2015年6月23日火曜日

神は男性?


神は男性?

先日、聖公会の女性祭司たちが、神の名を男性のイメージにならないよう、変更の提案をしたというニュース記事を見ました。そして、それは単に女性にすればいいという主張ではないようです。確かに、創世記には「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・神はこのように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)とありますね。どうも神の「かたち」の中に男と女があるようです。だから、神を男性と決めつけてしまうのは再考が必要なのではないでしょうか。

生物学的にはすべての人間は、初め女性として作られ、そして男性ホルモンを多く浴びると男性器が発達し男性になるそうです。ホルモンの出方に障害があると、思春期に性が転換してしまうこともあるといいます。(NHKの番組で、実証例が紹介されていました。)男性なのに女性っぽかったり、女性なのに男性っぽかったりすると気持ち悪いという印象があり、クリスチャンだと、「罪」をすぐ思い浮かべてしまいます。しかし、性のアイデンティティの問題は単に道徳問題(罪)として簡単にかたずけられない部分があるのではないでしょうか。性同一性症候群、つまり、身体と自分の性のアイデンティティのギャップで人知れず悩んでいる人々も多いのです。

「形成された睾丸から分泌される男性ホルモンをシャワーのように浴びた脳は、男の脳へと決定されてゆく。男性ホルモンを浴びないと、女性の脳ができあがる。この時期に、睾丸が形成されていても、何らかの理由でホルモンシャワーを十分に浴びないと、身体は男性でも脳は女の脳に分化されてゆくと言われている。生物学的な性の決定には、分化できる時期が決まっていて、あらかじめ決められたメカニズムに従い、一定の順序にのっとって行われる。そのため、分化の過程で、との一つに欠陥が生じたり、時期を逃したりすると、もはや後戻りができない。ちょっとしたズレでも、身体は女なのに、男の脳や、身体は男なのに女の脳といった現象が起こりうるということである。」(「性同一性障害」吉永みち子、集英社新書 P.33

ともあれ、神は人間でないので、性を超えています。人間にわかりやすいように、イエスは受肉され、男として地上で生活されました。しかし、女になれなかった訳ではないのです。遠藤周作がよく「西洋は父なる神」、「東洋は母なる神」という表現をしますが、創造主なる神はその両性が備わり、いや、それを凌駕している存在といったほうが正確でしょう。そして、その両性とも尊いものであり、神は必要とあらば、両性を表すことができるのだと思います。

全世界39カ国で1800万人に愛読された「神の小屋」(現代はThe Shackという小説を最近、読みました。宣教師の両親を持つ、ポール・ヤング氏が書く、苦難と、ゆるしをテーマにした物語です。興味深いのは神学校で学んだヤング氏が父なる「神」を黒人女性、「聖霊」をアジア系の女性として描いている点です。当然、物議をかもし、反対も起こりました。ヤング氏が講演する教会の前では反対プラカードを持った人が現れたりしました。

しかし、私はこの表現の仕方を肯定的に捉えています。我々の固定観念に新しい視点を与えてくれます。父親との葛藤で傷ついていた主人公に、著者はあえて、神を「厳格な父なる神」としてではなく、「陽気な黒人女性」として描写します。でも名前は、「パパ」。この箇所を読むと始めは、違和感を覚えつつも、これもありだろうなと思うし、逆に神の愛を感じます。傷ついた者を受け入れ、慰めるのは父より母の役割でしょう。神はもちろん、「母」を演じることもできるんです。イエスだって必要なら女性として受肉することもできたのです。ただ、男性として現れるご計画だったのです。聖霊はそもそも女性としてイメージされることが多いですね。しかし、なんせ、霊なので捉えにくい。この小説では「サラユー」という小柄なアジア系女性がイメージされています。ふと現れたり、いなくなったり、透明な存在感が描写されています。このように描いてくれると聖霊が身近に感じられるようになりました。神は女性でも有り得ると知ると、何故か、ホッとします。


