人の言う孤独な世界。満員電車で押し合いへし合いしていても言葉が無いとこでは人は孤独なのです。逆に遠く離れていても、言葉さえ奪われなければ、人間は孤独ではない。(補足解説:メールやスカイプをしている限り外国にいる友人とも友情をキープできる。)こうして見ると言葉とは人間を人間であらしめるために無くてはならないものであることが、よく分かります。

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以上、講演会の一部の要約です。この後、高橋先生はいわゆる「鍵っ子」親不在の家庭で子供が不良化してゆくことを憂慮しつつ、言葉を無視し、言葉を与えようとしない人々の社会がいかに腐敗するかということを指摘しています。先日ラジオのアナウンサーが「自分は独身でマンション暮らしで、仕事の無い日は全く人と話をしないことがある。」と言っていたのが印象的です。今日、プライバシーを好むあまり、マンションの一室という独房に入り、人との会話の機会を失っています。高橋先生の指摘の通り、人間らしく生きるには言葉が必要であり言葉は愛を媒介するものです。そして、赤ちゃんは外部から言葉をかけられる事で、自分の存在を確認し、愛されていることを確認し、やがて自分も言葉を話し始める。このコンテキストで「はじめに言葉があった」というヨハネ1:1は興味深いですね。そして、ことばは人となって私達の間に住まわれたのです。(ヨハネ1:14)イエス様は言葉そのものなのです。

そして、本道に戻ると、「人は神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」とう真理です。人間は神に語りかけられることで、自分の存在を確認し、愛されていることを確認するのです。そして、生きた者となるのです。だから毎日デボーションの中で御言葉を開きます。神の言葉を聞きます。それによって今日生かされるからです。この外部からの言葉の語りかけ無しに、パンがあっても今日、人間として生きる事ができないのです。神は沈黙の神ではなく、語りかける方です。キリスト教は「聖書」という神の言葉により成り立っているものです。はじめに神が語ったのです。人はそれに応答して自分の罪、赦し、存在、他者との関わり方を知ってゆくのです。そうしてあるべき人間になってゆくのです。それを霊的成長といってもいいでしょう。また、神の語りかけを受け取るだけでなく、それをお互いの間で分かち合うこと(言葉として語り合うこと)も重要です。自分が神から受けたことを自分の言葉で他者に語ることは力となります。神の言葉が生きている証拠ですね。

言葉は愛の媒介だけでなく、そもそも言葉が無ければ考えられないのです。だから動物が抽象概念を把握することは難しいでしょう。言葉は人を生かしもし、傷つけもします。この大事な言葉の扱いについてヤコブ書は長々書いています。また、言葉は人を鼓舞し勇気つけます。最後にもう一度、高橋先生の言葉を引用して終わります。


「一人一人の持つ力は、社会の巨大な力に較べれば、とるに足らない小さなものだという見方もたしかにありましょうが、その反面また、真実な1つの魂が神の真実を慕い求めて生涯を歩み通すとき、そのただ一人の存在がどれほど大きな祝福を後に残してゆくものであるかということも、私どもは決して見逃してはなりません。」
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東京を神の街に・・・
東京メトロコミュニティ

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栗原

2013年8月7日水曜日

「語り合う」エクレシア




参院選前日、明治学院大学の教室を会場に初のキリスト新聞、クリスチャン新聞のコラボ企画で「この国はどこにゆくのか?」というシンポジウムが行われた。パネラーは都立高校教師や明治学院教師や牧師。特に、都立高校の現場からの危機的リポートには驚愕した。東京では、「国旗、国歌」に関して、教育委員会と都知事、公立学校が繋がっていて、締め付けを厳しくしつつある。校長の職務命令に従わないものは処罰される。すでに都庁にある教育委員会から各教員のパソコンの中身が閲覧できるようになっているという。パネラーの話を聞いていて学校という教育の現場で、以下のような危険な兆候が見えてきていることを知らされた。

● 正しい歴史を教えない。居直り史観
● 対話がない(一方通行)
   学校の中央集権化。幹部による「企画調整会議」で物事が決められ、職員
会議は単なる報告機関となり、トップダウンのシステムが出来上がっている。これにより、教員が上の顔色を伺い、黙って上に従うようになり、いい生徒とは従順で問題意識を持たず従う子のこととなる。つまり思考停止
   歴史認識が適切でないとして、教科書検定選定に教育委員会が口を挟んできている。(全国同じ教科書を使う方向性が出て来ている)
● 学校内の規律によって画一化を図る
● 一部のエリートが凡人を支配する構図

