2016年7月27日水曜日

神さまに信じられている子


 「弟子訓練」より「霊的同伴」
最近、「霊的同伴者」という言葉が流行ってきています。これはカトリック側から出てきているようです。その人に寄り添い、その人が神と繋がるのを助ける存在だそうです。自分は運動部のような上下関係としての「弟子訓練」というコンセプトには違和感を覚えていたので、同伴者のほうがストンときます。誰か一人でも人生を寄り添って歩んでくれる人がいれば人は生きてゆけるのでしょうね。



霊的同伴者は「個人」を尊重する。
ピレモン書のピレモンはパウロの伝道によってクリスチャンになったようです。パウロは彼を「同労者」と呼んでいます。オネシモはピレモンの家の奴隷だったのですが、オネシモは盗みを働いて逃亡したようです。しかし、獄中でパウロの伝道によって悔い改めクリスチャンになり、パウロの「心そのもの=my very heart」と言われるような存在になっていました。役に立つのでそのまま、パウロの側に置いておきたかったようですが、オネシモの扱いについては、ピレモンに「愛によってお願い」(v9)し、「同意なしには何一つしまい」「強制ではなく、自発的でなければならない」(v14)という上下の命令というより、並列的なピレモンの意思を尊重するあり方が書かれています。パウロ大先生なら何でも命令できたでしょう。しかし、あえてパウロはこのような態度で臨んでいます。弟子のテモテにも「我が子」(第一テモ1:2)という関係で軍隊の上下関係ではありません。


私がキリストをみならっているように
最近は牧師のパワハラやカリスマ的指導の問題が取りざたされますが、もう一度、パウロの謙遜な態度に戻るべきではないでしょうか。そして、パウロは誰から学んだかというとイエス様です。(第一コリント11:1)「私がキリストを見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。」

その当時、弟子訓練の教材はありません。新約聖書も、今のように編纂されていた訳ではありません。「見習う」ことが唯一の方法だったのです。

実はイエス様は「それは不正ではないですか?」と言いたくなるような、計算外のことを言ったり、行ったりされました。高価なナルドの香油を頭に注がれて、それを受け入れられました。それを見ていたユダはそれを売れば多くの貧しい人にほどこしができるのにと文句を言いました。ユダが言っていることは常識的には正しいですよね。しかし、愛は常識を超越します。また例の「5時から男」の話。(マタ20−16)最後の連中は言いました。「この最後の連中は1時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」確かに一見不公平です。それは良い方向に不公平なのです。

「恵」とは受ける価値ない者に一方的に注がれる好意だからです。「恵」は「報酬」ではないのです。(ローマ4:5)「愛」や「恵」は計算通りでないことを教えられました。報酬通りにやられれば、私たちが受けるのは「死」です。罪から来る報酬は死(ローマ6:23)だからです。そういう意味では神が「不公平」でないなら、私たちに救われる余地がないのです。計算通りにやられたら皆、破産者なのですから。

クリスチャンを迫害していたパウロは自分を「罪人の頭」(第一テモテ1:15)と表現しました。そんな自分が救われたので、「神の恵によって私は今の私になりました。」(第一コリント15:9−10)と告白したのです。そして、すべての人はこの恵によって救われたのだから、自分が人の上に立てるほど偉いとは決して言えないことを知っていたのです。


諦めない愛
よく言われますが、私たちがやったこと、やらないことで神の愛を増やしたり減らしたりできないのです。神が一方的に愛している。それが福音なのです。「うなじのこわい民」(つまり頭を下げない)であるイスラエル。何度も神から離れ、罪を犯すイスラエル。それでも神はイスラエルを愛し続けます。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(ホセア11:8)。神学的に仕方なく愛するのではなく、神の心はあわれみで熱いのです。このような「お心」で反抗するイスラエルを愛しているのです。そして、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。」(ホセア11:8)神のこの熱いお心は「罪を犯したから、ハイ地獄」というような計算をさせないのです。例え、計算がそうでも、律法がそうでも、何とか救い出す方法を考えさせるのです。そして、神が考えた方法とは自分の子を犠牲にし、身代わりに罰することでした。神はどうしても、イスラエルを偶像に引き渡すことはできなかったのです。神はどうしてもあなたをサタンに引き渡す訳にはいかないのです。神の愛は「あなた」を決して諦めないのです。


