いろんな祈りがあります。徹夜祈祷や断食祈祷で切に願い求める祈り。毎朝、書かれた祈祷課題を祈る祈り。集会で指名されて祈る祈り。自分の場合、これは正直、周りの人を意識した祈りになってしまいます。かっこよく祈る誘惑があります。また、アポに遅れそうなのに、道がわからない時、「助けて〜」と切羽詰まって祈る祈り。時々私はやります。そうすると、不思議に目的地まで着くんですね。次から次へのほとばしるように口から言葉が出る祈りもあれば、時に何も言わない、言えない、ため息のような祈りもあります。
「言葉を用いる祈りが神との会話であるなら、観念的な祈りとは神と見つめ合うことだと言えるかもしれない。」(中村佐知、翻訳者)
これを読んだ時、ストンときました。毎朝、A4にまとめた祈り課題を祈るんですが、どうも言葉ずらだけで、心がこもってない事が多いし、神様の顔も見ないで祈ってるということが多い。忙しい現代人は神様の家の呼び鈴を鳴らして、神様が出てくる前に去ってしまうとも言われています。「忙しい」の漢字は「心」を「亡くす」と書きますね。
神様は私たちの口に言葉が上る前から心にあることをご存です。ならば、なぜ祈るんだろうかと思いません?神は私たちと共にいたい、会話したいのでしょうね。伝える内容よりおしゃべりの時間を楽しみたいようです。おじいちゃんはメールの文章より、電話で孫の声が聞きたいでしょう。
「神と見つめ合う」祈り。・・・・いいですね。
時に祈り課題の紙を横に置いて、ただ、神の御前に出る。ただ、神のご臨在を楽しむ。神と顔を合わせ、見つめ合う。言葉さえも要らない。恋人たちは見つめ合うだけで愛を確かめ合うでしょう。
今度、映画にもなる(秋に上映?)「神の小屋」という小説があります。三位一体の神が擬人化されて出てきます。美しい庭のログハウスに住む三位一体の神家族。父なる神はそこでは黒人の婦人として描かれています。議論はあるでしょうが、神は人間ではないので、性別も超越しています。だから婦人として現れても不思議ではありません。(小説では後に男性としても現れます。)ともあれ、あの小屋の神家族の風景が自分の祈り生活に大変役立っています。
頭の中でイメージします。美しい森のなかに美しい庭。そこにあるログハウス。ドアをノックすると満面の笑顔で大きな黒人の婦人が出てきます。そして、そのBig Momはギユッとハグして「カズ、よく来たね。待ってたよ。さあ、お入り」と言って中に招いてくれます。「さあ、今、おいしいお茶を淹れてあげよう。お座り」と言ってテーブルに案内してくれます。そこにはすでに兄貴のジーザスと妹のサラユー(風の意味=聖霊)がにこにこして座っています。兄貴が聞いてきます。「今日はどんな日だった?」いろいろ話すとうなずいて聞いてくれます。いちいち説教もしないし、咎めもしません。サラユーも挨拶のキスをしてくれます。自分が居ていい場所。心を開ける安全な場所。赦してくれる場所。受け入れてくれる場所。とても心地よくて、早くここに来ればよかったなと思うのです。そんなことを察してかBig Momは「そうさ、いつだってウエルカムだよ。いつだって戻ってきていいんだよ。」と言います。
そうか、これがデボーションなんだ。そう思うとデボーションが楽しくなりました。
神と目を合わせる祈り。神のほほえみを確認する時間。今からでも遅くないんです。そんな時間を取り戻しましょう。
原題 The Shack
「神の小屋」ウイリアム・ポール・ヤング著
いのちのことば社フォレストブックス 1900円
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)