2016年11月29日火曜日

垣間見る初代教会の様子


使徒の働き2章を読むと、ペテロの説教で3000人ほどがイエスの弟子に加えられました。その人たちがどういう生活をしていたのかが以下2章42節からのところに書いてあります。これはどうやってというマニュアルではなく、何を大切にしていたかという原則です。

1.    使徒たちの教えを堅く守り
当時、すぐに間違った教え(異端)が入り込んできました。キリスト以外のものを権威とする高慢から出てきます。大きくは2極端、すなわち「律法主義」にずれるか、「恵を放縦に」変えてしまうかです。ですから、福音に固く立つことが大事でした。義認だけではなく、「のろいから祝福へ」、「サタンの奴隷から御霊による解放へ」の福音の原理で生活し続けることが大事です。使徒の働きを見ると、クリスチャンになるとは単なる教理への知的同意ではなく、神の霊が降るという霊的出来事でした。

しかし、当時、今私たちが手にしている新約聖書は無かったので、使徒が巡回してきた時、直接話をうかがうか、使徒が書いた手紙を回覧するか、教えられた人が口移しで伝えたかでしょう。必ずしも同一教師が同じ会衆に毎週日曜日に語る「説教」があった訳ではありません。ともあれ、やがて第一コリント15章1節から8節にあるような内容が共通の福音理解として定着していったものと思われます。

さて、書かれた聖書が無いということは、「文字を読む」文化より、「話を聞く」文化があったようですね。お互いの「分かち合い」を聞き、「御霊に聞く」という文化。書いた聖書が無いなら、御霊の声に敏感にならざるを得ないですね。また、インターネットも無いので「顔を合わせて」語り合うことがメインでした。つまり、至近距離である必要があったのです。神とのコミュニケーションも、もう少しダイレクトだったようです。パウロは復活したイエス様の声をダマスコ途上で直接「聞いて」います。ヨハネは黙示録を書いたとき、御霊に「感じて」いろいろなビジュアルイメージを「見て」メッセージを受け取っています。今日、AIやスマホに「聞く」より、もっと神に聞く訓練が必要かも知れませんね。

2.    交わりをし
当時は家々で集まっていたので(ということは家に入れる人数ですから10人くらいじゃないでしょうか)、お互い名前がわかる距離、顔と顔をあわせる距離感であったわけです。第一コリント16章20節には「聖なるくちづけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。」とあります。当初は本当に家族のように、兄弟姉妹としてくちづけをかわしていたようです。そういう心理的距離だったのですね。それがやがて男女はしなくなり、やがて4世紀になって教職階級が始まると、先生と弟子はしなくなりと心理的距離は離れていきます。ここで面白いのは「互いにあいさつをかわしなさい。」と命令系になっていることです。それほど「あいさつ」が大事なのです。気まずい関係になると「あいさつ」しなくなります。「あいさつ」は関係のバロメーターなのです。ちなみにワーシップの語源は「くちづけ」と聞いたことがあります。神様との心理的至近距離ですね。

ともあれ、交わりをするためにはある程度限られた人数である必要があります。家で集まるのはちょうどよかったのです。ヘブル10:25でも信者が集まることを勧めています。一人ではいけません。交わりの中にいることで霊的に守られますし、愛に成長することができます。最近教会をMissional Community(宣教的コミュニティ)と描写する人たちもいます。

