2022年10月27日木曜日

エクレシアの可能性(1)

 

教会はどうなる?

日本の福音派は、高度成長の時代(60年代〜80年代)と共に成長してきました。「羽ばたく日本の福音派」という本が出版されたくらいです。アメリカでも日本でもリベラル系の神学校に行く人が減り、福音派が増えていきました。90年代はピークだったのではないでしょうか?日本のキリスト教界は熱く燃えていました。初の日本人講師(本田弘慈氏)による日本武道館でのクルセード「ゴスペル90」を皮切りに、超教派の大賛美大会「ジェリコの歌声」や街に繰り出しての「ジーザスマーチ」、「甲子園リバイバルミッション」、私の所属するCCCでも日韓協力宣教の「ニューライフ関西92」で2000人の韓国人青年が来日。未伝地伝道「Love Japan九州98」では東アジアCCCから700名の若者が動員され、九州の110の教会未設置町村で戸別訪問伝道がなされました。キリスト教年鑑によると、その頃は毎年、1万人ほどの洗礼者があり、教会数、信徒数が右肩上がりでした。

 

しかし、2000年代に入って、どうも減速してしまっているようです。少子高齢化に伴い、牧師、教会員の高齢化は進み、同時に若者の教会離れは顕著です。アメリカでも韓国でも、その傾向があることを聞いています。日本では、数年前から、ついに教会数や教会員数も減りだしました。教会の閉鎖も始まっています。

 

先日、神学校で生活を共にした友人の牧師夫婦とランチしながら、いろいろお話を聞かせて頂きました。教会は出入りが多く、定着する人が少ないこと。素敵な会堂があるのですが、礼拝は10名くらいの出席だと教えてくれました。「生き残りが大変です。」と牧師夫人が正直に分かち合ってくださいました。「本当はオーガニックチャーチをやりたいけど、会堂もあり、宗教法人もあるので、どうしようかと・・」と続けて告白されました。多くの教会で、正に「生き残り=サバイバル」が現実なのではないでしょうか?

 

コロナ渦のTMCエクレシア

コロナ前、池袋、青山、赤坂、丸の内、秋葉原の5カ所で行なっていたTMCエクレシアはコロナになりzoomに移行しました。会堂を持つ教会は、大きなダメージだったと思います。しかし、私達の「分かち合い形式」でのスモールグループ・コミュニティ(エクレシア)は、オンラインになったとはいえ、「通常営業」でした。実はオンラインになってのメリットも沢山ありました。

 

1)やかましいカフェやレストランではなく、家庭から参加できるので、静か

  にバイブルスタディや祈りに集中できる。

2)引越して遠方に行った方もオンラインなので継続して参加できている。

3)出張や旅行先からもオンラインなので参加できる。

 

結果的に、5つのグループ、トータル17名が、継続して参加しておられます。新しく加わった方もいます。オンサイトに戻りつつあるグループもあります。以下、それぞれのグループの人数です。(私を除いて)

 

池袋:男性5名

秋葉原:男性3名

赤坂:男性3名

青山:男性2名

土曜会:女性4名(うち1名は宣教師)

 

TMCエクレシアに触発されて、自ら始めたグループもあり男性4−5名が集っています。そこではオンライン「パン裂き」も行われています。

 

コロナ渦で継続できた理由

忙しい日本のビジネスマンがコミットして毎回参加するのはなぜでしょう?それだけのモチベーションがないと無理です。参加しなければならない「プログラム」なら無理です。参加する理由は、そこに「意味」と「祝福」があるからです。真実の「交わり」がありからです。初代教会では家々で交わりを持っていたわけですが、そもそも「1つ場所に多くの人を集める必要があるのか?」と問うてみるべきです。メッセージを聞くならオンラインでも聞けるし、そのうちVRで臨場感ある賛美礼拝も体験できるようになるでしょう。どうしても代替できないのはインターアクションのある「コミュニティ」です。TMCエクレシアはスモールグループです。一人一人の存在が大きく、代替できないのです。そこに帰属感があります。絆があります。

 

