ある大会の分科会で「祈り」セミナーに出ました。その先生はセミナーの初っぱな、「神の声を聞いた事がありますか?一人ずつ、その体験を話してください」と言いました。ちょっとびっくりしました。そして、皆の話を聞いた後に、「祈りは聞く事です。」と言われたことが印象に残っています。
ダマスコ途上のパウロのように直接、神の声を聞いた人もいるし、印象として思いが来る場合もあでしょう。「日本の宣教に召された」と、日本に来る宣教師はある意味で神の声を聞いてやってきたのだと思います。
祈りは双方向ですね。祈りは本質的には神との交わり/コミュニケーションのことと言えるでしょう。キャッチボールなので神の声を聞き、神に申し上げるという双方向です。
それは信頼の中でかわされる会話です。信仰の関係は恋愛関係に例えるとよくわかります。恋人同士はお互いに話したいし、相手の言葉を聞きたいのです。そうやって愛を確かめます。神との愛の確認をするんです。
この祈りという行為には通常以下の4つの要素があります。(順番も大事。)
A: Adoration 神を慕うこと、礼拝や賛美を捧げる事
まず賛美。神の大きさを思い起こす。神がどんな方か?
C: Confession 罪の告白をすること。神とのパイプをクリーン
T: Thanksgiving 感謝をささげる
S: Supplication: お願い
Adorationには声に出す賛美もありますが、静かに神を思いめぐらすことも含まれます。カトリックは瞑想を大事にしますね。プロテスタントももっと「黙想=メディテーション」を礼拝に入れた方がいいと思います。神を待ち望む姿勢は大事です。
そう待ち望むのです。多くの場合、玄関ベルを押して神様が出て来る前に玄関を去ってしまいます。本来礼拝はゆっくり神とお会いする時ですね。しかし、礼拝がプログラム化する危険があります。次から次へプログラムが目白押しで、プログラムを「無事終える」ことで安心してしまうような。でも、礼拝は本来、何か起る場所なのです。神に遭遇する場なのです。神が語る場なのです。神に出会い、神に取り扱われる場なのです。
さて、すぐに聞かれない祈りをどう考えたらいいのでしょう。ヨハネ5:1から38年間病に臥せっていた人の話が出てきます。あの池の周りには大勢の病人がいたのです。ユダヤの神殿隣接の回廊です。多くは神を信じていた人でしょう。当然、癒しを祈ったでしょう。祈っても、祈っても、癒されなかった多くの人がいた訳です。三浦綾子さんは13年カリエスでベッドに寝たままでした。星野富弘さん下半身麻痺で寝たきりとなりました。当然、彼らも癒しを祈ったでしょう。祈り続けたでしょう。
三浦さんも星野さんも、すぐに癒されない中で、恐らく彼らは沢山、神と会話したでしょう(文句も含めて)。沢山祈ったのです。神と交わったのです。時に文句、神への非難も。それさえも含めて神との会話がなされました。そして、神はそれを拒んでおられないのです。ですから、何でも祈ればいいのです。何でも話せばいいのです。祈りは神との会話です。ハワイのホープチャペルのラルフモア牧師は、「無責任に祈りなさい!」と言います。祈りに応えるのは私たちの責任ではありません。私たちはただ問題を神にもっていくだけです。祈りが会話であり、交わりが祈りの本質であれば、ある意味で「祈りの目的」は達せられているのです。
「お願い」は祈りの中の1つの要素にしかすぎません。祈り=お願い ではないのです。そこだけ取り出して、祈りが聞かれる、聞かれないという論争はあまり意味がありません。神との関係はどうなっていますか?が正しい質問です。実は賜物、いやし、問題解決より、神ご自身を求めて行くことが祈りの本質であり、神が喜ばれる事です。なぜなら問題は解決されても、また次の問題が来るからです。地上にいる限り問題は無くならないでしょう。
バンクーバーのリージェントカレッジのジェームス・ヒューストン教授も、「祈りは、神との交わりである。」と言っています。そして、その交わりを妨げるものとして、以下の3つを挙げています。
1.心の傷 — 親との関係など、父なる神のイメージがゆがむ。
2.行動主義 — 心の傷をかくすため、自分の弱さを直視しないため行動し
てしまう。神より先に動いてしまう。自分でやってしまう。
3.神への不信 —神の無条件の愛を信じられない。「何かしないと神に受け入
れられない。」と思っている。神の子供の特権を忘れている。
聖書は言っています。
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
(詩編37:4)
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と続きます。
このように、神との関係が祈りの答えに関連していることが分かります。神に信頼している時、神が成し遂げてくださるのです。神があなたの人生に責任もってくださいます。
ある意味では聞かれない祈りを通して神との交わりが深まることもあります。もちろん神は知っておられるのです。無視していないのです。
(6節、彼が伏せっているのを見、それが、もう長い間のことなのかを知って、彼に言われた。よくなりたいか?)