3.    パンを裂き
今でいう、聖餐式のことでしょう。しかし、当時は「儀式」ではありませんでした。「最後の晩餐」の聖餐もそうですが、食事の一環として行われていたのです。そして当時、毎日食べていたパンという日常食を用いて、キリストを覚えたのです。日本では「おにぎり」でもいいかもしれません。神の家族との会食ですから、楽しい雰囲気だったでしょうね。(2章46節)また、イエス様によって罪赦され、神の子とされ、神との祝宴の生活に入ったのですから、聖餐は祝宴の雰囲気で行われたものと思われます。重苦しい「儀式」ではありませんでした。(もちろん、主を覚えるためであり、心が伴わなければ意味がありません。コリントの教会ではあまりにも軽く扱われていたのでパウロは戒めています。参照:第一コリント11:27−30)イエス様はカナの婚礼で水をワインに変えましたが、この奇跡はイエス様の7つの奇跡のオープニングの奇跡としてヨハネの福音書に書かれています。ワインのある祝宴的人生。たくさんの笑顔。イエス様がもたらす人生の象徴ですね。「のろいから祝福へ」。日本の教会は「十字架」と罪の赦しが重視されますが、「使徒の働き」を読むとむしろメインに伝えられていたメッセージは「復活」です。何が起こっても「The End」とならない人生。逆転ホームランが出る人生。イエス様のいる人生は祝福なのです。そして聖餐は、やがて再臨されるイエスという希望に思いを寄せる時でもあるのです。

4.    祈りをしていた。
42節を見る限り、礼拝という「プログラム」や「儀式」はありません。親しい家族が集まり、一緒に食事をし、神様と会話(祈り)していた光景です。聖書には礼拝の順序など細かい規定は書かれていません。この時点では祈祷書も、礼拝中のPastoral prayer(牧師の長い祈り)もなかったのです。イエス様が教えた「主の祈り」をしていたかも知れませんね。とてもシンプルです。そして、すべての必要を祈りの中で神様に持っていっていたのです。それは信徒同士の愛とケアの表れでもあります。今でいう礼拝説教もありませんでしたから、神様に直接「聞く」「語る」という祈りが大きな位置を占めていたものと思われます。

以上4点がメインの要素です。43節からを見てみましょう。さらに初代教会の様子がわかります。

5.      一同の心に恐れが生じ
アナニアとサッピラの事件があったように(5章)、御霊の働きが顕著ということは、御霊をあなどることへの結果も顕著だった訳です。神の働きがリアルであり、生ける神を侮ることができないという「正しい恐れ」があったものと思われます。恵による歩みとは「なあなあ主義」ではありません。罪は罪であり、そういう面でのシリアスさは常に必要なのです。罪とは神との関係のねじれです。神は常に私たちと親密な関係でいたいのです。ですから、罪を嫌うのです。

6.      多くのしるしと不思議が行われた
ある学派では、聖書が編纂された以上、もう福音の証拠としての奇跡は無くなったと考えるようですが、神がもう奇跡を行わないというのはおかしな話です。今日、イスラムの世界でしるしや不思議が起こり、改心者が増えていることも聞いています。今も生きたもう主は今も不思議をなさると信じます。それにしても最大の奇跡はあなたや私が救われたことですね。

7. 財産の共有
   これを原始共産主義と考える人もいます。この実践はエルサレム教会に限られてい
   たようです。信徒がボランタリーに行ったもので、強制ではありませんでした。
   ポイントは愛の行動でしょう。口先だけで愛することをせず、行いをもって愛を示
   すということでしょう。(ヤコブ2:14−16)また、ヤコブが1章27節で言っ
   ているように、神の家族同士の助け合いにとどまらず、社会の弱者、孤児や、やもめ
   たちを援助していたものと思われます。

   エクレシア(教会)は神の国のショーケースなのです。神の国、すなわち神の愛と
   義と平和が支配するところはこんな風ですよと証しているところなのです。

7.      毎日、心を一つにし宮に集まり
ここを根拠に教会堂に集まる日曜礼拝の大切さを主張する人もいますが、1つ考えなければならないのは当時、聖書は旧約聖書しかなく、しかも、それはユダヤ人の会堂(シナゴグ)に巻物として保管されており、安息日に読まれていた訳です。すなわち、み言葉を聞くためには会堂に行く必要があったのです。しかし、今は書かれた聖書が家庭にあるので、場所は教会堂でなくてもよくなったのです。ポイントはできる限り信徒が顔を合わせ、一緒に神を礼拝することではないでしょうか。新約聖書では会堂が特別な「聖なる場所」という思想はありません。霊とまことを持って礼拝するなら場所は関係ないのです。(ヨハネ4:19−24)日本の場合、「ひとりぽっちクリスチャン」が多いので、集まって一緒に礼拝することは大きな励ましになります。「家でパンを裂き」は先ほど述べた聖餐のことでしょう。それは食事と交わりと連結したものでした。

