2013年12月6日金曜日

福音を語る



 はじめに神が天と地を創造した。神がいるので宇宙があり、あなたがいる。

宗教とはidentity (自分が誰であるかを確認)と commitment (神とされるものに献身する)を与えるものとも言える。神を離れると人は永遠に自分探しを続け、神以外のものに献身する。Religionの語源は「再び結び合わせる」という意味。

あなたは何にチャンネルを合わせてますか?自分のアイデンティティと献身する先は何ですか?

神だけが絶対なので、あとは相対的なもの。お金、仕事、主義主張、権威、国、教会の組織、神学さえも時代によって変化している。ところがそういうものが神の座に座ってしまう。

聖書は「愚か者は心の中で神はいない」と言っている。その思想に自分が滅ぼされるのです。神を否定すると結局、自分を否定し、命を否定し、愛を否定し、虚無的になり鬱病になり自殺に至るのです。命の根源を否定して活き活き生きられない。未だかつて、無神論を本気で生きている人を見た事が無い。それは不可能だからだ。

三位一体。3つで1つ。理解できない? それでいい。人間が理解でき、説明しきれる神なら神じゃないでしょう。科学の仮設は常にひっくり返っている。実は永遠とは単なる時間の延長のことではない。まったく別次元の世界のこと。時空に縛られる人間には永遠の神はわからなくて当然なのだ。神自ら明かした部分だけ人間には知らされている。

人間はおもしろい。神はいないと言っていながら、いきなり「命は大事」「愛は大事」と言い出す。本気で進化論の適者生存を信じているなら、道徳なんて無い。「生き残れ!」が唯一のメッセージとなるのです。進化論を教えてながら「いじめはいけない」なんて学校は矛盾している。

何の根拠もなく、死んだおばあちゃんは「天国」に行ったと言い出す。それなら何故、死んでからあわてて高い戒名を買い、お経を上げるのか。やっぱり不安なんじゃない?。自分がそう思うだけでは不安が残る。神が保障してくださる以外、確実な方法は無い。

神は自分にとって一番大切なモノと定義すれば、すべての人は神を信じているし、その神に自分をささげている。ある人にとってはお金、仕事、恋愛の対象民族、国体などなど。

しかし、誠の神を神としないと悲劇が起る。なぜなら神以外のものを神にしてしまうから。人が神となると悲劇が起る。神が人となると福音となる。

宗教は下から上へ、福音は上から下へ。律法は背中に重荷を負わせ、福音は解放する。御霊のあるところには自由がある。戒律ではどこまでやったら救われるのか分からない、誰がそれを判断するのか分からない。


「人生の目的などわからないのだ」と有名な作家は言うけれど、そうであれば人生に力が入らない。ゴールの無いマラソンに力が入らないのと同じだ。

もう一度言おう。神がいるからあなたがいる。あなたは神に作られた傑作。その神はあなたを愛しており、だからあなたの人生には意味があり使命がある。これが福音だ

イエスに出会って、自分が誰か(真のアイデンティティ)、そして何に自分を捧げたらいいのか(真のコミットメント)が分かってくる。


人間「を」つくった神か、人間「が」つくった神しかない。人間「が」つくった神は人間以下なので頼るに値しない。

どの神でも、心から信じて祈ればいいんじゃない?と言う人。それでは、電話帳を適当に開いて、指差した、その番号の人に電話して、悩みを相談しますか?誰でもいい訳じゃない。信頼できない人には話せないし、付いて行けない。アカの他人と結婚できますか?同じように、信頼できない神には祈れないし、付いて行けない。信頼できない「神」にすべてをささげることは危険なのだ。だから、その意味で「宗教は怖い」というのは正しい。

ちょっと想像して頂きたい。もしその絶対的な創造主が邪悪な存在だったとしたら?それならこの世界には希望がない。永遠に私達は暴君の奴隷になるしかない。しかし、聖書によると、この創造主は絶対的主権を持ちつつも、「聖」であり、「義」であり、「愛」である。そうHOLY,  RIGHTEOUS,  LOVING。何と言う安心だろう。考えてみてほしい、神が汚れて不正を行い、無慈悲な社長だったら、そんな会社にいる社員は幸せだろうか?しかし、「お前のためには、命も捨てる」と言ってくれる社長なら?


