2023年12月28日木曜日

未来都市のエクレシア

 

従来型のチャーチプランティング

70〜80年代の関東での福音自由教会の開拓が典型的だろう。人口が増えつつあった京浜東北線沿線に開拓伝道していった。ある場合は、その地域に、若い夫婦が増えるのを予測して先取りして教会を建てて宣教した。これが功を奏して、どんどんと教会が増えていった。地域の若い夫婦や高校生などが教会に集っていた。

 

このように、地域に根ざし、地域に住んでいる人たちと知り合いになり、彼らに伝道し、教会につなげていった。これが従来型チャーチプランティングの「王道」だった。これは今でも郊外の市町村においては有効だろう。

 

様々な変化の中で・・

しかし、状況はいつまでも同じではない。かつては都心の周りに住宅地が広がった。いわゆる「ドーナツ化現象」である。多摩ニュータウンなどがその例だ。時代は一周りして、かつての若い夫婦は老夫婦(あるいは独居老人)となり、その子供達は、都心に出てゆき、都心に住み始める。「逆ドーナッツ化現象」が起こった。かつての大集合住宅は建物も住んでいる人も老朽化してきている。戦後の若い家族のニーズに応えた新宿区の巨大アパート群の戸山団地なども、建物自体の老朽化と共に、今は独居老人が多く、限界集落化している。

 

今日、都心で一人暮らししている30代、40代が増えている。独身層が増えている中で、少子高齢化はどんどん進む。これらの年代はインターネット世代で、テレビや固定電話を持たない人も多い。多種多様な職業とライフスタイルを持っている。そういう中で、「日曜の朝10時」の礼拝しか選択肢がない教会は、多くの都市型の人々を排除してしまう結果になる。

 

ここ数年のコロナの状況下で、「教会生活」も大きくチャレンジされ、変化した。インターネット世代はインターネットでの礼拝(他教会の礼拝メッセージを聞くことも含め)を体験してしまった。ある意味、パンドラの箱を開けてしまった訳で、もう一昔前に戻ることはできない。次のステージに前進してゆくしかない。

 

そもそもエクレシアとは・・

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのも ので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

大事なのは、「本来、教会とは何なのか?」を聖書的に確認することだ。教会と訳される「エクレシア」というギリシア語が建物に言及している箇所はない。また、エクレシアは「教える会」でもない。上記の御言葉が語る通り、エクレシアは「キリストのからだ」、すなわち生きた有機体(オーガニック)なのであり、かつ、「キリストの充満」なのである。・・・日本語訳では「・・・ところ」となっているが英語では単にFullness of Christなのであり、本来「充満」と訳すべきなのだ。つまり、エクレシアは「建物」にも「場所」にもこだわらない。

また、エクレシアは「聖徒として召された人々」のことであると書かれている。(コリント1:2)

 

ところが会堂が建てられ、人数が増え、大きくなると組織となり、制度化されていく。管理が必要となり、資金が必要となり、この世の組織のようになってゆく。80〜90年代には「大きいことはいいとだ」とばかりにメガチャーチブームとなった。メガチャーチの牧師はスーパーヒーローになりもてはやされた。中東ではブドウの木は地面を這って横に広がっていく。本来、エクレシア(キリストの体)は、そのように水平に広がる。しかし、「大きく」「高く」と上を目指す巨大化した「教会」は、その本質を失っていく。命を失い「宗教」となって制度化されていく。ビジネス的手法や、成功主義や覇権主義が入り込む。カリスマ牧師たちのスキャンダルも暴露されるようになる。そんな中で、組織的教会に疑問を持つ人々が、本来のエクレシアを求め、オーガニックチャーチを推進するようになった。

 

未来都市のエクレシア

日本の福音派は80年代、90年代にピークを迎えた。80年代にはJEA(日本福音同盟)から「羽ばたく日本の福音派」という本まで出た。「あの頃に戻りたい」と願っても、時代は遡れない。前述したように「状況」が変わってしまっている。そして、今日、東京基督教大学が出したデータで、日本の福音派は「停滞」ではなく「衰退」期に入っていると評価された。