8.      神を賛美し
賛美というと一昔前なら「賛美歌」を歌うこと。今日なら「ワーシップソング」を歌うことをイメージするでしょう。大事なのは神を賛美することであり、どんな楽曲を使うかは決められてはいません。確かにヒルソングの曲はいいのですが、雅楽や民謡調の賛美があってもいいのです。また、詩篇を朗読してり、みことばをベースに祈りで賛美することもありですね。さらに言えば、おいしいものを食べたり、美しい自然を見て感動し、神に心を馳せることも礼拝であり、賛美なのだと思います。主はすばらしいのです。

9.      すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてく
ださった。
   民に「好意」を持たれることと、救われる人が起こされることには関係がありま
   す。地元コミュニティの人を愛し、社会に仕え、人々からの信頼を得ていることは
   宣教の基盤ではないでしょうか。もちろん、福音に反対する人は常にいますし、迫
   害も起こります。しかし、そのことと教会が自己中心になって地元コミュニティに
   関心を払わないこととは違います。また、この節では「主も・・・」と救われる
   人々を加えてくださるのは主であることが明記されています。何か伝道イベントを
   やって一生懸命に人を教会に引っ張ってくるのとは、ちょっとイメージが違うよう
   に感じられます。真に愛し合い、仕え合っている共同体は魅力的なのです。「神は愛
   だ」というのは真実ではあっても、多くの人にとっては、ただの言葉にすぎませ
   ん。その愛を体験できる具体的な行動が必要なのでしょうね。そして、人々を救う
   のは主です。

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初代教会に無かったもの 
(フランク・バイオラ、ジョージ・バナー共著 「ペイガン クリスチャニティ」より)

1.      会堂
AD327年、コンスタンチン皇帝により初めて建設された。
2.      講壇
AD250年あたりから始まった。
3.      日曜礼拝の順序
16世紀のグレゴリーミサから発展。
4.      説教中心の礼拝スタイル
1523年マルチン・ルターにより始まる。
5.      日曜礼拝を休むことによる罪責感
17世紀のニューイングランドのピューリタンにより始まる。
6.      説教前の牧師の長い祈り
17世紀のピューリタンにより始まる。
7.      教職という特別階級
3世紀くらいまでにクリスチャンリーダーは「教職=Clergy」と呼ばれるようになった。
8.      10分の1献金
8世紀くらいまでは一般的ではなかった。後に旧約聖書を用いて正当化されるようになった。(*むしろ、ローマ15:26に見られるように愛の心から具体的な必要に応じて捧げられていたようです。義務ではありませんでした。ちなみに旧約の十分の1は神政国家であるイスラエスのいわば税金のようなもので、土地を持たないレビ人への支給や、国家的祭事、また福祉のために使われていました。同書172ページ参照)
9.      有給の牧師
4世紀、コンスタンチン皇帝によって制度化された。
10。聖餐式
本来の食事を伴う愛餐が2世紀の終わりくらいから、異教の影響によりパンとカップだけに縮小された。
11。教会学校
   ロバートレイカースにより1780年英国で始められた。もともとは貧
   しい子供達に一般教養を教えるためだった。

長い間に一般の人が持っている教会のイメージができあがってしまったのですが、以上のように、初代教会には無かったものが多いのです。つまり聖書的原理に則っていれば、教会のあり方は1つのパターンにとらわれず、柔軟に考えてもいいという事ですね。教会の形の維持よりも、主に忠実な、主の弟子が起こされていることが大事なのです。

イエス様は「教会」より「神の国」を説いています。創造、堕落、贖い、回復(被造物全体の)、完成という神の壮大なドラマの中で福音を位置づけ、神の国の中での使命を見出していく必要があるのです。これは「イエスを信じて罪赦され、天国に行ける」という個人の救い以上のコンテキストがあるということです。

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)


