2015年1月29日木曜日

聖書と戦争


「聖書と戦争」(ピーター クレイギ著 すぐ書房)という題の本をブックオフで見つけて早速読んでみた。この関連の本は以外と少ない。
 
1.「神の国」は民族国家ではないので、国家領土拡大や防衛の戦争は必要ない。
2.イエスの十字架上の例から「暴力は暴力によっては制せられず」を学べる。むしろ、暴力への「服従」や「敗戦」を通して平和が勝利してゆく。
3.旧約聖書はユダヤ民族を扱っており、特殊な文化、民族を限定しており、それをそのまま普遍化できない。十字架以降の新約は「新しい契約」であり全世界に向けている。
4.従って、旧約を引用して現代の戦争を正当化することはできない。現代、いわゆる「聖戦」はない。
5.神のみが命を与え、奪う権利を持っている。この神の命令によってのみ戦争での殺
人がありうる。現代の戦争では神が直接命令しているのではないので、正当性はない。そして、旧約の非侵略の民は堕落しており、もともと神のさばきを受けるべきだった。それをイスラエルの軍を用いて神がさばきを為したと考えられる。いずれにしても限定的、特殊な状況であった。
6.当時のメソポタミア文化の中で、侵略戦争(暴力で領土を広める)はあたりまえで、
神が歴史に介入するために、戦争という状況を用いのは自然であった。それは神の顕現、啓示の手段であった。
7.預言者たちが語った、やがて来るべき「神の国」での神の平和が完全に支配する姿
をビジョンとして持ちつつ、現実の世界で平和の概念を具体化する努力が必要。だから、現実が暗ければ暗いほど、崇高な理念を掲げることは必要なのだ。
8.ただし、現在、我々クリスチャンは「神の国」に属し、また自らの「国家」に属している。国家であれば戦争の動機や能力を潜在的に持っている。この2重国籍問題は簡単に解決できない。

著者自身が認めているように、8番の矛盾を克服できていない。結局、パシフィスト(絶対平和主義、絶対非戦)にならない限り、一貫性を貫くことは難しい。されど、自国が侵略された時、何もしないで指をくわえているのかという問題が残る。今日、侵略戦争は許されない。それは国連の国際法にもある。しかし、「イスラム国」のようなテロはどうするのか?攻撃しなければ、女性や子供達への無惨な虐殺が継続してしまう。これを止める事は正義なのか、それともやはり人殺し(殺意を持った殺人は罪)なのか?例えば、イスラム国のテロリストがエボラ熱に意図的にかかり、ニューヨークで感染を広め、それをジハード(自爆テロ)とする場合、彼を見つけ次第、殺す事は正義か?多数の命を助けるためには一人の犠牲はやむを得ないのか?殺人はやはり、殺人なのか? どうも、まだまだ、議論の余地がある。


クリスチャンの戦争論は多くはないが、一応書かれたものはある。しかし、今、知りたいのはクリスチャンの「国防論」なのだ。そして、国防は専守防衛だけで十分なのか?ということ。北朝鮮からミサイルが発射されれば10数分で日本に着地する。打たれてからでは遅すぎないか?かといって、先にミサイル基地を攻撃すれば宣戦布告となってしまう。サイバーテロはどう防ぐのか?サイバー攻撃でライフラインやエネルギー、さらに軍備まで被害が及ぶことがあり得る。各国との連携で協力体制が必要だろう。それは集団的自衛権ではないのか? 聖書的に国防をどう考えるのか是非、専門家の方々に煮詰めてもらいたい議論である。

戦後70年。太平洋戦争で長崎、広島に原爆が落とされた問題の是非が問われている。自国と敵国では全く意識が変わってくる。アメリカでは現在も大部分が抵抗を続ける日本との戦争を早く終わらせるために必要だったという意見が多いという。それにより米兵200万の命を救ったというヒーロー宣言もある。実際、爆弾を投下した兵士は「ちゃんと爆発した、神よ感謝です!」と言ったとか。確かに一億玉砕と玉砕を覚悟で本土決戦を望んでいた人達もいたので、一日も早く敗戦宣言をすべきだったのだろう。日本の指導部の決断の判断が問われよう。それはそれとして、原爆投下が一般住民に対する無差別大虐殺、(アウシュビッツ同様、東京裁判のB級犯罪に相当する)であったことも事実である。なぜ敗戦が明確だったあのタイミングで投下したのか?しかも、長崎には、プルトニウム型爆弾、広島はウラン型爆弾と違うタイプのものを使用。広島の3日後に長崎。日本を降伏させるのに、たて続けにあれほど残虐な被害が2回必要だったのか?あれは人体実験だったのではないだろうか?長崎での即死者は7万人、その後、放射能被害で7万人が亡くなった。もちろん戦勝国のアメリカは、東京裁判で自国の罪は棚上げした。それに対して謝罪は一度もない。キリスト教の国が何故?という疑問は多くの日本人が抱いており、入信にブレーキをかけている部分もあるのではないか?