三位一体はキリスト教だけ

世界に多くの宗教がある中で、三位一体の神はクリスチャンの信仰だけに見られるユニークなものです。三位一体において神の本質は「関係性」なのです。つまり、初めから神は「愛」と「コミュニケーション」の神なのです。孤独な神ではありません。なにより、「パパ」「イエス」「サラユー」が仲のいい、お互いを尊敬し合う、微笑ましい家族として描かれているのが嬉しいのです。この3つの人格(神格?)はお互いをGlorify、すなわち、お互いを賛美し、喜び、お互いの存在を感謝しているのです。そして、この関係は「お互いを与え合う愛」で成り立っているのです。神は非人格なForce(力)ではありません。ニューヨーク、リディーマー教会の牧師ティム・ケラーはその著書The Reason for God」の中で三位一体を「お互いが、お互いを賛美して踊り回っている」と表現しています。Trinity is the Divine Danceだから神の創造は喜びのダンスなのだと。そして、神は私たちをそのダンスに招き入れているのだと。素敵な表現ですね。

悲劇の起こった現場である「小屋」に三位一体の神(家族)が笑顔を持って住んでいる。主人公は、そこに招かれる。「神の小屋」とは自分の心の一番痛いところとも言えます。神はそこに私たちを招かれるのです。そこで出会うのが、私が来るのを待っていた、私を愛し、笑顔で迎え入れてくれる「神ファミリー」なのです。もちらん、甘やかすだけではありません。時に痛くあっても傷の原因も指摘してくれます。しかし、愛と信頼を築くことが先なのです。いきなり咎めるようなことはしません。愛と信頼の中で、やがて自分の問題に直面できるようになっていくのです。私達の親子関係や、仕事場での上司との関係も同じですよね。

小説の主人公はキャンプ場で娘が殺人鬼に拐われ、殺害されてしまうのです。しかし、彼は、最後には神が良き方であることを信じて、自分の娘を殺害した殺人鬼を赦す信仰の決断をするに至ります。そして、それが彼自身の癒しにつながっていくのです。神はこの全プロセスにかかわり、責任を持ち、絶妙のタイミングで導いてくださるのです。

この本を読んだ読者は誰も、こんな家族と一緒にいたいと思うでしょうね。この小屋を去りたくないと思うでしょう。私はそう思いました。しかし、よく考えてみると、この家族は実はいつも私と共にいるんですね。どんな場所にも。いつ何時でも。


デボーションが変わった!

だからデボーションは「お勤め」ではなく、この「小屋」に行って、この神ファミリーとお茶する時間なのです。それはとても楽しく美しい、「癒しの時間」なのです。皆さんの神のイメージはどうでしょうか?自分を裁くこわい方。基準を満たせないことにすぐ怒る方?それならあまり、神の御前に出たくないでしょうね。神の恵みに生きていないと、あの放蕩息子のお兄さんのような神観になってしまいます。

自分のデボーションも変わりました。あの小屋をイメージし、ドアを開けた時、満面の笑顔で迎え、たくましい腕でハグしてくれる、黒人女性の「パパ」を思い描くことができるようになりました。「待ってたよ、さおお入り。イエスもサラユー(聖霊)も、あんたの来るのを待ってたよ。さ、私の作ったおいしいケーキを食べながら、話そうじゃないか。」と言ってくれる。サラユーは美しいお花を片手に持って、ウエルカムのキスをしてくれる。ああ、自分はここで歓迎されている。赦されている。愛されている・・・素敵な時間。

 エクレシアはこの三位一体がオリジンです。三位一体のダンスから始まっているのです。神は三位一体でなければ、ならないのです。それが愛とコミュニケーションのオリジンだからです。孤高、不可侵の神ではないのです。交わりに招き入れる神なのです。

この麗しい「パパ」「イエス」「サラユー」の交わりの延長が教会(エクレシア)なのです。そして、そこに招くのが「救い」です。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなががたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および、イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(第一ヨハネ1:1−4)

今日、エクレシアで、その雛形を体験できるのです。主は言われました。「ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところにわたしも、その中にいるからです。」(マタイ18:20)

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「神の小屋」
ウイリアム・ポール・ヤング著
いのちのことば社 フォレストブック

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロコミュニティ(TMC

japantmc@gmail.com (栗原)

2015年6月1日月曜日

REVOLUTION ~なぜ今、革命?〜


衝撃的な統計

教会は影響力を失いつつある。
   アメリカ合衆国では、今年だけで3500もの教会が無くなっている。
   今月だけで、1500人もの牧師が牧会を去る。
   今日一日で約7575人が教会を去る。
(ジョナサン・ドドソン「今日の教会は弟子訓練の危機に面している」)