愛することは信じること
「舟の右側」というクリスチャン雑誌を購読しています。その中でも大頭眞一先生の「焚き火を囲んで聴く神の物語」が大好きです。毎回、とてもインスパイアされます。今回は放蕩息子の話が出てきます。ちょっと長いけど最後の部分引用させていただきます。


「ぼくは、思う。放蕩息子は帰ってきたけれども、その根性は、出て行った時とちっとも変わっていない。けれども父は信じるのだ。ただ子だからという理由で。やがて、この兄弟が、父の心がわかるようになることを。そして父のように、自分を与える愛をもって、この世界を愛することを。この世界を父とともに治めることを。放蕩息子は、この後、どうなったと思う?ぼくがこのむすこなら、何度も、何度も脱走したと思う。実際これまでもぼくはそうだったから。それでも、父、つまり神さまは、むすこ、つまりぼくたちを、脱走した回数だけ受け入れて、信じてくれるに違いない。それでは、なにも変わらないのか?いや、そうではない。ぼくたちは、脱走しては帰って来るそのつど、自分の物語を分厚く語り直すことができる。それは、たとえぼくたちがどんなに資格がないとしても、神さまに信じられている子だという変わらないプロットを持った物語なのだ。おめでとう放蕩むすこの皆さん。おめでとう、放蕩むすこのぼく。」

神を信じるのではない、神に信じられている!しつこいまでに。何度も、何度も失敗しているのに。神は諦めない!


私にはティーンエイジャーの反抗児がいます。ある時、息子が爆発しました。怒りをぶちまけて家の壁に穴をあけ、ソファーをひっくり返したのです。憎しみに満ちた顔で、「I hate you!」と親である私は罵倒されました。「これまで、こんなに愛してきたのに、どうして?」怒るより悲しかったのです。何よりも信頼してくれていないことに、自分の存在が足元から崩れ去るような気持ちだったのです。いや、本当に今まで生きてきて一番悲しかったのです。父なる神のイスラエルへの気持ちが少し理解できた気がしました。

無理やり座らせて教え諭すこともできたかもしれない、殴ることもできたかもしれない。あの放蕩息子が父の遺産を持って出て行く時、父は説教も殴ることもしなかった。ただ、彼を「信じて」送り出し、戻ってくることを「信じた」のです。一人で祈っているうち息子への憐れみの心が満ちてきました。少なくも彼には怒りをブチまけられる相手がいる。いや、世界でただ一人の相手なのかも知れない。私がアイツの「オヤジ」だからだ。「信じよう。」やがて父の心がわかる時がくるはずだ。信じよう。例え世界のすべての人が彼を疑っても、父である自分は彼を信じよう。自分だって「神さまに信じられている子」なんだから。
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
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japantmc@gmail.com (栗原)


2016年7月2日土曜日

「吠える羊」

数年前にRoaring Sheep(吠える羊)という表現を聞いたことがある。吠えるライオンなら分かるが、「吠える羊」ときた。クリスチャンは羊と表現され、羊は通常吠えない。しかし、羊も吠えなければならないカイロス(歴史的な瞬間)がある。








SEALDsの奥田くんは吠えた。彼は北九州の牧師の息子。本の中でクリスチャンであることを明かしている。もともと政治やデモに関心があったわけではない。人生に嫌気が刺して自殺願望まであった。いろいろ人との出会いの中、声を上げるようになる。わざわざデモに行くのはかったるいし、批判も浴びる。実際、殺害予告まであったという。それでも吠えた。彼の著書でキング牧師の言葉を引用している。

「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」


ノリでやっているようなSEALDsの活動は、はじめ私も関心なかったが、本を読んでみて考えが変わった。半径5メートルしか関心が無く、保守的になったと言われた学生が、まさか国会前でデモをするとは想像もしてなかった。しかし、彼が動いたことで、学生や主婦やサラリーマンといったフツーの人がデモをするようになった。数年前とはがらりと風景が変わった。フツーの人が声を上げられるのは大事なこと。普段、私たちは、政治家だけが声をあげるのだと思っているが、彼らは私たちの代表にすぎない。私たちが願う国家となるよう声をあげていいのだ。少なくもまだ、デモができる国であることを証明した。
                        