「イスラム国」の論理も「聖戦」「聖絶」である。アラーのみが正しく、アラーを拝まない民は抹殺してもよい。アメリカもイスラム国も旧約聖書の聖戦を現代にあてはめてしまった。ピーター・クレイグはこのような旧約聖書の解釈を許してしまったクリスチャン側にも責任があるのではと問うている。それで、早急にまず神学校での再教育の必要を訴えている。

先日、雑司ヶ谷にある宣教師館を訪ねた。明治40年(1907年)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの住宅として建てたもので豊島区内に現存する最も古い近代木造洋風建築である。資料の中に興味深い記事があった。アメリカ独立記念日のパーティに参加しなかったマッケーレブと大使館の人との会話。「国の義務には鉄砲を持つ事が含まれますか?」とマッケーレブが質問。大使は、「そうだ。」と答えた。宣教師マッケーレブはこう言った。「鉄砲を持つ事が国の義務なら、私は国を守れません。なぜならキリスト者は人を殺さないからです。」彼は「我らの国籍は天にあり」を掲げ、神の国を優先した。つまりピーター・クレイギの言う2重国籍に優先順位をつけた訳だ。太平洋戦争末期、国を守るはずの日本軍は沖縄の民を見捨てた。

イエスはこう言われた。
「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけてあわてないようにしなさい。これらは必ず起ることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起ります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。(その時、「助けます」と言っていない。銃を取って「戦え」とも言ってない。単純に殺されるであろうと事実を述べている。)また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われます。」(マタ23:9−13)

ここでは敵と「戦え」ではなく、「耐え忍べ」と語られている。しかし、それは妥協して屈することとは違う。「無抵抗」による「非戦・非暴力」という強烈なメッセージを放つことでもある。
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2015年1月21日水曜日

普段力



 若い時は伝道イベントや宣教プロジェクトが好きでした。エキサイトしたし、特に人が多く集まれば達成感もありましたし。しかし、冷静に考えてみると、どれくらい実が残ったのかは疑問です。さすがに最近は少なくなりましたが、「特別伝道集会」いわゆる特伝。過去、幾度も経験しました。沢山のビラを蒔き、ポスターをはって準備するのですが、新しく来る人は1−2名ということも多々ありました。しかも、大体は続かないのです。普段の関係なしに、「特別」をやってもあまり効果的ではありません。

宣教団体にいるので、かつては文字通り、北海道から沖縄まで全国各地で伝道訓練会をさせていただきました。セミナーをやり、二人ひと組で公園などに出てゆき実践伝道します。いいチャレンジですし、それで伝道に燃やされる人もいるのですが、やがて熱はさめていきます。リバイバル集会なども、その時は盛り上がるのです。「ハレルヤ!」と大声で叫んだりします。でも、どうしても熱はさめていきます。むしろ1ヶ月後、普段の生活であなたはどうなってますかと聞きたいのです。私たちの学生大会で「お尻に火がつきました!」と興奮して証していた学生がいたのですが、数年後社会人となった彼に会った時、仕事のストレスから無表情で笑顔さえ無くなっていました。とても伝道どころじゃありません。

