ちょっといい話(4)
詩人で童話作家、宮沢賢治の代表作「雨ニモマケズ」のモデルではないかと言われるキリスト教伝道者、斎藤宗次郎(1877〜1968)の自叙伝が、岩波書店から出版された。宗次郎は新聞配達業に励みつつ、出会った人々の悩みに耳を傾け、地域の人たちから慕われた。日記には賢治との交流が克明に記録されている。
宗次郎は岩手県花巻市に生まれ、地元の小学校教諭となった。無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響され、23歳でキリスト教に入信。が、小学校で聖書や鑑三の日露非戦論を教え、退職に追い込まれる。約20年間の新聞配達業の後、1926年に上京。鑑三の弟子として伝道を手伝い、その最期をみとった。
自叙伝は「二荊(にけい)自叙伝」と題され、B4判原稿用紙約1万枚に及ぶ。装本されており、全40巻。「二荊」とは、荊(いばら)の冠をつけて十字架にかけられたキリストに続き、自分も苦難を引き受けるという意味だ。21歳から死の直前まで書いた膨大な日記を基にまとめた。
今回、山折哲雄・国際日本文化研究センター所長と栗原敦・実践女子大教授が、自叙伝の1921年から26年までの記述を編集した。
宗次郎は新聞配達を「天職」と感じていた。東京朝日や万(よろず)朝報など十数種類の新聞を配達し、「人々の心も察せられる。此世の状態を知り得らるる」と書く。
朝3時に起き、雨の日も風の日も、6、7貫(1貫は3.75キロ)もある大風呂敷を背負い、駆け足で配達に回る。
配達や集金の際には、病人を見舞い、道ばたで遊ぶ子供たちに菓子を分けた。相談にも誠実に応えた。当初はキリスト教信者だからと、石を投げられるなど迫害を受けたが、次第に人々の信頼を集めた。「花巻のトルストイ」と呼ぶ人もいた。配達業をやめて上京する時は、駅に名士や住民200人以上が見送りに駆けつけたという。
こんな姿が「雨ニモマケズ」のモデルでは、と言われるゆえんとなった。
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雨にもまけず 宮沢
賢治
雨にもまけず 風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ 丈夫なからだをもち
慾はなく 決して瞋らず いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききし
わかり そして わすれず
野原の松の林の蔭の 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病氣のこどもあれば 行って看病してやり
西につかれた母あれば 行ってその稻の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って
こわがらなくてもいいといい
北にけんかや
そしょうがあれば つまらないから
やめろといい
ひでりのときは
なみだをながし さむさのなつは
おろおろ あるき
みんなに
でくのぼうとよばれ ほめられもせず くにもされず
そういうものに わたしはなりたい
(原文は漢字とカタカナです。読み易いように、ひらがな版をアップしました。)
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祈りと人間関係で広がるエクレシア
東京メトロコミュニティ (TMC)
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