2019年8月26日月曜日

「この世界で働くということ」(5)



神の一般恩寵を理解する

私たちが日常生活をするに当たってクリスチャンではない方々の多くの助けを受けて生活しています。会社に行くにも、教会に行くにもノンクリスチャンの運転手が運転する電車に乗って行っています。病気になったら、多くはノンクリスチャンの医者の世話になりますね。そして多くの場合、彼らはいい仕事をしてくれます。料理人はクリスチャンでないからといってクリスチャンよりマズイ料理しかできない訳ではないし、クリスチャンでないからといって、その大工はお粗末な家しか建てられない訳ではありません。時にクリスチャンより上手に仕事をする場合もあります。


「神は人間への恵みとして、知恵、才能、美貌、技術といった資質を与えられます。それもそうした資質を得る資格がまったくない者にもお与えになります。神はこの世界を豊かにするため、明るくするため、そして守るために、そうした資質を種のように人類に撒かれました。」(p.258)


人間はすべて「神の似姿」に造られています。罪により歪んではいても、どこか神の素晴らしさを反映しているのです。東京大空襲で焼け野原となった東京を今日のような世界都市に再建できたのも人間の素晴らしい能力があってこそです。だから、動物には与えられなかった「被造物を従える」こと、すなわち管理。そして「耕すこと」すなわち開発の使命が与えられているのです。


クリスチャンであってもなくても素晴らしい芸術作品、や音楽を作り出せるし、素晴らしい先端技術も作り出せます。お互いの仕事を感謝しましょう。


神は良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。もし、クリスチャンにだけ太陽が照るなら、スポットライトのようになってしまいますね。しかし、神は公平です。恵みを「すべての人」に与えています。罪を犯し堕落してはいても、「人間」であることをやめて「動物」に格下げされた訳ではありません。エバを誘惑したヘビは「地を這うもの」にされてしまいました。ということは、以前は直立歩行だったのでしょう。しかし、人はエデンを追い出されたものの、ヘビにされてしまった訳ではないのです。ですから、落ちることころまで落ちないよう、「恵み」が支えているのです。


「恵の原理があるために、ノンクリスチャンは、その誤った世界観に見合うほど、ひどい存在になることは決してできません。」(p259


今は「恵の時、救いの時」なので「悪くなりすぎない」のです*。先日の京アニの放火事件を見て、多くの人は言うでしょう、「何という酷い事件だ。酷すぎる、悲しい、あってはならないことだ。許せない!」なぜですか?人間が神の似姿に造られた証拠です。クリスチャンであってもなくてもまだ「良心」があるのです。善悪を判断できるのです。これは神の恵みです。

 大艱難時代には教会(キリストの体)が携挙され、引き止めるものがなくなるので(IIテサロニケ2:6)、反キリスト勢力の悪が増大し、非人間性が助長されると思われます。


太陽や雨がすべての人に降り注ぐように、神の恵みもすべての人に降り注いでいます。これを「一般恩寵」と言います。クリスチャンは聖霊を頂き父なる神と直接つながるので、特別の祝福を受けます。これは事実です。しかし、ノンクリスチャンにも恵みが無い訳ではありません。


なぜ、一般恩寵の話をしたかというと、一般恩寵がクリスチャンとノンクリスチャンの共通の基盤を提供するからです。


「一般恩寵を理解したならば、同じ信仰を持ってはいないけれども、神によって大きく用いて頂ける人たちと一緒に、自由に、また謙遜な態度で働きながら、素晴らしい成果を収められます。」(p.260)


私は東日本大震災以来、防災や被災地支援という分野でノンクリスチャンの方々とも共に働く体験を持たせて頂きました。悪天候の中、熱心に救助活動される自衛隊の方々に頭が下がります。新宿区大久保通りや、東久留米地区では次期大震災に備えるため「教会防災ネットワーク」主催で、市の防災課、社会福祉協議会、また防災関係の市民団体と協力して「防災フェスタ」を行なっています。一般恩寵のゆえ、共通の課題、共通の「善」のために一緒に働くことが可能なのです。


その町が安全で繁栄し、人々が豊かに幸せに生活できるようにすることは神の喜ぶことなのです。ユダは偶像礼拝の罪の故に、バビロニアに捕囚の民として連れて行かれます。外国です。異教の地です。しかし、神はその地の繁栄のため祈れと言うのです。


「わたしがあなたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ29:7)


もちろん、丸飲みはできません。しかし、一般恩寵を理解することで「違いを認識」しつつ、「共に働く」ことができるのです。この理解がないと「聖・俗」二元論になり、クリスチャンはこの世から隠遁してしまい、日曜クリスチャンになり、天国行きのバスを待つだけの、社会には何ら影響を与えられない存在となってしまいます。


