2013年9月17日火曜日

「二度と繰り返さないために」



 以前このブログで公立学校での国歌起立斉唱の強制問題を取り上げました。これは現在進行形で行われています。しかし、国を愛することを「強制」できるのでしょうか?内村鑑三は「基督信徒のなぐさめ」の中でこう言っています。

 「彼の体の成長するがごとく、愛国心も自然に発達すべきものなり、義務と
  して愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり。」

「国のために神を愛し、神のために国を愛する」と言った「愛国者」内村が非国民扱いされた無念はいかばかりであったでしょうか。日本を愛するからこそ、「強制的」には国歌を唱えないということもあるのです。日本憲法を尊重するからこそ、「君が代」の歌詞を唱えないということもあるのです。「強制」する愛の対象、その「国」とは何でしょう?一般国民ではなく、実態は、「国体」であり、国の意思決定機関にかかわる「一部の人々」を指しているのではないでしょうか?戦争で死ぬのは一般市民です。「天皇陛下のため、お国のため」として神風で散った命を思うと何とも言えません。一部の人の思想や自己陶酔のために命を奪われては、たまったもんではありません。最近、古い白黒映画の「ビルマの竪琴」を見て、人知れずジャングルで飢えや病気で息絶えた名もなき兵士のことを思い、ため息が出ました。彼らには家族もあり、普通に暮らしていたら人生があったのです。戦場での無謀な決断に、ただ従い尊い命を失った市民兵士たち。本当に意味ある戦いだったのでしょうか?

内村鑑三は日清戦争のときは戦争賛同派でしたが、名目上のきれいごととは裏腹に侵略の見え隠れする日本の姿に失望し、その後、反戦に転向します。彼の書の中で「人を殺す戦争していて、豊になれるはずはない。」と書いています。一部の人々が富むかもしれないが、双方の国の国民にとっていい事はないのです。息子を戦場で失った母の涙はどこの国だって同じなのです。どう言い訳しても結局、戦争は「人殺し」なのですから。南京で平民が虐殺され、強姦されていた時、日本では「南京攻略」祝賀ムードで祝杯をあげている。やっぱり、おかしくないですか?

今、憲法改正議論が高まっています。はじめは私も他の国のように「国防軍」をもって自衛する体制が望ましいと思いました。そのため「侵略戦争はしないが、自衛のための軍を持つ」と明記したほうがいいとも思っていました。しかし、太平洋戦争の本を数冊読むうちに、あることに気づいたのです。

満州事変から太平洋戦争開戦に至まで、天皇をはじめ、内閣はなるべく戦争さけようと外交努力を指向します。しかし、結局、軍に押され、ひきずられるように戦争に突入したのです。一旦「武力」という力を手にした軍は5:15事件、2:26事件のように「邪魔者」を消せる存在になったのです。皆、軍を恐れ、当時の首相の近衛文磨さえも軍にうかがいをたてなければ事を動かせない存在になってしまったのです。指導部の中にもアメリカと戦争して勝てないと分かっていた人達はいたのです。連合艦隊総司令官の山本五十六は、アメリカを相手に1年以上持たないことを知っていました。しかし、誰も「NO」と言えない中で、山本七平流に言えば「空気」が開戦を決めたのです。そういう「空気」が満ちている時、シビリアンコントロールなど効かないのです。

1923年関東大震災、1929年世界大恐慌。日本は経済的に厳しくなります。同時期、ドイツではそんな中ヒットラーが現れ、結局、国民はらちがあかない政治家より、独裁者を支持するようになったのです。日本でも不拡大より拡大派(日本の領土を拡げる)の軍を国民もメディアも支持するようになっていきました。日本軍が南京にようやく到達した頃、日本ではすでに「南京攻略」と新聞に字が踊っていたといいます。つまり、戦争中はメディアも国民の感覚もあてにならなくなるのです。中国とは戦争にならないよう外交努力をしていた近衛首相も途中で内閣を放り出してしまう。そして軍のフライング。開戦。つまり歴史的に見て戦争直前の高揚した空気の中で、また戦時中の大嘘「大本営発表」の中で、シビリアンコントロールなど効かなかったのです。軍が軍として「力」と「統制権」を持つ。経済的に日本が危機状態になる。そうすると軍がフライングして先走ることがあり得るのです。財政赤字1000兆円の日本の未来にそういう事が無いとは言い切れません。

