宗教とはidentity (自分が誰であるかを確認)と commitment (神とされるものに献身する)を与えるものとも言える。神を離れると人は永遠に自分探しを続け、神以外のものに献身する。Religionの語源は「再び結び合わせる」という意味。
あなたは何にチャンネルを合わせてますか?自分のアイデンティティと献身する先は何ですか?
神だけが絶対なので、あとは相対的なもの。お金、仕事、主義主張、権威、国、教会の組織、神学さえも時代によって変化している。ところがそういうものが神の座に座ってしまう。
聖書は「愚か者は心の中で神はいない」と言っている。その思想に自分が滅ぼされるのです。神を否定すると結局、自分を否定し、命を否定し、愛を否定し、虚無的になり鬱病になり自殺に至るのです。命の根源を否定して活き活き生きられない。未だかつて、無神論を本気で生きている人を見た事が無い。それは不可能だからだ。
三位一体。3つで1つ。理解できない? それでいい。人間が理解でき、説明しきれる神なら神じゃないでしょう。科学の仮設は常にひっくり返っている。実は永遠とは単なる時間の延長のことではない。まったく別次元の世界のこと。時空に縛られる人間には永遠の神はわからなくて当然なのだ。神自ら明かした部分だけ人間には知らされている。
人間はおもしろい。神はいないと言っていながら、いきなり「命は大事」「愛は大事」と言い出す。本気で進化論の適者生存を信じているなら、道徳なんて無い。「生き残れ!」が唯一のメッセージとなるのです。進化論を教えてながら「いじめはいけない」なんて学校は矛盾している。
何の根拠もなく、死んだおばあちゃんは「天国」に行ったと言い出す。それなら何故、死んでからあわてて高い戒名を買い、お経を上げるのか。やっぱり不安なんじゃない?。自分がそう思うだけでは不安が残る。神が保障してくださる以外、確実な方法は無い。
神は自分にとって一番大切なモノと定義すれば、すべての人は神を信じているし、その神に自分をささげている。ある人にとってはお金、仕事、恋愛の対象民族、国体などなど。
しかし、誠の神を神としないと悲劇が起る。なぜなら神以外のものを神にしてしまうから。人が神となると悲劇が起る。神が人となると福音となる。
宗教は下から上へ、福音は上から下へ。律法は背中に重荷を負わせ、福音は解放する。御霊のあるところには自由がある。戒律ではどこまでやったら救われるのか分からない、誰がそれを判断するのか分からない。
「人生の目的などわからないのだ」と有名な作家は言うけれど、そうであれば人生に力が入らない。ゴールの無いマラソンに力が入らないのと同じだ。
もう一度言おう。神がいるからあなたがいる。あなたは神に作られた傑作。その神はあなたを愛しており、だからあなたの人生には意味があり使命がある。これが福音だ。
イエスに出会って、自分が誰か(真のアイデンティティ)、そして何に自分を捧げたらいいのか(真のコミットメント)が分かってくる。
人間「を」つくった神か、人間「が」つくった神しかない。人間「が」つくった神は人間以下なので頼るに値しない。
どの神でも、心から信じて祈ればいいんじゃない?と言う人。それでは、電話帳を適当に開いて、指差した、その番号の人に電話して、悩みを相談しますか?誰でもいい訳じゃない。信頼できない人には話せないし、付いて行けない。アカの他人と結婚できますか?同じように、信頼できない神には祈れないし、付いて行けない。信頼できない「神」にすべてをささげることは危険なのだ。だから、その意味で「宗教は怖い」というのは正しい。
ちょっと想像して頂きたい。もしその絶対的な創造主が邪悪な存在だったとしたら?それならこの世界には希望がない。永遠に私達は暴君の奴隷になるしかない。しかし、聖書によると、この創造主は絶対的主権を持ちつつも、「聖」であり、「義」であり、「愛」である。そうHOLY, RIGHTEOUS, LOVING。何と言う安心だろう。考えてみてほしい、神が汚れて不正を行い、無慈悲な社長だったら、そんな会社にいる社員は幸せだろうか?しかし、「お前のためには、命も捨てる」と言ってくれる社長なら?
