「今回の東日本大震災で2万人以上の犠牲者が出ている。なぜあなたは愛の神なんか説けるの?」
テロなら人災だ。自然災害は解釈が難しい。クリスチャンの死はこの地上の使命が終わったという解釈ができる。行き先はこの世よりベターな天国だから文句は言えない。しかしだ、ノンクリスチャンの場合、どう解釈したらいいのか?裁き?じゃ、東北の人がより罪深かったというのか?それはありえない。
イエス様もシロアムの塔が倒れた時、あの人たちは特別罪深かったというのか、いや、悔い改めないならあなたがたも同じようになるとおっしゃった。(ルカ13:4−5)他の人への見せしめ?それにしても、すでに今回、2万人もの人が悔い改めのチャンスを奪われた。どう解釈しても釈然としない。すべては説明つかないのだ。神のやることにはかならずミステリー(謎)がつきまとう。まず、それを素直に認めよう。
まず、エモーション(情緒)的問題なのだ。誰もがフラストレートしている。やり場の無い怒りを抱えている。ある被災者は「天に文句言った。」と。それはある意味、自然な応答ではないだろうか。神はその文句さえ受け止められるのではないだろうか? 癒しの前に感情を吐き出すステージがあるだろう。
怒り、文句、批判、フラストレーションをぶちまける必要がある。まず、相手の感情を扱う必要があるのだ。そして、みんなが共有できる思いから入ってゆく。
1.人々が死んでほしくないよね。僕は死んでほしくないと思ってる。神は人が死んでほしいと思ってると思う?
「わたしは決して悪者の死を喜ばない。悪者がその態度を悔い改め、生きる事を喜ぶ」(エゼキエル33:11)「私が来たのは羊が命を得、それを豊に持つためです。」(ヨハネ10:10)「神はその一人子をお与えになるほどに世を愛された。それは御子(キリスト)を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」聖書の中で神が語ってることだ。これを読んでどう思う?
2.神は始めから世界をこのように苦難に満ちた場所として創造したと思う?
神の造った世界は良かったんだ。もし、神は始めからこのような世界を創造したなら、ボードレールがいうように「神が存在するなら、それは悪魔だ」ということになる。今ある世はアブノーマルなのだ。神の目から見ても。神は満足してない。手放しで喜んでる訳じゃない。この世界がこのままでいいと思っていない。神が悪や苦難の作者ではない。神もそれを憎んでいる。イエスはラザロの死に直面し、涙を流された。エデンの園には天災は無かった。聖書は人の罪ゆえに地が呪われたとある。神のせいじゃない。
3.でも、神は呪われたこの世界を指をくわえて見てるだけなのか?解決に向けて何かしないのか?愛の神なら人々を救うため何かすべきでしょう?
はい、その何かをもうすでに神はしたのです。一人子イエスを地上に送って呪いを全部引き受けて十字架で死なせたのです。イエスは十字架上で言いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているかわからないのです。」イエスは十字架の上で苦しんだ。(十字架につくべき罪を何も犯してないのに。これは非合理的だ。不条理だ。)だから、今、苦しんでいる人の気持ちを理解することができる。イエスは、あなたの苦難に無関心ではないのだ。弱さに、痛みに同情できない方ではないのだ。
(ヘブル4:15)
4.神は苦難が永遠に続く事をお許しになると思いますか?
いいえ。それを終わらせるためにイエスを送って購いの業を完成させたのです。神は新しい天と地がくる事を約束しています。実は苦難の問題には2つの神学的命題がつきまとう。神は苦難を止められないのか?止められないなら神は全能ではない。ならば、神は止められるけど止めないのか?ならば、神は愛ではない。もちろん、神は止められる。問題は、タイミングなのだ。止められるけど、今すぐではない。なぜ、すぐではないのか?伝統的に理由は2つ、1つは終わりを遅らせることで、一人でも多くの人が福音を聞き永遠の御国に入れるチャンスを与えるため。もう一つは救われた人々の魂の成長のため。もちろん、これで100%釈然とするわけではないが。
5.逆の立場からアプローチしてみよう。もし、本当に神がいないなら、どういう解釈になるのか。選択はこの大自然の為すがまま、つまり適者生存、弱肉強食となる。あるいは、利己的遺伝子に操られた乗り物としての人間がいるだけになる。怒りをぶつけられる相手は誰もいない。天災は、ただの自然現象であるにすぎない。雨が降り、風がふくように、地震も起こるべくして起こっているにすぎない。そこに居合わせた人は単に運が悪かったとしか言いようがない。しかし、多くの人はそれでは納得いかない何かを感じている。
つまり、神に対して怒りを持っている人は(そして、ある期間それが当然なのですが、苦難を受けたヨブもそうでした)、愛の神を信じたいけど、目の前の現実がそれに一致しないので、悩んでいる訳です。それはある意味での信仰告白なのです。信じるとは質問すること。不信仰とは無関心。無視して通りすぎること。神にからむのは神が気になるから。もう一つ、知らなければならないのは、死は1つではないということ。(ルカ12:4−5)肉体の死だけではなく、永遠の死(神との永遠の離別—これを地獄という)があると聖書は明言している。神が新天新地を送らせている理由は一人でも多くの人が永遠の死を免れるよう、福音を聞けるようチャンスを与えるためである。
何度も言うように、ミステリーは残る。説明しきれない何かが。それはそれとして認めよう。素直にノンクリスチャンにも、「わからないよ」ということも必要だろう。議論に勝っても、相手が心を閉ざしてしまったら何にもならない。
Apologetics(キリスト教弁証論)の目的は自分の正しさを証明し議論に勝つことではなく、相手の魂が救われる事にある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コメントお待ちしております。asktmc@gmail.com (栗原)まで、TMCでは、東京を変革してゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか、どのようにキリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成していったらいいのかについて話し合う「場」を持っています。ご関心のある方は
メールください。ご案内をお送りします。