衆議院解散総選挙戦の最中、12月10日「特定秘密保護法」が施行された。消費税増税延期が争点とされ、真の争点が覆い隠される中、自民党の大勝利。とは言っても、投票率は52%で全有権者の3割しか票を獲得していないが・・
今後、4年間の政権下、秘密保護法案、集団的自衛権、憲法改正、この3点セットで戦争への準備が進められていくだろう。次回の選挙は間違いなく、憲法改正が争点となる。先日、亡くなった俳優の菅原文太さんは「日本は今、真珠湾攻撃をした時と大差ないよ」と語っていた。そう感じるのは彼一人ではないだろう。戦争をするには思想統制し、一致団結しなければならない。反対意見は押さえなければならない。メディア統制がじわじわ始まっている。現政権に反する意見を言う放送や記事が益々、少なくなっていくだろう。そして基本的人権(思想、信教の自由)より、国家に使える国民(臣民)というスタンスが盛られた憲法改正(自民党の改正案)となる。皆さん、まずは、現日本憲法と自民党改憲案を読み比べて頂きたい。お薦めは「憲法がヤバい」(白川敬裕著 ディスカバー携書)わかりやすく比較解説している。この時代、教会は、クリスチャンはどう生きるべきなのだろうか? 過去の歴史から何を学ぶのだろうか?
国体を神とした日本の教会
「(ドイツ告白教会がナチズムと果敢に戦っていた)ほぼ同時代の、戦時下の1941年に成立した日本基督教団は、『信仰告白』の事実に直面していたにもかかわらず、そのことの認識を欠き、告白への勇気と責任のないままに問題を回避し(先送りし)て、教会の組織を守ることを第一のこととして、教会合同を推進した。そのことによって教団は、天皇の名による『大東亜戦争』を『聖戦』とし、この不義なる戦争を遂行する国家の一機関となった。ここにこそ、キリストと並んで(その上に)『国体』(現人神天皇によって統治される国柄)を神とし、『皇国の道に従う』教団となった教会の、第一戒への背反の罪責がある。そこにおいては、『自分の生命を救おうと思う者はそれを失う』(マルコ8:35)という主の御言葉が妥当したのである。(『告白と抵抗 ボン・ヘッファーの十字架の神学』森野善右衛門 著 新教出版社 P225)
さらに同書に、こうある。
「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」があり教会の自己保存のため教会合同に踏み切った。1940年10月17日、青山学院校庭にて2万人を集めて行われた。大政の翼賛と国への忠義を宣言した。」
ここに日本的転向が見られる。「国体支持」は、他からの非難を免れる「お守り」として機能した。死せる正統教理の残骸。実のところは「国体=天皇」を神としたのだ。体制側につけば、迫害を受けない。国体を神とし、日本教キリスト派となれば、生き残れる。しかし、聖書は「確かに、キリスト・イエスにあっって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」(IIテモテ3:12)と書いている。
事実、キリスト教(仏教、神道も同様)は生き残りをかけて進んで軍、政府に協力した。立教学院では神主を呼んでチャペルで招魂式を行ったという。信仰の声をあげたのは矢内原や内村。一部のホーリネスの牧師。しかし、救世軍をはじめ、ほとんどの教団が妥協し、戦争をサポートしたという。(「日本の戦争と宗教 1899−1945」 小川原正道 講談社選書メチエ)
沈黙する神?
使徒の働きを読むとペテロは獄から奇跡的な方法で救い出されているのに、ステパノは石に打たれて殉教している。神は助けなかったのか? ローマ皇帝の下、多くのクリスチャンがコロセウムで野獣と戦わされ、あるいは火やぶりになり殉教した。日本でも切支丹迫害が起こり、雲仙だけで20万人が殉教したという。神は助けなかったのか? 遠藤周作はこのテーマで「沈黙」を書いた。神はなぜ迫害のただ中で沈黙してしまうのか?
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと歴史は、押しとどめる事が出来ない泥流のように流れていった。戦争反対論者もいたが、国民の多くを含め軍の戦争推進者達が反対論を飲み込んで行った。極端なナショナリズムと排外主義。いちど天秤が傾くと、反対論者は「時代認識の欠けた者」「非国民」となじられ、押しつぶされてゆく。神はこの悲惨な戦争を止めなかったのか?一旦地滑りが始まると誰も止められなくなる。時代の必須なのか?