「言わない」ことは体制に賛成していることになってしまう。特に「空気」に弱い日本人は空気を読んで反対の声を上げなくなる傾向にある。太平洋戦争中の教会は大方、戦争支持に回り、献金を集めて戦闘機を寄贈したりしたという。人間である天皇をキリストの上には置けないと告白し、捕まって獄死したホーリネスの牧師たちがいる。同時期、ヒットラー下のドイツでは、ボンヘッファー牧師が体制に反対し、声を上げ、信仰を「告白」した。

ローマ書13章に、すべての権力は神から権力者に託されていることが書かれている。通常、その権威に従わなければならない。しかし、権力者が神の御心に反して乱用した場合、「抵抗」することの模範も聖書には書かれている。バビロン捕囚時、祈ることを禁じられても、窓際で大胆に祈ったダニエル。金の像を拝まなかったシャデラク、メシャク、アベデネゴ。キリストを証しし、捕らえられた使徒たちは、「人に従うより、神に従うべし」(使徒4:19−20)と抵抗し、「証しするな!」という禁止命令に従わなかった。

イザヤ、エゼキエル、アモス、ヨエルなど旧約の預言者たちは、人の顔色を見ずに、神の言葉を国民に語った。国家的預言を大胆に伝えた。国家の存命がかかる事態には、彼らは「吠えた」のである。

先日、東京キリスト教大学理事長の廣瀬薫先生のお話を聞き、感銘した。廣瀬先生は神の国をとてもシンプルに説明した。「神の国」とは「皆が生かされ、喜んでいる所」。しかし、今日の社会は「誰かが喜ぶために、誰かが犠牲になっている」と。それは神の国ではない。だから、神の国にあるものをあらしめ、神の国にないものを無くしてゆくことが必要だと。それには、ある意味、聞かされてきた「常識」をひっくりかえさなければならない。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」(マタ5:43−44)

前半はまさに、今日、はやりのナショナリズムと排外主義だ。そのすぐ後、天の父は悪い人にも良い人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる寛大な、差別しない方であることが語られている。その後、自分を愛してくれる人にだけ、あるいは兄弟にだけ挨拶をするのではなく、誰とでも挨拶をするように命じられている。イエスは良きサマリア人の話で、普段、付き合いの無い人と「隣人になる」ことを語られた。「神の国」の原理は伝統や常識を超越してゆく。イエスは普段付き合いのない、サマリヤ人の、しかも女性に声をかけた。当時、罪人の代表とされていた収税人のザアカイの家に泊まった。愛のゆえに当時の文化を超えた。緊張や気まずさがあれば、目を合わせない、挨拶しない。壁はどんどん高くなる。武力の均衡では米ソ冷戦の時のように、お互いの軍備はどんどんとエスカレートする。ブッシュJr.の時にはついに、SDI構想(宇宙戦争)まで出てきた。どうも「神の国」の方向性とは違う。イエスの方向性とは違う。

参院選が近い。自民党は党の方針として改憲を打ち出している。しかし、自民党の改憲案では上記の「神の国」の実現が難しい。人権条項がまるごと削除されている。個性より公が強調される。その公は国がきめた「体制=国体」ということだろうか?稲田朋美議員(自民党)は言う。「国を守るためには血を流さなければならない。」感動的なフレーズのように思えるが、ここでの「国」とは何だろうか?少なくも先の戦争では「国」は「国民」ではなかった。「国体」というカルト「信仰」のために若者の命が犠牲となった。沖縄では兵隊が我先にと避難し、10万人の市民が犠牲となり本土を守るための人の盾となってしまった。(自民党改革案に関しては、下記のブックリストの赤字の2冊お薦めです。)

