教会はどうなる?
日本の福音派は、高度成長の時代(60年代〜80年代)と共に成長してきました。「羽ばたく日本の福音派」という本が出版されたくらいです。アメリカでも日本でもリベラル系の神学校に行く人が減り、福音派が増えていきました。90年代はピークだったのではないでしょうか?日本のキリスト教界は熱く燃えていました。初の日本人講師(本田弘慈氏)による日本武道館でのクルセード「ゴスペル90」を皮切りに、超教派の大賛美大会「ジェリコの歌声」や街に繰り出しての「ジーザスマーチ」、「甲子園リバイバルミッション」、私の所属するCCCでも日韓協力宣教の「ニューライフ関西92」で2000人の韓国人青年が来日。未伝地伝道「Love Japan九州98」では東アジアCCCから700名の若者が動員され、九州の110の教会未設置町村で戸別訪問伝道がなされました。キリスト教年鑑によると、その頃は毎年、1万人ほどの洗礼者があり、教会数、信徒数が右肩上がりでした。
しかし、2000年代に入って、どうも減速してしまっているようです。少子高齢化に伴い、牧師、教会員の高齢化は進み、同時に若者の教会離れは顕著です。アメリカでも韓国でも、その傾向があることを聞いています。日本では、数年前から、ついに教会数や教会員数も減りだしました。教会の閉鎖も始まっています。
先日、神学校で生活を共にした友人の牧師夫婦とランチしながら、いろいろお話を聞かせて頂きました。教会は出入りが多く、定着する人が少ないこと。素敵な会堂があるのですが、礼拝は10名くらいの出席だと教えてくれました。「生き残りが大変です。」と牧師夫人が正直に分かち合ってくださいました。「本当はオーガニックチャーチをやりたいけど、会堂もあり、宗教法人もあるので、どうしようかと・・」と続けて告白されました。多くの教会で、正に「生き残り=サバイバル」が現実なのではないでしょうか?
コロナ渦のTMCエクレシア
コロナ前、池袋、青山、赤坂、丸の内、秋葉原の5カ所で行なっていたTMCエクレシアはコロナになりzoomに移行しました。会堂を持つ教会は、大きなダメージだったと思います。しかし、私達の「分かち合い形式」でのスモールグループ・コミュニティ(エクレシア)は、オンラインになったとはいえ、「通常営業」でした。実はオンラインになってのメリットも沢山ありました。
1)やかましいカフェやレストランではなく、家庭から参加できるので、静か
にバイブルスタディや祈りに集中できる。
2)引越して遠方に行った方もオンラインなので継続して参加できている。
3)出張や旅行先からもオンラインなので参加できる。
結果的に、5つのグループ、トータル17名が、継続して参加しておられます。新しく加わった方もいます。オンサイトに戻りつつあるグループもあります。以下、それぞれのグループの人数です。(私を除いて)
池袋:男性5名
秋葉原:男性3名
赤坂:男性3名
青山:男性2名
土曜会:女性4名(うち1名は宣教師)
TMCエクレシアに触発されて、自ら始めたグループもあり男性4−5名が集っています。そこではオンライン「パン裂き」も行われています。
コロナ渦で継続できた理由
忙しい日本のビジネスマンがコミットして毎回参加するのはなぜでしょう?それだけのモチベーションがないと無理です。参加しなければならない「プログラム」なら無理です。参加する理由は、そこに「意味」と「祝福」があるからです。真実の「交わり」がありからです。初代教会では家々で交わりを持っていたわけですが、そもそも「1つ場所に多くの人を集める必要があるのか?」と問うてみるべきです。メッセージを聞くならオンラインでも聞けるし、そのうちVRで臨場感ある賛美礼拝も体験できるようになるでしょう。どうしても代替できないのはインターアクションのある「コミュニティ」です。TMCエクレシアはスモールグループです。一人一人の存在が大きく、代替できないのです。そこに帰属感があります。絆があります。
やっていることはシンプルで、「近況報告」「分かち合いバイブルスタディ」「祈り合い」の3つだけです。オンサイトの場合はなるべく会食を含みます。イエス様を中心として人生を共にする共同体をイメージしています。「祈り合い」では、それぞれの抱える祈り課題を分かち合い、定期的に祈り合います。祈りの答えも分かち合います。共に喜び、共に悲しむのです。そこでは、職場や家庭での悩みを聞いてくれる「相手」がおり、一緒に祈ってくれる「仲間」がいるのです。また、毎回のバイブルスタディで目が開かれ、み言葉が生きて働くことを体験します。そこに「生きている」エクレシアが生まれます。良いコミュニティができると、人はそう簡単には離れなくなります。
セカンド・エクソダス
アメリカの大教会で、若者離れを防ぐため、教会にゲームセンターを設置したという話を聞いたことがあります。なんか悲しくなりました。「そこじゃないだろう」と言いたいです。そこに「意味」と「祝福」があれば、すなわち、本物があれば若者でも離れないのだと思います。人間的な操作で人を引き止めることはできません。教会(エクレシア)はキリストの体です。生命体です。生きているのです。キリストが生きている限り、エクレシアは死なないのです。人間的努力でエクレシアを「生き残らせる」のではありません。エクレシアがエクレシアであれば、生き残るのです。そして、繁殖するのです。
わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
(ヨハネ10:10)
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、 イエスの名によっていのちを得るためである。
(ヨハネ20:31)
形だけを維持しようとするキリスト教という「宗教」を辞めて、生ける「エクレシア」を発見しませんか?ある人はこれを「セカンド・エクソダス」と表現しています。第一のエクソダス(出エジプト)は、「この世のライフスタイル」からの脱却、第二のエクソダスはキリスト教という「宗教」ライフスタイルからの脱却を意味します。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