 

戻れないなら、前を向く話をしよう。日本では東京一極化ということが言われて久しい。世界的も急速に都市化が進んでいる。2025年に、世界人口は81.9億人となり、都市人口は58.3%となる。2050年には都市人口は97.7億人となり、都市人口は68.4%となる。都市化、デジタル化、キャッシュレス化は避けられないだろう。日本でもスマートシティが実験段階に入っており、都市の一括電化、デジタル管理化が実現する。都心のライフスタイルは多種多様。都心で働く人を一箇所に一定時間拘束する形での「教会」のあり方が有効的だろうか?巨額の資金を投入して土地を購入し会堂を建てるやり方が有効だろうか?特に注目すべきは中東だ。すでにドバイやカタールで近未来都市が出現している。(写真はサウジアラビアが計画する未来都市)こんな所で、いつまで教会は、三角屋根に十字架をやるんだろうか?

 


世界が都市化する中で、都心でのエクレシアのあり方を考えることが未来につながる。TMCエクレシアは都心でキリストの体が、どう表現されるのかを模索してきた。コロナ前、丸の内、池袋、秋葉原、青山、赤坂で「顔を合わせて」スモールグループで集まっていた。コロナとなり、一度、すべてがzoomに移行した。しかし、そのお陰でメンバーを失わず継続できた。コロナ後、池袋と青山だけが対面に戻り、あとはzoomのまま残っている。実はメンバーの他県への移動など、いろいろな事情で現地集合が難しくなってしまったグループもあるが、zoomのお陰で継続できている。もちろん、実際に顔を合わせるメリットはあるのだが、自宅にいながら参加できるzoomのメリットも、忙しい現代人には大いにメリットがある。

 

興味深いのは、TMCエクレシアは、以前から「建物」にこだわらないスタイルだったが、今度は「場所」にもこだわらないで継続している。「赤坂エクレシア」と以前の名前は付いているものの、メンバーの一人は軽井沢からzoomで参加している。他のメンバーは2拠点生活になり、仙台から参加することもあった。つまり、もう「赤坂」でさえない。しかし、エクレシアは続いている。青山で集まっていたエクレシアは、メンバーの都合によりお茶の水だったり、東所沢であったり、時にメンバーの自宅であったり変形自在だ。すでにコミュニティがあるので、「場所」はある意味、どこでもいい。そこにキリストがご臨在される限り、そこで、み言葉が分かち合われ、お互いに祈り合う関係がある限り、エクレシアはそこに「存在」している。メンバーは義務ではなく、そこでの祝福を楽しみにして自主的に参加している。

 

都市化は進む。東京湾岸にはどんどんと高層マンションが建築されている。その周辺には教会堂を建てるような「空き地」は存在しない。タワーマンションはオートロックでトラクトのポスティングもできない。どうやって宣教するのか、どうやってリーチできるのか頭が痛い。どう考えてもインターネットとスモールグループのコンビネーションに行き当たる。TMCのあり方が1つの方向性を示しているのではないか。エクレシアは時代に合わせて、その生命を維持しつつ、形は変わっていかねばならないのだろう。21世紀の後半を生き抜くために・・・。

 

聖書ではエクレシアとは何かが書かれている一方で、そのやり方、あり方については詳細には書かれていない。もちろん三角屋根の十字架の会堂についても、説教中心の礼拝についても、日曜10時半の時間指定も聖書には無い。実際、現在の教会で行われているプラクティスの多くは、2000年の歴史の中で、他文化から取り入れてきたものだ。とすれば、既存の教会のやり方にこだわらなくてもいい。聖書の原則さえ守っていれば、キリストにある「いのち」さえあれば、形(スタイル)は多様に変化できるという事だ。エクレシアは「キリストの体」なのであり、オーガニックな「生き物」なのだから。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年12月21日木曜日

悔い改めない人々


悔い改めない人々

人々は終末に向けて、いよいよ頑なになるようだ。黙示録16章からは、神の憤りが極まり、最後の熾烈な「7つの鉢の裁き」が始まる。まず、知るべきは「万物の主=全能の主」が下す裁きは理不尽なものではなく、正しいという事だ。

