「御国の福音」を説明した本が少ない
アメリカでのオーガニックチャーチ推進者のフランク・バイオラはここ数年語ってきたメッセージを集大成してInsurgence(反乱者)という本を出しました。この副題はReclaiming the Gospel of the Kingdom(御国の福音を取り戻す)となっています。前書きのところで、「御国」について先輩たちが書いたことを学ぼうとしたところ、意外とそれに関しての本が少ないこと、あっても難しい神学書で一般の人には理解し難いことを発見し、この本を書く必要を感じたそうです。
聖書のテーマは「御国の到来!」
新約聖書の最初の本、マタイの福音書のテーマは「御国の王としてのイエス」ですね。まず、先駆者ヨハネが宣言します。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタ3:2)そして、イエス様も公のミニストリーに入って、開口一番「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから。」と同じメッセージを語っています。4:23には「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」とあり、ただの「福音」ではなく、「御国の福音」と言っています。
9:33〜35節でも同じ内容が丁寧に繰り返されており、「御国の福音」が「悪霊追い出し」、「病人の癒し」と3点セットで語られています。「あらゆる病気、あらゆるわずらい」が直されていることと「御国」とが連結しています。12:28「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」では「悪霊追い出し」と「神の国の到来」が連結しています。
また、12弟子たちを宣教に遣わしたとき、10:7−8「行って、神の国は近づいたと宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、ライ病人をきよめ悪霊を追い出しなさい。」ここでも3点セット、さらに「死人の復活」が加わっている。
マタイ4〜7の「山の上の教え」は御国の王であるイエスが「権威あるもののように語った」(8:29)御国での原則の教えであり、8章からの山を降りてからのイエスは御国の王としての「権威」の行使としての「病人の癒し」「悪霊の追い出し」「嵐を鎮める奇跡」なのです。神が100%統治する御国では病気も悪霊も自然災害も無いのです。
基本的にその後の章は「天の御国は・・・」と言うフレーズで「天の御国」の説明です。しかも、どうも読んでいくと「天の御国」とは死んでから行く「天国」のことではなく、地上での生活の描写のようです。
主の祈りは、逆方向の祈り
イエスは「主の祈り」の中で「天国へ行けますように!」ではなく、「御国が来ますように!みこころが天で行われるように地でも行われますように!」(マタイ6:9)と天が地に降りて来る逆方向の祈りを教えておられるのです。再臨のイエスはこの地上に「やって来る」のです。救われた魂が天国へ行くことが目的ならイエスは再び地上に戻ってくる必要は無いのです。黙示録21:2には、聖なる都、エルサレムが天から下ってくることが書かれています。下ってくるからには「この地」の回復と関係あるのではないでしょうか?21:1には「新しい地」があるのです。天だけではないのです。ちなみにこの「新しい」というギリシャ語は無かったものが始めて存在する「創造」ではなく、すでにあるものが「新しい性質を持つ」という意味だそうです。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」ついに花婿イエスは花嫁(21:9では「子羊の妻」と表現されている!)である贖われた民と一体となり、神が人と住むエデンの園は見事に回復されるのです。
これだけ大事なテーマである「御国」はあまり明確に語られることがなく、多くのクリスチャンは、よくわかってないのでは無いでしょうか?また何となく、「御国」=死んでから魂が行く「天国」と思い込んでいるクリスチャンが沢山いるのではないでしょうか?
福音は「御国」に関するGood News
福音は「御国」に関するGood Newsなのです。「王」と「王国」(The Kingdom of God) の話なのです。もちろん、ここで言う王はイエスです。全能なる暴君が宇宙の主であれば、私たちにはただただ絶望するだけでしょう。しかし、宇宙の主は「聖」であり、「義」であり、「愛」である方なのです。「御子は万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16)キリストが万物の根源であり、起源です。いわばキリスト宇宙論です。しかし、今は「この世の神」(第二コリ4:4)とか「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2)と呼ばれる敵であるサタンが一時的にこの世を支配しています。やがて神の国はフルバージョンでやって来るのです。指を咥えて待っているだけではありません。イエスの到来ですでに始まってもいるのです。(ルカ11:20)ですから聖書の時間軸で言うと、神の国は「すでに」始まっていますが、「まだ」フルバージョンでは来てない、その間の時代を私たちは生きていることになります。NTライト的に言えば「神の新しい世界がすでに現在に割り込んできた。」つまり確固たる希望が未来から現代へ侵入して来ているとなります。
被造物全体の回復
どうも、私たちは「福音」というと「自分の罪が赦されて天国へ行けるようになること」という「個人的」なもとして考えがちですね。しかし、罪により傷ついているのは人間だけではありません。ローマ書には「被造物全体が今に到るまでともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:22)とあります。はじめに神が天地を創造された時、すべては良かったのです。(創1:31)神と人、人と人、人と自然とは平和で調和ある関係(シャローム)が実現していたのです。それが罪ゆえに現在、歪められているのです。イエス・キリストの贖いは「万物の和解」であり、回復のためです。(コロサイ1:20)「私の罪の赦し」はそのコンテキストの中に起こる一部分なのです。