「信仰と仕事の統合は、二元性の反対です。私たちは、ノンクリスチャンの文化や仕事の世界に深く関わる気持ちを持つべきです。罪に対する深い見識があれば、明らかにキリスト教的な仕事や文化の中にも、いつも何らかの偶像礼拝的な話があることを忘れません。一般恩寵に対する深い見識があれば、明らかに非キリスト教的な仕事や文化の中にも、いつも何かしら神の真理を証しするものがあることを忘れません。クリスチャンは、自分の正しい信仰が語るほどの善なる存在には決してなりません。また、ノンクリスチャンは、自分の間違った信仰で語られるほど、悪い存在にも決してなりません。だから私たちはあらゆる職場において、人間の文化とその表現とを吟味しながら受け入れる姿勢を持つのです。不十分な真理の存在を認識し、偶像に抵抗することを学び、私たちの生活のすべての側面に見られる正義、知恵、真理、美の現れを見出し祝福することを学ぶのです。」(P.267)

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ティモシー・ケラー著 「この世界で働くということ」
いのちのことば社

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Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com(栗原)



2019年8月19日月曜日

この世界で働くということ(4)


続けて、ティモシー・ケラー牧師の「この世界で働くということ」から学んでいきましょう。 

仕事は隣人愛!?

「人は仕事に救い・自尊心・良識・平安を求めます。しかし、こうしたものをすでにキリストの救いの中で得ているクリスチャンは、ただ神と隣人を愛するために仕事に専念すればいいのです。」(p97)

「すべての仕事は客観的に他の人にとって価値のあるものです。しかし自分の仕事は隣人を愛するための召しであると意識的に理解できなければ、主観的には満足することができません。」(p.106)

地上の社会生活が回っていくためにすべての仕事が組み合わさって動いているのです。「すべての人にありがとう!」「すべての仕事にありがとう!」ということでしょう。そして、そうであれば・・・・


仕事に熟練すること=隣人愛

「ディールは仕事を通して神に仕えることを確実にするためにまずなすべきことは、有能になる、仕事ができる人間になることだと言います。」(p104)
           *ウイリアム・ディール ビジネスマンであり、ルター派教会の指導者

「駐車場利用券を発行することであれ、ソフトウエアを開発することであれ、本を執筆することであれ、ただ単純に自分の仕事をするということ以上に、自分の隣人を愛する良い方法はないかもしれません。しかし、熟練の素晴らしい仕事だけが、隣人を愛することになるのです。」(p101

この本にはエンジントラブルの飛行機を奇跡的に着陸させたクローニン機長の話が載っています。(p103) 彼は熟練した腕のいいパイロットだったのです。それでマニュアル通りに行かない状況の中で最善の判断をしたのです。これにより多くの人の命を救いました。彼が職場でどんな風に個人伝道していたかということは乗客にとって何の関係もないのです。重要なのは破損した機体を安全に着陸させる能力があるのかということだったのです。

仕事は愛である。有能に仕事を遂行することが、愛を示す1つの形なのです。
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クリスチャンの職業選択のヒント

ケラーは仕事を選ぶことに関して、聖書からの知恵として3つ挙げています。(p.145)

1.選択の余地があるなら、自分が成功できる仕事、つまり自分の才能と力量
  に合った仕事選ぶべき。

2.他の人に利益をもたらす仕事を選ぶ。

3.可能であれば自分の家族や社会、自分自身の利益を求めるだけでなく、自
  分が携わる業界の利益も求める。

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「仕事の目標は単に働くことではなく、創造された世界を磨き上げるために人類の力量を上げるために働くことにあります。社会や他の人々のために働くべきであることを認めつつも労働者は「仕事・・・に仕え」なければならない。・・・・あなたが素晴らしい仕事をした時、神の憐れみによって、あなたに直接感謝することのない誰かを助けたり、あるいはあなたの後に同じ仕事をする人の手助けをすることができたりしたなら、そのとき初めて、あなたは自分が『仕事に仕えている』ことを知り、あなたの隣人を心から愛していると知ることができるのです。(p147)

う〜ん、面白い発想ですね。
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ティモシーケラー著
「この世界で働くということ」  いのちのことば社

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2019年8月11日日曜日

この世界で働くということ(3)



それでは続けて「この世界で働くということ」(ティム・ケラー著)から学んでいきましょう。

仕事は神の似姿の反映
「仕事は人間が神のイメージに造られたことを反映するものであり、よって単純労働であれ、知的労働であれ、すべての仕事は人間に品格があることの証拠であるというのが聖書の見解です。」(p.62