また、韓国から熱心なクリスチャン学生を招いて日本の教会に送り込み、2週間一緒に生活し、一緒に宣教するというプロジェクトをやっていました。ものすごい刺激を受けて変えられた日本人クリスチャン達も多くいましたし、それをきっかけに献身し神学校に行った人達もいたことは事実です。しかし、反面、毎年来るワーカーに宣教を頼っていた教会もありました。ある教会の牧師が私にこう言ってきました。「このプロジェクトに本当に感謝しています。なぜかというと、その時だけ外に向けて教会の存在を知らせ、伝道ができるからです。うちの教会は年寄りが多いし、普段はなかなかチラシ配布なんてできませんし・・・」これを聞いていて、複雑な気持ちになりました。プロジェクトが役に立っていて嬉しかった反面、「これを毎年続けても、この教会は変わらないだろうな」と悲観的な思いにもなりました。言い方は悪いですが、これではプロジェクトがカンフル剤のようで、教会自体が強くなっていく訳ではありません。

祈りのセミナーも沢山参加しましたし、うちの団体で主催したこともありました。断食祈祷を推進した時期もありました。祈りが折々特別に強調されることは大事でしょう。しかし、イベントとしてではなく、日々祈っていることのほうがもっと大事です。

こんなリストを幾らでも並べ立てられますが、これらのことを通して、「特別」な事より、もっと「自然体」として神が望まれる姿になってゆくことが大事なのだなと教えられてきました。特別な事をやって盛り上げるのは疲れるし、日常が変わらないなら自己満足に終わってしまいます。


初めは修行的なことが必要なのかもしれません。通読など自分にタスクを課すことも時にいいかも知れません。しかし、「もっと祈らなくては、もっと伝道しなければ、もっともっと・・・ねばならぬ」では続かないのです。私はいつしか、この「ねばならぬ」を辞めました。「しなくてもいい」と思うと、実は、気がついてみれば、日常の生活の中でよく神様と会話していますし、聖書も毎日読んでいます。

聖書を開いて伝道した訳でもないのに、ウチの家の家主さんが「あなた達が来てから庭の花や緑がきれいになった。きっと祈りなんでしょうね。」と言ってくれます。以前は伝道も上から目線で「信じないのはお前が悪い」的にやっていました。信じて間もない高校生の頃、圧力的に伝道して母を怒らせてしまったことがあります。クラスメートとの議論に勝っても相手が心を閉じてしまうこともありました。それじゃ、逆効果ですよね。今はノンクリスチャンの方の話をじっくり聞くようにしています。

被災地で仮設住宅をお訪ねした時は、寄り添って話を聞くことがミニストリーだと実感しました。ミニストリーはミニスター、「仕える」という言葉から来ています。「愛する」こと「仕える事」、「他の人の必要を満たす事」、それは立派なミニストリーです。一方的に語ったり、何かをやることではありません。営業成績を上げるような伝道をやっていた時期もありましたが、どうも違うようです。あなたのミニストリーの動機は何でしょうか?(マタ10:36)主イエスは人々を癒す時に「かわいそうに思われた」と書いてあります。主のミニストリーの動機は「愛」と「憐れみ」なのです。業績や達成感ではありません。


日常生活の中で、継続的に人間関係を築き、信頼を築くことは立派な伝道なのではないでしょうか?実際、今教会に来ている人のほとんどは、奥さんに連れられて来たり、友達に誘われて来たという人なのです。いきなり教会に入って来て、根付く人はほとんどいないのです。

ちょっと話は変わりますが、小津安二郎監督の「秋刀魚の味」という映画を見てから小津ファンになりました。世界的にも評価の高い「東京物語」も、何と言う事も無い誰もが経験する日常を描いているのですが、心に残るのです。ああ、これは日常力の映画だと感じました。ギネスブックものの同主演者によるシリーズもの「寅さん」映画の魅力も相変わらずの「いつものメンバー」が「いつもの団子屋」に集まって、「いつもの会話」をしている、あの「いつも感」。それがボディブローのように聞いて来るのです。知らないうちに「寅さん」ファンとなり、「病み付き」になってしまうのです。正に日常力。

最近、私は特別感のない普段の礼拝が好きです。いつもの日曜日。いつものメンバーと。そして淡々と語られる御言葉。アジテーションのような特別メッセージより普段の味がいいのです。そのほうが逆に飽きないのです。そして主との関係も日曜が特別なのではなく、一週間、普段通りなのがいいのです。日曜の朝だけの「営業スマイル」ではなく、365日、「いつも変わらぬ主」と「変わらぬ関係」にいたいのです。信仰生活は短距離ではなくマラソンだと言われます。あまり急に走りすぎると息切れして後が続きません。淡々とマイペースで。しかし、確実に前進しています。ジョン・ウエスレーは「もし再臨が明日あったらどうします?」と聞かれて、「普段通り、庭の芝を刈っています。」と答えたといいます。