やっていることはシンプルで、「近況報告」「分かち合いバイブルスタディ」「祈り合い」の3つだけです。オンサイトの場合はなるべく会食を含みます。イエス様を中心として人生を共にする共同体をイメージしています。「祈り合い」では、それぞれの抱える祈り課題を分かち合い、定期的に祈り合います。祈りの答えも分かち合います。共に喜び、共に悲しむのです。そこでは、職場や家庭での悩みを聞いてくれる「相手」がおり、一緒に祈ってくれる「仲間」がいるのです。また、毎回のバイブルスタディで目が開かれ、み言葉が生きて働くことを体験します。そこに「生きている」エクレシアが生まれます。良いコミュニティができると、人はそう簡単には離れなくなります。

 

セカンド・エクソダス

アメリカの大教会で、若者離れを防ぐため、教会にゲームセンターを設置したという話を聞いたことがあります。なんか悲しくなりました。「そこじゃないだろう」と言いたいです。そこに「意味」と「祝福」があれば、すなわち、本物があれば若者でも離れないのだと思います。人間的な操作で人を引き止めることはできません。教会(エクレシア)はキリストの体です。生命体です。生きているのです。キリストが生きている限り、エクレシアは死なないのです。人間的努力でエクレシアを「生き残らせる」のではありません。エクレシアがエクレシアであれば、生き残るのです。そして、繁殖するのです。

 

わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。  

(ヨハネ10:10)

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、  イエスの名によっていのちを得るためである。

(ヨハネ20:31)

 

形だけを維持しようとするキリスト教という「宗教」を辞めて、生ける「エクレシア」を発見しませんか?ある人はこれを「セカンド・エクソダス」と表現しています。第一のエクソダス(出エジプト)は、「この世のライフスタイル」からの脱却、第二のエクソダスはキリスト教という「宗教」ライフスタイルからの脱却を意味します。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2022年10月20日木曜日

求めている人はいる!


コロナを超えて 

週一度くらいのペースで路傍伝道(路傍伝道ネットワーク主催)に参加し、聖書配布をしています。確かに、無関心の人は多いです。受けとる人の霊的土壌によって反応が違うことは、聖書が語っている通りです。(マタイ13:1−8)これは教会時代の現実です。しかし、統一教会が問題になっている最中であることを考えると、意外と、好意的な感じを受けています。基本、路上コンサートで、絶え間なく賛美が流れているので、駅前が聖なる空間、癒しの空間になります。霊的戦いの最前線に賛美を置くことは、聖書が語る勝利の原則です。(歴代誌20:19−22)コロナやウクライナ戦争の中、人々は「安らぎ」や「希望」を求めているだと思います。それを肌で感じられます。かつてパスカルは「人の心には神の形をした空洞がある。それは神にしか満たすことができない空洞だ。」と言ったそうですが、その通りですね。

 

「聖霊様、霊的飢え渇きを造ってください!」と祈りながら聖書を配布します。

 

聖書を受け取る人はいる!

猛暑の中、御茶ノ水駅前で、2時間配って、たった4冊という厳しい時もありました。通常は、1時間半〜2時間で15冊くらい配布できます。(私の個人的なケースで、もっと配れる人もいます。)「イエス様はあなたを愛しています!」とマスク越しに語りながら配布することもあります。路上で目の前を通過する人々を見ていると、イエス様のお心を実感します。じ〜んと胸が熱くなるのです。

 

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、

弱り果てて倒れていたからである。     (マタイ9:36)

 

中には自ら近寄ってきて聖書を受け取る人もいます。先日、おばあちゃんが受け取った後、「お幾らですか?」と聞いてきましたので、「無料です」と答えると驚いていました。「イエス・キリストはあなたを愛しています。イエス様を信じて天国行きましょう!」と言うと、頷いて去って行かれました。一期一会と言う言葉がありますが、その通りです。この時でなければ、出会えない人がいるのです。このおばあちゃんも、いつまで地上にいらっしゃるか分かりませんが、今日の出会い、今日の会話を「死の床」で思い出して頂けると嬉しいです。

 

受け取って下さる人はいるのです!先日、中野では若い男性達がよく受け取ってくれました。特に中高生が受け取ってくれると嬉しいです。自分は聖書ではありませんでしたが、高校2年の時、巣鴨駅前で配布されていた「Hi-BAキャンプ」の案内パンフを受け取ったことがきっかけで、キャンプに参加し、救われたのです。その1枚のトラクト、1冊の聖書も無駄ではありません。それがきっかけで救いに導かれるかもしれません。

 

数名でも「いのちのみ言葉」を受け取ってもらえれば、やり甲斐があるのです。

 

求めている人はいる!

