「イースター礼拝には教会は空っぽ、お墓も空っぽ。」とあるフェイスブック投稿があった。「お墓が空っぽ」はグッドニュースだが、「教会堂が空っぽ」はどうなのだろうか。今回のコロナウイルス問題ではメガチャーチほど被害を被っているのでは・・しかし、そもそも教会は人を集めることが目的なんだろうか?毎週、大人数を集めて礼拝をする必要があるのだろうか?
この状況下、多くの教会がインターネット礼拝に切り替えている。しかし、高齢者の多い教会では礼拝自体を休止しているところもある。「教会=日曜礼拝」という図式であれば、今回の問題で多くの「教会」が無くなっているということになる。
コロナウイルスが全世界的に広がる中、教会とはそもそも何なんだろう?クリスチャンとして歩むとは何なんだろうと考えさせられている。今回の試練は何なのだろうか? 思い巡らしてみて下さい。
神は全世界の教会に変革を願っているのだろうか?
メガチャーチからマイクロチャーチへ
メガチャーチの本拠地であるアメリカでもここ数年、マイクロチャーチへの関心が深まってきていた。つまり本来の教会への復帰運動である。エクレシア=「神が召した人の集まり、キリスト中心のコミュニティ」という考えである。組織的、制度的教会に対してオーガニックチャーチと呼ぶこともある。1世紀の教会は家々で集まっていた。ということは1つの家の教会に数名から多くて15人だろう。
エクレシアは無くならない
私達TMCエクレシアでは、顔と顔とを合わせる至近距離での「キリスト中心のコミュニティ作り」を目指してきた。カフェやレストランで数名が集い、近況を分かち合い、人生を分かち合い、分かち合い方式のバイブルスタディ、そして祈祷課題を聞いてお互いのために祈る。シンプルかつ「深み」に行く交わりを求めてきた。今は外出自粛要請で現場で会うことができない。そこでメッセンジャービデオ通話やzoomを使って行うことにした。いつものメンバーがいつものことをやっている。コミュニケーションのツールは変われど、「教会=エクレシア」のあり方が根本的に変わることはない。通常営業だ。今更、思うがこれって凄い事ではないだろうか。エクレシアは無くならない!
そう、キリスト中心の人の集まりなので、場所さえ特定する必要もない。先日の休日に普段、青山で集っているメンバーが日比谷のカフェで集まり、近況の分かち合い、バイブルスタディ、祈り合い。ランチを共にしてから、いい天気だったので、皇居の周りを散策した。「エクレシア」はそこにある!
メガチャーチより弟子作り
人が多く集まるようになれば、組織化する。組織となれば管理が必要になる。お金も必要になる。だから、1000人教会を作るより、10人が集う教会を100作った方が良くはないか?カリスマ牧師に従う1000人より、10人の牧会的リーダーがいた方がいい。時間とお金を組織運営に使うより、弟子を育てることに使った方がいい。
考えてみれば、イエスはメガチャーチを作らなかった。五千人の給食の後、人々はイエスを王にしようと無理やり連れて行こうとした。(ヨハネ6:15)そのままパンの奇跡を継続していれば5000人のメガチャーチはすぐできただろう。しかし、イエスはパンの奇跡に頼らなかった。石をパンに変える物質的祝福に頼るのではなく、神の口から出る一つ、一つのことばによって生きる弟子を育てることを選んだのだ。
アンテオケ教会はパウロやバルナバという逸材を抱えないで宣教のため送り出した。パウロはメガチャーチを作らなかった。エペソのツラノの会堂で2年間(パウロにしては長期)主の言葉を伝えた。エペソはアジア宣教のセンターとなった。(使徒19:9−10)しかし、パウロは、そこにとどまらずマケドニアに向けて出発している。のちにエペソ教会は弟子のテモテに任せている。自分がメガチャーチのヒーローになるよりHero makerとしてテモテというヒーローを育てたのだ。
イエスもパウロも弟子を育てた
イエスの弟子は12人。彼らが世界宣教に出て行った。コアの弟子はペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人。イエスの神性が現れた変貌山にはこの三人だけを連れて行っている。弟子を育てる環境は少人数のコミュニティ。パウロの弟子の代表格はテモテとテトス。テモテはエペソの教会に、テトスはクレテ島の教会の伝道、牧会に遣わされた。たくさんの人に福音を伝えた。しかし、「わが子よ」と呼びかけられる弟子は数名だったろう。それでいい。一生の間に直接、関われる弟子はそんなに多くない。多い筈がない。1000人教会の1000人の信徒に同じく関わることは不可能だ。
主に聞いてみよう。主はあなたに誰に関われと言われているだろうか?
イエスもパウロも「神の国」の福音を宣べ伝えた
結局は大宣教命令。そしてそれは、伝道と弟子訓練。ゲームのルールを変える時だ。何人プログラムに集まっているかではなく、何人の弟子が育っているか。
ところで、私が観察するに3種類のクリスチャンがいる。1から3へレベルアップし献身度が深まる。
1. クリスマス・クリスチャン:自分のための救い主がお生まれになった。
自分の人生をベターにするためのキリスト教。「あなたは愛されてます!」的なメッセージで信仰に入る。自分のための救い主ではあるが、救い主のための自分ではない。入り口はそこでもいいが、そこに止まっていてはならない。
2. イースター・クリスチャン:十字架だけではなく、復活信仰に立つ。
聖霊に満たされ、積極的に奉仕をしている。でも救いはまだ個人的出来事。福音理解が部分的。「死んだら天国」の確信はあっても、神の贖いのドラマの全体像を見ていない。
3. 黙示録クリスチャン:神の贖いのドラマの全体像:創世記から黙示録から被造物全体の救いを見ている。今がどんな時か、これからどうなるのかを理解している。個人的終末、世界の終末の聖書的知識。何より主の再臨を待ち望んでいる。千年王国、新天新地を待ち望んでいる。これは、パウロが賞賛したテサロニケの教会に見られる。(Iテサロニケ1:7、9−10)
イエスもパウロも「神の国」の福音を宣べ伝えた。聖書のテーマは神がもたらす「神の国」。具体的には地上に実現する「千年王国」、そして最終的な新天新地。この視野に立って「今を生きる」弟子を育てる必要がある。ある意味、この「トンデモ話」を真剣に信じているなら「本物」と言える。「携挙」「キリストの地上再臨」「千年王国」などはノンクリスチャンから見れば「トンデモ話」でしかないだろう。しかし、そもそもキリスト教は「キリストの復活」というトンデモ話に基づいている。復活がなければクリスチャンの信仰の中身は無いのだ。(Iコリント15:13—19)だからキリストの復活が本当なら、聖書のすべてのトンデモ話は本当になる。単なるヒューマニズムは吹き飛んでしまう。リベラル神学は役に立たない。クリスマス・クリスチャンは迫害があると屈してしまうかもしれない。クリスチャンとしてこの時代を生き抜くには歴史の支配者をしっかり認識した「黙示録クリスチャン」の視野と信仰が必要なのである。時(カイロス=決定的な瞬間=携挙)が近づいているのである。(黙示1:3)
自分の心に聞いてください。私はキリストの来臨と「神の国」の到来を待ち望んでいるだろうか?
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
Japantmc@gmail.com
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