2015年12月9日水曜日

勝利者のメンタル


 「私は心を鍛えたからこそ横綱になれました。」
前人未到の優勝記録を作った横綱白鵬。「白鵬のメンタル」(内藤堅志著 講談社α新書)によると白鵬が実際の稽古・研究に使っている26%に対して「心・人生観・哲学」の部分が40%だそうです。トップゴルファーなども勝利の秘訣の8〜9割は「メンタル」の部分だといいます。「私は心を鍛えたからこそ横綱になれました。すべて内藤先生のおかげです。」と白鵬自身が語っているのです。身体的強さだけでは横綱にはなれないのでしょう。しかも横綱に地位に居続けるのは並大抵なことではないのです。



聖書も心の大事さを語っています。私たちの場合、サタンとの勝負をしています。サタンは急に現れて殴りつけるようなことはしません。もっと巧妙にMoney, Sex, Prideという弱みにつけこんできます。あるいは、人との比較、劣等感、優越感、過去の傷や、罪責感を用いて私たちをダウンさせようとします。戦いは「思い」の中で始まるのです。ですから、当然、単なる能力才能だけではなく、心のあり方が勝負を決めることになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。命の泉は「これから湧く」
                          (箴言4:23)

「主よ、あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心 
 を強くしてくださいます。」            (詩篇10:17)

「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町の
 ようだ。」                    (箴言25:28)

例えば、サタンにやられて劣等感、罪悪感、無価値感に犯されてしまうと仕事や家庭もうまくいきません。感情ではなく、みことばの約束「わたし(主)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブ13:5)という原点を確認する必要があります。もともと何か善をなしたから神はあなたに目をかけてくださった訳ではありません。すべては一方的な神の恵みなのです。


成功する人が持つ「流れ」
成功する人は自分の力を最大限に出せる「流れ」を持っているといいます。その流れはある種の「儀式的要素」があり、決まった手順のルーティンがあるのです。イチローがバッターボックスに立つときの一連の仕草もそうです。場当たり的に最大限の力を出すことはできないのです。リラックスと緊張のバランスが大事なのです。ここぞ、というところで力を爆発させます。相撲取りは1日の中のたった数秒という試合にすべてを集中します。そこにもってゆく流れをいかに作るかが大事な訳です。

生活にリズムを作ることは大事です。神は6日働いて1日休むことで、模範を見せてくださいました。働きづめではいけないのです。一週間のリズム、1日のリズムが大事です。仕事の事を一忘れて、心からワーシップする時間を定期的に取ることは霊的状態を保つために大事です。多くのクリスチャンは朝、デボーションをします。毎朝、聖書を読んで神に祈り、心をきよめます。

「ある人々のように一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合
 い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
(ヘブル10:25)

クリスチャンが定期的に集い、励ましあうことを聖書は勧めています。律法的になる必要はありませんが、霊の健康のため、そうしましょう。

それと練習の時のように動ける「平常心」。どうしても試合は緊張するのです。そして、「勝とう」と思って力を入れすぎてかえって体が動かなくなるのです。かつての強い横綱、貴乃花は立会い直前まで悟りの境地のような「涼しい顔」をしていたもんです。とてもこれから戦う人の顔には見えませんでした。医学的にも禅のような複式呼吸(吐いて吐いて、鼻から空気を吸う、ロングブレス)をすると神経物質のセロトニンが活性化され、心が安定するといいます。弓道の人が矢を射る前に、このように呼吸して心を整えると「ドスンと一本鉄の杭が体に通ったような気持ち」になるというのです。そうなれば当然、的を射る確率も高くなりますよね。クリスチャンにはさらに「この世が与えるのとは違う平安」を頂くことができます。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしがあなたがたに与えるのは、 
 世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。
 恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

聖霊(パレクレートス=寄り添う方)は、いつも側にいて耳元で「大丈夫」、「もう少しだ頑張れよ!」と人生というマラソンを走っている私たちを励ましてくださる方なのです。


真の勝利者は人生の勝利者

未熟な行動をすると「横綱らしくない」と批判されるでしょう。横綱なんだから立派な人間でいて欲しいという周囲からの期待もある訳ですが、逆に人間的にもある程度成熟していないと横綱(勝利者)にはなれないという面もあるのです。白鵬は精神面を大事にし、福祉や、被災地の支援活動などにも熱心だそうです。また、先輩の話を素直に聞いて学ぶ「傾聴」の態度があるといいます。そういう謙虚さがあることも勝利者の秘訣なのではないでしょうか。やはり人格的に貧しいと一時的に成功して金持ちになっても、「人生の勝利者」にはなれません。白鵬は、「自分が勝った時、負けた相手がいるから自分が勝ったのであって、その相手に感謝する。」と言っています。これはなかなか言える言葉ではないですね。また人を隔てづ、社長さんでも子供でも同じように接するそうです。仲間とのコミュニケーションも大事にするんですね。やはり、人間的にも大きいことが強い秘訣になっています。

