神は男性?
先日、聖公会の女性祭司たちが、神の名を男性のイメージにならないよう、変更の提案をしたというニュース記事を見ました。そして、それは単に女性にすればいいという主張ではないようです。確かに、創世記には「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・神はこのように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)とありますね。どうも神の「かたち」の中に男と女があるようです。だから、神を男性と決めつけてしまうのは再考が必要なのではないでしょうか。
生物学的にはすべての人間は、初め女性として作られ、そして男性ホルモンを多く浴びると男性器が発達し男性になるそうです。ホルモンの出方に障害があると、思春期に性が転換してしまうこともあるといいます。(NHKの番組で、実証例が紹介されていました。)男性なのに女性っぽかったり、女性なのに男性っぽかったりすると気持ち悪いという印象があり、クリスチャンだと、「罪」をすぐ思い浮かべてしまいます。しかし、性のアイデンティティの問題は単に道徳問題(罪)として簡単にかたずけられない部分があるのではないでしょうか。性同一性症候群、つまり、身体と自分の性のアイデンティティのギャップで人知れず悩んでいる人々も多いのです。
「形成された睾丸から分泌される男性ホルモンをシャワーのように浴びた脳は、男の脳へと決定されてゆく。男性ホルモンを浴びないと、女性の脳ができあがる。この時期に、睾丸が形成されていても、何らかの理由でホルモンシャワーを十分に浴びないと、身体は男性でも脳は女の脳に分化されてゆくと言われている。生物学的な性の決定には、分化できる時期が決まっていて、あらかじめ決められたメカニズムに従い、一定の順序にのっとって行われる。そのため、分化の過程で、との一つに欠陥が生じたり、時期を逃したりすると、もはや後戻りができない。ちょっとしたズレでも、身体は女なのに、男の脳や、身体は男なのに女の脳といった現象が起こりうるということである。」(「性同一性障害」吉永みち子、集英社新書 P.33)
ともあれ、神は人間でないので、性を超えています。人間にわかりやすいように、イエスは受肉され、男として地上で生活されました。しかし、女になれなかった訳ではないのです。遠藤周作がよく「西洋は父なる神」、「東洋は母なる神」という表現をしますが、創造主なる神はその両性が備わり、いや、それを凌駕している存在といったほうが正確でしょう。そして、その両性とも尊いものであり、神は必要とあらば、両性を表すことができるのだと思います。
全世界39カ国で1800万人に愛読された「神の小屋」(現代はThe Shack)という小説を最近、読みました。宣教師の両親を持つ、ポール・ヤング氏が書く、苦難と、ゆるしをテーマにした物語です。興味深いのは神学校で学んだヤング氏が父なる「神」を黒人女性、「聖霊」をアジア系の女性として描いている点です。当然、物議をかもし、反対も起こりました。ヤング氏が講演する教会の前では反対プラカードを持った人が現れたりしました。
しかし、私はこの表現の仕方を肯定的に捉えています。我々の固定観念に新しい視点を与えてくれます。父親との葛藤で傷ついていた主人公に、著者はあえて、神を「厳格な父なる神」としてではなく、「陽気な黒人女性」として描写します。でも名前は、「パパ」。この箇所を読むと始めは、違和感を覚えつつも、これもありだろうなと思うし、逆に神の愛を感じます。傷ついた者を受け入れ、慰めるのは父より母の役割でしょう。神はもちろん、「母」を演じることもできるんです。イエスだって必要なら女性として受肉することもできたのです。ただ、男性として現れるご計画だったのです。聖霊はそもそも女性としてイメージされることが多いですね。しかし、なんせ、霊なので捉えにくい。この小説では「サラユー」という小柄なアジア系女性がイメージされています。ふと現れたり、いなくなったり、透明な存在感が描写されています。このように描いてくれると聖霊が身近に感じられるようになりました。神は女性でも有り得ると知ると、何故か、ホッとします。
三位一体はキリスト教だけ
