2013年5月27日月曜日

「宣教」から「宣証」へ



 去る、5月11日に日本ローザンヌ委員会シンポジウムが開かれた。テーマは「他の信仰を持つ人々の中でキリストの愛を生きる」東日本大震災からの教訓を踏まえてーであった。今回は、大変意味深い、刺激的な内容であったので、ここに紹介させて頂くとこにする。シンポジウムには3名のパネリストが立った。トップバッターは南三陸を支えるキリスト者ネットワーク世話人で、基督聖協団牧師の中澤竜生氏。

関西生まれの中澤氏が東北に遣わされて、現地で聞いた言葉は「3年住んでから、そういうこと(伝道)をしてくれ」であった。被災地に来たクリスチャンボランティアが「祈っていいですか」と聞いた時、「膝を交えて話した事の無い人に祈って欲しくない」と言われたという。それで、中澤さんは、「自分は祭りや弔いなどで、地域にかかわっているだろうか?」と思わされた。ねぶた祭があると、企業ごとに参加する土地柄。礼拝者の数ががたんと減るという。その人の土台である宗教を否定することから始めたら関係が築けない。否定ではなく、その人を受け入れる事から始める。イエスの愛をできるだけ外に表すことをし始めた。駆け引き無しに、ノンクリスチャンと共に歩むことを始めたという。今では、人間関係、信頼関係によって変革が起ると確信している。私達がまず、福音に生きることで福音を提示したいという。

次に話したのはイザヤ58ネット代表で福音伝道教団牧師の鈴木真さん。今までの西洋式の宣教を批判しつつ、「個人と神との関係だけで見る視点が、この世を断罪的に見て、逆に教会はいつも地域コミュニティにとけ込まないまま、家出人集団のようになっていくことに注意が必要。」と言う。地域に浸透する教会の形成のための「パラダイム転換」が鍵になるという。東北では先祖代々「講」というローカルコミュニティがあり、冠婚葬祭人生のすべてが「講」に組み込まれている。そこから抜ければ村八分的扱いになる。果たして、そうやって教会に個人を引っこ抜いてきて新しい教会コミュニティを作る事が効果的なのかという疑問にぶち当たった。教会が人々を呼び込み、囲い込むのではなく、地域の中に出てゆくことが必要なのではないか。「よき業を通して文化への浸透を図る福音提示が必要なのではないか。クリスチャンの社会貢献が必要なのではないか。そうでなければいつまでたっても「よそ者の宗教」、「西洋の宗教」という見られ方は変わらないだろうと。教会が市民権を得る。西洋と違って、日本ではそこからではないか。

最後のプレゼンターはVIPインターナショナルの市村和夫さん。コミュニティと繋がるため、聖書で禁じてないことは何でもやってみるという積極的な姿勢が印象的。神社で行われているラジオ体操にも参加するという。ノンクリスチャンと積極的に関係を作っている。関係なくして、良きニュースも聞いてくれない。仏教徒の中にも聖書に関心ある人達がいるという。(大乗仏教や神道は聖書の影響があるので)また、市村さんはインサイダームーブメントについて分かち合った。これは、イスラム圏でイスラム文化に留まりつつイエスを礼拝する、仏教圏で僧侶のまま、ハレルヤと礼拝する、ヒンズーがカーストに留まりつつイエスを礼拝する運動である。今までは、信仰持った「閉じられた国」のクリスチャンはアメリカなど自由圏に移り住んで信仰を保った。しかし、それでは周りに影響を与えられない。日本でも創価学会に留まりつつ主イエスを証している人のケースも話された。確かに学生でも、部活をやめてクリスチャンクラブに入ったりする。そうするとクリスチャンに囲まれて気持ちはいいが、ノンクリスチャンとの接点を失ってゆくことになる。このムーブメントは世界に広がっているが、シンクレティズム(混合宗教)などの危険性もあり、クリスチャンの間の評価は定まっていない。