「ですから、愛されている子供らしく、神にならうものになりなさい。また愛
 のうちを歩みなさい。」(エペソ5:1)


プロには「まぐれ」は存在しない
「運も勝ちの内」といいますが、この本では「偶然」は無いというのです。予期せぬ発見をする能力をセレンディピディと言います。やっぱりそれも1つの能力で、運が良い人というのは運をものにできる準備をいつもしている人だということなのでしょう。練習をしているから運がものになってゆく。ボクシングのラッキーパンチも、それだけの力あるパンチを出せる準備をしているから効くという訳です。だからプロには「まぐれ」は存在しないというのです。自分を最高に持っていける「流れ」があるからこそ「運」を呼び込める。

確かに「人生は出会いで決まる」と言いますが、「予期せぬ出会い」は神の目からは計画された出会いなのだと思います。「つながる」「つなげる」ネットワークする。点を線にする。そこにチャンスが生まれるのです。そしてクリスチャン的には「聖霊の声」に聞くということでしょう。「行くところを知らずして」故郷を離れたアブラハムは非常識な人間です。しかし、彼は神の声を聞いて従ったのです。そして、結果、すべての国を祝福する基(もとい)となったのです。時に聖霊は予期せぬところに私たちを連れて行きます。時に「信仰のジャンプ」も必要です。偶然と思える日常に背後で働かれる神の指を見てゆきたいものです。


上昇気流に乗れ。Soar
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)

英語では
Those who hope in the Lord will renew their strength. They shall SOAR on wings like eagles; they will run and not grow weary, they will walk and not be faint.


Soarという言葉が素敵ですね。舞い上がる、上昇気流に乗るというイメージです。もがいている姿ではなく、余裕をもって鷲が翼を広げて舞い上がってゆく、あのイメージです。その姿が私たちクリスチャンに約束されています。自分の力でやっているといつか疲れ、倒れます。しかし、聖霊の力で上昇するのです。聖書では私たちはただ、かろうじて勝つのではなく、圧倒的な勝利者になると言っています。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての 
 ことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

その根底となっているのは、「どんなものも神の愛から私たちを引き離すことができない。」(ローマ8:39)という事実です。これが聖書で言っている変わらない「事実」なのです。私たちを造った造り主に愛されている。だから価値がある。イエスのあがないが100%だから、100%赦されている、100%受け入れられている。神の子供とされている。神が心配してくださっている。ケアされている。力を頂いている。だから圧倒的な勝利者となれるのです。

朝、起きたら神様に聞いてみてください。「私のことをどう思っていますか?」
「もちろん、愛してるよ、おまえを愛してる」と言って、ギッとハグしてくださるに違いありません。

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2015年11月6日金曜日

毎日が宴会

先日、面白いイベントがありました。「演歌プレイズ・宴会ゴスペルコンサート」。
以下のポスター見ると、一瞬「何じゃこれは?」と思うでしょう。




 私は20数年前から「御霊音頭」があってもいいなあと思ってましたので、「ついに来たか!」という感じでした。日本人に馴染みのある演歌調のメロディーにのって着物を着て歌うゴスペルがあってもいい。プレイズは何もヒルソングだけじゃない。私は以前「島唄」にゴスペル歌詞をつけて歌っていました。

私の友人が演歌フレンズ応援団長ですが、残念なことに、当日は別の予定があり、参加できませんでしたが、あとで画像を見て楽しみました。

実は聖書にあるんです。「宴会」という言葉。


「こころに楽しみのある人には、毎日が宴会である。」(箴言15:15)


アーメン!昔の説教者が言いました。「イエスを信じると、枯れ木に花が咲き、焼いた魚が踊りだす。」イエスを信じると人生が変わる体験をします。今までにない平安と喜びが湧き出ます。


「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心(腹から)の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37−38)


これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのです。そして、ペンテコステの日以来、御霊は降って、今、イエスを信じる者のうちに住んでくださっているのです。喜びの水源を内側にもらっているのですね。イエス様が、祭りの日にこのことを語られたというのもベストタイミングですね。クリスチャンライフは祭りと親和性があるのです。主にあって人生はセレブレーションだからです。それで、クリスチャンは集まってきてはワーシップをするのです。ワーシップっていいですよね。主のご臨在を感じるし、霊的に励まされ力を受けます。

ヨハネ福音書には7つの「しるし=奇跡」が出てきますが、一番最初の奇跡は何だったでしょうか?そうカナの婚礼でイエスが水をワインに変えた奇跡です。場面は婚礼=宴会です。何でも第一印象が大事ですね。最初の奇跡がこれでした。水をワインに。質が変化する奇跡。イエス様は人生の質を変化させるのです。もう水っぽいつまらない人生ではなく、主と共に歩むセレブレーショ=宴会の日々なのです。

先日、新宿でエクレシアをやったとき、参加メンバーが「今日はメチャ笑いました。主に感謝」とフェイスブックでコメントしていました。笑える場があるって素晴らしいですね。御霊のあるところには自由があります。(IIコリ:17)解放があります。安心して自分をさらけ出せる自由があるのです。

丸の内エクレシアでもよく笑います。一緒に食べ、笑い、人生を分かち合い、みことばを学び、祈り合います。これは私たちの「宴会」です。お腹も心も満たされて帰途につきます。そういえば5000人の給食でもパンが余りましたね。神はケチな方ではありません。祝宴に食べ物や飲み物が足りなかったら寂しいですよね。主にあってはいつもOverflowingです!神は敵前であっても食事をととのえ、油を注いでくださいます。そして、私の杯はあふれているのです。(詩篇23:5)

どうも、日本のキリスト教の印象は「暗い」、「堅い」、「つまらない」の三拍子ですが、イエス様ほど退屈とは正反対の方もいません。マルコ書を読むとイエスのおられるところに常に「驚き」があるのです。感動があるのです。死から復活したイースターはエキサイティングな出来事です。十字架の前に静まる面もありますが、復活を歌って踊って喜ぶ面もあるのです。日本人でもブラックゴスペルのダイナミックさに触れるとき、それを感じるのではないでしょうか?

もちろん、人生には辛いこと悲しいことがあります。でも知ってください。私たちはどこに向かっているのかを。

私たちが目指している場所はどこでしょうか?暗闇ですか?恐れですか?裁きですか?いえ、聖書はこう言っています。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会=大宴会に近づいているのです。」(ヘブル12:22)


ハレルヤ!私たちが一日、一日近づいているのは「大宴会」です。そして今、この地上でその前味を味わっているのです。

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2015年10月23日金曜日

福音に生きる

日本では3:11東日本大震災を機に「教会」「宣教」「福音」について再考がなされています。つまり、今まで通りの伝道や教会形成でいいのかということです。その中から、もっと地域コミュニティに支えてゆく、そして、よき業をコミュニティのため行ってゆく「教会=よき業宣証共同体」という考えが出てきています。しかし、それは日本だけではなく、世界的にも今までの「福音」の理解に疑問が投げかけられている流れがあったのです。現代アメリカのアナバプテスト派の神学者でノーザン神学校教授のスコット・マクナイトの書いた「福音の再発見」が日本語にも訳されて話題を呼びました。マクナイトはこう言います。

「われわれ福音派の者は全体として、使徒的な福音と言う意味での『福音派(Evangelical)ではなく、むしろ『救い派』(Soterian)になっているということだ。なぜ私はそう言うのか。それは、われわれ福音派の者は、『福音』(gospel)という言葉を『救い』(salvation)という言葉と(誤って)同一視してしまったからだ。

福音をただ、神との個人的な関係としてしまうと、「誰が救われていて、誰が救われていないか」ということだけで形作られる「救いの文化」(福音の文化ではなくて)をもたらすことになるという。そして、そもそも聖書が神とメシアと神の民の「物語」なのに、そこから切り離され、個人主義へ移ってしまう危険があると指摘している。(よく聞く表現で、「救いはイエスとの個人的な関係」と言う具合に)

では福音とは何なのか?それは福音書を見るのが一番いいという。(事実、新約聖書の最初の4つは『福音書』と呼ばれている)4つの福音書はイスラエルの物語を完成させる救いの物語として、イエスの物語を語っているという。ちなみにパウロはイスラエルの完成について、ひいては被造物の最終的贖いと回復についてまでの壮大なドラマをローマ書で語っている。