一日7500人としても、1年間で273万人!というとんでもない数字になる。とくにヤングアダルトの教会離れは増大している。ある教会ではカフェを開いたり、ゲーム機を置いたり、果てはipadが当たるという懸賞までつけて若者を惹き付けようとしているらしいが、減少傾向を食い止められないでいる。教会のスタイルが時代遅れだからという理由で去る人は意外と少なく、むしろ本物の霊性を見られないことが大きな理由なようだ。

この引用を載せているシンガポールのエドモンド・チャンは「ある種という確かさ〜効果的な弟子づくりを再発見する」という、つい最近出版された本の中で、こう語る。

「私が声を大にして言いたいことはこのことなのです。『クリスチャン人口は何人いるか』が問題ではありません。『教会はどのようなクリスチャンを育てているのか』が重要なのです。・・・教会の焦点は、弟子づくりから、ただ信者を増やす事に移ってしまいました。」(p46-47)つまりipadで若者を釣っても、霊性が育たなければ、あっと言う間に教会が崩壊してしまうのは目に見えてるからである。


10年も前に指摘されていた!
実はこういった傾向は2005年に出版された資料提供機関バーナグループの創設ジョージ・バナーが書いた「レボリューション」にその傾向が指摘されていた。この本の帯には「何百万人もの信者が既存の教会を離れている・・今、アメリカの教会に何が起っているのか?」となっている。本を開いて見るとアメリカの地域教会の現状が統計データーをもって書かれている。


   通常、クリスチャンが神を礼拝するのは、週2回の礼拝に出席した時だけ。
   10人中8人は礼拝で神の臨在を感じない。
   クリスチャンの半数は、過去1年間に神の臨在を感じた事がない。
   典型的クリスチャンは、一生の間、一人も救いに導くことなく人生を終える人が多い。
   大方のクリスチャンは救いのために祈る時、特定の人を思い浮かべずに祈っている。
   教会に通っているクリスチャンのほとんどは、自分には伝道の賜物が無いので、伝道に責任を持たなくてもよいと思っている。
   新生したクリスチャンのうち、聖書的な世界観を持っている人はわずか9%である。
   人生における成功は何かと聞かれて、霊的な成功を挙げる人はわずかだ。
   教会に通っているクリスチャンで、収入の一割を教会や非営利団体に献金している人は10人のうち1人以下である。
   兄弟姉妹に対して霊的な責任を果たしているクリスチャンは6人に1人。
   新生したクリスチャン夫婦で離婚に至ったカップルの数は、未信者の夫婦とほぼ同数である。


一言で言えば教会が形骸化し、霊的な活力を失ってしまったということだろう。日曜日に「教会に行く」ということが儀式化してしまい、自分の人生にも社会にも影響を失ってきているということだろう。


レボリューション
かつてジョンレノンは「みんな世界を変えたいのさ」と歌った。60−70年代初頭、若者は革命を信じて立ち上がった。我々クリスチャンも世界を変えたい。御国が来て欲しい。御心が天になるように、地にも為していただきたい。そして、世を変えるため、この地をあがなう、「あがないのコミュニティ」として教会が置かれている。その教会に影響力が無くなってきているとすれば、教会自体の革命が必要になる。ジョージ・バナーは教会の「刷新」ではなくあえて「革命」と言った。

「もっと端的に言うなら、革命とは私達が教会に『行く』ために召されているのではないことを認識することである。私達一人一人が教会に『なる』ために召されているのである。(p46

革命のためには、どうしても教会と礼拝(儀式としての)のことに触れなければならない。

「しかし、聖書には、今日私達が知っているような教会の姿は描写されていないし、勧められてもいないことにお気づきだろうか。現在のような『教会』は何世紀も前に、宗教指導者たちが人々をよりよいキリスト教徒にするために作り出したものである。しかし、多くの人たちが重要と思っている教会礼拝、職務、行事、建物、儀式は聖書的でも非聖書的でもない。教会は無聖書的なのだ。すなわち教会組織は聖書には書かれていないのだ。・・教会は健康的で私達の助けになりこそすれ、神聖にして犯すべからずという性質のものではない。」

p.44 *これに関しては、ジョージ・バナーとフランク・バイオラの共著、「Pagan Christianity?」に詳しく説明されている。残念ながら日本語訳はまだ、無い。)