ヒットラー下の牧師ボン・ヘッファーは祈った、そして、自分達の信仰を「告白」し、信仰の表現として「抵抗」した。それでも時代は悪化した。ヒットラー暗殺にさえ加わっても阻止しようとしたが、ボン・ヘッファーは捉えられ、殉教する。神は止めなかったのか? ボン・ヘッファーの祈りを聞かれなかったのか・・・
あえて非国民に
ボン・ヘッファーはこう言った。「神の御前で、神と共に、我々は神なしに生きる」
無神論ではない。アメリカで60年代流行った「神の死の神学」でもない。ボン・ヘッファーは「機械仕掛けの神=苦しい時の神頼み」を否定した。成人した世界で生きるには聖霊をいただいたクリスチャンが自ら苦難に直面しなければならない。神は容易に救わない。イエスは敵のただ中で戦った。ドロローサの途上で神はイエスを救わなかった。敵の思惑通り、イエスは十字架についた。
「この世の生活の中で神の苦難にあずかることがキリスト者を造るのだ。」
(ボン・ヘッファー獄中書簡)
今後、日本が右翼化し、思想統制が始まった時、恐らく神は容易に救わない。その苦難のただ中にクリスチャンを置かれる。あるものは獄に入れられ拷問をうけ、殉教するかもしれない。第3次伝道旅行からエルサレムに帰郷したパウロは、そこに苦難(縄目と苦しみが待っていると預言者アガボに宣告されている。)があるのを分かりつつも「証し」をするため戻って行ったのだ。
「ボン・ヘッファーは、敢えて『ヒットラーのドイツ』に対する『抵抗者』『反逆者』『非国民!』となることによって、『もう一つのドイツ』、真理の道に従うドイツを愛し、キリストへの忠誠を告白した、といえるのではないでしょうか。それは戦時下の日本における、矢内原忠雄、柏木義円、村本一生、石橋湛山ら、非戦平和の道を歩んだ少数者の道に通じるものがあるでしょう。」
(『告白と抵抗 ボン・ヘッファーの十字架の神学』森野善右衛門 著 新教出版社 P57)
イエスの答え
最後に、この件に関してのイエスの答えを紹介しよう。
「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
人々があなたがたを引き渡した時、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべき事は、その時、示されるからです。というのは話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちあって話されるあなたがたの父お御霊だからです。兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。(その時に助けてあげようとは言っていない)
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われます。・・・からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
・・・ですからわたしを人の前で認める者はみな、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者ならわたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者を知らないと言います。・・・さらに家族のものがその人の敵となります。・・・自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分の命を失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:18−39)
目を醒して祈っていなさい。
憲法が改正されれば、次は国防軍、徴兵制(あるいは格差社会で広がる貧困若者層が生活手段として軍隊へ)、そして戦場へ。国のために死んだ「英霊」は国が靖国に合祀する・・・靖国参拝は「宗教」ではなく、国民的行事であり、国民的義務となる。国旗掲揚、国歌斉唱同様、靖国参拝を拒む者は国家反逆罪で逮捕。すでにその流れが見えている。
私たちは目の前の苦しみから救って欲しいと祈りたい。しかし、苦しみを逃れるだけなら、「国体」を神とし政府と妥協し、「踏み絵」を踏めば身の安全は図れる。しかし、それでいいのか? また、その過ちを繰り返すのか?国を愛するから、あえて、「非国民」、あえて苦しみのただ中へ、という選択もある。信仰者が目を醒す時なのだろう。
主は言われる。「・・・わたしと一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を醒して祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40−41)
死んで終わりではない
ここまで書いてくると、重いテーマで悲惨な気持ちになるかもしれない。もちろん今の時代、緊張感は必要だが、クリスチャンには大いなる希望があることも忘れてはならない。この地上の死で終わりではない。それは始まりである。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすのです。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。わたしたちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。」(コリントII4:17−5:1)
「わたしたちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(IIコリント5:8−9)
「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(IIコリント12:10)
「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」(ヘブル12:22)
迫害、殉教と聞くと、私たちは悲惨な面しか感じられないが・・本人の気持ちは知りようが無いのだ。ペテロは牢獄から奇跡的に出されたのにステパノはかわいそうと思いがちだ。しかし、ステパノは石打の中で主を見て歓喜していたのではないだろうか。
「見なさい、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」そして、最後には主イエスと同じ祈りまでした。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」
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