スゴくなくていいんです。スゴいように見せかけなくてもいいんです。自然体で、普段どおりの日常力。それがあなたの実力です。あとはバブルなんです。一時的に盛り上がったものは盛り下がるのです。でも自分を忘れ、神に心を向けている時、ペテロが水の上を歩いたような、不思議な歩みができるんですよね。

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2015年1月13日火曜日

日本人の他界思想




年末に神田明神を訪れてみると、期日前初詣の人々で結構にぎわっていた。神前で頭を垂れて「神さま」に祈っている参拝客。神道には偶像がない。神は霊とうい認識だろう。少なくも「神さま」に祈る人がいることに変な励ましを受けた。というのも統計では死後の世界を信じない人が3割くらいしかいないらしい。しかし、どうもあやしい。多くの人が死んだら天国に行っているとナイーブに信じている反面、成仏できるのか心配な人々も多々あるのではないか?少なくも日本人の死生観の歴史を見るとかなり強い死後への恐れが見受けられる。死後何もないと言いながら、やはり死ぬのが怖い、あるいは、愛する者と永遠にいたい、天国で会いたいと願い、死後に思いを馳せる人は多いのだろう。宇宙エネルギーに回収されるというだけでは愛する「個人」には会えない。


古来の日本人の生死観

古来、日本人の生死観はおおらかなもので、死霊は山の上や海の彼方など、この地の連続性のある場所(冥界)にいってしまうのであり、また道徳的懲罰観がなかったという。古事記に出てくる「黄泉の国」には道徳的呵責が皆無。竜宮伝説に象徴される不老不死の他界観がユートピア化して描かれている。そこでは生者と死者の連続性がある。

チベットでは死体は執行人によって解体され、岩の上に置かれ禿鷹に食べられる。それによって死者は天界に行くとされる。輪廻を信じるヒンズー社会では死者を布に包んで火葬にする。河のほとりで火葬され、骨や灰は川に流される。日本では火葬は天皇をはじめ主だった貴族に限られていた。与論島では風葬(遺体を空気にさらす葬法)がある。死体よりその中の霊魂を重視する風俗のあらわれとされる。自然の洞窟の多い、沖縄や薩南の島々では洞窟葬が見られる。

日本では、庶民層は野原に遺体をまとめて捨てるのが一般的だった。従って、そこには死者の個性が無い。空也によって丁重に阿弥陀仏名をもって供養されるようになると、死霊の特定化、個性化がうながされた


仏教伝来以降の日本人の生死観

さて、トマスが、インドより更に東の支那にまで伝道に来ていたとしてみれば、トマスの足跡を印した地方の異教徒に、異常なる衝撃を与えておらねばならぬ。すなわちその衝動!その影響を受けた者は実に仏教の大乗教にして、今まで「無我」を標榜して立っていた仏教がにわかに方向転換、看板を塗り替えて、それまで否定していた「我」を認め、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったものである。(「神道と仏教とをただす」 P4

オリジナルでは「無神無霊魂」、「無我」の仏教が日本では個人のアイデンティティが重視され、個人の「罪滅」や「あの世」での命がかなりのテーマとなっていった。古代インド思想では、地獄は輪廻転生の場所である。業により生死を重ねて、六道輪廻すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を流転しつづける。「極楽」は輪廻転生を断ち切った解脱の国土である。仏教はその解脱の道を示すものであった。ちなみに「極楽」は旧約聖書のエデン(快楽)からきているのではと仏教学者が指摘しているのは興味深い。(「地獄と極楽」p.28

仏教伝来以降、日本では「地獄」の思想が広まっていった。「往生要集」の著者、平安時代中期の天台宗の僧である源信が日本人の地獄観の骨格をつくったとされる。「それと共に因果応報の教え、道徳的呵責が出てくる。『黄泉の国』には全く見られなかった、生前の行いによって死者が裁かれ、その罰が決められるという道徳的呵責、罰、応報という考え方が、ここに初めて見出されるのである。」(「地獄と極楽」P144