聖書の中で一番有名なヨハネ3章16節には、あなたのために愛する息子を犠牲にしてもいいという神の愛が描かれている。

ある人達は言うだろう。十字架につけられた犯罪人がどうして救い主か?アンパンマンじゃないけれど、本当のヒーローも本当は、そんなにかっこよくない。アンパンマンは他人の飢えを満たすため、自分の顔を食べさせる。イエスは十字架で自分の肉を裂き、血を流した。私達のため。私達の醜い罪をあがなうために身代わりなるイエスは顔も識別できないほど醜く歪められた。


私達が生きるため、イエスは死んだ。私達の傷が癒されるため、イエスはムチうたれ、槍で刺され傷だらけになった。十字架にかかるべきは「私」だったのだ。

イエスは、ご自分の世界に来たのに、世は彼を追い出した。人々は、街の外でイエスを十字架にかけた。街中でクリスマスを祝っても、人々はイエスを心から閉め出している。何と言う皮肉だろう。

当時の高慢な指導者達は叫んだ。「オレたちは正しい、体制を壊すな、救い主など今いらない。」そして民衆を煽動して叫ばせた。「十字架につけろ、十字架につけろ」

悲しいかな、自分を守るため責任者は責任のがれをする。そうやって正義は踏みにじられてゆく。いつの時代も変わらない。「この男をどうして欲しいのか?」「この人の血について、私には責任がない、自分たちで始末するがよい」十字架刑の決定の責任を持つローマ総督ピラトは群衆の声に負け、不正な判決を下した。「真理とは何ぞや?」と求道一歩手前だったピラトは自ら機会を逃した。

イエスは私達の罪を負って十字架で死に、復活して勝利を宣言した。死んで終わりではない。死をも飲み込む永遠の命。それが、イエスを信じる者に与えられる神からのギフト。それがクリスマスの神からの私達への本物のギフト。

以前流行った歌の題じゃないけれど「最後に愛は勝つ」が正しい。やがて主が再臨される。そこに希望がある。それが福音。

———————————————————————————
そこで、一緒に考えて頂きたいのです。

そのすばらしい福音が日本で伝わらない。たぶん、多くの人が聖書に共感しても、イエスに共感しても、教会や教団に疑問があるのではないでしょうか。どうも、教会が本来の教会から脱線してしまったのではないでしょうか?

イエスはいい。福音書もいい。でもバチカンや十字軍、組織的な教団、ビジネス的なメガチャーチ、「聖戦」の名のもとに為す戦争という殺人はどうなんだ?と言うあなた。あなたは正しいのです。4Cローマ帝国のコンスタンティンがキリスト教を国教にして以来、国家権力と教会が結びつき、おかしくなってしまったのです。「キリスト教国」であるヨーロッパの国々は、武力と圧力で植民地をアジアにまで拡げたのです。白人優越主義も正直あったでしょう。

イエスが果たしてそれを願っていたのでしょうか?本来、教会(エクレシア)は、制度や組織じゃなくてもっとオーガニック(有機的)なもの。教会は聖書では「キリストのからだ」として描かれています。

内村鑑三は日本のプロテスタント黎明期の指導者ですが、すでに欧米の組織的キリスト教の問題を見抜いていたのです。それで「無教会主義」(実は無制度的教会主義ですが)を提唱したのです。キリスト者が、世の職業につきながら影響を与えてゆく道を推奨したのです。当時、正に預言者の声の役割を果たし日本社会全体にも影響を与えたのです。

教会は建物や組織じゃない、人々です。新約の教会は「エクレシア」というギリシア語で表現されています。建物に言及されている箇所は無いのです。すべて人々の集まりのことを指しています。神の国建設のために神に呼び出された人の集まりです。つまり、教会は「私達」のことです。日曜の朝、本当は「教会」に行くのではなく、「礼拝」に行くのです。教会は行く「場所」ではないからです。イエスを中心に人生を共に歩む仲間達。それがエクレシアです。

「地の塩」「世の光」となるためには教会の壁の中に閉じこもっていてはできないのです。(マタイ5:13−16)集まり励まされ、出てゆき、この世の人々と一緒に生活し、分散して影響を与えてゆきます。だから私達は一人一人に神から与えられた使命を大事にし、それを追求できるよう励まします。

ヨハネ福音書の1章に有名な「はじめにことばがあった」があります。中国語聖書では「はじめに道あり」と訳されています。聖書が語っている神との歩みは「教え」というより「道」に近いのです。柔道、茶道などのように人のあり方なのです。これを組織的宗教にしようとするので無理があるのです。

旧約聖書のイスラエルの民を見てください。誰も「宗教やってる」という意識はなかったのです。まさに毎日の生活そのものなのです。キーワードは「シャローム」すなわち、単なる平和ではなく、神と人、人と人、人と自然のあるべき喜ばしき、命あふれる関係のことです。創造主と共に生きる生き方。イエスを信じることで与えられる聖霊に満たされ、聖霊に導かれて生きる生き方。そうやって解放されて生きる生き方。これぞ福音なのです。

今、イエスを信じることで御霊が与えられます。私達自身が神の生ける宮になりました。どこかの有名な大聖堂に行って礼拝しなくても、2人でも3人でも主の名によって集まるところに主はおられるのです。神に献身することで、その他のすべてのものから解放されます。死からさえも。この世の与えるのとは違う平安が与えられます。問題が無くなるのではありません。しかし、途方にくれることはないのです。「失望」はあっても「絶望」はないのです。あなたが神を見失っても、神はあなたを見失うことがない、あなたから離れ去ることがない。十字架の後にくる復活。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」(ルカ12:4)クリスチャンにはジ・エンドが無い。これが福音です。


「私達はこの宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私達から出たものでないことが明らかにされるためです。私達は四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(IIコリ4:7−8)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
(第二コリント3:17)

————————————————— 
東京を神の街に・・・
Tokyo Metro Community (TMC)
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年11月24日日曜日

9条どうでしょう?