未だにある人々は、先の戦争は「日本の生き残りをかけた自衛であり、侵略戦争ではない」と言います。さてここで問題なのは「自衛」という言葉もいろいろ解釈できてしまう点です。「自衛」の名目で、また欧米からの東アジア解放という「大東亜共栄圏」という名目で、結局は侵略戦争をしてしまったのです。「自衛」という言葉も戦時には曲げられ、違った方向に行ってしまう事を歴史が語っています。「自衛」「シビリアンコントロール」を憲法に盛り込んでおけばOKという簡単な話ではないと思います。

55代内閣総理大臣の石橋湛山は武力放棄の「平和憲法は人類最高の宣言」と肯定しました。そうしてファシズム戦争への不屈の抵抗を見せたのです。石橋が通った山梨県尋常中学校の校長、大島正健は札幌農学校一期卒業生の一人で内村や新渡戸の1年先輩にあたり、クラーク博士から直接指導を受けていました。石橋は敬虔なキリスト教徒である大島から大きな影響を受けていたのです。

集団的自衛権は持っているが、行使しないとう歴代の内閣の解釈を踏んでいれば、戦争は「できない」のです。正式に「軍隊」を名乗り、軍備を整え、アメリカとの集団的自衛権を公に表明するほうがターゲットになりやすいし、より周辺国は緊張を高めるのではないでしょうか?

天皇を元首とする「八紘一宇」(世界の隅々まで1つの家族)、神の国、大東亜共栄圏、お国のために死ぬ。英霊は靖国に葬られ供養される。これらはワンセットで、これが嵩じて「一億火の玉、一億玉砕」にまで行ってしまったのです。はっきり言ってこれは聖書の「神の国」のパクリなのです。キリストを中心とする世界家族、主にあって世界が栄える。主にあって死ぬもの(殉教)は栄光なり。ただこちらは宇宙の主の話で本物なので、これでいいのですが、一人の人間である天皇を中心に据えると偶像礼拝となるのです。ただの人間では困るので、「現人神」にし「神聖」な存在として奉ったのです。間違った献身の姿なのです。人は意味付けがなければ死ねないし、献身できないのです。そういう装置と体制で意味付けされ「玉砕」したのです。神を神としないことの悲劇なのです。

内村は2つのJと言いました。JapanJesus. クリスチャンになるとは日本を捨てることではない。内村も日本人として、クリスチャンであることを悩みつつ模索し続けたのです。日本を「愛国」しながら、「キリストに従う」ことを模索し続けたのです。「代表的日本人」を読むと昔、かなり倫理的な聖書的な日本人がいたことが分かります。こういう人々がいたことを日本人として誇りに思います。この人たちはどこから知恵を得たのかと驚きます。内村自身も、西洋の物質主義的なキリスト教を批判しつつ、一方では、こうした日本人の素晴らしさを英語で彼は世界に発信したのです。新渡戸も英語で「武士道」を書いて発信した。こうした世界への発信力が問われていると思うのです。我々は唯一の被爆国として強烈な平和メッセージを放てる存在なのです。オリンピック招致ではかなりインパクトのあるプレゼンができましたね。コミュニケーションすること、お互いに理解し合う事こそ戦争を避ける道なのだと思います。「あの国」と戦争というのと、自分の友達の「誰々さんが住んでいる、あの国」と戦争というのでは、全く意味が違ってくるでしょう。世界に愛される日本であり続けて欲しい。

戦争は突然起きるのではないのです。お互いを理解する地道な努力が戦争回避への道備えをとなるのです。逆に対話のない、一方的な通達(今、公立学校で起っていること)は戦争への道なのです。一人一人が大事にされ、対話のできる文化を育て続けましょう。すぐ「非国民」呼ばわりするのではなく、意見の違う人も、異国人も神の姿に作られた「人間」として対せるように。戦争の「装置」として「民族純化排外主義」があります。人や国を対立させる悪霊の支配する「場」ではなく、聖霊の満ちた「場」を拡げましょう。意見の言えない怖い「空気」になる前に。サイレントマジョリティは独裁者を黙認することになってしまいます。声をあげることは、やっぱり必要なんだと思います。

二度と過ちを繰り返さないために・・・

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東京を神の街に
Tokyo Metro Community
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年9月3日火曜日

この国の繁栄を祈る



 内村鑑三の「不敬事件」が教科書に載っているという。政治がらみで、歴史に名を残すクリスチャンがいた。クリスチャンは政治とは関係ないのだろうか?そういう話を教会に持ち込むべきではないのだろうか?

