白井聡氏の「永続敗戦論」が話題になりました。白井氏は今、言葉を整えることが大事だと言います。「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」と言い換え実態を誤摩化してきたのが日本の歴史だと。「敗戦」を認めなければ、敗戦状態が継続していく。そうしないと、戦後レジームの脱却は本当にはできないという論法で興味深いですね。ところで、キリスト教界も長い間に実態と離れた言葉が根付いてしまいました。
キリスト教?
仏陀の教えで仏教。キリストの教えでキリスト教? いえ、本質はキリストの教えではありません。キリストご自身です。初代教会では「この道」と呼ばれていました。キリストに従うライフスタイルだったので、道のほうが合っているようです。ちなみに「クリスチャン」という呼び名はイエスキリストに反対する人達があだ名として付けたものです。
提案:アメリカでは「クリスチャンです。」と言っても、信仰より文化になってしまっているので、ボーンアゲインクリスチャンと言う時期もありました。最近ではFollowers of Jesus, Disciples of Jesusという場合もあります。そのほうが実態に近いでしょうね。日本語だと「キリストの弟子」でしょうか?お茶や、お花の「師匠と弟子」の関係だと分かり易いですけどね。彼らはマニュアルで学ぶのではなく、師匠の生き様から学び取るものですよね。
教会?
教える会? もともと教会を指すギリシア語は「エクレシア」で、建物に言及されている箇所は一カ所もありません。イエスを信じる者の「群れ」、つまり人々のことです。目的を持って集められた「人々」のことです。
提案:地上に法人組織として存在する教会と聖書が本来語っている「イエスを信じる者の群れ」としてのエクレシアは区別したほうがよさそうです。クリスチャンの集まりを本来の言葉「エクレシア」と表現するのはどうでしょう?
教会に行く?
ですから、本来、「教会に行く」という表現はおかしいのです。私達が「教会」そのものなのですから。また、日曜礼拝に参加することを「教会に行く」と表現することが多々あります。しかし、「礼拝」=「教会」ではありません。厳密にはその地域にいるクリスチャンの集まり(エクレシア)が日曜の午前中、ある建物に集合して「合同礼拝」をしているというのが正しいのです。30人以下なら「伝道所」、それ以上なら「教会」という分け方もおかしいですよね。
提案:「教会に行く」は、すでに定着してしまっているので変えるのは難しいですが、何とか「礼拝に行く」にできませんかね?
牧師先生?
まず日本語の問題として、すでに「師」は先生の意味ですから、ダブルミーニングですね。エペソ4章11節に出てくる「牧師」と訳されている言葉は、群れの霊的お世話をする「牧者」の意味のほうが近いでしょう。1ランク上の人という訳ではありません。ましてや大教会に見られる会社のCEOのような牧師像は、ここにはありません。また、使徒、預言者、伝道者などの他の役職の
1つとして挙げられており、現代の牧師のように何でもかんでも引き受ける霊的スーパーマンの姿も違う様です。牧師の前段階の献身者を「伝道師」と組織上の地位として呼ぶ場合がありますが、本来は牧師の前段階だから「伝道師」なのではなく、「伝道」の賜物があるから「伝道師」なのです。
「ある人を牧師(牧者)または、教師として、お立てになった」とあり、預言者や伝道者とは分けて書いてあります。きっと違う機能なのでしょう。牧者は必ずしも外に向かって働きかける伝道師や預言者ではなく、むしろ教える賜物を持つバイブルティーチャーとして「信徒達を整え奉仕(様々なミニストリー)の働きをさせ、キリストの体を建てあげる」使命があるのです。外での奉仕が得意な牧師はむしろ、「預言者」、「伝道者」なのではないでしょうか?一人の人(牧師)にすべてを期待するのは酷な話です。賜物持つ働き人がチームで取り組むのが望ましい姿であると思います。日本文化では知識ある先輩を「先生」と呼ぶ習慣があるので、年輩の牧師を「先生」と呼ぶのは必ずしも間違っているとは思えません。法人的には「代表役員」と呼ぶのは仕方ないですが、内輪では牧師もなるべく「同じ主にある兄弟姉妹」という意識を保ちたいですね。
提案:「牧者」と言いたいところですが、牧師が根付いているので難しいですね。ある牧師は「牧使」という漢字を使っています。
単語だけではなく、間違った概念も定着してしまっています。例えば・・
クリスチャンになる儀式としての「洗礼」?