 2015年には太平洋戦争敗戦後、70年という大きな節目を迎える。憲法改正が叫ばれ、秘密保護法が自民党で了承され、国家斉唱が強制される中、先の戦争がなんだったのか評価しておく必要がある。最近、ある高校で生徒114人に「先生が国歌に反対する理由」を尋ねると8割が知らないと答えたという。賛成反対の前に論点がわからない。「知らない」「関心ない」がサイレントマジョリティを生み、結局 「言われるがまま」という「おまかせ民主主義=独裁主義」を生み出してしまう。地の塩、世の光であるクリスチャンが「知らない」「関心ない」ではまずいのではないだろうか。論点だけは押さえておきたい。

昨今、右派論客の本が多くなっていると感じるのは私だけだろうか?保守派の人の本を読んでみると、以下の論点が浮かび上がってくる。


1.侵略戦争ではなく、国の存亡を賭けた自衛戦争だった。
2.真珠湾攻撃のことはアメリカは事前に知っていたが、わざと攻撃させて
日本に開戦させた。
3.ポツダム宣言検討中に日本が負ける事をわかってながら、原発を落とした。
4.東京裁判は占領軍であるアメリカが一方的に敗戦国日本を裁いた不当な裁判である。
5.GHQは自虐史観的戦後教育で日本人を骨抜きにした。


それゆえ、「戦後レジームからの脱却」、GHQに汚される前の「日本を取り戻す」という結論になる。当然、GHQの押しつけ憲法も改正が必要である。国防軍を持ってフツーの国になるべしとなる。

ある人々は、国家存亡の危機で、「開戦は日本国民を守るために仕方なかった」という。しかし、そんな自国の存亡の危機の時に大東亜共栄圏などと呑気なことを言っていられたのだろうか?他の国の独立を助ける余裕などあったのだろうか?本音は、国益第一だろう。戦争には国民を納得させる「大義」が必要なのだ。どの国でもそうなのだ。さて、マッカーサー自身が帰国してから「あの戦争は日本にとって自衛戦争だった。」と証言したらしい。しかし、国内にも石橋湛山や内村鑑三など小日本主義、不拡大主義を唱えた指導者もいたのだ。何とかならなかったのか?石橋は満州、朝鮮を手放し、独立させることで、逆に世界から信頼され、英米を困らせることができると、したたかな外交戦略を唱えていた。ただ、あの「空気」の中、開戦はやむを得なかったのだろう。遅かれ早かれ軍の暴発は起っていただろうと指摘する声もある。実際、多くの国民やマスコミは戦争を支持した。当時は領土拡大=国益ということだったろうが、結論的にいうと、ハルノートの言う通り、戦後は、日本の領土は明治時代の領土に逆戻りしてしまっている。だったらあれは何だったのか。そして、戦争は国民を守るためではなく、国=国体 (天皇と一部指導者)を守る戦いだったのではと疑われる?多くの兵士が戦場で無謀な戦略のため命を落としたことも事実。

さて、今日、自民党が本気で9条の改正を叫んでいる以上、論点を整理しておく必要がある。


日本国憲法は押しつけ?

占領下の日本は直接アメリカの軍事下になる可能性もあったが、日本の国会を通して日本を統治する型を取った。アメリカの占領下政策がすべて正しいとは言わないまでも、「一億火の玉」「天皇陛下万歳」と人間魚雷や神風による玉砕という狂気の中にいた日本人を民主主義に変更するには、ある種の「強制」(毒抜き)は必要であったと思われる。アメリカは新しい日本再建に「天皇制」を利用しようとしたことは事実。しかし、結果的に象徴という形で「天皇」が、一宗教法人という形で「靖国神社」も残された訳だ。天皇退去、靖国抹消もありえた時代風潮の中で。そういう意味ではGHQは、日本人の心を全く踏みにじるようなことはしていない。アメリカ側は日本をよく研究し、紛争の怒らない様うまく統治したのではないか?

さて、憲法においてもマッカーサー3原則(天皇制存続、戦争放棄、封建制度廃止)は譲れないと迫られたことはあっても、日本の憲法学者、鈴木安蔵らの憲法研究会などの民主的憲法の提案も受け入れ、あの戦後の混乱期にしてはすばらしい憲法(主権在民、人権尊重、平和主義)が制定されたのではないだろうか?憲法草案確定時に首相であった幣原喜重郎(しではら)は「全然武器の使用の機会を無くす事を最先の目標」とし戦争放棄、平和産業の発展を訴えた。第55代内閣総理大臣の石橋湛山も武力放棄の平和憲法は「人類最高の宣言」と高く評価している。石橋は、そのようにしてファシズム戦争への不屈の抵抗を見せた。戦後68年、この憲法で生きてきて国民的な反発が出た訳でもない。自衛隊は一人も戦場で人を殺していない。その事実自体が、国民に受け入れられてきたと言えるのではないだろうか?

