2015年8月24日月曜日

日本キリスト教史と7つの数字


 東京基督教大学(TCU)の山口陽一先生によると日本キリスト教史に関してキーとなる7つの数字があるといいます。TUCでの模擬授業に参加した時の話が大変興味深かったので、お分かちします。7つの数字とは・・・

1549
1614
370000
1620
5500
1859
1884

さて、これが何かお分かりでしょうか?

1549年は言わずと知れた宣教師ザビエル(最近では、シャビエルと表記するらしい)が鹿児島に上陸しカトリックの宣教を開始した年です。教科書ではキリスト教伝来の年として習ったでしょうね。先に37万人の説明をすると、これはピーク時のクリスチャン人口。諸説では最高70万いたとも言われています。37万はかなり固い数字と言えるでしょう。これは大きい数字なのか、少ない数字なのか?実は当時、日本の人口は1200万人くらいで、今の10分の1でした。現在、クリスチャン人口は111万人(うちプロテスタント人口は66万)。それを考えると結構、大きな数字と言えるかも知れませんね。




1614年は徳川幕府がキリシタン禁教令を出した年。それにより、5500人の殉教者が出ました。殉教者数も諸説あり、島原だけで20万と書いている本もあります。島原の乱の犠牲者なども入っている数字でしょう。しかし、5500は純粋に信仰のゆえに殉教した人としてカトリックが正式にカウントした人の数だそうです。それにしても、現在、あなたの教会で一人殉教者が出たら大変なニュースですよね。5500人もの日本人が純粋に信仰ゆえに命を捨てたのです。これは大きな事ではないでしょうか。


さて、1620年。これは何でしょうか?これはメイフラワー号に乗って、ピューリタンたちがアメリカに到着した年です。アメリカの歴史がここから始まりました。だいぶ、日本の歴史より遅いですね。ということはアメリカのキリスト教の歴史も新しいと言える訳です。

1859年は日本でのプロテスタント宣教開始の年。1884年は韓国でのプロテスタント宣教開始の年。今では、国民の25%がクリスチャンとも言われる韓国ですが、宣教の歴史は日本のほうが長いのです。ちなみに、1846年に沖縄でプロテスタントの宣教は始まっており、これをカウントすれば、もっと早くなるそうです。






いずれにしても、日本のキリスト教の歴史はクリスチャン人口の多い、アメリカ、韓国より長いのです。アメリカにまだクリスチャンがいなかった時代に、日本ではすでに37万人のキリシタンがいたということになります。信仰においては先輩なんですね。大きな違いは、アメリカはクリスチャンが移民してできた国で国の基礎がクリスチャン信仰なのです。日本は宣教師が伝えてクリスチャンが起こされた国です。


確かに、これだけ長い間、宣教がなされてきてクリスチャンが少ないという、がっかりする面もありますが、逆に、これだけ長い歴史・・・そこには殉教、日本文化との葛藤、近代化と和魂洋才、先の戦争での「国体」と信仰問題、高度成長と物質主義、ポストモダンとの対峙などなど、豊富な経験と体験という財産があるという面もあるのです。3:11東日本大震災を通してもさらに日本の教会は深化しました。苦闘しながら、いろいろ学んできているのです。



日本昔話に「うさぎとカメ」の話がありますね。先発のカメを後発のうさぎが追い抜いてゆきます。日本はカメのような歩みです。しかし、競技が終わったわけではありません。ゆっくり歩む中で得てきた「体験」と「知恵」に、やがてうさぎが付いてくる日が来るのかも知れませんね。

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東京メトロ・コミュニティ(TMC

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2015年8月5日水曜日

天命に生きる 


私たちはなぜ、救われたのでしょうか?

