「彼の体の成長するがごとく、愛国心も自然に発達すべきものなり、義務と
して愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり。」
「国のために神を愛し、神のために国を愛する」と言った「愛国者」内村が非国民扱いされた無念はいかばかりであったでしょうか。日本を愛するからこそ、「強制的」には国歌を唱えないということもあるのです。日本憲法を尊重するからこそ、「君が代」の歌詞を唱えないということもあるのです。「強制」する愛の対象、その「国」とは何でしょう?一般国民ではなく、実態は、「国体」であり、国の意思決定機関にかかわる「一部の人々」を指しているのではないでしょうか?戦争で死ぬのは一般市民です。「天皇陛下のため、お国のため」として神風で散った命を思うと何とも言えません。一部の人の思想や自己陶酔のために命を奪われては、たまったもんではありません。最近、古い白黒映画の「ビルマの竪琴」を見て、人知れずジャングルで飢えや病気で息絶えた名もなき兵士のことを思い、ため息が出ました。彼らには家族もあり、普通に暮らしていたら人生があったのです。戦場での無謀な決断に、ただ従い尊い命を失った市民兵士たち。本当に意味ある戦いだったのでしょうか?
内村鑑三は日清戦争のときは戦争賛同派でしたが、名目上のきれいごととは裏腹に侵略の見え隠れする日本の姿に失望し、その後、反戦に転向します。彼の書の中で「人を殺す戦争していて、豊になれるはずはない。」と書いています。一部の人々が富むかもしれないが、双方の国の国民にとっていい事はないのです。息子を戦場で失った母の涙はどこの国だって同じなのです。どう言い訳しても結局、戦争は「人殺し」なのですから。南京で平民が虐殺され、強姦されていた時、日本では「南京攻略」祝賀ムードで祝杯をあげている。やっぱり、おかしくないですか?
今、憲法改正議論が高まっています。はじめは私も他の国のように「国防軍」をもって自衛する体制が望ましいと思いました。そのため「侵略戦争はしないが、自衛のための軍を持つ」と明記したほうがいいとも思っていました。しかし、太平洋戦争の本を数冊読むうちに、あることに気づいたのです。
満州事変から太平洋戦争開戦に至まで、天皇をはじめ、内閣はなるべく戦争さけようと外交努力を指向します。しかし、結局、軍に押され、ひきずられるように戦争に突入したのです。一旦「武力」という力を手にした軍は5:15事件、2:26事件のように「邪魔者」を消せる存在になったのです。皆、軍を恐れ、当時の首相の近衛文磨さえも軍にうかがいをたてなければ事を動かせない存在になってしまったのです。指導部の中にもアメリカと戦争して勝てないと分かっていた人達はいたのです。連合艦隊総司令官の山本五十六は、アメリカを相手に1年以上持たないことを知っていました。しかし、誰も「NO」と言えない中で、山本七平流に言えば「空気」が開戦を決めたのです。そういう「空気」が満ちている時、シビリアンコントロールなど効かないのです。
1923年関東大震災、1929年世界大恐慌。日本は経済的に厳しくなります。同時期、ドイツではそんな中ヒットラーが現れ、結局、国民はらちがあかない政治家より、独裁者を支持するようになったのです。日本でも不拡大より拡大派(日本の領土を拡げる)の軍を国民もメディアも支持するようになっていきました。日本軍が南京にようやく到達した頃、日本ではすでに「南京攻略」と新聞に字が踊っていたといいます。つまり、戦争中はメディアも国民の感覚もあてにならなくなるのです。中国とは戦争にならないよう外交努力をしていた近衛首相も途中で内閣を放り出してしまう。そして軍のフライング。開戦。つまり歴史的に見て戦争直前の高揚した空気の中で、また戦時中の大嘘「大本営発表」の中で、シビリアンコントロールなど効かなかったのです。軍が軍として「力」と「統制権」を持つ。経済的に日本が危機状態になる。そうすると軍がフライングして先走ることがあり得るのです。財政赤字1000兆円の日本の未来にそういう事が無いとは言い切れません。
