「死んだら天国に行く」は聖書的か?
「死んだら天国に行く」と聖書にストレートに書かれている箇所が無い!と聞いたらびっくりするだろう。だって「私たちの国籍は天にある」と書いてあるでしょ?と反論する人がいるかも知れない。しかし、この箇所は「国籍」の話で、「天国に行く」と言っている箇所ではない。この箇所全体を読んでみよう。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3:20)
私たちが天国に「行く」というより、キリストが天から「来られる」というのがここのポイントだ。そもそも御国=天国ではない。御国はギリシア語でバレイシア、英語ではKingdom、つまり「王国」であり、むしろ政治的な概念だ。
NTライトが「驚くべき希望」で明確に説明してくれている通りだ。
しかし、新約聖書における「天」という言い回しは、そのようなものではない。イエスの説教の中に出てくる「神の王国」は、死後の運命や、この世から逃げ出して別世界に行くことを指すのではない。「天になるごとく地にも」もたらされる神の主権による支配について語っているのだ。この誤解の根は非常に深く、特にキリスト教の考え全体に影響を与えてきたプラトン主義の名残にまで至る。人々はプラトン主義の影響により、キリスト者は今ある世界や今ある体には価値がないと考え、それらを古びたもの恥ずべきものとみなしていると誤解するようになった。(P55)
私達は第1世紀の異端、グノーシス主義の霊肉二元論を批判するが、ライトが言うように現在のキリスト教の中にも多分に物質、肉体軽視のプラトン的な要素が入ってきていると思われる。
御国=天国ではない!
ちなみに旧約聖書は「地上的」であり、死後や「天国」についてほとんど無関心と思われるほどだ。「死んだら天国に行けるのだから今は我慢しよう」的な発想がほとんどない。むしろ、「祝福」も「呪い」もこの地上で決着がつく。神がこの世界を良きものとして創造したのであり、この世界で神と共に生き、食事をし、宴会をし、結婚をし、性を楽しみ、子供を産み、家族を楽しみ、仕事をし、生涯を全うしてゆく。それが旧約聖書だ。その世界観を土台に新約聖書があることを忘れてはならない。
この意味でメシア王国=千年王国が「この地上」に実現することが極めて重要なのだ。それこそがプラトン的ではなく、聖書的な事なのだ。「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)とバプテスマのヨハネが説教した時に、これを死んでから行く「天国」と理解した人はいなかっただろう。御国=Kingdomとは神の支配が及ぶところであり、彼らはそれを、この地上に期待していた。つまり、彼らが期待していたのはメシアが治める地上の王国だったのだ。(使徒1:6)
「行く」より「来る」
聖書には、天国に「行く」という記述が少ないのとは逆に、「来る」という表現が多い。キリストが「来る」、御国が「来る」など。「天国に行く」より、キリストが再び「来られる」という記述の方が圧倒的に多い。また御国に「行く」という表現がされていない。むしろ「御国」を「受け継ぐ」(まるで不動産を相続するときの用語のように)という表現になっていることにも注目。天国に「行く」ことがそんなに重要なら、なぜ主の祈りは「御国に行かせて下さい」ではないのだろうか。むしろ、ベクトルは逆だ。「御国を来らせて下さい。御心が天でなるごとく、地でもなさせたまえ」が祈るべきことなのだ。私達の魂だけが天国に「行く」ことが目標なら、なぜイエスは天で待っていないで、再び地上に「来られる」のか?旧約的世界観からは、失われたエデンの園は、この地に回復されなければならない。
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 (エペソ1:21)
さらに、ここでは天から「来る」というより、御国は、未来から「来る」。「天地」という「上下」のベクトルより、また「あの世」、「この世」というベクトルより、「今の世」と「次に来る世」というリニアルな時間軸なのだ。それが聖書の歴史観。だから終末の出来事を「時系列的」に理解することは大事なのだ。この地上に「次の世」(メシア王国)が来るのだ。パラダイスは、そこに行くための一時的な宿泊所だ。私達が地上に戻ってくるとしたら、あなたの信仰や希望は大きく変わるのではないだろうか?
死んだらパラダイスに行く
多分「死んだら天国に行く」の表現に一番近いのが、十字架でイエスご自身が隣の罪人に語った言葉だろう。
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)
だから正確には「天国に行く」ではなく、「パラダイスに行く」と言うべきだろう。「天の御国」は神の支配のことで、地上での「王国」も指すので、必ずしも「天国」ではないからだ。
「パラダイス」は語源的には「囲まれた庭園」といった意味でエデンの園に言及されることも多い。何れにしても「雲の上でふわふわ」ではなく、「公園」「庭園」と言うイメージで、苦痛のない「休息の場」であることは間違いない。ただし一時的な休息の場所であり、これで終わりではない。パラダイスに対比されるのが「ハデス」であり、一時的な「苦しみの場所」となる。黙示録20章11節からの「白い御座の裁き」には「ハデス」から出頭した罪人たち(黙示録20:13)が最終的な審判を受け、「火の池」(ゲヘナと表現されることもある)に投げ込まれる。(黙示20:15)これが最終的な「苦しみの場」となる。ちなみに、ハデス自体も火の池に投げ込まれるので、これが一時的なものであることが分かる。(黙示20:14)
新天新地に入るまで
一方、パラダイスも最終の場ではない。多くのクリスチャンが死んだら「天国(パラダイス)」に行き、そこで永遠にイエス様と共に過ごすと思っているが、そうではない!
パラダイスには「魂」が行く。地上に残された肉体はお墓に入る。人はもともと体と内側のもの(霊、魂)で、出来ている。(創世記2:7)従って魂だけの状態は不自然な状態だ。パウロははっきり「裸のままではありません」と宣言した。(IIコリント5:1−3)携挙の時に、すでに死んでいる信者は「朽ちない体」に蘇る。地上に残っている信者は一瞬にして「朽ちない体」に変えられ、一緒に引き上げられ空中でイエスと会うことになる。(Iテサロニケ4:15−17、Iコリント15:51−52)体を取り戻すのだ。しかも「朽ちない」体を!
その後、天でのキリストの婚姻に参与し、(黙示19:6−8)キリストの地上再臨にお供する。(黙示19:14)この「軍勢」は言語では複数形であり、「御使」の軍勢と「聖徒」の軍勢を指すものと思われる。それから千年王国でキリストと共に地上で「王」として治める。(黙示20:6) つまり、「体」を頂いて、地上に戻ってくるということだ。ここまで理解しているクリスチャンが少ないように思われる。ただし、あるクリスチャン達は「千年王国」をすっ飛ばして「新天新地」を更新された地球と考え、今の世との連続性を唱える。黙示録の字義的解釈、時系列的解釈に立つ人たちは、「地も天もあとかたも無くなった」(黙示20:11)を字義通り取るので、21章の新天新地は「この地上」ではない、「永遠の秩序」と理解する。いずれの立場を取ったとしても、主の再臨後、戻ってくるのは、この「地上」である。
「千年王国」の後、「白い御座の裁き」には出頭せず、(黙示20:6)新天新地に入る。(黙示21−22章)ここが最終の「休息の場」であり、ここでは呪われるものは何もなく、キリストは裁き主・王ではなく、「子羊」に戻る。我々は、そこで神の御顔を仰ぎ見る。(黙示22:3−4)ハレルヤ!
このように聖書が語るところによれば、「死んだら天国」という単純な事ではないことがよく分かる。
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執筆者:栗原一芳