世界に多くの宗教がある中で、三位一体の神はクリスチャンの信仰だけに見られるユニークなものです。三位一体において神の本質は「関係性」なのです。つまり、初めから神は「愛」と「コミュニケーション」の神なのです。孤独な神ではありません。なにより、「パパ」「イエス」「サラユー」が仲のいい、お互いを尊敬し合う、微笑ましい家族として描かれているのが嬉しいのです。この3つの人格(神格?)はお互いをGlorify、すなわち、お互いを賛美し、喜び、お互いの存在を感謝しているのです。そして、この関係は「お互いを与え合う愛」で成り立っているのです。神は非人格なForce(力)ではありません。ニューヨーク、リディーマー教会の牧師ティム・ケラーはその著書「The Reason for God」の中で三位一体を「お互いが、お互いを賛美して踊り回っている」と表現しています。Trinity is the Divine Danceだから神の創造は喜びのダンスなのだと。そして、神は私たちをそのダンスに招き入れているのだと。素敵な表現ですね。
悲劇の起こった現場である「小屋」に三位一体の神(家族)が笑顔を持って住んでいる。主人公は、そこに招かれる。「神の小屋」とは自分の心の一番痛いところとも言えます。神はそこに私たちを招かれるのです。そこで出会うのが、私が来るのを待っていた、私を愛し、笑顔で迎え入れてくれる「神ファミリー」なのです。もちらん、甘やかすだけではありません。時に痛くあっても傷の原因も指摘してくれます。しかし、愛と信頼を築くことが先なのです。いきなり咎めるようなことはしません。愛と信頼の中で、やがて自分の問題に直面できるようになっていくのです。私達の親子関係や、仕事場での上司との関係も同じですよね。
小説の主人公はキャンプ場で娘が殺人鬼に拐われ、殺害されてしまうのです。しかし、彼は、最後には神が良き方であることを信じて、自分の娘を殺害した殺人鬼を赦す信仰の決断をするに至ります。そして、それが彼自身の癒しにつながっていくのです。神はこの全プロセスにかかわり、責任を持ち、絶妙のタイミングで導いてくださるのです。
この本を読んだ読者は誰も、こんな家族と一緒にいたいと思うでしょうね。この小屋を去りたくないと思うでしょう。私はそう思いました。しかし、よく考えてみると、この家族は実はいつも私と共にいるんですね。どんな場所にも。いつ何時でも。
デボーションが変わった!
だからデボーションは「お勤め」ではなく、この「小屋」に行って、この神ファミリーとお茶する時間なのです。それはとても楽しく美しい、「癒しの時間」なのです。皆さんの神のイメージはどうでしょうか?自分を裁くこわい方。基準を満たせないことにすぐ怒る方?それならあまり、神の御前に出たくないでしょうね。神の恵みに生きていないと、あの放蕩息子のお兄さんのような神観になってしまいます。
自分のデボーションも変わりました。あの小屋をイメージし、ドアを開けた時、満面の笑顔で迎え、たくましい腕でハグしてくれる、黒人女性の「パパ」を思い描くことができるようになりました。「待ってたよ、さおお入り。イエスもサラユー(聖霊)も、あんたの来るのを待ってたよ。さ、私の作ったおいしいケーキを食べながら、話そうじゃないか。」と言ってくれる。サラユーは美しいお花を片手に持って、ウエルカムのキスをしてくれる。ああ、自分はここで歓迎されている。赦されている。愛されている・・・素敵な時間。
この麗しい「パパ」「イエス」「サラユー」の交わりの延長が教会(エクレシア)なのです。そして、そこに招くのが「救い」です。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなががたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および、イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(第一ヨハネ1:1−4)
今日、エクレシアで、その雛形を体験できるのです。主は言われました。「ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところにわたしも、その中にいるからです。」(マタイ18:20)
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「神の小屋」
ウイリアム・ポール・ヤング著
いのちのことば社 フォレストブック
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロコミュニティ(TMC)