アメリカ占領軍が、天皇を象徴として残しつつ、軍国主義カルトの毒抜きをし、日本国憲法を制定し、民主主義国家の土台を築き、その後日本が、世界第二位の経済大国にまで上り詰めた復興を見る時、アメリカは良くやってくれたのではないだろうかと思わざるを得ない。戦後には戦勝国4カ国による日本分統治構想というのがあった。それが実現されていれば、北海道、東北はソ連領、四国は中国、九州はイギリスなど民族分断の恐ろしいことになっていたのだ。東北共産主義地区など誰も望まないだろう。


戦争放棄は世界の非常識?

19世紀までは植民地獲得のための戦争が正統化されていたが、20世紀に入って禁止された。現在の国際法では国際間の紛争を武力解決することは禁止されている。従って日本憲法だけが特殊なわけではない。戦争放棄を書き込んでいる憲法も世界に多数ある。9条第一項目はそういうわけで、改正する必要はないと思われる。

2項の武力の保持に関しては、国際的に3つの例外がある。1)個別的自衛のため 2)集団的自衛のため 3)国連安保理の決断で国連軍が動く時 は武力を使用していいことになっている。日本の場合は9条により1)の個別的自衛権だけが許されているという理解。自衛のために最小限の武力装備が許される。したがって自衛隊は合憲。

そもそも自衛隊は戦争放棄を勧めたアメリカが朝鮮戦争で出陣し、日本の治安(特に共産軍の侵入)に不安をもって警察予備軍(7万5千人募集)を作らせたのがきっかけ。占領直後は自衛を含む戦争放棄を勧めたアメリカが、逆コースで、再軍備するよう促すが、吉田首相が頑として断った。(反吉田の鳩山一郎は、再軍備、憲法改正を唱っていた)結局、警察の増強という型で進められる。それが以降、保安軍となって、自衛隊になった。

終戦直後、占領軍のアメリカとしては天皇崇拝軍国主義カルトの毒抜きとして、日本の全き戦争放棄(自衛含む。占領下だったので当然米軍が保護するので)を望み、新憲法にマッカーサーの3原則(戦争放棄、天皇制維持、封建制廃止)、を盛り込むよう命じた。これを受けて日本側で憲法を作成、内閣で承認。しかし、朝鮮戦争を契機に冷戦時代を迎えたアメリカは方針を変えた。アメリカは日本が早く復興し、経済力をつけて共産主義の防波堤となるよう、そのために軍隊を持つよう願ったのだ。そのために圧力をかけて被侵略国への賠償金を少なくさせ、IMFからも抱負な資金を投入する。反共産陣営として日本を取り組み、米軍基地を置く事で日本の防衛を肩代わりすることとなる。

サンフランシスコ条約で独立主権国として再出発した日本は自衛権が許された。しかし、集団的自衛権は、9条の縛りで行使しないことになっている。歴代の内閣は集団的自衛権を行使しないという立場をとってきた。従って、これを憲法解釈でやろうとするのは無理がある。現在の憲法解釈は歴代の憲法学者が議論を重ねて到達した結果であり、それを踏みにじることはできない。しかし、現在の安倍内閣は憲法解釈を変えて、手段的自衛権行使を考えている



歴史が語る問題点

1)満州事変から南京攻略、太平洋戦争へと、内閣は不拡大路線、外交努力で戦争回避を努めたが、結局、軍に押し切られるようにして戦争に突入、戦争に反対していた天皇もそれを追認することとなる。軍は「力」を持つので、邪魔者を消せる存在となる。(5:15事件、2:26事件)「力」による恐怖政治、軍の暴走は起る可能性があるし、現に起った。

2)第一次大戦後、莫大な戦争賠償金を負わされた上、アメリカ発信の世界大恐慌により経済窮地に陥ったドイツでは、ヒットラーの登場を国民が支持するようになっていく。右派巨大与党と共産党という構図で、今の日本によく似ている。日本でも満州事変頃からラチがあかない内閣より、軍を支持するようになったし、一度戦争が始まればメディアも煽り、国民も応援する。つまり、戦時下の異常な興奮の中では、シビリアンコントロールなどできないのだ。

3)武器を持てば使いたくなる、挑発したくなる。相手も攻撃しやすくなる。より緊張が高まる。緊張する「現実」に対処する必要があると言われるが、その「現実」をつくっているのは「私達」であることも忘れてはいけない。