未だにある人々は、先の戦争は「日本の生き残りをかけた自衛であり、侵略戦争ではない」と言います。さてここで問題なのは「自衛」という言葉もいろいろ解釈できてしまう点です。「自衛」の名目で、また欧米からの東アジア解放という「大東亜共栄圏」という名目で、結局は侵略戦争をしてしまったのです。「自衛」という言葉も戦時には曲げられ、違った方向に行ってしまう事を歴史が語っています。「自衛」「シビリアンコントロール」を憲法に盛り込んでおけばOKという簡単な話ではないと思います。
55代内閣総理大臣の石橋湛山は武力放棄の「平和憲法は人類最高の宣言」と肯定しました。そうしてファシズム戦争への不屈の抵抗を見せたのです。石橋が通った山梨県尋常中学校の校長、大島正健は札幌農学校一期卒業生の一人で内村や新渡戸の1年先輩にあたり、クラーク博士から直接指導を受けていました。石橋は敬虔なキリスト教徒である大島から大きな影響を受けていたのです。
集団的自衛権は持っているが、行使しないとう歴代の内閣の解釈を踏んでいれば、戦争は「できない」のです。正式に「軍隊」を名乗り、軍備を整え、アメリカとの集団的自衛権を公に表明するほうがターゲットになりやすいし、より周辺国は緊張を高めるのではないでしょうか?
天皇を元首とする「八紘一宇」(世界の隅々まで1つの家族)、神の国、大東亜共栄圏、お国のために死ぬ。英霊は靖国に葬られ供養される。これらはワンセットで、これが嵩じて「一億火の玉、一億玉砕」にまで行ってしまったのです。はっきり言ってこれは聖書の「神の国」のパクリなのです。キリストを中心とする世界家族、主にあって世界が栄える。主にあって死ぬもの(殉教)は栄光なり。ただこちらは宇宙の主の話で本物なので、これでいいのですが、一人の人間である天皇を中心に据えると偶像礼拝となるのです。ただの人間では困るので、「現人神」にし「神聖」な存在として奉ったのです。間違った献身の姿なのです。人は意味付けがなければ死ねないし、献身できないのです。そういう装置と体制で意味付けされ「玉砕」したのです。神を神としないことの悲劇なのです。
内村は2つのJと言いました。JapanとJesus. クリスチャンになるとは日本を捨てることではない。内村も日本人として、クリスチャンであることを悩みつつ模索し続けたのです。日本を「愛国」しながら、「キリストに従う」ことを模索し続けたのです。「代表的日本人」を読むと昔、かなり倫理的な聖書的な日本人がいたことが分かります。こういう人々がいたことを日本人として誇りに思います。この人たちはどこから知恵を得たのかと驚きます。内村自身も、西洋の物質主義的なキリスト教を批判しつつ、一方では、こうした日本人の素晴らしさを英語で彼は世界に発信したのです。新渡戸も英語で「武士道」を書いて発信した。こうした世界への発信力が問われていると思うのです。我々は唯一の被爆国として強烈な平和メッセージを放てる存在なのです。オリンピック招致ではかなりインパクトのあるプレゼンができましたね。コミュニケーションすること、お互いに理解し合う事こそ戦争を避ける道なのだと思います。「あの国」と戦争というのと、自分の友達の「誰々さんが住んでいる、あの国」と戦争というのでは、全く意味が違ってくるでしょう。世界に愛される日本であり続けて欲しい。
戦争は突然起きるのではないのです。お互いを理解する地道な努力が戦争回避への道備えをとなるのです。逆に対話のない、一方的な通達(今、公立学校で起っていること)は戦争への道なのです。一人一人が大事にされ、対話のできる文化を育て続けましょう。すぐ「非国民」呼ばわりするのではなく、意見の違う人も、異国人も神の姿に作られた「人間」として対せるように。戦争の「装置」として「民族純化—排外主義」があります。人や国を対立させる悪霊の支配する「場」ではなく、聖霊の満ちた「場」を拡げましょう。意見の言えない怖い「空気」になる前に。サイレントマジョリティは独裁者を黙認することになってしまいます。声をあげることは、やっぱり必要なんだと思います。
二度と過ちを繰り返さないために・・・
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東京を神の街に
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