聖書の中で一番有名なヨハネ3章16節には、あなたのために愛する息子を犠牲にしてもいいという神の愛が描かれている。
ある人達は言うだろう。十字架につけられた犯罪人がどうして救い主か?アンパンマンじゃないけれど、本当のヒーローも本当は、そんなにかっこよくない。アンパンマンは他人の飢えを満たすため、自分の顔を食べさせる。イエスは十字架で自分の肉を裂き、血を流した。私達のため。私達の醜い罪をあがなうために身代わりなるイエスは顔も識別できないほど醜く歪められた。
私達が生きるため、イエスは死んだ。私達の傷が癒されるため、イエスはムチうたれ、槍で刺され傷だらけになった。十字架にかかるべきは「私」だったのだ。
イエスは、ご自分の世界に来たのに、世は彼を追い出した。人々は、街の外でイエスを十字架にかけた。街中でクリスマスを祝っても、人々はイエスを心から閉め出している。何と言う皮肉だろう。
当時の高慢な指導者達は叫んだ。「オレたちは正しい、体制を壊すな、救い主など今いらない。」そして民衆を煽動して叫ばせた。「十字架につけろ、十字架につけろ」
悲しいかな、自分を守るため責任者は責任のがれをする。そうやって正義は踏みにじられてゆく。いつの時代も変わらない。「この男をどうして欲しいのか?」「この人の血について、私には責任がない、自分たちで始末するがよい」十字架刑の決定の責任を持つローマ総督ピラトは群衆の声に負け、不正な判決を下した。「真理とは何ぞや?」と求道一歩手前だったピラトは自ら機会を逃した。
イエスは私達の罪を負って十字架で死に、復活して勝利を宣言した。死んで終わりではない。死をも飲み込む永遠の命。それが、イエスを信じる者に与えられる神からのギフト。それがクリスマスの神からの私達への本物のギフト。
以前流行った歌の題じゃないけれど「最後に愛は勝つ」が正しい。やがて主が再臨される。そこに希望がある。それが福音。
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そこで、一緒に考えて頂きたいのです。
そのすばらしい福音が日本で伝わらない。たぶん、多くの人が聖書に共感しても、イエスに共感しても、教会や教団に疑問があるのではないでしょうか。どうも、教会が本来の教会から脱線してしまったのではないでしょうか?
イエスはいい。福音書もいい。でもバチカンや十字軍、組織的な教団、ビジネス的なメガチャーチ、「聖戦」の名のもとに為す戦争という殺人はどうなんだ?と言うあなた。あなたは正しいのです。4Cローマ帝国のコンスタンティンがキリスト教を国教にして以来、国家権力と教会が結びつき、おかしくなってしまったのです。「キリスト教国」であるヨーロッパの国々は、武力と圧力で植民地をアジアにまで拡げたのです。白人優越主義も正直あったでしょう。
イエスが果たしてそれを願っていたのでしょうか?本来、教会(エクレシア)は、制度や組織じゃなくてもっとオーガニック(有機的)なもの。教会は聖書では「キリストのからだ」として描かれています。
内村鑑三は日本のプロテスタント黎明期の指導者ですが、すでに欧米の組織的キリスト教の問題を見抜いていたのです。それで「無教会主義」(実は無制度的教会主義ですが)を提唱したのです。キリスト者が、世の職業につきながら影響を与えてゆく道を推奨したのです。当時、正に預言者の声の役割を果たし日本社会全体にも影響を与えたのです。
教会は建物や組織じゃない、人々です。新約の教会は「エクレシア」というギリシア語で表現されています。建物に言及されている箇所は無いのです。すべて人々の集まりのことを指しています。神の国建設のために神に呼び出された人の集まりです。つまり、教会は「私達」のことです。日曜の朝、本当は「教会」に行くのではなく、「礼拝」に行くのです。教会は行く「場所」ではないからです。イエスを中心に人生を共に歩む仲間達。それがエクレシアです。
「地の塩」「世の光」となるためには教会の壁の中に閉じこもっていてはできないのです。(マタイ5:13−16)集まり励まされ、出てゆき、この世の人々と一緒に生活し、分散して影響を与えてゆきます。だから私達は一人一人に神から与えられた使命を大事にし、それを追求できるよう励まします。
ヨハネ福音書の1章に有名な「はじめにことばがあった」があります。中国語聖書では「はじめに道あり」と訳されています。聖書が語っている神との歩みは「教え」というより「道」に近いのです。柔道、茶道などのように人のあり方なのです。これを組織的宗教にしようとするので無理があるのです。
旧約聖書のイスラエルの民を見てください。誰も「宗教やってる」という意識はなかったのです。まさに毎日の生活そのものなのです。キーワードは「シャローム」すなわち、単なる平和ではなく、神と人、人と人、人と自然のあるべき喜ばしき、命あふれる関係のことです。創造主と共に生きる生き方。イエスを信じることで与えられる聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きる生き方。そうやって解放されて生きる生き方。これぞ福音なのです。
今、イエスを信じることで御霊が与えられます。私達自身が神の生ける宮になりました。どこかの有名な大聖堂に行って礼拝しなくても、2人でも3人でも主の名によって集まるところに主はおられるのです。神に献身することで、その他のすべてのものから解放されます。死からさえも。この世の与えるのとは違う平安が与えられます。問題が無くなるのではありません。しかし、途方にくれることはないのです。「失望」はあっても「絶望」はないのです。あなたが神を見失っても、神はあなたを見失うことがない、あなたから離れ去ることがない。十字架の後にくる復活。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」(ルカ12:4)クリスチャンにはジ・エンドが無い。これが福音です。
「私達はこの宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私達から出たものでないことが明らかにされるためです。私達は四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(IIコリ4:7−8)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
(第二コリント3:17)
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(栗原)