「地獄とはこの世で罪を犯した人が死後に堕ちてゆき、自らの罪をあがなうための世界である。そこには地獄の大王がいて、人々の罪を裁き、その罪によって人々は行き着く地獄を決められ、そこで果てる事の無い責苦を受けるのである。」(「地獄と極楽」P140

そこにはよみがえりの思想はなく、永遠に刑罰を受けることになる。犯した罪はほかのなにものをもってしてもあがなわれることはなく、ただ肉体的な罰を受ける事しか、罪に対する応報はありえないと語られる。仏教というよりはキリスト教の死後観に近い。すべての人が地獄への道を歩んでいるとすれば、どうしたら地獄への道を回避できるのか。そこから親鸞、法然の絶対他力による救済が説かれ始める。阿弥陀への信仰のみによって救われる道が唱えられるようになる。


救い主が必要になった!

皆さんもご覧になったことがあるだろう。阿弥陀如来の来迎図。そこには西方浄土から阿弥陀仏が多数の聖衆を引き連れて迎えにくる姿が描かれる。それにしても西方浄土とは面白い。エルサレムは日本から見て西である。そして、この図、キリストの再臨図によく似ている。雲に乗って御使いと共に「やってくる」。いわゆる「お迎えがくる」のだ。頭の後ろにはよく西洋の天使やキリスト像に描かれる後光まで描かれている。これはもう確信犯と言っていい。




ちなみに56億7千万年後に出現する弥勒菩薩により現世楽園(弥勒浄土)を回復するなどキリストの再臨と千年王国を思い起こさせる。もともと弥勒はインドのマイトレイアの漢字の当て字で、これが日本読みでミロクとなった。仏教学の大家、英国人ゴルドンは「インドのマイトレイアは中国のミレフ、これはヘブル語のメシア、ギリシア語のキリストである。」と断言。同氏が高野山に景教碑(景教はシリアからシルクロードを経て中国に伝えられたいわば西周りのキリスト教)を建てている。

また浄土宗の救い主、阿弥陀に関して森山氏は以下のように書いている。

「法華経では、『久遠成就の釈迦が時に阿弥陀となり、時に観音となり、勢至となる』という、応化身を立てたが、これは使徒トマスのインド伝道の結果、龍樹がキリストを改ざんしたもので、久遠実成(永遠の初め)からいました言の神に命と光があった(ヨハネ1:4)を無量寿、無量光(アミターユス、アミダーバー)と呼んだのである。」

阿弥陀は本来歴史的人物ではなく、上記のように「永遠の命」「永遠の光」という概念で、どうやらヨハネ福音書からのパクリのようだ。そして、この龍樹(ナガラージュナ)とう人物が大乗仏教を形作ったといわれる。

さて、かくして大変化を遂げた仏教が日本に入って来たのである。救いを求めて念仏を唱え、浄土行きを確かにするため阿弥陀像の手に糸をつけ、自分の腕に繋げ「お迎え」を待ったのだった。


どうしても残る罪の問題と再生

どうしてもそこに「滅罪」の問題が出てくる。そのままでは地獄に行ってしまう。そこに滅罪や懺悔の思想が出てくる。山岳霊場は、死者の霊魂の行く世界であった。「後になると、他界である山は、同時に地獄であるといわれるようになり、霊魂の滅罪と贖罪の場であるここで、魂が浄化されれば、天上または極楽へ行かれるという信仰を形成してゆくのである。」(「地獄と極楽」P.146

平安時代には仏名会(ぶつみょうえ)を読み、諸仏の名を唱え、年内の罪障(ざいしょう=懺悔)を祓う法会が行われていた。

さらに、生きている間に疑死再生の信仰が生まれる。つまりborn again. 生前中、一旦死んだことにして再生する儀式を「逆修」と称している。一旦死んで、滅罪をすませ、生まれ変わるという観念が儀礼化されている。仏教上では一旦往生してふたたび「再生」するという信仰になった。全国各地の山岳霊場は大なり小なり、そうした山中他界と、その内部に再生のための装置を備えている。福島県安達郡東和町の岩の裂け目をくぐる「胎内くぐり」はその一つ。出て来る時「生まれた!」と叫ぶ。もちろん、それで再生できる根拠は何も無い。

もうおわかりだろうが、日本人の生死観に「罪」、「裁き」、「地獄」、「救い主」、「疑似再生」という概念が浸透していったということだ。世界中の人間には無意識にこういった概念が埋め込まれているのではないだろうか?だから阿弥陀や弥勒といった罪からの救い主が必要になったのだ?