4)「自衛」「集団的自衛」の名のもとに「戦争」が行われてきた。それらは
  戦争の言い訳になることもある。


朝鮮戦争時、警察予備隊を募集したが、職を求める人が多かったため7万5千人はすぐに集まったという。今日、自民党の石破氏は国防軍を作っても徴兵制にはしないと言っている。今後、仕事の無い若者が自衛隊志願することもありえるだろう。しかし、何と言っても少子化である。国防軍を作った後、兵士が足りなければ徴兵制も議論に上るだろう。問題は、今の日本の若者が戦場で戦えるのかというとこで、精神を鍛えるのに、国家神道や天皇カルトが復活しないのかという心配もある。日本の精神的支柱は、今のところ、それしか無いのだから。

いずれにしても憲法は国の理想を掲げている。事実、過去70年近く、日本の自衛隊が一人も戦場で殺していない。そのことを誇りにしていいのではないか。世界はそれをバカにするどころか尊敬するのではないか?フツーの国家に成り下がるより、理想に現実を近づけるよう世界にメッセージを発する国家としてこそ存在意義があるのではないだろうか?
—————————————————————————

やはり防衛や国際貢献は必要。------- さらに議論が必要な9条の諸問題

ただし、改憲反対を叫ぶだけでなく、国際的な、現代的な状況の中で護憲であっても国防戦略をきちんと考える必要がある。聖書が言うように全ての人が罪人なのであり、脱線する可能性はある。第二次世界大戦を避けられなかった人間に大三次世界大戦が絶対に無いとも言えない。そこまで行かなくても隣国との紛争は現実、目の前にある。優先は戦争予防外交。しかし、同時に国民を守るために国防は必要である。今日はすべての戦争・紛争が世界の目にさらされる。理不尽なことはやりにくくなっている。メディア、インターネットによる国際世論や国連の決議などという要素も考慮すべき。

1)平和維持海外派遣の場合の安全は? PKO活動で攻撃された場合

戦闘地には送らないが原則だが、戦闘地の定義は?自衛隊とは別に「海外協力隊」を作る案もある。日本は戦争を起こさないための予防活動、すなわち平和構築活動に積極的に貢献すべきだろう。

2)海外邦人の救出の際、攻撃された場合

ピストルを使ったり正当防衛は、現在でも許されるが、それで十分か?

3)国内の米軍基地問題

沖縄はじめ、国内の米軍基地を無くすには、日米同盟、安全保障戦略を再考しなければならない。以下幾つかのオプション

a. 日米同盟を廃棄、完全に日本のみで防衛体制を作る。
b. 日本とアジア諸国で新しい防衛戦略を作る。ただし、戦中の大東亜共栄圏の悪夢がまだアジアにあり実行は難しいだろう。
c. 日米同盟は保ちつつ、同等の関係として日本は自衛隊(国防軍)が守ることとし、米軍に国内から去ってもらう。沖縄から米軍の完全撤退を計画するなら、未来を見据えた防衛戦略をきちんと作ることが先決。無防備でアメリカのプレゼンスが無くなると中国は進出する?

いずれものケースも非常に難しい。結局、現行の型しかないのか?

4)自衛とは国内での戦いのみか?

他国からのミサイル攻撃の場合に専守防衛では被害が出てしまう。危険がある「おそれ」で攻撃できるのか?「おそれ」防衛は正当か?グローバルな時代、たしかに防衛戦略は国内の防衛だけに留まらないだろう。

5)同盟国アメリカが自衛戦争を日本領海外でやっていた場合、共に戦わなくていいのか?いわゆる集団的自衛権の問題

現在、アメリカは日本を守るが、日本はアメリカを守る義務はない。そのかわり、日本国内に米軍基地を提供している。集団的自衛権を行使する場合、どこまでを「自衛」と考えるのか、誰がそれを評価するのか?現状の日米関係から言うと結局アメリカ主導の戦争に日本が巻き込まれるという構造だろう。ならずもの国家を制裁する「世界の警察」は必要か? 世界のために犠牲を払うのがフェア、日本は出兵すべきとの考えのアメリカ人宣教師もいる。聖書的な「戦争論」も含め、さらなる議論が必要。


6)国連軍に金だけ出すのではなく、出兵して犠牲を払うべきでは?独立主権国が「国防軍」を持つのは当然ではないか?

クリスチャンの多い、アメリカ、シンガポール、韓国でも軍隊がある。
クリスチャンでも意見が分かれている。1世紀の初代クリスチャン達の非暴力/殉教の姿と自衛、国防の関係をどう考えるか?

7)防衛の型がかわる。

今後、今までのような戦争(国と国)は起りにくいと考えられるが、むし
ろテロや紛争(センカク問題)が多発してゆくだろう。これにどう対処するのか?国際紛争を武力で解決しないというが、相手が話の通る相手でない場合どうするのか? サイバーテロ、原発テロは?これらは、やられたらもう、おしまいで手遅れ。専守防衛でいいのか?