他の動物たちと区別されるのはまさに「仕事」なのです。動物は単に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われているだけなのに、人間にだけ動物たちを「従わせ」「統治する」あるいは地を治めるという「仕事」に召し出されています。

「生めよ、増えよ」という神の命令に沿って人が増えれば、社会が形成され、都市が形成され、都市インフラが必要となり、また文化が形成されていきます。単なる繁殖ではなく、「文明化」です。「仕事」は社会を作っていく要素なのです。単なる「金儲け」ではなく、仕事は社会を構築します。そして社会には価値観やライフスタイル、文化があるのです。神によって私たちが置かれたその町の「平和と繁栄」を求める(エレミヤ29:7)よう召されているのです。

「仕事」は神の創造のみわざの継続
どんな仕事でも神の似姿に造られた人間の尊厳が反映され、そして社会を管理し、発展させる役目を追っているのです。それは神の6日間の創造のわざの継続と言ってもいいものです。この地は完成品ではなく、「耕す=開発、育成」する必要があるのです。その神のわざを人間が引き継いでいるのです。

「仕事は、私たち人間の設計図に組み込まれているものであり、人間の尊厳そのものです。また仕事は、特に社会・文化の構築という点において創造性を用いて神に仕える方法でもあります。」(p.71

「クリスチャンは、神によるこの世界の創造と育成とに自分の仕事を結びつける方法を、確信と自信を持って当然見つけることができます。」(p69

クリスチャンには仕事を単なる金儲けとして見る以上の「視点」があるということです。

神と一緒にこの世界を育てる
創世記1:2で「地はかたちなく、何もなかった」のです。神は混沌から秩序を作り(創造第一日から4日目まで)、空っぽのスペースに動植物、人間を満たしていったのです。(第5日と6日)

「このやり方はあらゆる仕事に見られます。農業では、土と種という物理的な原材料から食べ物を作り出し、音楽であれば、音を並べ替えて美しく感動的な調べを紡ぎ出すことで、人生を意味あるものにします。布から洋服を作るとき、ほうきを手に取って部屋を掃除するとき、科学技術を用いて電力を制御するとき、成長途中のナイーブな子供に何か教えるとき、夫婦問題の解決法を伝えるとき、身の回りにあるシンプルな材料から素晴らしい芸術作品を作るとき、私たちは神が始められた仕事—形のないものに形を与え、物で満たし、それを従えるという仕事—を引き継いでいることになるのです。混沌とした状況の中に秩序を生み出すとき、潜在的な創造性を引き出すとき、自分が見つけた物をさらに作り込み、そこからさらに「発展」させるとき、私たちは被造物を社会的・文化的に発展させようとなさる神のスタイルを踏襲しているのです。」(p.77

これらは神と一緒にこの世界を育てる(develop)という人に与えられた特権なのです。
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参考本

ティモシー・ケラー著 「この世界で働くということ」
いのちのことば社


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2019年8月5日月曜日

この世界で働くということ(2)

この世界で働くということ(2)

神は創造のわざを行われた時、6日働いて、7日目に休まれました。(創世記2:2)実際、神は今に至るまで働いておられます。(ヨハネ5:17)イエス様も大工でした。その神のかたちに造られた人間には「働くこと」がDNAとして組み込まれているのです。働くことは人間の生活の根幹を成す事を見てきました。女の子は幼稚園の時からおママごとをやり、模擬的に家事をこなしています。男の子はミニ消防車を動かし模擬的に消火活動をやっていますね。特に男性は会社を辞めると生きる張りをなくしてしまうことが多いようです。

仕事は本来祝福
神は人間の創造とともに「仕事」を用意されました。「仕事」は罪の入る前に与えられました。そしてそれは本来、祝福であったのです。

神はアダムにエデンの園を耕させ、守らせなさいました。(創世記2:15)これに関して「主にあって働くということ」(いのちのことば社)の中で、こう説明されています。

「耕すとは作物の成長を促すことです。ですから神が創造された世界を治め、耕すという人間の使命は、世界の全てのものに神が意図されていたそれぞれの本質を実現させ、しかも全体がお互いに侵害し合わずに、調和のとれた秩序を保ち、しかもその全てが生き生きと成長・発展するようにすること、つまり神の御心に沿って管理することなのです。支配とは本来、神に属することですし、いのちを成長させるのも神のみが為し得ることです。ですから、世界を管理するということは本来、神のなさることを代わってさせていただくという栄光に満ちた仕事です。」(p13-14