2016年10月12日水曜日

21世紀のチャーチプランティング

日本の教会数、信徒数は横ばいか、もしくは減少気味。若者が少なく高齢化。牧師の高齢化と無牧教会の増加。そして, 世界的な宗教離れの流れ。日本では、仏教や神道、キリスト教といった主流宗教だけでなく新興宗教にまで及んでいる。

そんな背景の中、日本の頭脳であり、中心である東京でのチャーチプランティングはどうしたらいいのか?ずっとこの課題で悩んでいます。とにかく東京は土地が高い。集会の場所を見つけるのが大変。人々は忙しい。多種多様なライフスタイルがある。若い世代の独身や高齢者の「一人暮らし」が多い。21世紀の神は21世紀のチャーチプランティングについてどうお考えなのでしょうか?人知を超えた神様のお考えに興味があります。


東京だからこそハイレベル

1つのアイディアは東京だからこそ、人材、経済の大きな投資をするやり方。
現実的には海外の大きな教会や教団の支援を得て、魅力的でアクセスの良い、都心のスペースを借りて(あるいは購入して)礼拝の場所を確保する。そして、人を惹きつけるメッセージのできる人材を確保する。(通訳がいれば日本人でなくても可)。そして何と言っても大事なのは音楽。魅力的で現代的かつ技術的にもプロ級のワーシップバンドを揃える。支援教会・教団からミッションチームや宣教師、信徒家族をどんどん招き、チームで教会開拓をする。はじめから賑やかで人を集めやすい。そして、大きな規模の教会を目指す。大きな教会となれば、人材や経済が豊かとなり、今度は枝分けしたり、様々なミニストリーを展開することができる。競争の厳しい東京だからこそ、中途半端ではなく、すべてにおいて上質なものを提供する。これは1つのアディアだと思います。できる教会はやったほうがいい。例えば、東京に1万人を収容する大聖堂がたてば、それなりにニュースバリューもあるし、教育や福祉に役立てる。

ただ、問題は再生産できないこと。誰もがすぐに始められる訳ではない。つまり、はじめから人材、経済が豊富でないと、スタートもできない訳です。それから、素晴らしいものが揃っているとどうしても会衆は「お客さん」になってしまい、結局一部の人々しか奉仕していない状況となる可能性が高いのです。「出席」する教会であっても、「参加」する教会になりにくい。Seekers friendly(求道者にやさしい)を歌ったメガチャーチ、ウイロークリーク教会のビル・ハイベルズ牧師は「伝道には成功したが、ある年数を越すと信徒の成長が止まり、弟子が思うように育っていない。」ということを告白しています。人数は集まったのですが、「質」の部分で問題を感じた訳です。そして弟子訓練を真剣に考え出したのです。


もう一つは、真逆な「草の根的運動」
 もう一つは真逆な草の根的運動。「人間関係」と「祈り」で広がるキリスト中心のコミュニティつくりです。最近はMissional Communityと呼ばれたりもします。このブログでも紹介しましたが、SOMABILDが勧めている初代教会に学ぶスタイルです。


こちらはプログラムより、顔を合わせる人間関係中心です。イベントよりも意味ある人間関係作りにフォーカスします。通常、家やマンションの部屋、カフェなどで集まります。お金はかかりません。ホープチャペルのラフルモア牧師が言う「小さな教会が沢山あったほうがいい」です。4000人の教会を辞め、今、ハウスチャーチを推進するフランシス・チャンは面白い質問をしています。

「今ある教会の考えを一度消し去って、聖書だけを読んで、教会とは何かを考  
 えてください。」

彼は教会の要素には「愛すること」「福音を伝えること」「集まってお互いに使え、ともに礼拝すること」「弟子をつくること」があると言っています。そして、家で教会を始めること、意図的にリーダーを育てることを勧めています。確かにマタイ28章のいわゆる「大宣教命令」は弟子作り命令ですね。「教会を立てよ」とは言っていません。