8)現在の自衛隊はあくまで警察の範囲で軍隊のルールが適用されない。

していいことのリストで制限されている。(通常の軍隊はしていけないことだけリストされており、それ以外はやっていいことになっているので自由に動ける。)現在の自衛隊で、戦いのために実践的に機能できるのか?


----------------------------------------------------------------------------
参考文献

「憲法9条の軍事戦略」松竹信幸 平凡社新書
「集団的自衛権の深層」松竹信幸 平凡社新書
「憲法が変わっても戦争にならない?」高橋哲哉・斉藤貴男 ちくま文庫
「9条どうでしょう」内田樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩 ちくま文庫
「憲法がヤバい」白川敬裕 ディスカバー携書

「あの戦争は何だったのか」保坂正康 新潮新書
「日本戦後史」男の隠れ家時空旅人Vol.15 三栄書房
「すべてがわかる太平洋戦争」世界情勢を読む会 日本文芸社
「日本人は何を考えてきたのか」大正篇/昭和篇 NHK取材班 NHK出版

「キリスト者の戦争論」岡山英雄/富岡幸一郎 地引き網新書

 保守論客の本
「国防軍とは何か」森本敏・石破茂・西修 幻冬舎ルネッサンス新書
「渡部昇一の昭和史」渡部昇一  ワック
「戦後歴史の真実」前野徹 扶桑社文庫
「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ 小学館文庫
「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社黄金文庫
————————————————————————

I for Japan
Japan for Jesus
Jesus for all
All for God
         (内村鑑三)
——————————————— 
Tokyo Metro Community (TMC)
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年11月9日土曜日

「美容と健康にはクリスチャン!」


イエス・キリストは人生のマルチビタミン。イエスを毎日服用してください。


健康本/ダイエット本を読むと、このような事が書いてあります。


1.減塩、減砂糖、減脂  野菜  脱メタボ
2.十分な睡眠と運動  歩かないと病気になる
3.ストレスをためない。深呼吸。怒りが寿命を短める。
4、心の健康も大事。感謝して生きる。


新しいことはない。あたりまえのことの確認なのです。つまり、不摂生をしない。薬に頼らず生活習慣を変える。聖書も「わきまえのないことを捨てて生きよ。」(箴言9:6)と言っている。つまり、神がつくられた本来の生き方をしていると健康になるのです

キリストに愛され、キリストに満たされ、キリストを中心とするエクレシアにいると心が満たされ、自虐、自暴的な行為(深酒、酩酊、度を越す快楽など)が必要なくなります。逆に愛されていないと自分を破滅させる道をまっしぐらに進むことになってしまいます。 孤独が罪を生むといいます。自虐的な行為は人が一生に与えられている量の「命のエネルギー」を費やしてしまうのです。

アメリカ、ピッツバーグ大学のバーナード・コーエン教授が、生活習慣と寿命の興味深いデーターを発表しています。このデーターによると、喫煙を続けるだけで約6年寿命が短まる、35%の体重の増加だけでも6年、意外なところでは、独身生活が続くだけでも男性で約8年、女性で約4年も寿命が短まるというのです。男性は奥さんを亡くすと長く生きないケースが多いですね。「人がひとりでいるのはよくない」と聖書が言う通りです。愛し、愛される関係の中にいることが何と大事な事でしょうか。


ところで、クリスチャンは見た目若い人が多いですね。高齢の方でも輝いています。

   重荷を主に委ねられる。
   賛美と祈り、みことば、交わりで癒され、回復される。励まされる。力を頂ける
   兄弟姉妹と心からの分かち合い、お互いに祈り合う。


こういったクリスチャンにとってあたりまえの事は、実はこの世から見ると驚異的に革命的な生き方なのです。ある未信者の方がクリスチャンの集会にきて、「こんな世界もあるんですね」と言っておられました。この世が提供できない平安があるのです。

罪が赦される。復活の希望を頂いている。死後に愛する人々と再会できる。墓の向こうに希望がある。これはすごいことです。先日、知人のクリスチャンが90歳の人生を全うし天に帰りましたが、彼の葬式に出席してあらためて確信しました。クリスチャンの葬式は明るいのです。勝利なのです。その「希望」が私達を前進させるのです。

そんなクリスチャンの集まりがエクレシアです。エクレシアは「魅力ある人間集団」です。そこにイエスがいると魅力的だからです。

多くの人生本を読むと「ありがとう」「ごめんなさい」が大事ですと説明しています。つまり「感謝」「赦し」「和解」が、活き活きした生活の基本であるということです。そして、友を持つ事や趣味を持つ事。人との交流=コミュニティへの参加が高齢者になるほど大事だと言っています。それはクリスチャンの生き方そのものです。高いお金を払ってコーチングやカウンセリングを受けなくても、エクレシアではお互いがカウンセラーであり、コーチとなることができます。アメリカの著名なカウンセラーのラリークラブは「クリスチャンがお互い、分かち合い、支え合うならば、専門のカウンセラーは必要なくなる。」とまで言っている。