彼が伏せっているのを「見」、長い間のことなのかを「知って」その上で、語りかけたのです。ときどき、長いトンネルに入って「もう出られないのではないか。」と思うこともあります。しかし、神の目の前で起こらないことは何一つ無いのです。
あなたの髪の毛の数さえ知っておられる神は、あなたの問題も課題も、祈りの言葉に上る前から知っておられます。神の目の前で起っていない問題は無いからです。そして、神は、あなたのことを心配して(ケア)おられるのです。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)
何よりも神を信頼することが大事なのです。神は御子キリストさえ私達に下さったのです。それ以上何を惜しまれるでしょうか?正直にあなたの思いをなんでも神にぶつけてください。神は受け止めてくださいます。信頼関係がある友達には何でも言えますよね。ただ、何度も言うように、これは神との「関係」の話ですから、
繰り返しますが、あなたが祈る時、神は聞いています。無視している訳ではありません。でも時に答えをくださるまでに時間がかかる時があります。私が銀座を歩きながら都心でエクレシアを始めたいと主に願ってから、実現するまで10年かかりました。しかし、それは実現したのです。
では、祈りが妨げられる要因とは何でしょうか?—動機が大事なのです。
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悪い動機で求める(ヤコブ4:3)自己中心の祈りは聞かれない。
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告白していない罪がある (第一ヨハネ1:10)
⚫ 兄弟を赦していない (マタイ5:23−24)
こういった場合には祈り(神との関係)が妨げられます。5:14「もう罪を犯してはなりません」 折々罪と病が関係しているのです。特に「憎しみ」「赦せない心」です。この男も誰かを38年間赦せない思いがあったのかも知れません。あるいは、「直りたくない」直らないことによるメリットが直ることより大きかったのかも知れません。7節は、変な答えですね。すぐに「はい、直りたいです」ではないのです。病気であることで「働かなくていい」「ケアされ、注目しつづけられる」からなのか、家族が食事を運んでいたか?分かりませんが・・「してくれない病」という「病気」だったのかも知れません?いずれにしても主は「罪があった」と言われたのです。
それでも聞かれない願い?
あの大使徒パウロには祈っても取り除かれない「肉体の棘」があったというのです。(第二コリント12:7−9)あのパウロ大先生でさえ、「棘」が取り除かれない、つまり祈りが聞かれないという状況があったのです。しかし、神は「わたしの恵みはあなたに十分です。」とパウロに言われたのです。つまり、以下の3つのケースがあるのです。
1.祈って状況が変わる(祈りが聞かれる)あるいは、願ったものがそのまま与えられる(奇跡)
2.状況に対応する力(恵み)が与えられる。
3.祈った人が変えられる(忍耐など品性が練られる、神の視点が与えられるなど)
星野富弘、レーナマリア 片腕のソウルサーファー。彼らは、非常な困難の中を通りましたが、今は前向きに主と共に、笑顔さえ見せて、主のために歩んでいるのです。
祈りは神との関係なので、機械的なパターン(方程式)はありません。そして神の為さる事は不思議なのです。ワンパターンではありません。
ペテロは獄中から救い出され、ステパノは石打で死んだのです。どっちが信仰深かったという問題ではありません。神がそうお決めになったのです。日本のキリシタンもそうですが、多くの場合、迫害の中の人は助け出されず、殉教しています。
しかし、聖書は言っています。「神を愛する者には神はすべての事を働かせて益としてくださるのです。」(ローマ8:28)すべてを働かせて益とする。それは必ずしも自分中心の欲を満たす意味での「益」ではなく、神のご計画の中での、神の「益」という意味です。
神の思いは私達の思いより高いのです。繰り返しになりますが、祈りの目的が単に、問題の解決なら、また問題は来るのです。問題のただ中で、神が共に居る。それを確認するのが祈りです。そして主の答えはいつも
「わたしはあなたと共にいる」
人生の次のステージへ
5:15 この病を癒された人は、人々にイエスの事を伝え始めました。ただ、伏して自分の事だけ考えていた人が立ち上がり、他の人に祝福を分つ者と成ったのです。今までとは違う生活へ移行したのです。違うライフステージへ進んだのです。そして、神に働く余地を与えるなら、すべての人に転機があるのです。
もうステージに立てないのか?お役にたてないのか?寝たきりで、終わりなのか?引退なのか?星野さんはそう思ったでしょう。でも神の時があるのです。例え肉体的に癒されなくても魂がよみがえり、リフレッシュされ、活き活きとした人生のステージに入るのです。イエスを信じる人生は「そのままでは終わらない人生」なのです。That is not the end!
最後に御言葉に聞いてください。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:20)
「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。それは、わざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」(エレ20:11)
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ブログ執筆者:栗原