  「それは、罪赦され、天国に行くためでしょう?」
  「それなら、なぜ、神はすぐ天国へ連れて行ってくれないのでしょう?」

  「なぜ、この地上に残されているのでしょうか?」
  「地上にいる使命とは何なのでしょうか?」

  「それは伝道して一人でも魂を救うためでしょう?この天地はどうせ滅ぶ 
   んでしょう。だから救霊が最優先でしょう。」
  「そうすると、この世のいろいろな社会的問題は関係ないんでしょうか? 
   いずれ滅びる地上を良くしようとする試みは無駄なのでしょうか?」

  「地上で仕事をする意味は何なのでしょう?仕事は単なる必要悪?」

「救いが魂のことだけなら、なぜ、神はノアの箱船に動物を乗せたので
 しょうか?ノアが救いのタイプなら、なぜ、地球以外の星に行かないで、 
 この地上で生活を再開したのでしょうか?」

ローマ書8:20−22を読んでみると、被造物も回復、解放の時を待っているとあります。どうやら神の救いの計画は全被造物がかかわっているようです。福音/救いには人間の魂の救い以上に、もっと宇宙的な広い視野と内容があるようです。


「救いの物語」としての聖書

魂の救いだけが大事なのであれば、ヨハネの分冊があれば十分なのではないでしょうか?しかし、神のこの歴史に対する御心を知るには旧約聖書から黙示録までの「救いの物語」を読む必要があるのです。



聖書66巻は「はじめに神が・・」で始まっています。神がこの世界を美しい、良い物として創造したことを知ることは極めて重要です。現在の世界の醜さは神の初めから意図したことではないからです。創造の後に「堕落」があり、罪が人類に入り、地が呪われたのです。この理解がないと、現代の悲劇は「神が存在するなら、それは悪魔だ」という結論になってしまうのです。人の罪は以下の4つの関係を壊しました。つまり、シャロームの破壊です。

1.      自分と神との関係 (魂のふるさとの喪失。真善美の喪失)
2.      自分との関係  (アイデンティティの喪失。自己価値の喪失)
3.      自分と人との関係 (コミュニティの喪失、愛の喪失)
4.      自分と被造物との関係 (環境破壊、調和の喪失)

堕落で終わりなら、人類にも全宇宙にも希望はありません。しかし、聖書は神は救いの神であり、回復の神であることを教えています。主の祈りで、「御心が地になりますように!」と祈りますね。御心がなるところが「神の国」なのです。すなわち、神の義、愛、平和が実現するところです。天と地が出会うところです。そして、イエスが来られた時から、神の国が始まったのです。(ルカ11:20)。神の国は「もう来ている」し、「まだ、フルバージョンでは来ていない」のです。つまり、私達は「もう」と「まだ」の間を生きている訳です。

この回復期に神の国を推進する私達の役割があるのです。つまり、シャロームの回復です。そして、やがて天のエルサレムが地に降ってきて、この地上がトランスフォームされます。つまり、完成です。

まとめてみると、聖書の救いの物語は4つの章から成り立ってることが分かります。


創造堕落購い/回復 (造られた物すべての購いと回復)— 完成です。


完成とはシャロームの完全なる実現です。すべてのヒーロー映画は聖書の世界観を踏襲しています。はじめに平和な良い世界があった。そこに悪者がやってきて人々を虐げ不幸にする。しかし、ヒーローが現れ、悪者を退治してくれる。再び、世界は回復され、平和が戻って来る。これが人間の認知調和なのです。だから、ヒーロー映画のハッピーエンドを見て満足して映画館を出るのです。


人間は自分が思っているよりすごい存在。

もともと人は神の似姿に造られています。(創1:27)つまり高尚な存在なのです。有能な存在なのです。詩編8:5では「神よりいくらか劣るものとし・・・」とあります。「神よりいくらか劣る」とは恐縮してしまいますね。

創世記:1:28では、「地を治めよ」と命じられています。それだけの「能力」があるからでしょう。つまり人間は被造物管理能力を持っているのです。2:15では、「地を耕せ」と命じられています。これは英語ではDevelop、つまり、神が造ったものに、人が「手を加え、より良きものにする」という意味です。実際、人はそうやって都市文明を築いてきたのです。神は、神の代理人としてこの地を治めるよう人を地に配置したのです。被造物の管理を人間に託したのです。

ヘブル2:8には、「万物をその足の下に従わせられました。」とあります。もちろん、第一義的にはイエス様のことですが、注意深く読むと将来の人間のことが書かれてることがわかります。神はこの地を天使にではなく、人に任せるおつもりです。

確かに、人は、罪を犯して園を追い出されました。しかし、人間で無くなった訳ではないのです。地を治める命令が永久に取り去られた訳ではないのです。むしろ、その権利を回復するため、イエスが来られ購いをなされたのです。