洗礼を受けないとクリスチャンじゃないの?イエス・キリストを救い主として、信じていても洗礼準備会に出て、洗礼を受けるまでは「求道者」と呼ばれることもあります。先ほど述べたように宗教法人会員としての区別は必要なのでしょうが、霊的にはイエスを信じ、告白している人はクリスチャンです。洗礼は内に起った出来事(霊的生まれ変わり)の外への証であり、表明なのです。もちろん、イエスキリストが命じたことですから(マタイ28:19)洗礼を受けるべきですが、順番を間違えないようにしましょう。また、エチオピアの宦官はイエスを信じた直後に洗礼を受けることを希望しましたが、ピリポは拒まずにバプテスマを授けています。
キリスト教は「一神教」?
イスラム、ユダヤ、キリスト教は同じ一神教?多くの人はきっとそう思っているでしょう。しかし、キリスト教は厳密に言うと「三位一体教」です。はじめから父、御子、御霊の3つの人格が愛とコミュニケーションを持っていました。ヨハネ福音書の「ことばは神と共にあった」の「共」にはギリシア語で「プロス」、英語ではTowardと訳せる言葉です。お互いに向き合っていたとのニュアンスを感じることができます。ある神学者は「三位一体とはお互いの周りを踊り回りながら、お互いをほめたたえている姿だ。」と表現しました。その愛が溢れ出て世界の創造となったのです。福音を伝えるのは、この交わりに人々を招き入れるためです。(第一ヨハネ1:1−3)この点で、イスラム教、ユダヤ教とは違います。イスラムの神は運命論的で戒律を迫る厳しい神ですが、三位一体が無いので「愛」を表現することができないのでしょう。よく「宗教はどれも神は愛と言っているんでしょう?」と言う人がいますが、ニューヨーク、リディーマー教会のティムケラー牧師は、実は「神は愛なり」と明記しているのはキリスト教以外に無いと明言しています。どうしても始めに人格神(そして交わりを持てる三位一体)が無ければ愛が出ようがありません。人権、正義、弱い者を助けること、などもこの三位一体の神が人間を創造したという教理無しには土台を与える事ができないのです。
提案:三位一体教にしませんか?
「教会=会堂」?
初代教会の様子をかい間見られるのは使徒の働きの2章43−47です。基本的には家で集まり(しかも毎日)、また安息日は、ユダヤ教の会堂で礼拝していました。まだこの頃はキリスト教という別の宗教があったというより「目覚めたユダヤ教徒」としてユダヤ人の中で広がっていったようです。パウロが地方に宣教に行った時、会堂で証するよう勧められています。(使徒13:14−15、13:42)他宗教の人には、こんな薦めはしないでしょう。キリスト教の会堂が建ち始めたのはコンスタンチヌス帝の時代ですから、はじめの300くらいは現在のようなキリスト教の会堂は無かったのです。家々で分ち合いと中心としたシンプルな礼拝をしていました。それが段々、ギリシアの哲学者達の講演をまねて説教者が現れ、16世紀宗教改革があったにもかかわらず、礼拝形式はほとんどカトリックのものを引き継いでしまったのです。ピューと呼ばれる固定長イス、講壇、説教中心の礼拝など。これらは初代教会にはありませんでした。教会といえば長崎で見られる尖った屋根に十字架のゴシック建築を思い描きますよね。しかし、尖った屋根は雪の多い北欧には適していても、日本で同じものを作る必要はありません。海外のプロテスタント教会ではホテルの宴会場や映画館を使用して礼拝しているところもあります。ゴシック建築でなければならない理由はありません。ちなみに3世紀までは、神学校を出たプロフェッショナルな「教職」というのは存在していませんでした。
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先日、あるクリスチャンの女性と話していました。彼女のご両親が4年間前にクリスチャンになられました。教会に通いはじめましたが、奉仕でストレスを溜め、傷つき教会を去ってしまいました。残念ながら、このような話をよく聞きます。プログラムを回すために奉仕して疲れてしまう。あるいは、牧師に働きが集中して、精神的に病んでしまったり、罪に陥ったりしてしまう。何か本末転倒のような気がします。もっとシンプルにできなでしょうか?
クリスチャンが集まり、礼拝し、聖書を読み、お互いのため祈る。人口肥料より、有機肥料で栽培したほうが丈夫で健康な野菜が育つそうです。キリスト教の長い歴史の中で、人工的に付加されてきたものを取り除いて、イエス様と私達というシンプルな関係に戻れないでしょうか?また、大きくなると管理が大変です。小さいエクレシアを沢山つくったほうがいいのではないでしょうか?
教会は「小さく」、ミニストリー「多様」に。関心ある人が集まって社会のニーズに答えつつ宣教する活動を自由にできる環境を整えていくことも必要ですね。あまり管理すると活気を失います。もっと皆が活き活きできるシンプルチャーチというか、オーガニックチャーチというか、そんなエクレシアができないでしょうか?
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さらに興味のある方は
「Pagan Christianity」 Frank Viola & George Barna
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祈りと関係で広がるエクレシア
Tokyo Metro Community (TMC)