ただオーガニッックチャーチの場合、会堂がないので目立ちにくく、数名で集まってはいても「教会」と認識されにくく、またうまく他のキリストの体とネットワークしないと、孤立し、閉じた世界に閉じこもる危険性もあります。


宣教に必要な人材
それでは日本の宣教、とくに東京の宣教にはどういう人が必要なのでしょうか?前に紹介したように、仙台バプテスト神学校ではOn the job trainingすなわち、献身者を神学校という隔離された所に送るのではなく、教会という現場で訓練することを始めています。あの映画じゃないですが、「事件は会議室で起こってるんじゃない、現場で起こってるんだ。」ですよね。

有名なエペソ4章の11節では「こうしてキリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになったのです。」とパウロが書いています。現在では教会といえば牧師というように、それらの役目が牧師に集中していますが、本来は「使徒」もいるし、「預言者」、「伝道者」がそれぞれの賜物を発揮して活動していた訳です。もう少し牧師以外のこれらの役目にフォーカスして発掘育成してチームワークが取れないものでしょうかね。第一コリント12章28節の各器官の説明のところでパウロは「そして神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから・・・・」ここでは「牧師」という言葉すら出てきません。おそらく教師という役目に含まれているのでしょう。29節に「皆が使徒でしょうか、みなが預言者でしょうか、みなが教師でしょうか」とあるので、使徒、預言者、教師は別々の独立した職であったことがわかります。

そして、「まず第一に使徒」と言っています。こんなに大事な「使徒」ですが、その役職を私たちはよく知りません。使徒パウロの働きから推測すると福音を宣べ伝え、教会の土台をつくるチャーチプランターと言えるかもしれません。実はクリスチャン人口1%の日本で必要なのは牧師(教師)の前に「使徒」なのです。まずはそれぞれの職務をきちんと理解、認識することです。私の考えでは誰でも一色たんに「牧師」を育てる神学校ではなく、「使徒学校」もあったほうがいいのではと思います。そして、そこにはそういう賜物と使命がある人だけが入り、訓練を受けます。人と話すのが苦手、書斎で研究するのが得意な人は、おそらく「伝道者」や「使徒」ではなく、「教師」がふさわしいでしょう。しかし、飯より伝道が好きという人は神学校で難しい本を読むより、実地で伝道訓練された方がいいかもしれませんね。世界中で大飢饉が起こると預言し、教会が救援活動する準備を助けたアガボという預言者がいます。(使徒11章27−29)災害の多い日本ではこういう「預言者」の育成訓練も必要ですね。そして、それらの職を持った人たちがネットワークして協業するのです。「小さな教会」が使徒や預言者によってスタートした後、地味に群れを牧し、みことばを教える賜物のある長老が必要となってきます



サーバント・エバンジェリズム
「新しい公共」という言葉が出てきています。政府では担いきれない部分を民間のNPOなどが推し進めていくものです。おまかせ民主主義より、活動的中間層(市民が主導権を取り、社会のニーズに答えるため活動する。)が増えることの方が健全な気がします。1995年の阪神淡路大震災はボランティア元年となりました。以降、行政が手薄なところをボランティアが助けています。初代教会も様々な社会のニーズに応えていました。旧約聖書にも「孤児」、「やもめ」、「貧しいもの」、「外国人」を助けるように何度も書かれています。日本の初期のプロテスタント宣教も医療や福祉、教育支援を伴いました。高齢者時代を見越してクリスチャンが高齢者施設「キングスガーデン」を行政と協力して始めたのは素晴らしいことです。


私は「小さな教会=エクレシア」がたくさんできるといいなと思っています。そして、有志が集まって「大きなミニストリー」をすることです。

「教会は小さく、ミニストリーは大きく」です。

それぞれの神学があるのでしょうが、私としては教会堂を持つなら固定椅子の会堂より、多目的ホールがいいと思います。地域のニーズのためにどんどん使った方がいいです。ある都内の教会は大きな会堂を新築しましたが、一回は町内会の集会などに貸し出しています。他の教会では一般の人が出入りするトレーニングジムを持っています。