キリストは罪への解決

キリストは必要に迫られてクリエイトされた救い主ではない。その出現は旧約聖書に明確に語られており、(例えば、イザヤは700年も前に救い主の誕生を預言している。)救い主イエスは、約2000年前、人類の歴史(時間と空間)に現れた。単なる概念ではない。ヨハネはこの方を「じっと見、また手でさわった」(Iヨハネ1:1)と証言している。

キリストの購いは完全
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
(ヘブル7:25)

キリストの購いはただ一度
「ほかの大祭司とは違って、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル7:27)

キリストの購いは永遠
「またやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の購いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)


これにより罪の赦しが確実にされた。イエスは過去、現在、未来のすべての罪を購った。

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだものであったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けされました。」(コロサイ2:13−14)

キリストを信じる者は確実に罪赦され、天国に行く事ができる。日本人の求めてきた究極の救いがここにある!

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参考文献

「地獄と極楽」 図解日本仏教の世界#5  集英社

「神道と仏教をただす」  森山諭 著  荻窪栄光教会出版部

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2015年1月2日金曜日

天国は本当にある?




同タイトルの映画が年末、年始上映されている。3歳の子供が臨死体験をし、天国に行って戻って来たという実話に基づいている。熱病で瀕死状態の中、ベッド上では医者や看護婦が忙しく治療にあたっている。子供の魂は肉体を抜け出て天井に上がり、上からベッドを見下ろす。さらに次の部屋に移動して待合室で肩を寄せ合い泣いている両親の姿を見る。その間、苦痛を感じていない。さらには天国で光輝く空間に天使を見、イエス様に出会う。公園では流産した姉にも出会う。後に病気は回復し、日常生活が取り戻される。ある日、その子は、知るはずもない流産した姉の話しを母にする。母は驚愕し、この子の体験を信じざるを得なくなる・・・。

さて、実は、このような臨死体験は世界中にある。ジャーナリストの立花隆氏が、膨大なインタビューや寄せられた体験談をもとに記したのが文藝春秋から1994年に出版された「臨死体験」上下。分厚い本だが、ほとんど体験集なので、読み易い。


臨死体験ではコアな共通事項があるという。

1.この上もない平安。気持ちいい。光に包まれる
2.人生のパノラマを見る
3.闇から光へ出るトンネル体験。きれいな景色。川や花畑 
4.誰かに会う。神、キリスト、死んだ家族など。
5.誰かに呼ばれて(あるいはこっちに来るなと言われ)気がつくと生還している。
6.肉体離脱を伴うことがある。(知覚がはっきりしていて、病室の中と人々の細部を覚えている。壁は透き通って向こうの人が見える。壁を通ってどこにでもいける。世界のどこにも瞬間移動できる。)
7.死が怖くなくなった。

とくに#1は、ほとんど例外が無い。つまりすばらしい体験をして生還している。従って死を恐れなくなる。一体これをどう考えたらいいのか? 大きく2つの説が考えられる。

1.実際に霊体があの世に行って来た。
2.すべて脳の中の幻想

すべてのことは脳の中で起るというのが還元主義。脳も肉体、物質であり、肉体以外の存在、つまり「こころ」や「魂」の存在を否定する。科学者にはこの説を取る人が圧倒的に多いが、肉体と別に「こころ」や「魂」があるとする二元論者もいることはいる。還元主義の場合、こういう説明になる。臨死状態で脳に酸素が少なくなり、それに反比例してエンドルフィン(脳内モルヒネ)が放出される。それで気持ちよくなり、幻想を見る。そこまではいい。しかし、生体にエンドルフィンを注入して同じ実験をしても、上記のコア体験は現れないという。また、モルヒネや他のドラッグでは平安どころか、ベッドに虫が這いずり回っているなど怖い体験すらする。なぜ、臨死の時だけコア体験があるのか? また肉体離脱して本人には絶対に見えないはずの病室の詳細や会話を再現してみせるケースもある。頭の中だけの幻想ではあり得ない。