発題者の一人、都立高校教員の岡田氏は「東京都では学校を利用した臣民つくりの環境が整ったと言える。」と指摘した。ゆとり教育や個性を育てる教育とは名ばかりで、実際は画一化の方向にグンと向いて来ているという。有無を言わさぬ一方通行の通達。従わない奴は非国民。ちょっとでも違う者はいじめに会う。あの時代が頭をよぎる。自民党の改憲案では憲法の本質が「国民の権利、自由を確保すること」から「国家の形成、成長を確保すること」に変容している。しかも日本古来の伝統「和」を大切にという一見好ましく思える内容も、マジョリティの「和」を乱す少数派のクリスチャンは好ましからざる存在となってしまうだろう。すでに起立して「君が代」を唱わない先生は「和」を乱す好ましからざる存在となっている。

しかし、教会でも画一化の危険がないだろうか?パネラーの一人は、教会でも「対話」がないという指摘をしていた。違う意見の人は即レッテルを貼り、仲間はずれにする傾向はないだろうか?80年代のいわゆるカリスマ問題では、「反対側の怖いものにはレッテルを貼って、近づかない」という傾向がなかったか?

現憲法で保障されている人権や表現の自由、思想の自由が守られなければならない。しかし、そちらを推進しているいわゆるリベラル勢力は1つになれず低迷している。そんな中で、教会こそが、一人一人が大事にされ、表現の自由が守られる場所であってほしい。先日、浜離宮小ホールを会場に行われたアート&ワーシップカンファレンス。与えられた賜物を持ってクリスチャンが音楽、ダンス、映画、生け花、漫才などを通して思い思いに主を賛美し、主をほめたたえた。こういうカンファレンスが日本でも、開かれた事に希望を感じた。日本語の賛美には英語のプレイズには無い「美」という言葉が含まれている。神はパワフルであるだけでなく、「美しい」のだ。画一的社会(共産国家でも軍事国家でも)には美が無い。多様性がない。文化の極彩色が無い。アートはその社会の人間度を示すバロメーターでもある。


顔と顔を会わせて、「お互い」に分かち合い、祈り合える関係。それがあってこそのエクレシア(教会)だろう。「対話」があり、賜物が放たれる場としての教会。自主的に自発的に集い、捧げ、ミニストリーをスタートする。賜物やビジョンや使命によって集められた人々がそれぞれのミニストリーを展開すればいい。そういう多種多様なミニストリー(すべての人に届くには多種多様な働きが必要)をエクレシアが励まし、エンパワーし、祈って支えればいい。個人的な関係を深めるには大きくてはできない。エクレシアは小さくシンプルに、ミニストリーは多様に拡大すればいい。体はそれぞれの器官が有機的につながり、共に成長している。同じようにキリストの体もそのようであるといい。

また、キングダムマインドを持って社会問題にかかわる学生や若者が育つ必要がある。ワーシップの中での高揚だけでは自己満足となってしまう。この世の人達とシングルイシュー(いじめ、ホームレス、反原発などなど)で連帯して声を上げてゆく必要がある。それが御国拡大のためのミニストリーとなってゆくだろう。ただし、過去には国民的反原水爆運動が政治利用(社会党と共産党の主導権争い)された歴史も忘れてはならない。無批判な政党への同調には注意が必要だ。政党は結局、利益集団だからだ。クリスチャンとしての主体性を失ってはならない。また、国が孤立せず、排外主義にならず、他民族蔑視にならないよう、海外との連帯も大事だ。そこはクリスチャンの出番だろう。3:11のボランティア活動でそのことが証された。クラッシュジャパンを通してだけでも83カ国からの支援金やボランティアが東北のために捧げられた。

貝のように黙らされる国の抑圧が起らない様祈ります。この国の希望はエクレシアが広がってゆくことにあります。キリストにある自由と命を、お互いの言葉を、そして福音を「語り合い続ける」エクレシアが広がってゆくことを切に祈ります。
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東京を神の街に・・・Tokyo Metro Community(TMC)
栗原