ヘブル語のシャロームは単なる挨拶言葉ではなく、神と人、人と人、人と自然の祝福された喜び溢れた関係を表しています。本来、神が意図した関係・環境の中に生きる事が幸せの元なのです。つまり、美容と健康は神の御心に生きることにより与えられるということです。


「わたしが来たのは羊が命を得、それを豊に持つためです。」(ヨハネ10:10)


逆に、シャロームから脱線することを「罪」というのです。それは本来、創造主が意図したあり方ではないからです。聖霊に満たされて、愛し、愛されて生きる事。そして、死の向こうに希望があること。それが秘訣です。

沢山のお金をつぎ込まなくても、「美容」「健康」「幸せ」を得る方法は、案外シンプルなんですよ。

———————————————————— 
始めてください、エクレシア

1.心を分かち合え、祈り合える、定期的に集まれるスモールグループありますか?

2.あなたはそれを心から欲しますか?主が祈りに答えてくださるよう祈りましょう。

3.勇気を持って、知り合いのクリスチャンに声かけ「集まる」ことを勧めましょう。

4.無理しないで集まれる時間と場所を設定しましょう。会議室より、静かなレストラ
  ンやカフェがいいでしょう。

5.プログラムより人間関係です。自分が集まった人の祝福になれるよう祈ってから
  集いましょう。

6.中心は説教ではなく、分かち合いです。正直に分かち合えるリラックスした雰囲気
  をつくりましょう。食事をすると心がなごみます。ボスはいません。順番で司会者
  を決めてください。話すより、聞く方に集中してください。

  オープニングに使える質問
  「この一週間どうでしたか?」
  「何か教えられた事ありますか?」
  「心に響いた御言葉ありましたか?」
  
  大事なことは
1)説教しない
2)一人で長く話さない
3)批判しない

7.食事と近況の分かち合いが終わったところで、聖書を開きましょう。
  1つの書を決めて1回ごとに1章、あるいは切れ目のいいところで何節か
  を選んで、輪読し、その箇所について分かち合いします。きっと他の人の
  コメントから学べることが多いですよ。

  使える質問
  1)何か心にとまったところ、あるいはわからなかったところありますか?
  
    しばらく分かち合う。最後に質問する。

  2)今日、自分として持ち帰りたいメッセージは何でしょう?

8.次に祈りの課題を一人ずつ聞いて、それについてお互いに祈り合う。
  時間がなければ一人が代表して祈り、時間と環境がゆるせば、会話の祈り、
  ないし、順番に左となりの人の課題を時計回りで祈ってゆく。

きっと帰る頃にはあなたの心は満たされ、顔は輝いていますよ。

——————————— 

「ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まる所にわたしもいます。」
                     (マタ18:20)


「一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づ
 いているのを見て、ますます、そうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

————————— 

東京を神の街に・・・
Tokyo Metro Community (TMC)
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年10月28日月曜日

「心を分かち合える場」



神の似姿に造られた人間にとって全人間的であること、すなわち知性だけではく、感情をみとめることが大事ではないでしょうか。どこかで読んだ本の中にありました。「狂人とは理性を失った人のことではなく、理性以外のすべてを失った人である」。強い人とは感情を押し殺す人ではありません。自分の内側に何が起こっているか(Emotional self awareness)を認識することは大事な事です。「天使を装うものは野獣になる。」という言葉もあります。内側がカラカラなのに、人々の前だけでいいかっこうしていると、いつか急に崩れてしまうのです。自分の弱さも分かち合える正直になれる「場」は人間らしく生きるのにどうしても必要なのです。TMCはこうした真のコミュニティ作りを目指しています。

——— 
アメリカの有名なクリスチャン番組 700クラブのホストの一人、歌手、ライターでもある、シェイラ・ワルッシュ(Sheila Walsh)が1992年に語った証より。

ある朝、私はかっこいい髪型とびしっとキメタ服装で全国版テレビ番組のためにスタジオに座っていたの。その夜、精神病院の病棟に閉じ込められていた。でも、それは神様が私に、してくれた最高に優しい行為だった。

病院での初日、精神科医が私に尋ねた。

「あなたは誰ですか?」
「私は700クラブのホストの一人です。」

「いえいえ、そうじゃなくて、」
「それなら、私はライターであり、シンガーです。」

「そういう意味じゃなくて、あなたは誰ですか?」
「えっ!どういう事か全然わかりません。」

医者は答えた。

「そうでしょうね。だから、あなたは、ここに居るのですよ。」

私は他の人が自分をどう見るかで、自分を計っていた。段々にそれが
私を蝕んでいった。入院する前、700クラブのスタッフの何人かは
私を止めて、こう言った。

「やめなさい。立場を失うよ。もし、人々が、あなたが精神病院に入って
 薬の世話になっていると知ったら、すべて終わりだよ。」

私は言った。

「どうせ、すべて終わりなの。そんな事、考えても無駄。」

本当にすべてを失ったと思った。家も、給料も、仕事も。すべて。
でも、私は自分の人生(I found my life)を見つけたの。自分の一番
最低の状況の中で、真実の自分を発見したの。神様は知っていたんだわ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

