2015年2月20日金曜日

教会の4つのスタイル


最近は、いろいろなスタイルの教会(キリストの体)が現れてきている。正確に類型化するのは難しいが、一応以下の4つのモデルに分けてみる。


1.伝統的制度的教会モデル


              利点:会堂を持ち、比較的大きな教会。町での存在感がある。町の福祉などにかか
              わり、町内や行政とも関係が結ばれているケースもある。国内外宣教や、災害など
   の募金集めや、支援する財やマンパワーがある。人生通じての冠婚葬祭に携わる。

   問題点:牧師がスーパーマンになる傾向。牧師の燃え尽きや孤独、罪。信徒が
   お客さんになる。個人的弟子訓練が薄くなる。何十年通っていても、信徒が霊
   的に成長していない場合もある。教会の組織的運営に時間やお金がかかる。


2.伝統的教会+スモールグループ モデル


                1)トップダウン セルグループ/家庭集会
                伝統的毎日曜の礼拝プラス、地区家庭礼拝や集会を持つ。ただし、そこでは基本   
                的に牧師がメッセージを語る。あるいは、信徒がリードするセルチャーチのケー
               スでも牧師のメッセージビデオを見たり、牧師が書いたり、選んだりした統一教材
               を使うなど、監督的要素が強い。問題は統制が強すぎたり、牧師の干渉が強すぎた
               りする。個々のセルが創造的に自由に動きにくかったりする。

  2)ミニチャーチ スタイル 
    日曜朝の、リラックスした雰囲気の中で行われる、ワーシップとフラ
    ンクな語り口のメッセージ。週日に職場近くや家でもたれるフランク
    な雰囲気のミニチャーチが1つの教会の傘の下で行われる。ただし、  
    それぞれのミニチャーチには創意工夫、集まる場所や、やり方に自由
    さがある。牧師の直接干渉はなく、牧師は信徒リーダーをトレーニン
    グする。ミニチャーチでは、信徒がファシリテーターとなり、分かち
    合いスタイルで持たれる。通常、日曜日の牧師のメッセージを基に話
    し合い、祈り合う。日曜が30%、週日のミニチャーチが70%
    くらいの比重。教会増殖も見ているし、合同礼拝とスモールグループ
    のバランスもいい。


3。初代教会スタイル  エクレシア/ハウスチャーチモデル



    初代教会は家々で集まっていた。基本的には「顔を合わせられる」人
    数での、独立した集まり。マンションルームで集まることもできるし、
    コーヒーショプの場合もある。年代や家族構成により、集まる場所も
    選ばれる。個々のエクレシアがさらにネットワークされて、時々、イ
    ベントや合同礼拝(セレブレーションワーシップ)を一緒にやること
    も可能。プログラムより人間関係が重視される。

    セレブレーションワーシップは通常あっても月1度。基本的に牧会と
    伝道はそれぞれのエクレシア単位でやる。会堂を持たないので自由度
    が大きい。ただし、コーヒーショプなどでやる場合、大きい声で祈れ
    ないなど制限もある。「至近距離」、「等身大」を体験できる交わり。個
    人が賜物と使命によるミニストリーを持つよう励まし、それをサポー
    トする。学生やシングル社会人には向くが、子供のいる家庭の場合、
    数家族が集う型ができないと子供への配慮が難しい。また、分かち合
    いが主となるため、同言語、同世代、同類(学生、若い社会人、主婦、
    壮年ビジネスマン)などが好ましい。ネットワークの下にあるが、1
    つの教団や「教会」のもとにはない。1つ単位の集まりが小さいので
    一人一人の存在が大きい。「分かち合い」、「お互い」が重視される。
    ティーチングや系統だった学びが薄くなる傾向もある。


4.ネットワークされた個人



    神に召された人が、神に聞いて、ミニストリーを展開する。それを支え合う数名の   
   仲間がいて、スカイプなどで繋がっている。しかし、あくまで神対個人が重視され
   る。クリエイティブなアーティストや起業家など、特殊な人には合ってるが、定期的
   な顔を合わせた交わりの価値が薄くなる。クリスチャンの集まりや、合同礼拝は必然
   のものとは見なされない。(時には時間の無駄と考えられる)
 社会の中で、神からの 「使命」に生きることが重視され、常に目はノンクリス
 チャンに向いている。教団を超えた「神の国」思想が強い。



聖書は教会の統治方法に関しても、監督制、会衆制、長老制どれか1つと、はっきりと示している訳ではないので、現に、そのようなバラエティが存在している。上にあげた4タイプ、どれが100%良く、どれが100%悪いというわけではないだろう。大事な事は、イエスの心(愛と憐れみ)を持って行動するイエスの弟子が育っているかどうかだ。そして、そのような弟子を育てるには、「顔と顔」を合わせる至近距離の関係が必要だろう。また、愛を実践するには人とかかわっている環境がどうしても必要となる。


太平洋戦争直前の大正時代、世に思想的影響を与えた内村鑑三、新渡戸稲造、がクリスチャンであることは言うまでもないが、民本主義を提唱し大正デモクラシーの基礎を作った吉野作造もクリスチャン。そして、「小日本主義」を提唱し、当時の覇権主義/植民地政策に反対したジャーナリスト石橋湛山はクリスチャンに多大な影響を受けた人物だった。このようにクリスチャン思想が時代をリードしていたのだ。(NHK取材班編集「日本人は何を考えてきたのかー大正篇」で採上げられている人物の7名中4名が以上の人物だ。)

