同タイトルの映画が年末、年始上映されている。3歳の子供が臨死体験をし、天国に行って戻って来たという実話に基づいている。熱病で瀕死状態の中、ベッド上では医者や看護婦が忙しく治療にあたっている。子供の魂は肉体を抜け出て天井に上がり、上からベッドを見下ろす。さらに次の部屋に移動して待合室で肩を寄せ合い泣いている両親の姿を見る。その間、苦痛を感じていない。さらには天国で光輝く空間に天使を見、イエス様に出会う。公園では流産した姉にも出会う。後に病気は回復し、日常生活が取り戻される。ある日、その子は、知るはずもない流産した姉の話しを母にする。母は驚愕し、この子の体験を信じざるを得なくなる・・・。
さて、実は、このような臨死体験は世界中にある。ジャーナリストの立花隆氏が、膨大なインタビューや寄せられた体験談をもとに記したのが文藝春秋から1994年に出版された「臨死体験」上下。分厚い本だが、ほとんど体験集なので、読み易い。
臨死体験ではコアな共通事項があるという。
1.この上もない平安。気持ちいい。光に包まれる
2.人生のパノラマを見る
3.闇から光へ出るトンネル体験。きれいな景色。川や花畑
4.誰かに会う。神、キリスト、死んだ家族など。
5.誰かに呼ばれて(あるいはこっちに来るなと言われ)気がつくと生還している。
6.肉体離脱を伴うことがある。(知覚がはっきりしていて、病室の中と人々の細部を覚えている。壁は透き通って向こうの人が見える。壁を通ってどこにでもいける。世界のどこにも瞬間移動できる。)
7.死が怖くなくなった。
とくに#1は、ほとんど例外が無い。つまりすばらしい体験をして生還している。従って死を恐れなくなる。一体これをどう考えたらいいのか? 大きく2つの説が考えられる。
1.実際に霊体があの世に行って来た。
2.すべて脳の中の幻想
すべてのことは脳の中で起るというのが還元主義。脳も肉体、物質であり、肉体以外の存在、つまり「こころ」や「魂」の存在を否定する。科学者にはこの説を取る人が圧倒的に多いが、肉体と別に「こころ」や「魂」があるとする二元論者もいることはいる。還元主義の場合、こういう説明になる。臨死状態で脳に酸素が少なくなり、それに反比例してエンドルフィン(脳内モルヒネ)が放出される。それで気持ちよくなり、幻想を見る。そこまではいい。しかし、生体にエンドルフィンを注入して同じ実験をしても、上記のコア体験は現れないという。また、モルヒネや他のドラッグでは平安どころか、ベッドに虫が這いずり回っているなど怖い体験すらする。なぜ、臨死の時だけコア体験があるのか? また肉体離脱して本人には絶対に見えないはずの病室の詳細や会話を再現してみせるケースもある。頭の中だけの幻想ではあり得ない。
かと言って、魂が実際、あの世を行って来たとするにも矛盾がある。なぜならコアの要素はあっても、その解釈が文化によって変わるからだ。例えば、あの世で光を見ると、欧米では「神」となり、日本では単なる「光」であり、人物に会うと欧米ではキリストであり、インドでは圧倒的にヤムラージ(生前の行状により天国行きか地獄行きを決める裁き主。もうおわかりのようにこの漢訳が閻魔であり、日本のエンマ大王となった。)に出会うことが多い。子供の場合、死んだ人でなく、生きている人や家のペットに出会ってくるケースも多く、こうなると脳の記憶の業に軍配が上がる。
臨死体験にはいい面もある。臨死体験した人の多くは神や霊の存在を(もともと宗教熱心でなくても)信じるようになり、他人を助けたい気持ちが増加する。無神論者が牧師になったケースもある。また、死を恐れなくなる。ヒーリングや透視など、超能力が身に付く人もいる。それをキリストなしに天国へ行けるサタンの惑わしとして退けることもできるだろう。しかし、よい方向に人生が変えられているのはどう評価したらいいのか。
1982年米国でのギャッラプ調査では、臨死にある人の3割が異常体験をした。その内訳は、
1.体外離脱 26%
2.はっきりとした視覚体験 23%
3.苦痛は消え、このうえない安らかな気持ちだった 32%
4.人生のパノラマを見た 32%
5.別世界に足を踏み入れた 32%
6.別の存在(死んだ人など)に出会った 23%
で、それが脳内現象か魂の離脱かは別として、そのような「体験」があることは否定できない。
果たしてこれはキリスト以外にも救いの道があると人を迷わすサタンの仕業か?恵み深い神が神体験をさせているのか?いずれにしても全く宗教的でない人がこのような体験を通して「神」「天国」「霊」を信じるようになる。神の憐れみとも言えなくない。
聖書は何と言っているのだろうか?主イエスはこう言われた。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいも、からだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(ルカ10:28)
パウロはこう語る。
「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願するところは、主に喜ばれることです。」(IIコリント5:8−9)
これを見ると、肉体を離れた魂が存在することが分かる。パウロは肉体を離れて主と共にいる状態のほうがいいとさえ言っている。また、パウロは肉体離脱ともいうべき体験もしている。
「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は14年前に、肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存知です。第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存知です。パラダイスに引き上げられ人間には語る事を許されていない、口に出す事のできないことばを聞いた事を知っています。」(IIコリント12:2−4)
さらにパウロは
「また天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており・・・死者の復活も同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ・・血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(I
コリント15:40−44)
つまり、地上の生涯が終わり、この地上の肉体から魂は離脱するが、霊のままではなく、天上のからだ、すなわち御霊のからだによみがえると約束されているわけだ。そしてそれは地上のからだとは違うので、復活のイエスがしたように壁を通り抜けたり、瞬間移動したりできるのかも知れない。今だに宇宙の96%は未知の物質とエネルギーで満ちている。物理学者が異次元はあると話している。既存の物質と違う物質で造られた体を持つことも可能だろう。
「天国は本当にある」の映画で一番励まされたのは、主人公の少年が「天国ではメガネしてる人なんていないよ」といい、若い時の姿のおじいちゃんに会ってきたことだ。そこにはもう病も老いも無い。地上の体は老いて朽ちてゆく。しかし、天国は永遠で時間がないので、エントロピーも働かない。つまり老いが無いのだ。教会の兄弟姉妹たちとシミもシワもないパーフェクトな若い姿で再会できるのだ。ああ楽しみ!
普段、天国へ行く事は分かっていても、あまり意識をしていないのではないだろうか。しかし、キリスト者はもっと、これから永遠に過ごす天国のことを意識すべきだろう。宇宙の歴史が137億年と言われる。その中で私たちの地上の生活はほんの80年ほど。しかし、終わりではない。それは「始まり」なのだ。死は肉体からの離脱であり、魂がすでに主と共にある限り実は「死」はもう存在していない。魂が移動するに過ぎない。しかも、もっとすばらしい所へ。
臨死体験をした人が手術中の苦痛の真っ最中に、このうえない平安を感じたという多くの証言がある。迫害に直面するかも知れない我々には励ましとなる。死ぬ時には苦痛を感じる前に神が魂を脱出させてくださるのかも知れない。
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)
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