神の姿に造られ、地を治めるように命じられた人間の目的が単に天国に行くだけなのは、理にかなわないことです。この地上でのよき業は意味が無いとは考えられません。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地」を統治し、管理する責任があるのです。私たちは、キリストとの共同相続人なのです。(ローマ8:17)


被造物全体のあがないにクリスチャンが期待されている

ローマ8:21を読んでみてください。「被造物も、切実な思いで神の子供たちの現れを待ち望んでいるのです。・・被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私達は被造物全体が今に至まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。はじめは、ここは「神の子、イエス」のことを言っているのだと勘違いしていました。しかし、注意深く読むと、「神の子供たち」と複数形になっています。つまり、私たち贖われたクリスチャンのことを指しているのです。そう、被造物は期待してクリスチャンの現れを待っているのです。

黙示録ではキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」として描いているのです。彼らとは購われた民、すなわち私達のことです。贖われた民は、来たるべき世で「王」として描かれているのです。みなさんは王であると意識していますか?私達が自分で思っているより、すごいポジションに置かれているし、大きな責任が期待されているのですね。

良い王ならば自分の国民をすべての災いから守るでしょう。当然、管理(危機管理を含め)が入ってきます。教会で危機管理?でもそれは王として、実にふさわしいことなのです。世界には沢山の危機があります。地震や火山などの自然災害リスク、温暖化や環境問題。政治的にもサイバーテロ、核テロ、戦争、また「エボラ熱」のようなパンデミックの問題もあります。 今まではクリスチャンは霊のことだけ、教会堂の中で祈っていればいい的な、また、伝道して魂さえ救われれば、それでいい的な印象がありましたが、世界は「神のガーデン」なのです。そして、人は「この地を治めよ」と命じられているのです。クリスチャンは、この地に「御国が来るように」祈り、行動する責任があるのです。この世で起こっていることに無関心ではいられないのです。


地上での仕事の意味は?

この世の人がこの世の知恵で「楽園」を築こうとすると、あの「バベルの塔」になるのです。なぜなら、神のご計画を無視して自分の計画と力で世界を築こうとするからです。クリスチャンは「聖霊」を頂いています。だから、神のお心がわかるのです。神の「知恵」や「力」を受けることができるのです。だから、積極的に「神の国」を建設してゆくことができるのです。それだけの能力や権力の無い者に「地を治めよ」と神が命じるのは理にかなわない事です。神様チームの一員として「神の国」建設に勤しむよう召してくださっているのです。地上のどんな仕事も意味があります。地を耕すことの一部だからです。


創世記で「仕事」という言葉に使われているのは「アヴォダ」この語は「礼拝」「奉仕」「ミニストリー」「職人芸」とも訳されています。創世記2:15の「耕せ」はアヴォダ。同じ言葉が「仕事」とも「ミニストリー」とも訳されているのです。聖書的には「仕事」、「ミニストリー」の二元論は無いのです。食べるも、飲むにも神の栄光を表す。本来的には「仕事」「奉仕」「礼拝」「ミニストリー」は繋がっているのです。シームレスライフ。境をつけない。日曜の顔と月曜の顔、変えないで。やる事為す事シャロームのため。これを念頭に。私たちは皆、Kingdom builders(御国の建設者)です。


片手に「聖書」、片手に「新聞」という言葉もありますが、この世で起っている事と自分の信仰生活とは関係があるのです。信仰生活とはただ、日曜朝のプログラムに出席することではありません。Worship service to service as worship. (ただ礼拝という儀式に出ることから週日奉仕するという真の意味での礼拝へ)24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し行動します。(ローマ12:1)

「天に御心が成るように、地でも成させたまえ」と祈りますね。地で御心が成るように(つまりは、この地の管理が為されること)、この世とかかわり、行動してゆくことなのではないでしょうか?社会を見渡せば、沢山のニーズが見えてきます。私達が神の手と足となる。「この地上を少しでも天国のようにしてゆくこと」=シャロームの回復、それが私達の「天命」です。神様から知恵を頂き、「この国」の「この時代」の問題をキリストと共に担ってゆくということではないでしょうか? 


「御国が来ますように!御心が天になるように、地にもなりますように!」



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