まず旧約聖書を見てみると、旧約の預言者たちの行動は激しい政治性を伴っていたと言えよう。外国との軍事同盟に関してや、国の指導者への批判、国の進むべき方向に関して無関係だった預言者はいないといっても過言ではない。出エジプトにしてもバビロン捕囚にしても、単なる霊的解放の話ではなく、民族解放の物語そのものとなっている。神は肉体をもって人をつくり、エデンの園を治めるよう命じた。それ以来、旧約は一貫して「この地上」主義である。「あの世」には関心が無いのかと思うほど、言及が少ない。現実の歴史に神がどう介入したかがフォーカスされている。

ところが不思議なことに、新約聖書の時代に入ると、このような政治的発言と行動は一挙に姿を消したかのように見える。そして、またこの現象を誤解して、政治について語り、あるいはその中に没頭するのは福音的でないとまで言う人が現れるに至った。

まず、注目すべきは、新約クリスチャンの生活が終末的生活態度だったという点。今にもキリストの再臨が実現するかと思われていた。モンタヌス主義のような仕事もしないで禁欲生活をし、主を待ち望むといった過激な異端も実際現れた。それに対して、パウロは

「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(1テサ4:11)

「働きたくないものはパンを食べるな。」(2テサ3:10)

と落ち着いた生活を強く勧めている。仕事をするとは、この世に適切に関わることでもある。終末が近い、だから仕事そっちのけで伝道に励むとは一見熱心で良さそうだが、伝道熱心なパウロがこう言っていることは興味深い。さらに極めつけはローマの13書1−7で、「人みな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」ここでパウロは真っ向からローマの政治権力との関わりまで言及している。これはイエスの「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」に通じている。地上の権威も神によって立てられているので、税金を払う事を始め、地上の権威の下で社会的責任を果たしなさいということだ。神の民だからといってスピード違反を無視できない。警察の権威の下で、そのルールに従って裁かれ罰金を払わなければならない。しかし、同時にバビロンで信仰深い3人がネブカデネザルの偶像に拝礼しなかったように、内村鑑三が天皇に拝礼せず神への服従を守り抜いたように、単なる保守、既存の権威への盲目的服従ではない。またすべての権威をひっくり返せという革命でもない。見てきたように新約でも政治性が無視されている訳ではない。

元国際キリスト教大学講師の高橋三郎の言葉をかりれば

「聖書的保守主義も、聖書的革新的精神も、ひとしく神の主権に対する服従という1つの根から出た結果であることが明らかになった。長いキリスト教史を貫く戦いの跡を見ても、そこに一貫して流れているものは神への主権の確立、およびそれに対する信仰的服従という唯一のことであったことを、われわれは見いだすのである。・・ここではいわゆるキリスト者だけの世界に安住しようとすることは根本的に否定されている。ローマの国家権力も、バビロンの支配も、あるいは同業者仲間も、すべて神の主権の下に包括されている。そこには1つも例外はない。ここに、最も深い連帯の根拠があるのである。はじめから敵・味方のレッテルを貼ることなく、すべての人を友として受け入れ、愛してゆくべき根拠がここにある。」(「福音信仰の政治性」高橋三郎 教文館)

クリスチャンは世にあって世のものでないとされている。優先的アイデンティティは神の国の一員であるが、この世で生活していることも現実なのだ。切り離す事はできない。なんでもかんでも反対では孤立してこの世に何の影響も与えられない。捕囚時代、神ご自身がバビロンで王に仕え、落ち着いて生活し、その国の繁栄を祈れと言われた意義は大きい。(エレ29:4−7)神への個人的信仰の違いはあっても、この地上でのコモングラウンド(共通項)は思っているより多いのではないだろうか? 先日はBrave Actionという佃をベースに東北支援を推進するNPOの社団法人設立パーティに招待され参加してきた。リーダーはノンクリスチャンのご婦人で、メンバーも近隣に住むノンクリスチャン。リーダーのビジョンと熱心さに打たれて集まって来た。リーダーと友達のクリスチャンのご婦人が理事の一人として参加している。こうして市民が立ち上がって東北支援を通してコミュニティを形成している。すばらしいと思った。英語では ”How can we make this world a better place. “ という表現がある。この地上が1センチでも天国に近づくためにノンクリスチャンとも一緒に働ける部分は大きいのでは?

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