2010年12月26日日曜日

City Transformation


トランスフォーメーションというビデオシリーズのQuickeningを最近、

見る機会があった。すでにI&IIは見ているが、今回は、リポートだけ

でなく、都市変革の原則が描かれている。改めて思わされたのは、

City Transformation、つまり都市ごとまるごとの変革が起こるとき、経済、

文化、政治、エンターテインメントに至るまで、社会の「すべての層」に

影響を与えるということ。そして、教会間の一致が強められ、神の国の

視野が広まってゆく。都市単位での変革というのは可能であり、

あのニネベのように、神は都市単位での救い、購いを計画される。


そこで思ったのですが、つまり1教会の一人勝ちはないのではないか

ということ。神のご臨在が都市に現れれば、すべての教会が影響うけ、

CITYのクリスチャンが増加し、社会のあらゆる分野に影響が出る

はずだと。自分の教会だけが大きくなればいいという発想はおかしいの

であり、霊的変革が起こると教団を超えて同じく神が働く。第二歴代

7:14によると神の民がへりくだり御顔を慕い求める時、神は

祈りに聞き、罪を赦し、「地をいやす」と約束しておられる。

呪いが除去され、地はいやされ、祝福(シャローム)が回復されるの

である。酒場は閉まり、父の心は子に向き、家庭が回復してゆく。

社会の不義、会社の不正が改められ、誠実さが回復される。


見極めるべきは、本当に神が来られたのか? 神が来られたらどう

なるのか? それはシティワイドな覚醒に違いない。一教会、一教団

の出来事ではない。ノンクリスチャンさえ認知せざるを得ない現象

となる。まず神は人をトランスフォームする。私達が御顔を求めて

いるか?神をフォーマット化せず、神ご自身を求め、神のやっている

ことに私達が合流してゆく。神がすることへの期待を下げない。

神の為さることはもっと、もっと大きいと信じて進むこと。 


それでは、このビデオで語られているCity transformation が起こる要素

について紹介しよう。


1. 神が歓迎される。神に来ていただく用意がある。

 人間のやり方、人間のプログラムに飽き飽きしている。本物が欲しい。

 ご臨在なしに生きられないという思い。


2.へりくだる人々。神は砕かれた人を用いる。

神への全き信頼。あなたしかありませんという絶望の中での神へ

の求め。私は足りません。何も出来ません。あなたを離れては。

人間にはできませんという態度。


3. 神のお心を求める。我々の計画ではなく、神は何を我々に欲して

   いるかを探る。

 神様どうしたらいいんですか? 都市の必要を見、痛み、祈る。

 祈り続ける。神のお心を求める。みこころを行う。するべきこと

 をする。神は神のパートを為さる。


4. 少人数でも神を求めて一致する。

 神は大きなグループを必要としない。熱心な祈りをもって、

真実に神を求める小さな群れ。キリストで一致。都市の

ために熱き祈りをささげる。やめない。祈り続ける。天と地

を結ぶ祈り。破れに立つ。罪は時間が たっても解決しない。

告白し、悔い改めなければならない。自分の住むCITYが

「主がおられる街」という名に変えられるという約束を信じて。


5. 神はユニークな方法で来られ、人は驚く。

神をフォーマット化しない。

 神に働いていただくSPACEを与える。それが起こると人は

コントロールできない。

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変革してゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか、

どのようにキリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成して

いったらいいのかについて話し合う「場」を持っています。

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2010年12月19日日曜日

「キリスト教は霊的なこと」


ある集会に出たとき、ノンクリスチャンが「キリスト教は勉強という

イメージがある。」と言っていた。確かに、信じますと言ってもさらに、

洗礼準備会に出なければならない。十分に知的に装備してからでないと

洗礼を受けられない。新約時代は信じた人は即、洗礼だった。キリスト

教には聖典である聖書があるが、新約の教会は聖書が書かれる前に

始まっている。教会の始めは聖霊の降臨である。


預言者ヨエルが予言したことが実現した。「神は言われる、終りの日に、

わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・・その日、わたしのしもべにも、

はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」

(使徒2:17-18)ペテロはペンテコステの出来事を説明するのに、

この箇所を引用した。つまり、この御言葉が今、成就しているのだと

宣言したわけだ。ここで重要なのは、神はご自身の霊(聖霊)を

すべての人(牧師や宣教師だけでなく)に注ぐと言っている事だ。信じる

人すべてに分け隔てなく、神の霊が住む。その結果、どうなるかというと、

彼らは預言する、すなわち神の声を聞けるようになるということだ。


御霊のことは御霊によってわきまえるので、信じて聖霊を受けると、

聖書が神からのラブレターとなり、わかるようになる。何度も福音を

聞いているのに信じない人の場合、すでに知識の問題ではありません。

霊の問題なのです。(IIコリ4:3-4)