神は完成された世界に、すなわち人間が何も仕事しなくていい環境に人間を置かれたのではありません。神はご自身の仕事を人間と一緒にすることを選ばれたのです。ちょうど、日曜大工で犬小屋を子供と一緒に作っているお父さんのように。そこにはお父さんとの会話があるでしょう。釘をまっすぐに打てなくて失敗の中で学ぶこともあるでしょう。何よりも犬小屋が完成した時の達成感をお父さんは子供と分かち合いたいのです。

仕事は人間の創造の一部に組み込まれています。ですから天国で雲の上で毎日ハープを聞いているのは似合わないのです。千年王国にも、新天新地にも祝福された「仕事」があるのです。それゆえ私たちが死んでからどうなるか無知であってはなりません。NTライトも「天的」であることは「非物質的」ということではないと強調しています。またティム・ケラー師も「この世界で働くということ」の中でこう書いています。

「事実、天地創造の教義は受肉や復活の教義と合致しており、キリスト教がいかに強固な『物質主義者』であるかということがわかります。クリスチャンにとって、最終的に与えられる天国という未来も、物質的なものです。」

でも今、仕事は呪い?
しかし、同時に聖書は罪ゆえに仕事が「苦役」になってしまったことも述べています。(創世記3:17−19)罪ゆえに病気、加齢、自然災害、死が入ってきてしまいました。人間生活のあらゆる面に罪がもたらす災いの影響が現れるようになりました。仕事も例外ではありません。仕事は「虚しいもの」「必要悪」と感じられるようになりました。エデンの園にあった仕事場の調和(シャローム)は崩され、仕事場には恐れ、敵対心、妬み、時には殺意さえ生まれる環境になってしまいました。(伝道者の書4:4)

仕事は本来、他の人に仕えるものであったのに、(アダムが正しく地を治めることで全ての生き物が生き生きと生活できた。)自己価値を高めようする手段になってしまいました。サタンにそそのかされた人にとっては、地位、名誉、財産、この世の栄華を手に入れることが最終目標となってしまったのです。(マタイ4:8)

バベルの塔を作った権力者ニムロデがいい例です。自己の力、権力を誇り、「名をあげよう」としたのです。自分の功績によって自分の価値、アイデンティティを作り上げようとしたのです。今日でも多くの職場で人々がそれを追い求めています。しかし、これは「的外れ=罪」なのです。神を度外視して自分の判断で突き進む、知恵の実を食べた人間の結果なのです。それは的外れなので、真のゴールに到達しないからです。それで人は十分な富があっても「もっともっと」と追及してしまうのです。いつまでたっても満足できず、安らげないのです。あるいは、「お金さえあれば・・」と偽りの平安を得た気分になります。しかし、それが愚かであることはルカ12:16〜20の金持ちの例えで明らかです。神の前に富まない者は空しいのです。

クリスチャンは神に100%愛され、受け入れられています。神の子供というアイデンティティを持っています。自分を仕事で自己証明する必要はないのです。

神は7日目に休まれた〜仕事以外にも価値を見出す
「第7日目になさっていたすべてのわざを休まれた。」(創世記2:2)「その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記2:3)この短い文章の中に繰り返し神が仕事を休まれたことが記されていますね。もちろん、神は疲れることのない方ですが、我々人間にモデルを示したと言えます。仕事は大事だし、人間の根幹をなすものではありますが、仕事だけが大事なのではない。「休まれた」というところに仕事以外にもう一つの価値があることを示しているのです。まずは文字通り、体を休めること、家族や友人との時間を持つこと、そして、ゆっくり自分を見つめたり、神を礼拝したりすること。のべつ幕無しに働くのは神の御心ではありません。頭が仕事で埋め尽くされていては煮詰まってしまい、最後には燃え尽きてしまいます。その時、それは偶像となってしまいます。神第一という優先順位を定めることが大事です。仕事と休息のバランス。人間は仕事をし、休み、休んで、仕事をする。そういうリズムを神は定められたのです。



1.仕事の目的が自己実現になってませんか? 
私たちは神の栄光のため生きています。聖書的な仕事観は他の人に仕えることです。

2.仕事で自分のアイデンティティを得、自己証明をしようとしていませんか?
仕事の成功に関わらず、クリスチャンは100%神に赦され、100%神に受け入れられています。キリストにあって神の子供です。(ヨハネ1:12)

3.地位、名誉、財産、を得ること、自分の会社の名を上げることが偶像になっていませんか?
神の座に神以外のものを置くことは偶像礼拝です。(出エジプト20:3)(マタイ6:33)

参考本
「この世界で働くということ」仕事を通して神と人に使える。
ティモシー・ケラー著 いのちのことば社

 
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