キリストにある新人類=生ける神の神殿
エペソ書2章の後半をみると、十字架が個人の救いのためだけではなく、救われた人たちをキリストにあって融合し「新しいひとりの人」つまり、「キリストにある新人類」を生み出すのが目的であることがわかります。エペソの2:21−22ではクリスチャンの集まり(エクレシア)は「聖なる生ける神殿」であり、「神のみ住まい」=「神の国」であることが明確です。神の国はキリストの体である「エクレシア」の中に体現されるのです。言い換えれば天と地が出会っている「場」です。
クリスマスのメッセージは「インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)の神が来られた(マタイ1:23)ことなのです。その神はキリストを信じる私達の中に住まわれるのです。神が住まわれ、神がご支配されるところが「神の国」=「天の御国」です。神は、この地に「神の国」を広げ、失ったエデンの園(神と人が平和に暮らしていた)を取り戻したいのです。
地上でのクリスチャンの役割
もし、死んで天国に行くことが目的なら、なぜ信仰を持った瞬間に天国に引き上げられないのでしょうか?「それは福音を伝えるため。」という答えが返ってきそうです。まず、「福音」とはなんでしょうか?「罪の赦しを受けて天国へ行くことでしょう。」「それなら第一コリント15章のはじめに書いてある。」と多くのクリスチャンは答えるでしょう。さて第一コリント15章を見てみると、パウロが最も大切なこととして伝えたことが15章3節から語られています。確かに3節に「私たちの罪のために死なれた」とありますが、たった1節であり、その後57節まで15章の大部分が「復活」の話してあることに気づきます。明らかに福音の重要部分は「復活」なのです。単なる「死後の霊の存続」ではなく、「肉体の復活」です。死への完全勝利です。これほどのスペースを割いてパウロが語り、「使徒の働き」で使徒たちが非常に力強く証しした「復活」(使徒5:33)を私たちは同じボリュームで語っているでしょうか?教会でもイースターよりクリスマスの方が大事なイベントになってないでしょうか?
それでは、もう一度、なぜ私たちはクリスチャンとしてこの地上にいるのでしょうか?罪が赦されて感謝ですが、そこで止まってしまってないでしょうか?バプテスマを受けたのは「必ずキリストの復活とも同じようになる」という驚くべき希望を持って、「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」(ローマ6:4〜5)なのです。もう一度言いますが、「新しい歩みをする」ためです。この地上は天国行きのバスの待合室ではありません。ちなみにNTライトは面白い指摘をしています。ピリピ3:20の「私たちの国籍は天にある。」は「国籍=アイデンティティ」なのであり、天国へ行くというコンテキストではないと。
多くのクリスチャンにとってキリストの十字架は地獄の火を免れる「火災保険」に成り下がってないでしょうか?十字架と復活は、クリスチャンがこの地上でよき業に励むため(テトス2:14、エペソ2:10)の準備をさせるものなのではないでしょうか?世にも善行する人たちはいます。しかし、神の聖霊を宿し、神の御心をわきまえたクリスチャンこそが「御国」の拡大のために、真に働きができる存在なのです。世の社会改革や革命では「御国」は来ません。聖霊の働きが必要なのです。同時にクリスチャンが天国への「逃避思考」であれば、この地上には「御国」が来ません。「御国が来るように!」と祈ってさえすれば、あとはソファーに寝転んでポテトチップスを食べながらテレビを見、天国を待っていればいいという訳ではないでしょう。神様チームの一員として神と共に、「御心が天でなるように地でもなるよう」働くことが期待されているのではないでしょうか。
ローマ書8章17節をみると「私たちはキリストとの共同相続人」とあります。つまり「御国」を受け継ぐのです。父から遺産として土地や財産を相続すれば、当然それを管理する責任が生まれますね。被造物は私たちクリスチャンにそれを期待しています。8:19を見てください。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」ここで「神の子=イエス」ではなく、「神の子供たち」となっていることに注意してください。これは私たち贖われたクリスチャンのことです。この被造物解放のコンテキストの中で語られているのです。私たちに「役割」があるのです。アダムが神から与えられた創世記1:28の「被造物管理」の命令は消滅した訳ではありません。第二のアダムであるキリストに連なることにより、その責任が回復しているのです。人や自然をケアすること(creation care)が期待されているのです。
私たちがこの地上でなす主にあってのすべての労苦、宣教活動に限らず、人権擁護、障害者、高齢者ケア、医療、弁護活動、教育、子育て、防災、災害支援、水一杯差し上げることなどなど(神の国を前進させる働き)は無駄になることはないのです。(第一コリント15:58)
「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。堅くたって動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄で無いことを知っているのですから。」
(第一 コリント15:58)
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お勧め本
「驚くべき希望」NTライト著 あめんどう出版
「Insurgence~Reclaiming the GOSPEL of the Kingdom」
By Frank Viola BakerBooks
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