60年代のドラッグにまみれたヒッピーたちがイエスを信じて生まれ

変わり、聖霊を頂き、聖書を愛読するようになり、ある者は牧師に

なっていった。パウロははっきり言っている。「キリストの御霊を

持たない人はキリストのものではありません。」(ローマ8:9)

つまりクリスチャンではないと。信じて神の子(クリスチャン)に

なったかどうかは、霊の問題なのです。パウロは続けて「私達が神の子

であることは、御霊ご自身が、私達の霊とともに、あかしして

くださいます。」(ローマ8:16)と言っている。クリスチャンに

なるとは信じて、神の霊を受けること。逆に言うと神の霊なしに、

その確信はない。神学大学を出ても、御霊が下っていないと、

クリスチャンではない。そして、聖霊が下ると無学な普通の人が大胆に

主イエスを証することが起こる。(使徒4:13)それこそ、

神の力なのだ。教会は「聖霊に励まされて」前進するのだ。

(使徒9:31)まさに、「権力によらず、能力によらず、わが霊に

よって」(ゼカリヤ4:6)とある通りだ。


聖霊がなくても運営できる教会だとしたら問題だ。神学校出た教養

ある人だけが用いられるなら問題だ。内に住む聖霊によって、あんな

人がこんな人が用いられる。それが神の方法だ。御霊を持たず、知識

や経験、「正統派である」という座に甘んじていたパリサイ人、律法

学者は本質を見抜けず、神の子であるイエスに敵対してしまった。

そんなことが起こりうる。


イエスや弟子たちのメインミニストリーは


1)悪霊追い出し 

2)いやし 

3)神の国の到来を知らせる (マタイ9:34-10:1)

であった。


福音書を読むと次から次へと悪霊を追い出す話が出てくる。人には霊が

あります。そして、神の霊である聖霊があり、悪魔の霊である悪霊も

あります。それは現実です。聖書の世界観ではその目に見えない霊の

世界と目に見える現実社会の出来事が関連しているのです。すべての事

の背後に、そして歴史の背後に霊である神がおられるのです。悪霊追い

出しに関連して病の癒しの記事も多い。


今日、スピリチュアルというとニューエイジ的なものがメインになって

しまっているが、本家本元はイエスにある。クリスチャンになること、

クリスチャンとして生きることは、かなり霊的な話なのだ。生活の現場

で瞬間、瞬間、あなたの考えが神の霊に導かれる必要があります。


エペソ書5:18では、「御霊に満たされなさい」と命令形で書かれ

ています。満たされても、満たされなくても、どちらでもいいという

問題ではありません。御霊に満たされていないと肉的になり、この世に

対し否定的な証人となってしまうのです。人々をキリストから遠ざける

ことに加担していることになるのです。


あなたは御霊を持っていますか?今日、御霊に満たされていますか?