特に興味深いのは、内村鑑三は「無教会主義」、「新渡戸稲造」はクエーカー教徒、どちらも、キリスト教界の中では、非主流の反組織的/反制度的教会に属していたことだ。彼らが自由に思想活動できた背景と彼らがいた教会のあり方とは無関係だろうか?内村鑑三の門下生には東大総長になった矢内原忠雄や南原繁といった、影響力ある思想的リーダーたちが育っている。

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)

2015年2月10日火曜日

無縁社会




以前、NHKの番組で話題になった「無縁社会」 無縁死が3万2千人という。2030年には日本の人口の4割が一人暮らしになるという。一人になってしまう理由はいろいろある。離婚、退職またはリストラ、そして健康問題。家族がいても不仲で疎遠だったり、「迷惑をかけたくない」として、一人暮らしを選んでいる高齢者もいる。

そして、無縁死予備軍が若い世代にもいる。ネットで繋がっていても孤独な学生。ネットの輪に入れない仲間はずれの恐怖。新自由主義の競争会社では仕事、仕事で友人と呼べる人もなく、一人暮らしは続く。アラフォー、非正規雇用、恋人なし。男女とも非婚率が上がり、少子高齢化は進む。男性で多いのは家庭を顧みないモーレツ社員が社縁が切れると、すでに家庭は崩壊、会社の縁と共に、家族の絆も切れ、いきなり一人となるケース。当然、近隣付き合いもなく、コミュニケーションが断たれる。あとはパチンコか一日TVか。買いだめのカップラーメンの生活はあまりにも寂しい。

ある老人は部屋であぐらをかいたまま一人亡くなっていたという。「孤独死」これではインドの路上で亡くなっていく人達と変わらない。マザーテレサは「死を待つ人の家」の働きを通して、せめて死の瞬間に誰かが側にいて、ケアされ、触れられ、人間らしく死なせてあげたいと奉仕していた。さらに貧困、ホームレス問題。ホームレスの問題も経済的貧困だけでなく、コミュニティ/コミュニケーションの貧困だという指摘もある。災害時に一番被害を受けるのは、こうした絆の無い人々なのだ。


私の知人の精神科医がボランティアで、ある時、公園にホームレスを訪ねた。しばらくすわって話を聞いた。運転手だった彼は手を怪我し、職を失った。別れ際に少々のお金を渡し、肩をハグして去ろうとした。するとそのホームレスが立ち上がって叫んだ。「あなたは天使だ!」と言った。「えっ」と振り返り訪ねた。「どうして、ボクが天使?お金をあげたから?」男は言った。「そうじゃない、あなたは天使だ。オレに触れてくれたから」
                             (写真はイメージです) 



何もできなくてもそこにいる。「いる」というミニストリー。そして、死にゆく人を「看取る」というミニストリー。

東北大学医学部臨床教授であった岡部健(享年62歳)先生は東日本大震災をきっかけに日本型チャプレン=臨床宗教師を提唱。岡部先生は医師として20年近く、在宅での「緩和ケア」と「看取りの支援」に取り組んでこられた。特に宗教の信仰をお持ちという訳でなかったが、終末期の患者さんに接して、どうしても「スピリチュアル」な悩みにお応えすることが大切であると感じてきたという。ご自身、胃と肝臓にがんが見つかり「予後10ヶ月」と宣告された。その時、死に対しての「道しるべ」が無く、真っ暗な闇が広がっている気がしたという。震災後、特に必要を痛感し、「臨床宗教師」の養成のための拠点となる「実践宗教学寄付講座」の開設を東北大学に働きかけ、2012年の4月に開講に漕ぎ着けた。


この働きに賛同し、自らも関わる日本バプテスト連盟 南光台キリスト教会牧師の井形花絵師は、看取りの現場に立ち会った経験からこう語る。

「医者でもなく、看護師は一番近いとは思いましたけれど、看護師でもなく、苦しみのただ中でその方が自分をこえた方に開いていく『管』のような役目になる人が必要だということをすごく感じたんです。・・・その中で、祈りなどを通して、その方々が一瞬でも自分をこえた方にお任せできる、そこに寄り添って誰かと一緒にその道を歩んでくれる人、誰かと一緒に委ねる方、ある人にとっては仏かも知れません、私にとっては主なる神ですが、その寄り添いと、その道をその人のためにひらく人、そのような人が必要だと思いました。」

もう一つ、井形師のコメント
「もう1つは、死に至るまでの間というのは最後の『和解』の場所なのですね。謝ることができる場所、感謝することができる場所。人生を思い返してみられる場所。いろんなことがあったけれども、ああ家族として、この人がいた。たとえ感謝できなくても、あのことは腹が立ったけれども、このことは悪かったな・・・と。臨終の場所、危篤の場所というのは、その意味ですごく重要な場所だということがわかって行きました。」

無縁社会。しかし、人生を閉じる時に誰かに、自分の人生の話をし、受け入れ、肯定してもらうことが求められている。人生のディブリーフとでも言おうか。人生の終わりに寄り添ってくれる人。看取ってくれる人。人間として取り扱ってくれる「よきサマリア人」が必要とされている。

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