沈みかけている舟?
RAC通信2015年11月号に、衝撃的な内容が書かれていた。
「これまでの決心者・受洗者数グラフにおける減少曲線をそのまま伸ばしていくと、多めに見積もっても2030年には教会員数は現在の3割になる。さらにその後20年もすると、ほとんどゼロに近づくという衝撃的な内容だ。なんら突破口が開かれていない現状を見るにつけ、これが必然的な結末になると思わざるを得ない。
人数が3割になるとどうなるだろうか? 25人程度集まっている平均的な教会は、教会員が8人も減るということだ。50名の教会は35名程度に落ち込む。現在行なっている活動は大幅に縮小せざるを得ない。ほとんどの教会では献金収入の激減によって、一つの地域教会として経済的に自立できなくなるだろう。
1教会1牧師の体制が成立しなくなるだけではなく、会堂の維持管理費なども捻出できなくなる。退職した牧師たちの年金制度も維持できなくなり、引退した牧師は極めて貧しい老後を送らざるを得なくなる。不動産などを処分して当面はしのげる教団もあるだろうが、それも早晩持たなくなる。これはたった15年後に現実となるシナリオだ。
すでにキリスト教会は沈みはじめている船のような状態なのである。」
人数が3割になるとどうなるだろうか? 25人程度集まっている平均的な教会は、教会員が8人も減るということだ。50名の教会は35名程度に落ち込む。現在行なっている活動は大幅に縮小せざるを得ない。ほとんどの教会では献金収入の激減によって、一つの地域教会として経済的に自立できなくなるだろう。
1教会1牧師の体制が成立しなくなるだけではなく、会堂の維持管理費なども捻出できなくなる。退職した牧師たちの年金制度も維持できなくなり、引退した牧師は極めて貧しい老後を送らざるを得なくなる。不動産などを処分して当面はしのげる教団もあるだろうが、それも早晩持たなくなる。これはたった15年後に現実となるシナリオだ。
すでにキリスト教会は沈みはじめている船のような状態なのである。」
この著者は戦後の日本の教会のビジネスモデルを変えることを提案している。
日本の教会の現状
東京キリスト教大学 (University Profile 2016)によると、統計的には日本の教会の現状は以下のようになっている。
牧師の現状
牧師が高齢化し、牧師のいない教会が増えている。
牧師の平均年齢:61.6歳(2010年度)
牧師のいない教会:約990教会(2010年度)
クリスチャンの若者が少なくなっている。
日本のクリスチャン人口は、111万人(全人口の0.88%、うちプロテスタント66万人、0.52% 2011年度)。2012年の調査では、日本基督教団で、60歳以上が52.1%、50歳台が18.2%。つまり50歳以上は合わせて70.3%。実に7割!40歳台が13.2%、30歳台が10.2%。そして30歳未満は何と6.4%しかいない。
平成23年10月の総務省の統計によると日本の人口比率は
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年少人口(14歳以下) 13.1%
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生産人口(15−64歳) 63.6%
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老人人口(65歳以上) 23.3%
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となっている。14歳以下はたったの13%。世界一老人が多く、若者の少ない国になっている。今後は、高齢者の増加から介護施設や人材の奪い合い、さらに労働人口の減少から外国人の増加などが見込まれる。この人口比率は、も教会に今後、大きな影響があるといえる。
神学校がパラダイムシフトを言い始めた!