自民党改憲案では、権力を縛る目的の憲法が国民に義務を付すものに変わっている。やがて国防軍が設置され、アメリカが判断した戦争において、アメリカの指揮下で戦うことになる。故モハメッド・アリは、ベトナム戦争に反対した。「なぜ、憎しみの対象でもない、ベトナム人を殺しに出ていかなければならのか」と。しかし、日本も集団的自衛権で海外に出兵すれば同じことになる。そして「国のため」戦死した者の霊は靖国に祀られる。結果、靖国参拝が強制されるようになる。かつてのようにメディアは政府の提灯持ちとなり、反対するものは迫害され投獄される。自民党改憲案では天皇は象徴ではなく、元首となるので、国の政治的軍事的リーダーとなりうる存在となる。同じ色にそまり、同じ方向を向かされる。これは一人一人が生かされ、喜んでいる状態ではない。「神の国」ではない。



第一次安倍内閣法相の長勢甚遠氏は「国民主権、基本的人権、平和主義、この3つを無くさなければ、本当の自主憲法にならないんですよ。」と言っている。全くあきれる。今の与党が自民党(安倍首相のブレーンである「日本会議」は極右の「成長の家原理主義者」で構成されており、明治憲法の復古を願っている。)と公明党(創価学会が母体)であることを考えると、これは霊的戦いであることを感じざるを得ない。黙示録には国が獣化することが書かれている。傲慢で暴力的(軍事力)な権力者である「獣」、偽りのメディアである「にせ預言者」、そして、富と快楽の象徴である「大バビロン」が悪の三位一体を構成し、神に挑む。

会社が、学校が、家庭が、そして社会が「皆が生かされ、よろこんでいる所」となるよう、あの主の祈りを祈る。「天にみ心がなるように、地にもなりますように、み国が来ますように!」現実はあまりにも違うだろう。しかし、現実に負けるのではなく、希望に負けよう。希望を捨てないことが信仰だ。実現できない祈りをするように主は命じられたのだろうか。神の国は始まっている。光は闇の中に輝いている。そして、闇は光に打ち勝たなかった。そして、やがて主はもう一度来て、神の国がフルバージョンで実現する。勝利は確定している。だから殉教者たちは賛美して死んでいった。

「えっ、こんなことになるとは思わなかった」ではもう遅い。私達の国のために責任ある投票をしたいものだ。

という訳で、こんな時代だから、私も少し「吠えて」みた。

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この時代のオススメ本

9条、日・米地位協定関係

「憲法がヤバい」 白川敬裕 ディスカバリー携書

「日本はなぜ戦争ができる国になったのか」矢部宏治 集英社インターナショナル
「検証・法治国家崩壊」 吉田敏浩    創元社
「戦後史の正体」 孫崎亨  創元社
「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」 矢部宏治 集英社インターナショナル

愛国と信仰
「愛国と信仰の構造」中島岳志  島薗進  集英社新書
「日本会議の研究」 菅野完   扶桑社新書
「八紘一宇」  島田裕巳    幻冬社新書

あの時代の思想弾圧
「銃口」 三浦綾子  角川文庫

キリスト者の戦争論
「キリストが主だから〜いま求められる告白と抵抗」山口陽一、朝岡勝 新教出版


「聖書と戦争」 旧約聖書における戦争の問題  ピーター・C. クレイギ すぐ書房
「非戦論」 富岡幸一郎  NTT出版
「改憲へ向かう日本の危機と教会の闘い」 21世紀ブックレット53 いのちのことば社
「キリスト者の戦争論」 富岡幸一郎 岡山英雄  地引網新書
「告白と抵抗」 ボンヘッファーの十字架の神学 森野善右衛門  新教出版
「日本の戦争と宗教 1899−1945」 小川原正道  講談社選書メチエ
「植民地化・デモクラシー・再臨運動」大正期キリスト教の諸相 キリスト教史学会 教文館
「熱狂する『神の国』アメリカ」 松本佐保  文春新書

デモ・民主主義
「変える〜絶望から始めよう」 奥田愛基  河出書房新社
「ヒーローを待っていても世界は変わらない」湯浅誠  朝日新聞出版

平和構築
「平和構築とは何か」 山田満 平凡社新書

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