路傍伝道の醍醐味は路上で会った人に個人伝道できるということです。先日、川口駅前で聖書配布していると、ご婦人がクリスチャンyoutuberの方の名前を出して、「〇〇さん、知ってますか?」と聞いてきました。「ああ、知ってますよ。」と答えると、笑顔になって会話が始まりました。「その方の教会に行ってみたい。」と言うのです。「クリスチャンですか?」と聞くと「自分は無宗教だけど、霊的なものを感じる方なので、神道系にいくか、キリスト系にいくか、いろいろ考えている・・」と明かされました。また「自分は歳とともに西洋かぶれではなく、日本のものを尊重したいと。」言われました。

 

それで、私は「創世記1:1に『はじめに神が天と地を創造した』とあり、神はキリスト教徒を作ったのでも、仏教徒を作ったのでもない、神は人を造ったのです。」と語らせて頂きました。そう、西洋も日本もない、聖書は神と人の話なのですから。それから初代教会のシンプルな信仰がローマ皇帝コンスタンティンによって儀式化、形骸化、権力化して「宗教」になってしまった事を説明しました。グローバルエリートの世界支配の話まで出たので、終末には「反キリスト」と呼ばれる独裁者が世界をデジタル管理するようになることを伝え、「黙示録に書いてあるので、呼んでください」と聖書を手渡しました。

 

また、ご婦人は「祈りは本当に聞かれるんですか?」と聞いてくるので、「はい、もちろん、でも創造主に通じる電話番号はイエス・キリストです。」とお答えしました。そして、第一コリント15:1〜5の福音の3要素(「イエスの十字架の贖いの死」と「埋葬」と「復活」)を語り、「イエス様は救い主です。信じるものは救われます。イエス様を信じてください。」とお話ししてお別れしました。その場では信じませんでしたが、笑顔で去って行きました。きっと手渡した聖書を読んで頂けると思います。

 

「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。

    彼らは立派な良い心で、みことばを聞いて、それをしっかり守り、

    忍耐して実を結びます。」        (ルカ8:15)


 

出て行って福音を伝える

私達は隠し立てしません。「はい、キリスト教です。伝道しています。聖書配布しています。」と立場を鮮明にしているのです。街中に出て行って大胆に、明瞭に「伝道」していると、求めている人は、向こうから話しかけてくるのです。

 

実際、路上で福音を個人的に語るチャンスが、何度かありました。毎回、チームの誰かが、このような体験をします。神がこのようなチャンスを下さるのです。福音のために、大胆に出て行く人に報いてくださるのです。「求めている人」に出会わせてくださるのです。今、必要なのは忠実に福音の種を撒き続けることなのです。

 

「ですからあなたがたは、行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。」

  Go therefore and make disciples of all nations.

                       (マタイ28:19)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2022年10月13日木曜日

書かれた神のことば

 

常に攻撃されてきた聖書

今日、アメリカの福音派と言われる教会の中で「聖書は字義通り正しいわけではない」と考える人たちが26%もいるというのです。サタンは神の言葉の権威を貶めることに必死です。聖書ほど、迫害を通ってきた本はないのです。徳川時代のキリシタン迫害、中国文化革命時の迫害、その他の地域で、数え切れないほどの迫害の中を生き延びてきました。AD303、ローマ皇帝ディオクレティアヌスは家々を回り、地上から聖書を滅亡せんとしました。検閲後、聖書を持っていると死刑にされたのです。しかし、次の皇帝は国費で王室図書館に50冊の完全な聖書の写本を設置させました。フランスの無神論哲学者ヴォルテール(1778年没)は、「100年以内にキリスト教は滅亡し、聖書は消え失せる!」豪語していました。しかし、その宣言の50年後、ジュネーブ聖書刊行会は彼の家にオフィスを構え、彼の印刷機で何千という聖書を印刷したのです。これは神の為す皮肉ですね。