ともあれ、刺激的な内容で面白かった。前回の記事に書いた3:11のメッセージを被災地以外の教会はどう受け取っているのだろうか?どう変革を始めているのだろうか?いずれにしても、東京でこのようなセミナーが開かれたことには大きな意義があると感じている。以下、最後に東北で立ち上がった「宣証」の動きを紹介しよう。
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東日本大震災の被災地から、支援と宣教を一体のものとして福音に基づく良き業を実践し、神の救いの計画を実現する「宣証」に取り組もうと、「良き業、宣証共同体プロジェクト21」が立ち上がった。良き業に基づき貢献する活動を通じて、「生き方」に関する問いかけが起こり、「宣証」の実を結ぶことを願っているという。具体的には「宣証」のための次世代リーダーを育てる研修・訓練をし、地域・町の復興に寄与・貢献する共同体を建て上げるためにボランティア・宣教チームを派遣できる体制を整えてゆく。

これが3:11を超えて東北で起っている動きなのだ。2011年3月に8000の教会を対象に調査したクリスチャンデータブックの報告によるとプロテスタントの教は・・・

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日本の人口:127057860人
教会数:7981
平均礼拝数:40人 (1教会あたりの平均信徒数は63名)
推定信徒総数:507714人 (国民の0.4%)
一昨年と比較して教会の数は16教会減。
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依然として厳しい状況である。なぜ、そうなのか?いろいろ理由はあるだろうが、教会が地域コミュニティから孤立しているということが挙げられないだろうか?昨年の夏、筆者が東京の22の教会の防災準備状況を調査した結果、6割の教会が地域コミュニティとの関係を持っていないことが明らかになった。町に掲載されている地域防災マップには神社仏閣のマークはあっても教会のマークはない。少なくも防災に関して行政側からはカウントされていないのである。教会の地域での存在感が薄いのである。それは裏を返せば地域にインパクトを及ぼしていないということになる。特に都心の教会では日曜の朝に電車にのって集まって来て礼拝し、また解散してゆく。そこで礼拝していても週日そのエリアにいないことが多い。大震災の時は礼拝をしている場所より、自分が通常多くの時間を過ごしている場所、すなわち会社や住居のある地域コミュニティとの関係が大事になる。もう少し普段いるエリアでのクリスチャン同士の連携や周りの人々との連携を強められないか?

東北では震災後、地域との繋がりが強まった。3:11があって、今度、首都圏直下や南海トラフという話なので、震災後では遅すぎる。今から防災というすべての人にとって関心のある分野で共に取り組み、町ぐるみの防災に教会が加担するという型ができないか?都心部では大混乱になるので、クリスチャンが主導権を取って、備えや連携を推進できないか?南海トラフや首都直下は国の存亡にかかわる「国難」となる。この時代のニーズを共に担うことがクリスチャンの今の使命なのではないだろうか?

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asktmc@gmail.com (栗原)

同著者による、東京大震災ブログはこちら
www.tokyodisaster.blogspot.jp

2013年5月13日月曜日

「この地を治めるクリスチャン」



 最近タイで行われたBusiness as Mission (BAM)のGlobal BAM congressに参加したビジネスマンクリスチャンから報告を聞いた。カンファレンスではよく「Creation care」というフレーズが聞かれたという。神はアダムとエバにエデンの園を耕し(develop)、治めるよう命じられた。人間は神の作られた世界を管理する役目がある。地球温暖化の問題、生物多様性の問題、再生エネルギーの問題。すべてクリスチャンに関係あるのだ。

当然、王として地を治めることには危機管理も含まれる。地震そのものは止められないが、危機管理、防災をすることで減災できる。それは、人間の側の責任。 自然のリズムである限り、自然現象そのものは中立的なもの。ただ人が多く住んでいるところには結果、悪をもたらす。しかし、その悪(被害)の程度は、人間の側の脆弱性による。

例えば、阪神淡路大震災の時、1981年前の建築物と後の建築物では被害に大きな差が出た。現在の建築基準で立てられた建物は震度6強まで倒れない設計になっている。以前なら倒れて大きな被害が出たが、同じ震度の地震でも、耐震設計の建物の被害は軽微で済む。こうやって被害の違いが出るものを神の裁きと言えるだろうか?実は、人間の責任でリスクを減らせる部分が多い。阪神淡路の際、8割は家の倒壊や家の中の家具による圧死であった。しかし、家を耐震化し、家具を固定していれば、その人達は助かったかもしれない。備えることでリスクを減らせる。8月31日、内閣府中央防災会議が南海トラフ地震被害予測の見直しを正式発表した。東京新聞では「M9、最悪で死者32万人、7割が津波被害。」950万人の避難民。国民の6割が被災者になるという。まさに国難。しかし、その後に「対策、避難で6万人に減」と報じられた。

人間が地震そのものを止めることはできない。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのだ。死者32万人が6万人になるのだ。防災することで減災できる。それは、人間の被造物管理権の問題なのだ。言い換えれば神のかたちに造られた人間の責任である。自然現象が悪をもたらすなら、私達クリスチャンは神の側に立ち、神チームとして悪を少しでも減らすよう努めるべきではないか?