教会にとって大事なのは顔の見える距離で「一緒に集まること」(ヘブル10:25)なのです。それ以外細かい礼拝、集会の指示は無いようです。

私の夢は将来、東京の都心のカフェやレストラン、いたるところで、エクレシアが持たれているのを見ることです。

数名で集まり聖書が開かれ、人生が分かち合われ、一緒に祈りあっている姿です。全員参加型です。それがムーブメントとなって、あそこでもここでも、見える形でそれが行われている姿です

会堂建築や有給の牧師を雇う必要がないので、集めた献金は純粋に兄弟姉妹の必要や伝道や地域への必要に使うことができます。目的を持った献金のほうが捧げやすいと思います。会堂や大きな組織が無ければ教会運営のため長時間会議をする必要もありません。そして気持ちとビジョンのあるビジネスマンクリスチャンが集まり、御茶ノ水クリスチャンセンターや大阪VIPのようなミニストリーセンターを建て、どんどん伝道や社会のニーズに答えるミニストリーに活用してもらうことです。それにより超教派的なミニストリーが広がります。ミニストリーのニーズは沢山あります。

教育、若者、(ことにスポーツミニストリー)
ホームレス
シングルマザー 
高齢者
外国人
子供貧困
労働環境、社会人のうつ病、ひきこもり、自殺
防災・災害支援  
麻薬、アルコール中毒
妊娠、養子斡旋   などなど

今、私がかかわっている代々木公園でのホームレスミニストリーは、超教派でいろいろな教会からのボランティアが協力して行っています。中心メンバーの一人の会社経営者は、社会問題となっている各種の現象(不遇の環境に育つ子供達への福祉サービス、知的障害者の教育の場、高齢者へのケア、ホームレスへの総合的支援など)に対応すべき活動を総合的に行っていく自立支援団体としての「ドリームセンター」立ち上げに向けてアクションを取っています。このような姿をもっと見たいですね。


評論家の荻上チキ氏は「シングルイシューのセミプロ化」を提唱しています。一般の市民でも「この問題に関しては一言言える」という分野を持って、逆に政治家を教育または圧力をかけて改善のための法案を作らせるなど、批判ばかりを続けるより、社会を良くするため、一歩ポジティブに踏み出すことを勧めているのです。クリスチャンがイニシアティブを取って、社会のニーズにかかわるなら、地の塩、世の光として大きなインパクトを与えることができます。

また、教会堂という「場所」に行けない人のためのチャプレンの活用も大事です。欧米では病院、軍隊、警察などでもチャプレンが活躍しています。忙しいビジネスマンのためにマーケットプレイスチャプレンも必要でしょう。


代替え不可能な「顔を合わせる」ことを第一に!
 代替え不可能な「顔を合わせる」ことを重視し、定期的に集まるエクレシアを持ちます。とにかくこれがベースです。イエス様の御臨在とお働きをリアルに体験し、分かち合える日常的な「場」がどうしても必要です。ビジネスマンなら、仕事の中で働かれるイエス様を体験し分かち合う「場」です。先日、クリスチャンビジネスマンと話していて、会社の引越しで大事な役割を負わされていたが、至る所で神の助けを感じたと証してくれました。聴いている私も「ハレルヤ」と一緒に生ける神をほめたたえます。そういうことが大事なのです。


みことばの学びは、メッセージの賜物のある教師の聖書講解説教をYou Tubeなどで見て学ぶことができます。いずれにしても学びの部分は今後、スマホなどでインターネットを活用する部分が広がるでしょう。(神学校クラス聴講など)家族持ちは土日の家庭集会になるでしょうし、独身の場合はウイークデイに都内の職場近くで集まることもできます。「小さな教会」をベースにしながら、同じワーシップスタイルに賛同する人たちがネットワークして年に何度かシティワイドな合同ワーシップの時を持つようにしたらどうでしょうか?あるいはすでにそういう集会が企画されているなら、参加すればいいだけです。なんでもかんでも自分のところだけで自己完結するのではなく、キリストの体の賜物の共有(いい意味で利用し合う)が大事なのではないでしょうか。


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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)