最近、「霊的同伴者」という言葉が流行ってきています。これはカトリック側から出てきているようです。その人に寄り添い、その人が神と繋がるのを助ける存在だそうです。自分は運動部のような上下関係としての「弟子訓練」というコンセプトには違和感を覚えていたので、同伴者のほうがストンときます。誰か一人でも人生を寄り添って歩んでくれる人がいれば人は生きてゆけるのでしょうね。
霊的同伴者は「個人」を尊重する。
ピレモン書のピレモンはパウロの伝道によってクリスチャンになったようです。パウロは彼を「同労者」と呼んでいます。オネシモはピレモンの家の奴隷だったのですが、オネシモは盗みを働いて逃亡したようです。しかし、獄中でパウロの伝道によって悔い改めクリスチャンになり、パウロの「心そのもの=my very heart」と言われるような存在になっていました。役に立つのでそのまま、パウロの側に置いておきたかったようですが、オネシモの扱いについては、ピレモンに「愛によってお願い」(v9)し、「同意なしには何一つしまい」「強制ではなく、自発的でなければならない」(v14)という上下の命令というより、並列的なピレモンの意思を尊重するあり方が書かれています。パウロ大先生なら何でも命令できたでしょう。しかし、あえてパウロはこのような態度で臨んでいます。弟子のテモテにも「我が子」(第一テモ1:2)という関係で軍隊の上下関係ではありません。
私がキリストをみならっているように
最近は牧師のパワハラやカリスマ的指導の問題が取りざたされますが、もう一度、パウロの謙遜な態度に戻るべきではないでしょうか。そして、パウロは誰から学んだかというとイエス様です。(第一コリント11:1)「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。」
その当時、弟子訓練の教材はありません。新約聖書も、今のように編纂されていた訳ではありません。「見習う」ことが唯一の方法だったのです。
実はイエス様は「それは不正ではないですか?」と言いたくなるような、計算外のことを言ったり、行ったりされました。高価なナルドの香油を頭に注がれて、それを受け入れられました。それを見ていたユダはそれを売れば多くの貧しい人にほどこしができるのにと文句を言いました。ユダが言っていることは常識的には正しいですよね。しかし、愛は常識を超越します。また例の「5時から男」の話。(マタ20−16)最後の連中は言いました。「この最後の連中は1時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」確かに一見不公平です。それは良い方向に不公平なのです。
「恵」とは受ける価値ない者に一方的に注がれる好意だからです。「恵」は「報酬」ではないのです。(ローマ4:5)「愛」や「恵」は計算通りでないことを教えられました。報酬通りにやられれば、私たちが受けるのは「死」です。罪から来る報酬は死(ローマ6:23)だからです。そういう意味では神が「不公平」でないなら、私たちに救われる余地がないのです。計算通りにやられたら皆、破産者なのですから。
クリスチャンを迫害していたパウロは自分を「罪人の頭」(第一テモテ1:15)と表現しました。そんな自分が救われたので、「神の恵によって私は今の私になりました。」(第一コリント15:9−10)と告白したのです。そして、すべての人はこの恵によって救われたのだから、自分が人の上に立てるほど偉いとは決して言えないことを知っていたのです。
諦めない愛
よく言われますが、私たちがやったこと、やらないことで神の愛を増やしたり減らしたりできないのです。神が一方的に愛している。それが福音なのです。「うなじのこわい民」(つまり頭を下げない)であるイスラエル。何度も神から離れ、罪を犯すイスラエル。それでも神はイスラエルを愛し続けます。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(ホセア11:8)。神学的に仕方なく愛するのではなく、神の心はあわれみで熱いのです。このような「お心」で反抗するイスラエルを愛しているのです。そして、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。」(ホセア11:8)神のこの熱いお心は「罪を犯したから、ハイ地獄」というような計算をさせないのです。例え、計算がそうでも、律法がそうでも、何とか救い出す方法を考えさせるのです。そして、神が考えた方法とは自分の子を犠牲にし、身代わりに罰することでした。神はどうしても、イスラエルを偶像に引き渡すことはできなかったのです。神はどうしてもあなたをサタンに引き渡す訳にはいかないのです。神の愛は「あなた」を決して諦めないのです。
愛することは信じること
「舟の右側」というクリスチャン雑誌を購読しています。その中でも大頭眞一先生の「焚き火を囲んで聴く神の物語」が大好きです。毎回、とてもインスパイアされます。今回は放蕩息子の話が出てきます。ちょっと長いけど最後の部分引用させていただきます。
「ぼくは、思う。放蕩息子は帰ってきたけれども、その根性は、出て行った時とちっとも変わっていない。けれども父は信じるのだ。ただ子だからという理由で。やがて、この兄弟が、父の心がわかるようになることを。そして父のように、自分を与える愛をもって、この世界を愛することを。この世界を父とともに治めることを。放蕩息子は、この後、どうなったと思う?ぼくがこのむすこなら、何度も、何度も脱走したと思う。実際これまでもぼくはそうだったから。それでも、父、つまり神さまは、むすこ、つまりぼくたちを、脱走した回数だけ受け入れて、信じてくれるに違いない。それでは、なにも変わらないのか?いや、そうではない。ぼくたちは、脱走しては帰って来るそのつど、自分の物語を分厚く語り直すことができる。それは、たとえぼくたちがどんなに資格がないとしても、神さまに信じられている子だという変わらないプロットを持った物語なのだ。おめでとう放蕩むすこの皆さん。おめでとう、放蕩むすこのぼく。」
神を信じるのではない、神に信じられている!しつこいまでに。何度も、何度も失敗しているのに。神は諦めない!
私にはティーンエイジャーの反抗児がいます。ある時、息子が爆発しました。怒りをぶちまけて家の壁に穴をあけ、ソファーをひっくり返したのです。憎しみに満ちた顔で、「I hate you!」と親である私は罵倒されました。「これまで、こんなに愛してきたのに、どうして?」怒るより悲しかったのです。何よりも信頼してくれていないことに、自分の存在が足元から崩れ去るような気持ちだったのです。いや、本当に今まで生きてきて一番悲しかったのです。父なる神のイスラエルへの気持ちが少し理解できた気がしました。
無理やり座らせて教え諭すこともできたかもしれない、殴ることもできたかもしれない。あの放蕩息子が父の遺産を持って出て行く時、父は説教も殴ることもしなかった。ただ、彼を「信じて」送り出し、戻ってくることを「信じた」のです。一人で祈っているうち息子への憐れみの心が満ちてきました。少なくも彼には怒りをブチまけられる相手がいる。いや、世界でただ一人の相手なのかも知れない。私がアイツの「オヤジ」だからだ。「信じよう。」やがて父の心がわかる時がくるはずだ。信じよう。例え世界のすべての人が彼を疑っても、父である自分は彼を信じよう。自分だって「神さまに信じられている子」なんだから。
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)