聖書では「管理」ということを重視している。今、そして後に来る世で管理することが必要ないなら、ミナの話(ルカ19:15−23)意味をなさないように思われる。むしろこの箇所は、今から管理能力が問われ、その管理能力に従い、町の管理が任されるという将来の訓練的ニュアンスが高い。


後に来る世は誰のもの?
ヘブル2:6からを見ると、後に来る御国の管理権を天使には渡さないとある。それでは誰に渡すのか?文面文字通りには「人間」とある。しかし、現実、すべてのものが人間に(まだ)従わされてないとある。しかし、御使いよりもしばらくの間、低いものとされたイエスのことは見ていますと。人間に従わせられているのを見てない、でもイエス様のことは見ている。ニュアンスは最終的に人間も・・ということではないか?実際、11節には神と私達は同じ側、同じ神様チームのメンバーというメッセージが受け取れる。


私達はキリストとの共同相続人
さらに、ローマ 8:15-­17読んでみると、相続権のある子供について書いてある。聖書はクリスチャンになる前の人間の姿を「奴隷」と描写している。(ヘブル 2:15) 奴隷と「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということだ。しかし、私達は、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」。私達はキリストと一緒に相続するのだ。一体何を相続するのか?神の造られた世界ではないか。父の創られた世界、つまり被造物の相続権の話なのだ。造られた世界を受け継ぎ、その統治権をキリストと共に受け継ぐということ。父の御国を長兄であるキリストと共に共同相続人となる。又、当然、相続するということは管理も任されるということだ。


私達は王の見習い人
さらに、エペソ2:5−6を見ると、「罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とある。まず、キリストだが、キリストに続いて、キリストと一緒にプロセスを経ている。一緒に死に、一緒によみがえり、一緒に天のところに座っている。天のところとは、その前の章エペ1:20に書いてある。「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」その所に私達もキリストと共に座している。(未来系ではなく、完了型で書かれている、すなわち今現在霊的に居るところ)いわば、キリストの隣にすわっている「王」見習い人。


良い王ならば自分の国民をすべての災いから守る。当然、危機管理が入ってくる。実は、日本には沢山の危機がある。自然災害リスク 世界ワースト5の国。国土の7割は山、しかも降雨量は世界第4位で世界平均の2倍もある。それに、2000もある断層。近いうちに起る南海トラフ、首都直下型地震。さらに政治的には、センカク問題、北朝鮮、サイバーテロ、核テロ。またパンデミック、長期的には少子化人口問題、国家的財政赤字(1000兆)問題。 今まではクリスチャンは霊のことだけ、教会で祈ってればいい的な、伝道して魂救われればそれでいい的な、そういう態度ではなかったか。でも全世界は神のガーデン。クリスチャンはこの地を治める責任がある。無関心ではいられない。

3:11を通して、被災地の教会は文字通り揺さぶられ、それを通して沢山神様から教えられた。3:11は神の裁きではないが、神のメッセージとして受け取れる。揺さぶられ、目が開かれ、新しい価値に気ずかされる。町作りも現状復帰の「復旧」ではなく、新しい価値と思想による「復興」が大事と言われている。昔あったように戻ればいいのではない。教会も今までのような「教会」「宣教」でいいのか。震災を通して教会論、宣教論が根本から問い直された。仙台の神学校の校長は「パラダイムシフトが必要」とまで言っている。自分達の教会の成長という狭い視野から、地域社会の人と一緒に問題を背負い、一緒に生きてゆくという姿勢に変えられてきている。さて、東京の教会はそのシフトの必要をどこまで感じているだろうか。

今こそ、日本のクリスチャンがInitiativeをとって地元のコミュニティとかかわり、町ぐるみで、次期災害の備えをしてゆくことが期待されているのではないだろうか。危機Danger Opportunity。来るべき災害に一緒に備えることは、クリスチャンがコミュニティと繋がり、影響を与えられるいい機会。今がその時なのではないだろうか。            

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asktmc@gmail.com (栗原)