教会組織は聖書に書かれていないのであれば、変革するスペースがあるという事でもある。私達の頭の中に日曜朝10時半の礼拝は「神聖にして犯すべからずもの」という固定観念がないだろうか?これを変えることは罪であるという思いが在る。しかし、聖書を読んでみると、実は確固たる論拠はない。アメリカの農民達が集まり易い時間帯だったという説もある。「礼拝厳守!」と若い頃言われた事がある。「礼拝を守る」とも言う。その「礼拝」とは何を指しているのだろうか?もちろん神を礼拝することは当然であり、大切なことだ。聖書を読むと、礼拝はまず、儀式というより「霊的なもの」であることが分かる。

「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

極端な事を言えば、立派な会堂で4000名集まる有名な牧師の聖書的なメッセージが語られる礼拝に出席していても、ランチメニューを思いめぐらしているようでは、真の礼拝とは言えない。3−4名でリビングルームに集まっていても、真剣に神を求めていたら、そっちのほうが真の礼拝ということもあり得る。もちろん、家の教会にすれば解決するといったシンプルな話ではない。重要な事は真の弟子が育っているかどうかである。ただ、真の礼拝が会堂の大きさや、その教会の有名度や、人数の多さに関係ないことは明白だろう。そもそも礼拝とは、その人の「生き方」であって、礼拝という「行事」に参加することではない。

「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

日曜日10時半だけではなく、月曜から土曜までの日々の歩みも同じく大事なのではないだろうか?

何度も言ってきたように、礼拝=教会ではない!教会(エクレシア)はイエスを信じる者たちのコミュニティのこと。つまり私達のこと。礼拝は聖書的にはイエスに献身した霊的な歩のこと。一般慣用句的には日曜朝の合同礼拝のこと。いずれにしてもエクレシアが建物や儀式に言及されている箇所は聖書には無いし、教会=礼拝ではない。日曜朝に教会(エクレシア=信じる者の共同体)が一緒に礼拝しているのである。(あくまで「礼拝している」という動詞形が大事なのだ。)

さらに、ヘブル書10:25について、バナーはこう解説する。
「事実、聖書がクリスチャンは一緒に集まらなければならないと言う時、教会の礼拝や会衆向けのイベントを指して言っているのではない。『ある人のように一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか』(ヘブル10:25)。このような集まりは教会の礼拝だけでなく、スターバックスでも行う事ができる。日曜学校のクラスや、クリスチャンの友人宅で夕食をごちそうになりながら行うこともできる。神は無意味な儀式より人間の心を大切にし、信仰の実践に関して特別な規則を設ける事はしていない。私達が、神から与えられた創造的な力を使って神を愛し、神に栄光を帰することを神は望んでいるのである。事実、神を礼拝することと『教会における集会』を結びつける聖句は聖書にはない。聖書には礼拝は教会の礼拝堂で行わなければならない、だから私達は積極的に教会に関わっていなければならない、とは書いていない。私達は霊とまことをもって純粋に定期的に神を礼拝しなければならないと書いてあるだけである。」(p。121)

「神はご自身にとって重要なこと、私達が守らなければならない事に関しては実に詳細な注意を与えているが、クリスチャンが集まる事についてはほとんど何も語っていないのだ。神が語っていないということは、私達がクリスチャンの行動と働きに関する神の教えに沿って生きている限り、弟子達と一致して生きる方法を自由に作り上げてもよいということである。」(P122