最近、注目されているイギリス国教会元主教のNTライトも聖書は神が神の民に語られた『神の物語』で、そのテーマは『創造から新創造へ』であるとする。しかも、その物語は「あなた」を主役として招いていると。(つまり聖書は大昔の本ではなく、今、私たち自身が聖書で語られた「神の物語」の真っ只中にいるということ。)従って物語の起承転結を理解するには、創世記から黙示録までの救いの大きな「流れ」を読まなければならない。それは人間の魂の救いだけではなく、被造物世界の救いの達成も含まれている。ライトの理解では聖書の物語の結末では、この物質世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになるという。ローマ8:17には「私たちはキリストとの共同相続人である。」と書かれている。当然、相続するのは御父の所有する「御国」。この世の消滅ではなく、トランスフォーメーションとうい考え。そうすると、物質世界の連続性があることで、今この地上でなされる仕事や社会事業に意味が出てくる。

しかし、個人的には疑問も残っています。IIペテロ3:10からの「天の万象は焼け崩れ去り・・」という箇所の解釈をどうするか?世俗のシステムの廃止というだけならなぜ、「地と地のわざは焼き尽くされ」だけで止まらずに「天は大きな響きをたてて消え失せ」と書かなければならないのか?また、 Iテサロニケ4:16−17が黙示文学的な表現であり、「象徴的描写」とライトに言われると、「レフトビハインド」の世界をそのまま信じてきた私などには戸惑いもあります。しかし、「象徴描写」としたほうが平安があるのも事実です。空中携挙前にとにかく伝道し、自分はイエス様の元に引き上げられ、その後、地上がどうなろうと関係ない、というのもいかがなものかと思います。また、この天地が崩れ去り、全く新しく新天新地が形成されるのであれば、この地上で為す社会事業は究極的には意味がないことになる。実際、映画「レフトビハインド」を見ると、エンターテイメント映画としては面白いが、これを本当に信じているのかと言われると、どうも今の自分には違和感もあるのです。

さて、福音書の中心はイエスであり、ではイエスは何を教え、何をしたのでしょうか? 以前にも書きましたが、イエスは

1.      悪霊を追い出し。
2.      病人を癒し
3.      「神の国」を宣べ伝えた

いつも、この3点セットです。弟子たちが悪霊を追い出せずにいた時、イエスは「この種のものは祈りによらなければできない。」と言われました。現代でも多くの場合、悪事を行う時に悪い者の誘惑の声を聞くのではないでしょうか?個人のレベルでも国家レベルでもそうでしょう。だから、祈りが必要なのです。祈りによって霊の流れを変える、霊的な環境を変える、悪霊の働きを縛ることが必要なのです。つまり、この第1点目は「祈りのミニストリー」と言えます。私は山手線一周祈祷に参加していますが、決して無駄なことだと思っていません。天と地を結ぶ祈りができるのはイエスの名によって祈るクリスチャンだけです。総理大臣でもできないことなのです。名もない我々がイエスの名によって祈る時、「宇宙の主」である神は聞いてくださるのです。

2番目は体の癒しはもちろんのこと、精神の癒し、ひいては社会の癒しも含まれるでしょう。物質世界をお造りになった神は我々の肉体面もケアされます。そのお心を持って、個人の病の癒しから社会奉仕に至るまで、罪が入って傷ついているこの世の痛みに仕え、奉仕することではないでしょうか?具体的にはホームレスや貧困シングルマザー、被災地の人々に仕えるなどがあります。

そして、3番目には「神の国」を説くこと。神の国とはロケーションのことではなく、神が支配するところです。神がいるとはどういうことかを生活、仕事共同体=エクレシアを通して証することです。神はアダムを作ってから園を管理するという「仕事」を与えられました。人とは仕事を通して神の栄光を現す存在なのです。仕事を通してこの社会を機能させてゆくこと、そして、1ミリでも天国に近づけること。私たちの生活と仕事は神の国を広げることに緊密に関係しています。「エクレシアに来ると会社と180度違うんですよね。」と言うビジネスマンがいます。ある家庭集会に参加したビジネスマン男性が「こんな世界があるんですね〜」と感動していました。クリスチャンの集まるところ不思議な魅力が生まれます。この東京砂漠に「神はいる!愛はある!こんな世界がある!」ということを証してゆくのです。とくに共同体=エクレシアの証です。クリスチャンが互いに愛し合い1つになっていることがこの世への一番の証なのです。(ヨハネ17:21)

祈り、奉仕(仕事)し、神の国を証していきましょう。
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