 

中世、神聖視されてきた聖書も、現代では一般の古典と同じく、人の創作として扱われるようになりました。現代思想により影響を受けた「自由主義神学」では聖書の超自然的な話(イエスの奇跡など)を削除していきました。最近は、福音派の中でも「再臨」「携挙」「体の復活」「千年王国」「終末預言」などを語ることを避ける傾向があるように思えます。しかし、いつの時代にあっても神の言葉を信じる「残されたもの=レムナント」と呼ばれる少数派がいました。聖書を神の言葉と信じるから確信あるメッセージが語れるのです。その確信を持ってシンプルに語る「救いのメッセージ」で、人々の人生が変えられてきたのです。神の言葉は生きているのです。(ヘブル4:12)

 

聖書を退けて知性が暗くなった

特に創世記と黙示録は攻撃を受けてきました。創世記には人を堕落させた原因である喋るヘビ(サタン)=「罪の原因」が書かれていますし、黙示録にはサタン(竜)の最終的な運命(滅び)が書かれています。それらは、サタンにとっては不都合な事実なのです。サタンによって霊的に盲目になった人々は、真実ではないものを真実と思い込まされているのです。逆に、聖書の真実は「馬鹿らしい神話、おとぎ話」と受け取られるようになっています。現代人の多くはこのような考え方をしているでしょう。

 

  神はいない。

  世界は偶然に始まり、進化した。人間はサルから進化した。

  サタンは神話の存在で、現代社会にはいない。

  神はいないし、神の裁きもない。地獄などもちろんない。自分達の都合の良いように社会を運営し、思いのまま、自由に生きればいい。

 

最近、南米の諸国の祈り課題を翻訳していました。ほとんどの国で犯罪、殺人、賄賂が横行し、治安が悪く、人々は不安の中にいます。不安の中にいるのは南米だけではないでしょう。戦争があり、飢饉があり、政治不安があり、独裁者の下で人権が侵され、とても理想社会が展開されているとは思えません。人々は今も真の希望を求めています。聖書は言っています。「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。」(詩篇14:1)

 

神の言葉を書き留めたユダヤ人

ユダヤ人の特権とは何でしょう?第一に、神の言葉が委ねられたということです。(ローマ3:2)彼らは、神の言葉を聞き(啓示を受けた)、それを書き留め、一字一句丁寧に書き写し、保存してきたのです。そういう意味では特殊な民、選ばれた民です。

 

「十戒」のように神ご自身が石の板に書かれたものもありますが、多くは神が人を通して、その御意志やご計画を表されたのです。

 

主の契約の箱の設計図に関して、ダビデはこう言いました。

「わたしの上に臨んだ主の手によって書き物になっていて、仕事の全貌が理解できるはずだ。」(第一歴代28:19)

 

また、預言者は、未来に起こることまで含めて神のメッセージを受け取り書き留めました。預言書にある預言が成就したことを見るとき、聖書が単なる道徳の本ではないことが分かります。これから起こる終末預言もあります。聖書は過去の書物ではなく、私達は聖書の世界をリアルタイムで生きているのです。ここに聖書のユニークさがあります。

 

聖書は神の言葉

職業も背景も時代も違う40人の著者が1500年というタイムスパンで書いたにも関わらず、旧約39巻、新約27巻を貫くテーマは人類の救い主、イエス・キリスト(メシア)なのです。聖書は神の霊感によって書かれた「神のことば」です。単なる道徳書、人生訓ではありません。そのスコープは壮大です。聖書には「人類の救い」を含め、神の「被造物回復」のご計画が書かれています。従って、聖書は、神の視点からの「世界観」、「歴史観」を提示しています。

 

