「聖書と戦争」(ピーター クレイギ著 すぐ書房)という題の本をブックオフで見つけて早速読んでみた。この関連の本は以外と少ない。
1.「神の国」は民族国家ではないので、国家領土拡大や防衛の戦争は必要ない。
2.イエスの十字架上の例から「暴力は暴力によっては制せられず」を学べる。むしろ、暴力への「服従」や「敗戦」を通して平和が勝利してゆく。
3.旧約聖書はユダヤ民族を扱っており、特殊な文化、民族を限定しており、それをそのまま普遍化できない。十字架以降の新約は「新しい契約」であり全世界に向けている。
4.従って、旧約を引用して現代の戦争を正当化することはできない。現代、いわゆる「聖戦」はない。
5.神のみが命を与え、奪う権利を持っている。この神の命令によってのみ戦争での殺
人がありうる。現代の戦争では神が直接命令しているのではないので、正当性はない。そして、旧約の非侵略の民は堕落しており、もともと神のさばきを受けるべきだった。それをイスラエルの軍を用いて神がさばきを為したと考えられる。いずれにしても限定的、特殊な状況であった。
6.当時のメソポタミア文化の中で、侵略戦争(暴力で領土を広める)はあたりまえで、
神が歴史に介入するために、戦争という状況を用いのは自然であった。それは神の顕現、啓示の手段であった。
7.預言者たちが語った、やがて来るべき「神の国」での神の平和が完全に支配する姿
をビジョンとして持ちつつ、現実の世界で平和の概念を具体化する努力が必要。だから、現実が暗ければ暗いほど、崇高な理念を掲げることは必要なのだ。
8.ただし、現在、我々クリスチャンは「神の国」に属し、また自らの「国家」に属している。国家であれば戦争の動機や能力を潜在的に持っている。この2重国籍問題は簡単に解決できない。
著者自身が認めているように、8番の矛盾を克服できていない。結局、パシフィスト(絶対平和主義、絶対非戦)にならない限り、一貫性を貫くことは難しい。されど、自国が侵略された時、何もしないで指をくわえているのかという問題が残る。今日、侵略戦争は許されない。それは国連の国際法にもある。しかし、「イスラム国」のようなテロはどうするのか?攻撃しなければ、女性や子供達への無惨な虐殺が継続してしまう。これを止める事は正義なのか、それともやはり人殺し(殺意を持った殺人は罪)なのか?例えば、イスラム国のテロリストがエボラ熱に意図的にかかり、ニューヨークで感染を広め、それをジハード(自爆テロ)とする場合、彼を見つけ次第、殺す事は正義か?多数の命を助けるためには一人の犠牲はやむを得ないのか?殺人はやはり、殺人なのか? どうも、まだまだ、議論の余地がある。
クリスチャンの戦争論は多くはないが、一応書かれたものはある。しかし、今、知りたいのはクリスチャンの「国防論」なのだ。そして、国防は専守防衛だけで十分なのか?ということ。北朝鮮からミサイルが発射されれば10数分で日本に着地する。打たれてからでは遅すぎないか?かといって、先にミサイル基地を攻撃すれば宣戦布告となってしまう。サイバーテロはどう防ぐのか?サイバー攻撃でライフラインやエネルギー、さらに軍備まで被害が及ぶことがあり得る。各国との連携で協力体制が必要だろう。それは集団的自衛権ではないのか? 聖書的に国防をどう考えるのか是非、専門家の方々に煮詰めてもらいたい議論である。
戦後70年。太平洋戦争で長崎、広島に原爆が落とされた問題の是非が問われている。自国と敵国では全く意識が変わってくる。アメリカでは現在も大部分が抵抗を続ける日本との戦争を早く終わらせるために必要だったという意見が多いという。それにより米兵200万の命を救ったというヒーロー宣言もある。実際、爆弾を投下した兵士は「ちゃんと爆発した、神よ感謝です!」と言ったとか。確かに一億玉砕と玉砕を覚悟で本土決戦を望んでいた人達もいたので、一日も早く敗戦宣言をすべきだったのだろう。日本の指導部の決断の判断が問われよう。それはそれとして、原爆投下が一般住民に対する無差別大虐殺、(アウシュビッツ同様、東京裁判のB級犯罪に相当する)であったことも事実である。なぜ敗戦が明確だったあのタイミングで投下したのか?しかも、長崎には、プルトニウム型爆弾、広島はウラン型爆弾と違うタイプのものを使用。広島の3日後に長崎。日本を降伏させるのに、たて続けにあれほど残虐な被害が2回必要だったのか?あれは人体実験だったのではないだろうか?長崎での即死者は7万人、その後、放射能被害で7万人が亡くなった。もちろん戦勝国のアメリカは、東京裁判で自国の罪は棚上げした。それに対して謝罪は一度もない。キリスト教の国が何故?という疑問は多くの日本人が抱いており、入信にブレーキをかけている部分もあるのではないか?
「イスラム国」の論理も「聖戦」「聖絶」である。アラーのみが正しく、アラーを拝まない民は抹殺してもよい。アメリカもイスラム国も旧約聖書の聖戦を現代にあてはめてしまった。ピーター・クレイグはこのような旧約聖書の解釈を許してしまったクリスチャン側にも責任があるのではと問うている。それで、早急にまず神学校での再教育の必要を訴えている。
先日、雑司ヶ谷にある宣教師館を訪ねた。明治40年(1907年)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの住宅として建てたもので豊島区内に現存する最も古い近代木造洋風建築である。資料の中に興味深い記事があった。アメリカ独立記念日のパーティに参加しなかったマッケーレブと大使館の人との会話。「国の義務には鉄砲を持つ事が含まれますか?」とマッケーレブが質問。大使は、「そうだ。」と答えた。宣教師マッケーレブはこう言った。「鉄砲を持つ事が国の義務なら、私は国を守れません。なぜならキリスト者は人を殺さないからです。」彼は「我らの国籍は天にあり」を掲げ、神の国を優先した。つまりピーター・クレイギの言う2重国籍に優先順位をつけた訳だ。太平洋戦争末期、国を守るはずの日本軍は沖縄の民を見捨てた。
イエスはこう言われた。
「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけてあわてないようにしなさい。これらは必ず起ることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起ります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。(その時、「助けます」と言っていない。銃を取って「戦え」とも言ってない。単純に殺されるであろうと事実を述べている。)また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われます。」(マタ23:9−13)
ここでは敵と「戦え」ではなく、「耐え忍べ」と語られている。しかし、それは妥協して屈することとは違う。「無抵抗」による「非戦・非暴力」という強烈なメッセージを放つことでもある。
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