現代人が価値を置くもの
現代のアメリカはポストモダンであり、若い人を中心に以下のような考えになってきている。人生で最も大切なのは人間関係。結果より過程。効果的に社会に影響を与えるのは、人との会話。一方的にしゃべりまくって信仰を押し付けても、人々は耳を傾けない。パフォーマンスやプログラムより純粋な「愛」、個人的な「信頼性」が大事。原則や命令より、個人的な証や体験を重視。ただ聞くより「参加」や「体験」を重んじる。これは現代日本のヤングアダルトも同じだろう。このような考え方は当然ミニストリーにも影響を及ぼしてくる。ノンクリスチャンの友人を大きな伝道集会に連れてゆくより、個人的な会話をしたいという気持ちが強まっているという。そういう傾向自体が悪い訳ではない。そして、そういう型に合わせられる柔軟性を聖書は持っている。たとえば、集会で一方的に話すより、参加型スモールグループでお互い、聖書の箇所を通して語られたことを分かち合うこともできる。この型だと全員参加できるし、お互いからも学べる。そのために顔を向けて話し合える物理的な環境も大事だ。礼拝堂が固定した長椅子の場合、「お互い」を実践するのが難しくなる。


信仰の表現の場は外に向かう
バナーは面白い指摘をしている。2025年までにアメリカの霊的環境は大きく変わるというのだ。アメリカ人が信仰を体験し、信仰を表明する「場所」として、3分の1は教会、3分の1はキリスト教ではない信仰の共同体を、そして3分の1はマスコミや芸術、カルチャーセンターなどを選ぶと予測されるというのだ。これは2000年には霊的な体験と信仰の表現の場として教会が70%であったのに対して、教会と教会以外の場が同等になってゆくことを示している。また信仰の表現の場も教会堂の中だけでなく、マスコミや芸術が3分の1となるというのだ。これは社会への影響という視野からは好ましい傾向ともいえる。日本でも3:11以来、地元コミュニティと教会との関係が重視されるようになった。

「革命家は人々を世から引き離し、組織との関係の中に置くのではなく、現在いる場所で、神の臨在とはどういうものかを示すのである。これは広義の草の根のリバイバル運動であり、そこにはリーダーもいなければ、それは聖書によってである。・・・・現在は圧倒的に外側から外側への流れになっており、クリスチャンは世を教会の敷地と考え、出会う一人一人が、神の永遠の存在と経験の中で愛すべき魂と考えている。革命家の多くは教会の活発なメンバーだが、彼らのミニストリーは教会という枠の中よりも外の現実の世界のほうがうまくいくようだ。」(133


霊的なミニムーブメント
信徒が100万単位で既存教会から離れるのはショッキングだが、一概に悪い訳でもない。確かに信仰から離れる人もいるだろうが、「革命的」に生きるために離れる人達もいる。バナーが言う霊的ミニムーブメントは神が「教会」の建物の外で起こしている働きであり、ホームスクール、家の教会、経済界におけるミニストリー、信徒訓練のネットワーク、クリスチャンにより創造芸術団体などだ。日本ではビジネスマンのVIPインターナショナルクラブなども、これに当たるだろう。彼らはそこで励まされ、活き活きと信仰を証している。神に出会う方法や場所には多様性がある。ミニムーブメントの特徴は・・・

1.神に対するまっすぐな信仰
2.個人的な関係を重視
3.人生の変革 トランスフォーメーション
4.明確なグループ目標=霊的成長
5.個人の人生にかかわる

そして、このムーブメントは職業的牧師や宣教師に頼らないという特徴がある。
彼らが生活の場で与えられたポジションのまま、神がご臨在を顕してゆく。信徒/宣教師という枠も超えてゆく。バナーは職業的な牧師は減ってゆくと予測している。

「クリスチャンの生き方そのものが礼拝と伝道の手段となっていくのだ。天幕作り__収入を得る手段として仕事をする一方、世の中に本当のキリストを伝えたいという願いを持ち続ける——は風変わりな1世紀の考え方だと思われていたが、これからは個人の明確なライフスタイルになるに違いない。」

彼らは、同じ思いを持つ人々とネットワークを組み、コミュニティを形成してゆく。それは集会のための集会ではなく、革命のため、そして世界を変革するためである。バナーは言う「革命家が他の革命家のコミュニティにつながることにより、革命家たちは現実にしっかりと根ざし、さらなる理想へと突き進むのである。」

革命のためには流れに逆行する必要もある。当然、変化を希望しない人々からは批判される。確信を持って進むため、神のうちに留まり、神に言われたことを忠実に守ることが大切だ。

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レボリューション〜今、教会に起りつつある革命
ジョージ・バーナ著
地引き網出版  1600円

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
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