2011年9月10日土曜日

「宗教と寛容性の問題」



1993年、世界宗教会議でダライ・ラマはこう述べている。「各宗教はそれぞれの哲学を持っている。多々有る伝統の中であるものは似ているし、違いもある。大事なことは、何がその人に合っているかである。我々は形而上学や神学の抽象的詳細にこだわるのではなく、宗教の基本的な目的に注意を払うべきだ。

すべての宗教は人類の幸福、向上を一番の関心事とすべきだ。それぞれの違う宗教を他の人に対する良き心(愛と尊敬)や真のコミュニティを形成する手段と考えれば、その共通していることのゆえにお互いを認め合えるのだ。おのおのが自分に合った宗教の形を選べばいい。自分には仏教が一番フィットすると感じている。しかし、それは仏教がすべての人にとってベストだとう訳ではない。」

これにはかなり、共感する人がいるだろう。まとめてみると、彼のポイントはこうだ。

1.寛容:自分には仏教が合っているが、だから仏教がすべての人にとってベストという訳ではない。他の宗教を批判しない。

2.宗教は人間の社会的、肉体的ニーズを満たすために存在している。すべての宗教は人間の幸福、向上のために存在している。

3.すべての道は同じところに到達するという前提。

4.宗教の形や教義にこだわらない。


宗教の目的が人間の幸福の手段なら、宗教は人がつくったものである。パウロは人の歓心を買おうとしているのではない。(ガラテヤ1:10)と宣言しているが宗教が人間のために作くられた手段ならダライ・ラマの考えが正しいだろう。しかし、パウロがいうように福音が神から直接与えられたものなら、人間のかってな解釈ではなく、神に聞かなければならない。

本当にすべての宗教の目的は同じですか?オウム真理教は、自分たちの教団の秘密をあばこうとした坂本弁護士をポア(殺人)することを正しいと考えた。自分たちの目的遂行のため邪魔するものを抹殺してもいいとキリストは教えなかった。(あなたの敵を愛しなさい。)その人にフィットすれば、どんな宗教でもいいのだろうか?


やはり、間違っている事は間違っているのではないだろうか? 宗教は良い心を目指すという。しかし、何を持って「良い」とするのか。その基準もそれぞれの宗教によって違う。ユダヤ教では「隣人を愛し、敵を憎め」と教えた。キリストは「敵をも愛せよ」と教えた。ある宗教では善も悪もなく、究極のリアリティは1つだと教える。では、いかにして「良い心」と「悪い心」を区別するのか。

宗教の中には仏教のように神を考えない、無神論的なものもある。そこで、人間の尊厳をどう定義するのか。生命が等しく尊いなら台所のゴキブリを殺してもいいが、なぜ人間を殺すと犯罪になるのか。正、間違っているを区別する「真理」があるはずではないか?もし、「真理」があれば、「真理」でないものは「間違っている」のだ。ある宗教は「悪」は幻想だと教える。通り魔に小さな娘が刺されても、それは幻想ですというのか。それを「悪」と呼ばなくていいのか?それでも宗教はみな同じというのか。「善も悪も、この世界も幻想」と教える宗教にとって、「良い心」にむかって努力する営みはむなしくないか。我々はリアリティが必要なのだ。善悪の基準が必要なのだ。聖書では愛の神がご自分の荷姿に人をつくったとある。ここに人間尊厳のリアリティがある。道徳のベースがある。善悪のベースがある。
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