“Success in Life?”  by Henry Williamson


After growing up on a small farm in Evergreen, North Carolina, I found out in college and graduate school how hard work and achievement could bring me the success that I wanted.  What I didn’t find out until I was 27 years old is that those successes along didn’t bring the happiness I had hoped for.  When Jesus said, “life does not consist in the abundance of things that men possess….” He was talking to me.
I played baseball and basketball in high school.  When I went to college at East Carolina University in l965, it opened up a whole new world to me – one of possibilities and achievement.  I was a good student, graduating with honors as an undergraduate and an MBA.  While giving serious thought to getting a PhD, I finally decided to go to work instead, being employed by Branch Banking & Trust Corporation (BB&T) – a bank holding company.  Carrying the “achievement drive” with me to work at BB&T, I poured myself into my work and into achievement, into success and getting ahead. 
I soon left BB&T’s management training program and was transferred to Fayetteville, North Carolina.  Things were going very well – a new daughter, one of the youngest officers promoted to Assistant Vice President at BB&T, bought our first house, and was beginning to make a little money.  Things really seemed to be going pretty well, but I wasn’t happy and satisfied.  Why?
As a young professional and father of a new daughter, I thought that going to church was a way to insure this success and expose my child to good influences.  Little did I know that my whole belief system was about to be challenged by a Bible study teacher who defined success completely different from me ---doing the will of God, whatever the cost.  She was the wife of one of the pastors of the church.  We had debated about whether community charity contributions counted as part of a Christian’s offerings to God and about what it really meant to have a quite time with God. 
Then one Sunday morning as I sat in the Bible study class with a cup of coffee and a doughnut, this teacher announced to the class that she and her husband were moving to Bogotá, Columbia as missionaries.  I was shocked?  Why in the world would anyone do such a thing?
Soon after that, I was at the country club at a bank social function – sitting with a mixed drink in my hand, the music was blaring away in the background, people were all around me talking and laughing.  Then, just as plainly as anything I have ever heard, God said to me – “Henry choose.  You can’t have both!” 
There it was.  If I was to be a disciple of Christ, I had to follow Him and not just my own desires.  I believed what Jesus had offered as a way of salvation, but until that time, I was committed only to my own goals.  When Jesus said in John 3:16 that whoever believed in Him would have eternal life, I thought that was for later.  He said in John 5:24 “I tell you the truth; whoever hears my word and believes Him who sent me has eternal life and will not be condemned; he has crossed over from death to life.”
At the age of 12, I believed in Him and asked Jesus to come into my heart and save me from the penalty of sin, which the Bible says is death (Romans 3:23).  I asked Him to give me the gift of eternal life because of my trust in Him as the Savior from my sin. 
Yet, I was to learn at age 27 that eternal life was mine for right now.  In John 17:3 Jesus said: “Now this is eternal life; that they may know you, the only true God, and Jesus Christ, whom you have sent.”  In that country club, at that moment, I made a promise, a commitment to God to submit myself to Him and to stop resisting and fighting Him – to dedicate myself to God.  That commitment began a journey that has taken me up to this very day.
Now that I am following Christ, the question that I try to keep before myself is this --- knowing that I am a spiritual person as well as a physical person, where is my achievement and success?  Am I a spiritual person who wrestles with physical issues or a physical personal who wrestles with spiritual issues?  I find that question keeps me on track and helps me to discover even more of the eternal life that is mine through knowing Jesus Christ.  And by the way, that’s what I was looking for all along.
——————————————————

■ ヘンリー・ウィリアムソン(Henry  Williamson
Former COO BB&T Corporation (Retired in 04) 
2004年まで同社のCOO(最高経営責任者)
(現在はファッカー家具取締役、フォリス・メディカルセンター基金理事、其の他)


このHenry Williamson氏(元BB&T副社長)がこの11月、BB&Tの現役行員でクリスチャンの数名を連れて来日します。彼らは過去10年間、東京のビジネスパーソンを励ましたいとの情熱をもってTMCを助けてくださっています。


BB&T Corporationとは
ノースカロライナ州ウィンストン・セーラム市に本社を置く全米11位の金融持株
会社。1872年設立。ノース,サウス,カロライナ両州、バージニア州、ジョージア
州など南部諸州を中心に1,400以上の支店を持ち、総資産は1,005億ドル(約10
円)。1989年以降58の地域金融機関、70 以上の保険代理店会社、23のノンバン
クの買収を行い成長中。

—————————————

BB&Tウエルカムパーティの申し込みは閉め切らせて頂きました。


---------------------------------------------------------------------------------------------
東京を神の街に・・・・
asktmc@gmail.com (栗原)