聖書の信頼性について少し話しましょう。私達は古典文学を、そのまま信頼して読んでいますね。シーザーの「ガリア戦記」は原典が書かれてから、現代に残る最古の写本までのギャップが1000年もあります。写本の数はわずか10。ホメロスの「イリアッド」はタイムギャップが500年。写本数は643。それに比べて新約聖書は原典から最古の写本までのタイムギャップはわずか25年。写本数は24000と圧倒的に多いのです。それだけ、信頼できるという事です。旧約聖書に関しても、1947年以降にクムランの洞窟から「死海写本」(972の写本群の総称)が発掘され、その正確さに世界は驚いたのです。

 

1.聖書は神の言葉、人類へのメッセージです。聖書は神の霊感(神が真の著

  者)によって書かれています。(IIテモテ3:16)

2.聖書の言葉は生きています。読む人の心を突き刺します。(ヘブル4:12)

3.聖書は道を照らす光、混迷している人生に、社会に行くべき道を示します。

                        (詩篇119:105)

4.聖書は人生を変革します。聖書は人に人生の目的、喜び、命を与え、魂を

  救います。(マタイ4:4、Iペテロ2:2)

5.創世記から黙示録、神の被造物回復の壮大な物語(世界観、歴史観)を

  啓示しています。

 

歴史に介入する神

聖書は「キリスト教」の経典ではありません。西洋思想でもありません。聖書は書かれた「神のことば」、神が人類に語る、「神のメッセージ」なのです。時空を超えた創造主が、この時間と空間の人類歴史に介入される話なのです。従って、聖書の「トンデモ話」を削除してはいけません。神が介入されるのであれば、超自然な現象が起こるのは当然だからです。「ノアの洪水」も「ソドムの滅亡」も「出エジプト」も事実です。2000年前、人となって来られた神イエスが、ガリラヤで数々の奇跡を行なったのも事実です。キリストの「復活」が本当なら、「携挙」も「再臨」もあるのです。私達の「栄光のからだへの復活」も、地上に実現するメシア王国(千年王国)もあるのです。ですから「福音」のメッセージはパワフルなのです。尋常ではない希望を与え得るのです。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年10月6日木曜日

聖書の翻訳が与える誤解


聖書の翻訳の問題

聖書の翻訳に携わっておられる方は、本当にご苦労されていると思います。簡単な事ではありません。こうして今、個人が日本語で聖書を手に取って読めることは何と幸いな事でしょう。ただ、どうしても翻訳には翻訳者の神学が反映されしまうことは否めません。例えば、ローマ書12章、「この世と調子を合わせてはいけません・・・」という箇所です。後半、新改訳聖書第3版では、こうなっています。

 

「・・・心の一新によって自分を変えなさい」

 

とあり、自分の努力で自分を変えなければならないイメージです。第3版の対訳聖書のNKJVでは ”be transformed” となっており、日本語との差異に違和感を感じていました。ところが2017年版では、

 

「むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」

 

・・・と受動態に変更されており、自分を変えてくださる主体は神になっているので、安心できます。このように信仰生活にも大きく響くので聖書が言っている正確な真意を伝えることは極めて重要と言えるでしょう。それでいくつか、気になっている言葉を取り上げてみたいと思います。

 

教会(エクレシア)

このブログでも何度も取り上げてきました。エクレシアは一般的には「ある目的のために呼び集められた人々」という意味で、「議会」などにも使われていました。大事なことは集められた「人々」なのであり、「建物」「組織」に言及されているところは無いのです。聖書的には「神が呼び出された人々の群れ」であり、地上の制度、宗教法人としての教会組織とは無縁です。「教会はキリストの花嫁」と言う時に、教会は会堂を指しているのではないことは明らかです。キリストが愛しているのは、信者の事です。しかし、多くの日本人は「教会」と聞いた時、まず、「会堂」、「日曜礼拝」を思い浮かべるでしょう。パウロが以下のように教会(エクレシア)を定義しています。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。  (エペソ1:23)

 

第一に教会は「キリストのからだ」です。組織というより、生命体であり、オーガニックなのです。わざわざオーガニックチャーチという必要もなく、もともと教会はオーガニックなのです。さらに「すべてのものを満たす方」、キリストが満ちておられるところ=キリストの充満するところと定義しています。しかし、クリスチャンであっても「教会とは?」との質問に「キリストの充満」と答える人がどのくらいいるでしょう?言葉というものは以前のイメージを背負ってしまっています。ですから、教会(教える会)を辞めて、「エクレシア」を使ったほうが、聖書的の本来の意味を伝えやすいのではないでしょうか?