かと言って、魂が実際、あの世を行って来たとするにも矛盾がある。なぜならコアの要素はあっても、その解釈が文化によって変わるからだ。例えば、あの世で光を見ると、欧米では「神」となり、日本では単なる「光」であり、人物に会うと欧米ではキリストであり、インドでは圧倒的にヤムラージ(生前の行状により天国行きか地獄行きを決める裁き主。もうおわかりのようにこの漢訳が閻魔であり、日本のエンマ大王となった。)に出会うことが多い。子供の場合、死んだ人でなく、生きている人や家のペットに出会ってくるケースも多く、こうなると脳の記憶の業に軍配が上がる。

臨死体験にはいい面もある。臨死体験した人の多くは神や霊の存在を(もともと宗教熱心でなくても)信じるようになり、他人を助けたい気持ちが増加する。無神論者が牧師になったケースもある。また、死を恐れなくなる。ヒーリングや透視など、超能力が身に付く人もいる。それをキリストなしに天国へ行けるサタンの惑わしとして退けることもできるだろう。しかし、よい方向に人生が変えられているのはどう評価したらいいのか。

1982年米国でのギャッラプ調査では、臨死にある人の3割が異常体験をした。その内訳は、

1.体外離脱  26%
2.はっきりとした視覚体験  23%
3.苦痛は消え、このうえない安らかな気持ちだった  32%
4.人生のパノラマを見た  32%
5.別世界に足を踏み入れた  32%
6.別の存在(死んだ人など)に出会った 23%

で、それが脳内現象か魂の離脱かは別として、そのような「体験」があることは否定できない。

果たしてこれはキリスト以外にも救いの道があると人を迷わすサタンの仕業か?恵み深い神が神体験をさせているのか?いずれにしても全く宗教的でない人がこのような体験を通して「神」「天国」「霊」を信じるようになる。神の憐れみとも言えなくない。


聖書は何と言っているのだろうか?主イエスはこう言われた。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいも、からだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(ルカ10:28)

パウロはこう語る。
「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願するところは、主に喜ばれることです。」(IIコリント5:8−9)

これを見ると、肉体を離れた魂が存在することが分かる。パウロは肉体を離れて主と共にいる状態のほうがいいとさえ言っている。また、パウロは肉体離脱ともいうべき体験もしている。

「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は14年前に、肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存知です。第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存知です。パラダイスに引き上げられ人間には語る事を許されていない、口に出す事のできないことばを聞いた事を知っています。」(IIコリント12:2−4)

さらにパウロは
「また天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており・・・死者の復活も同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ・・血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(I
コリント15:40−44)

つまり、地上の生涯が終わり、この地上の肉体から魂は離脱するが、霊のままではなく、天上のからだ、すなわち御霊のからだによみがえると約束されているわけだ。そしてそれは地上のからだとは違うので、復活のイエスがしたように壁を通り抜けたり、瞬間移動したりできるのかも知れない。今だに宇宙の96%は未知の物質とエネルギーで満ちている。物理学者が異次元はあると話している。既存の物質と違う物質で造られた体を持つことも可能だろう。

「天国は本当にある」の映画で一番励まされたのは、主人公の少年が「天国ではメガネしてる人なんていないよ」といい、若い時の姿のおじいちゃんに会ってきたことだ。そこにはもう病も老いも無い。地上の体は老いて朽ちてゆく。しかし、天国は永遠で時間がないので、エントロピーも働かない。つまり老いが無いのだ。教会の兄弟姉妹たちとシミもシワもないパーフェクトな若い姿で再会できるのだ。ああ楽しみ!

普段、天国へ行く事は分かっていても、あまり意識をしていないのではないだろうか。しかし、キリスト者はもっと、これから永遠に過ごす天国のことを意識すべきだろう。宇宙の歴史が137億年と言われる。その中で私たちの地上の生活はほんの80年ほど。しかし、終わりではない。それは「始まり」なのだ。死は肉体からの離脱であり、魂がすでに主と共にある限り実は「死」はもう存在していない。魂が移動するに過ぎない。しかも、もっとすばらしい所へ。

臨死体験をした人が手術中の苦痛の真っ最中に、このうえない平安を感じたという多くの証言がある。迫害に直面するかも知れない我々には励ましとなる。死ぬ時には苦痛を感じる前に神が魂を脱出させてくださるのかも知れない。

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