この2つが人生で最大の質問なのです。

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2010年12月12日日曜日

「伝道は祝福すること、愛すること」


人ごみの中で、看板を掲げてラウドスピーカーから録音されたモノトーンの

メッセージを語っているグループがる。私の友人は、それを見て「愛を感じ

ない。」と言った。福音を伝えることが愛だという論理もあるだろう。

しかし、確かに、裁かれてる感じはするが、愛されてる感じがしない。ある

クリスチャン女性の話しを聞いた。彼女は会社で「社員とのつきあい」もせず、

誠実に祈祷会や教会の集会に出ていた。特別伝道会が近づいてくると彼女は

社長さんにチラシを渡し、集会に誘った。そこで社長さんは、言った「君は、

いつも付き合いもせず、さっさと帰ってしまうのに、こういう時だけ、集会

に誘うのかね。君みたいな人のいる教会に行きたくないね。」 社長は愛を

感じなかったのだ。私自身、反省することが多々あります。以前、宣教団体の

スタッフとして、営業成績?をあげるため、愛もないまま伝道したこともあり

ます。


マーク・ラッセル博士はアズベリー神学校での博士号を取得する際に、タイ

にある12のクリスチャン会社の調査をしました。このうち6の会社は

「改心志向」他の6つの会社は「祝福志向」だったのです。「改心志向」の

会社では会社を伝道する手段(人々がイエスを信じるようになる)として

理解していました。ビジネスは手段であり目的ではなかったのです。

「祝福志向」の会社では人々に職を与え、経済的に安定させてあげるなど、

ビジネスを人々の祝福ため用いました。そして、改心率を調べてみたのです。

48名の改心者が起こりました。47人は「祝福志向」の会社から、残り

1人が「改心志向」の会社から起こされたのでした。福音は世界とその中に

いるすべての人々を祝福するため与えられたのです。その結果、人々が救われ

るのです。


もし、人を改心させることだけが目的なら、人と文化を祝福する側面を欠い

てしまうのです。その結果、伝道も効果的でなくなります。変革は神のなす

業であり、私達の役目は愛し、祝福することです。この世の問題は霊的、

身体的、情緒的、知的、社会的な側面を持っており、霊的変革はその1つの

重要な要素ではあっても、すべてではないと理解し、この世の問題を

ホリスティック(全体的)に取り組んでゆくことが社会変革に繋がるのです。


だから、皆さんの携わっている多種多様な仕事により人々を祝福してゆくなら、

神にゆだねられた大事な働きをしていることになるのです。

人間として、関心を示し、その人の全的必要に答えてゆくとき、福音に対しても

自然に心を開くのではないでしょうか? イエス様がそうであったように、

私は「罪人の友」だろうか?

2010年12月5日日曜日

わかりにくいのは何故?


聖書のメッセージが伝わりにくい背景には誤訳という要素も多分にあるだろう。

仏の教えが仏教で、キリストの教えがキリスト教というのは本質を欠いている。

本来は「キリスト命」だが、せめて「キリスト道」が近い。実際、第1世紀には

「この道」と呼ばれていた。


ちなみに、ある漢訳聖書ではヨハネ1:1の「はじめにことばがあった。」を

「はじめに道があった。」と訳している。ロゴスは単なる言葉ではないので、

「道」のほうが通じる。


韓国語では神はハナニム(お一人の方)なのに、日本語では神道と同じ

「神」を使う。主権を持った宇宙の創造主という概念が伝わりにくい。罪も

聖書の原語では「的外れ」という意味なので、「脱線」のほうが伝わりや

すいかも。そうでないと、「これは犯罪という意味じゃなくて」と、

いちいち説明しないと通じない。悔い改めるは単に「考え方を変える」

「方向転換」で、神も考え直されることがあるので、必ずしも

「罪を悲しみ嘆く」意味を含まない。神が単なる裁き主、地獄の閻魔様と

思っていたが、聖書を読んでいるうち、信仰により自分の悪行をさえ赦し

天国に入れてくれる愛のお父様なのだと考えが変わった。

これは立派な悔い改めである。


「教会」は本来、教える会なのではなく、お互いに仕える愛の

コミュニティ。エクレシアを「教える会」と訳すのは無理がある

のではないか?第1世紀の教会では、特定の牧師が毎回一方的に

メッセージを語るスタイルはとられていなかったようである。


聖書66巻は霊感された神の言葉であるが、カノン制定後の聖書という

本の編集、印刷に関して霊感があるとは思えないが、未だに印刷屋が

便宜上ふった章や節に触れることはタブーのようだ。せめて新約の手紙類

は章節無しで読んでみたい。


さらに、パウロの書簡が新約聖書では年代順ではなく、単に長さ順で編集

されている。だから歴史の流れがわからない。歴史の流れで書いた初代教会

の物語を把握する必要がある。


最初の書簡はユダヤ割礼派が信仰を惑わしているので、性急に怒って書いた

ガラテヤ書(AD49)、そして、パウロがあまり信仰による自由を強調

したので、奔放になったクリスチャンを正したヤコブの手紙(AD50)。

そして、Iテサロニケ(AD51)、IIテサロニケ(AD52)、実は

どの教会も迫害、にせ教師、道徳問題と危機の中にあった。それで手紙を

書かなければならない状況であった。


コリント書に関して言えば、実はコリント書は1があって、その答えに2

実は、これが私達の第一コリント AD55)、そしてきびしい手紙の

3、それに対して厳しく書いたことで心配になって書いた4

(これが第2コリント AD57)。ここでローマ人への手紙(AD57)。

コロサイ、ピレモン、エペソはAD61。そして、ピリピがAD62。

さらに第一テモテ(AD63),ちなみに、この年にルカの福音書が

書かれている。それから、パウロの著書とすれば、ヘブル(AD64)、

テトス(AD65),この年にヨハネの福音書や第一ペテロが書かれて

いる。パウロの最後の書 第二テモテ(AD67)、同年に第二ペテロが

書かれた。ユダ(AD68),そして黙示録(AD70)。


70年といえば、ローマ軍の侵入し、神殿に火をつけ、とエルサレムの街

を占拠した年だ。黙示録を書いたヨハネはパトモス島から解放され、

12使徒の中で唯一殉教ではなく、100歳まで生きて、エペソで自然死した。


もうそろそろ年代順に編纂した新約聖書を出版してもいいのではないか。