 

罪(ハマルティア)

伝道する時、罪の説明が面倒ですね。「実は、聖書で言っている罪というのは銀行強盗や殺人の意味ではなく、もともとの意味は『的外れ』という意味なんですよ。創造主なる神を離れて生きることは『的外れ』な生き方なんですよ。」と。

それなら、初めから「罪」を「的外れ」、「脱線」、「人生の本来の目的からの逸脱」などと訳してくれると、上記のようなくだくだした説明をしなくて済みます。実際、ギリシア語のハマルティアはアーチェリーにも使われていた「的外れ」という言葉です。ついでに英語だと単数、複数の区別がつきますが、日本語は皆同じ「罪」となってしまいます。Sin sins(個々の罪)とは意味が違うのです。その辺も何とかなりませんかね。

 

悔い改める(メタノエオー)

本来、「方向転換」と言う意味で中立的な言葉です。つまり、「悪」から「善」に方向転換しても、「善」から「悪」に方向転換しても「メタノエオー」なのです。しかし、これを「悔い改め」と訳すと、どうしても「罪」を悔い改めるというイメージになるのです。つまり、罪を後悔して、「もうしません。もうしませんから、赦してください」と自分の努力や修行で罪を止めることとなってしまいます。方向転換しない限り罪の赦しはないのです。太陽に背を向けて歩きながら「暗い、暗い」言っていた人が太陽の方に向いて明るさを実感するのはメタノエオーです。キリストは単なる「優れた教師」と思っていた人が聖書を読み「キリストは神の子だ」と「思い直す」なら、それはメタノエオーです。同じように、自分の罪にいつまでも目を向けるのではなく、そのために十字架で死んでくださり、過去、現在、未来の罪を赦してくださったお方に目を向けることはメタノエオーです。ちなみに、いくら罪を悔いて、涙を流しても、キリストを見上げないなら罪の赦しは無いのです。メタノエオーしないからです。

従って、「悔い改め」より、「思い直し」の方が原意に近いです。

 

御国(バシレイア)

御国も分かりにくいですね。「御国」は、現代使わない言葉なので、一般の人には意味不明です。それで、御国=天国というイメージになってしまいます。以前のブログで書きましたが、マタイ13章で展開されている「天の御国」は「天国」の話ではなく、現在の地上の話です。神が支配しているところが御国です。現在ではエクレシアも御国と言えます。

 

英語ではKingdomで分かりやすいです。Kingという言葉が入っているので分かりやすいのです。ギリシア語のバシレイアは「王国」という意味です。王国には「王」がいるのです。王が治める国なのです。政治的な言葉です。御国だとそのニュアンスが薄れます。「神の国は近づいた」は「神の支配が近づいた」あるいは、「神の王国が近づいた」の方がピンときます。ともあれ、もっと「王が治める国」とういイメージが欲しいです。若い人には「キングダム」の方がストレートで、分かり易いかもです。

 

 

もう1つ。翻訳ではないですが、よくクリスチャンが使う「牧師先生」は頂けません。「師」と「先生」とダブルになっており、日本語としてもヘンなのです。エペソ4:11の「牧師」は、新改訳2017年版の欄外には別訳として「牧者」となっています。原語は文字通り羊を飼う「羊飼い=牧者」なのです。敬意を持って接することは良いことですが、何も「牧師先生」とまで持ち上げなくてもいいと思います。また、「牧師先生」に対する「平信徒」という表現もいかがなものでしょうか。あまり聖書的ではないですね。エクレシアは基本的に「兄弟、姉妹」の集まりです。

 

牧師を「牧仕」、礼拝を「霊拝」(ヨハネ4:24)と訳す人もいて、「なるほどな」と思いました。この方が原意に近いのではないでしょうか?

 

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執筆者:栗原一芳

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