このような状況を受けて仙台バプテスト神学校では画期的な取り組みがはじまっている。ホームページを見ると次のように書かれている。
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「C-BTE(Church-Based Theological Education)」=「教会主体の神学教育」は、米国アイオワ州にある教会の牧師、ジェフ・リードが行った教会教育(イエスと使徒たちの手法に基づく教育)に端を発するものです。
神学校は大学や啓蒙思想の興隆する時代背景の中で生まれました。神学本来の知恵の追求から、アカデミックなものへ移行した神学教育の結果、欧米では一時的な覚醒運動や信仰復興の運動は見られたものの、信仰は形骸化し、世俗化が進み、次世代への信仰の継承に深刻な警鐘が鳴らされています。同じ枠組みでなされている宣教地も、そして日本も、真剣にパラダイムの転換を考えなければならない状況にあると思います。
翻って初代教会、その後の古代教会はどうであったかと言いますと、過酷な社会環境の中で着実に神の家族、共同体が確立され、かつ教会の核となる家族を二世代、三世代また四世代に渡って築き上げ、家族の家族(地区教会共同体)を建て上げていきました。その結果として宣教が拡大し、当時のローマ帝国は迫害者から、公認、国教化、守護者へと変えられました。
キリスト教が国教化されたことは、聖書の視点から手放しで勝利と言うことはできないかもしれませんが、そのように帝国をも動かした教会の存在感は注目に値します。これは単に特殊な時代、過去の一現象なのでしょうか。そうではなく、新約聖書の手法に基づくものであったということです。
翻って初代教会、その後の古代教会はどうであったかと言いますと、過酷な社会環境の中で着実に神の家族、共同体が確立され、かつ教会の核となる家族を二世代、三世代また四世代に渡って築き上げ、家族の家族(地区教会共同体)を建て上げていきました。その結果として宣教が拡大し、当時のローマ帝国は迫害者から、公認、国教化、守護者へと変えられました。
キリスト教が国教化されたことは、聖書の視点から手放しで勝利と言うことはできないかもしれませんが、そのように帝国をも動かした教会の存在感は注目に値します。これは単に特殊な時代、過去の一現象なのでしょうか。そうではなく、新約聖書の手法に基づくものであったということです。
徹底して新約聖書に戻った結果、見出した「主イエス・キリストの手法」「使徒たちの手法」「初代教会の手法」であり、現代の私たちにも十分に通じる普遍的な法則であることを確証しているものです。福音派の出発点、16世紀宗教改革はまさに「聖書に戻れ」でありました。「C-BTE」の理念はこの聖書時代にラディカルに戻って、その手法に倣い教会を建て上げ、指導者を育成し、多くの同労者、貢献者そして教会相互の協力関係を築き、さらに同じ目標の下にネットワークを構築し、互いに成長し、世界的な規模での生きた教会運動を展開していこうというものです。
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初代教会に学べ!
上記の神学校の主張は「初代教会に学べ!」である。
Q.今日の日本の教会にあって、初代教会になかったもの。初代教会にあったが、今日の日本の教会にないものは何だろう?
初代教会には教団がなかった。(分派はあったが)神学校が無かった。有給牧師がいなかった。(巡回使徒と巡回伝道者、預言者はいた)教会堂がなかった。などなど。そして、初代教会に確実にあったのは「迫害」「反対」。そして、聖霊の顕著な働き、病気のいやし、悪霊との対峙。やもめや孤児を世話することなどのコミュニティ奉仕。などなど。シンプルな家の教会でありながら広がり続け、やがて良くも悪くもローマ帝国をひっくり返してキリスト教が「国教」となってしまう。聖霊の働きと言ってしまえば一言で終わってしまうが、やはり初代教会から学び「福音」、「宣教」、「教会」について再考するべき時なのではないか?
オーガニック・チャーチを推進するフランク・バイオラは、教会の歴史2000年のなかで船底に藤壺のように余計なモノが沢山付着してしまっているという。また、あまりにその伝統の力が強く、走っている機関車は簡単に止められないと。それで教会の「刷新」ではなく、「革命」が必要なのだという。彼の言う革命には「儀式としての日曜礼拝」と「職業としての牧師」を廃止することが含まれている。説教を中心とする礼拝スタイルや、儀式としての聖餐式(初代教会では食事の一部であった)、尖った屋根の教会や、固定の長椅子などは初代教会には無かった。日本の教会には西洋キリスト教の借り物も沢山ある。ここらで直接、初代教会まで戻ってシンプルなスタイルを学ぶことが鍵となるのではないだろうか?
本当に自前の会堂が必要なのだろうか?他にチョイスは無いのだろうか?神学校で学んだ有給の牧師を置かなければならないのだろうか?パウロのようにハイブリッド(献金と自分の仕事)スタイルはあり得ないのだろうか?日曜日1日教会堂の中で過ごし、地域コミュニティとの人々との接点を持てないままでいいのだろうか?礼拝は日曜朝でなければならないのだろうか?などなど。何かこの時代の壁を突破する神の方法があるはずなのだ。
通常、教団的な縦への忠誠が優先されがちだが、神の目はあくまで地域にある
「神の教会」という視点である。同じ地域の主を愛する兄弟姉妹が、共に防災や福祉などを通して、その地域に仕え、宣教してゆく協業的なものがもっと推進されてもいいのではないか?パウロが書いた「コリントにある神の教会へ」という呼びかけは重要である。神の目にはコリントという場所にある「1つの神の教会」(信じる者の群れ)なのである。
「コリントにある神の教会へ。すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々と共に、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」(第一コリント1:2)
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
Japantmc@gmail.com
(栗原)