 

「しかり。主よ、全能者(万物の主)なる神よ。あなたのさばきは真実で正しいさばきです。」                  (黙示録16:7)

 

命の提供者である創造主だけが、命を奪う正当性と権利を持っている。

 

第四の鉢が注がれる。

 

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。 (黙示録16:8−9)

 

裁きの結果は、悔い改めるどころか、人々は神の御名を冒涜する。次に第5の鉢が注がれる。

 

第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。  そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。 (黙示録16:10−11)

 

今度も、人々は悔い改めず、神を冒涜している。何という頑なさ!実は、これ以前に、イスラエル12部族の14万4千人が世界に派遣され福音を伝えている。(7章)また、エルサレムでは二人の証人が証をしている。(11章)最後は御使が世界を飛び回り福音を伝えている。(14:6)それらがあって、この裁きなのだ。神はチャンスを与えたが、人々はますます悔改めようとはしない。1つの嘘をつくと、さらに嘘をついて頑なになるように、人は拒み続けると、ますます頑なになっていくようだ。

 

イスラエルのケース

イスラエルの歴史から学べることがある。イスラエルは創造主に特別に扱われた民だった。あわれみをかけられた民だった。

 

  神に選ばれ、神が預言者を通して民に語り、律法により御心を知るすべが与えられていた。

  約束の地に入る直前に、イスラエルの新世代に律法を復習させ、従えば「祝福」、従わないと「呪い」という神の契約を明確に諭した。(申命記) 

  それにも関わらず、イスラエルの民は堕落し、周辺諸国の偶像を拝み、不従順となり、そして反抗する民となった。(エゼキエル3:9)

  それでも神は反抗する民に終日、手を差し伸べた。(ローマ10:21)

  しかし、民は、神が送った預言者の声さえ無視して効かなくなる。

  ついには、神は契約通り実行する。イスラエルの民は土地を失い、バビロンに捕囚となる。自分の国を失い、異邦人の地で暮らすことを強いられる。

 

語っても聞かないと痛みを通して従順を学ぶことになる。大患難時代の裁きは

「封印の裁き」が7つ、「ラッパの裁き」が7つ、そして「鉢の裁き」が7つ、合計、21段階ある。ノアの洪水は1度で地上のすべてが滅びたが、言ってみれば、終末時には21段階あり、それだけ悔い改めのチャンスが与えられているとも言える。神は最後の最後まで手を救いの手を差し伸べるが、人々はそれを拒み続ける。



 

患難期後半では、もう確信犯だろう。裁きの災害が神から来ていることを知りつつも、神を呪い、冒涜している。災いのルーツが神であることを知りつつも、「獣=反キリスト」を王として崇め、付き従っている。

 

礼拝するものに似たものになる

「朱に交われば赤くなる」という言葉がある。悪い仲間といると、彼らのようになっていく。キリストを崇め、キリストを崇める人々(エクレシア)と共にいると聖霊が働き、キリストの似姿に変えられていく。柔和さや愛情に満ちた顔になっていく。祈っている人の目は清く澄んで清々しい。反対に、サタンを崇め、サタンに従う人々と共にいると悪霊が働き、サタンに似たものに変えられていく。淫行、深酒、ドラッグ、占い、悪魔礼拝している人々の目つきは悪くなり、顔は醜くなる。

 

サタンは決して悔い改めない。キリスト再臨時にハルマゲドンの戦いで、反キリスト軍は全滅する。そしてサタンは1000年間縛られる。しかし、その後、解き放たれた時に、再びキリストの支配に反対する人々を率いて、エルサレムに攻め入ろうとするのだ。(黙示録20:7−8)何という頑なさ!1000年間、反省する時間が与えられても悔い改めない。ある意味、人となったサタンである「獣=反キリストという人物」に従う人も同じだ。彼らの主人であるサタンと同じく悔い改めず、神を冒涜し続ける性質に変えられてしまう。何と恐ろしいことか。そして、サタンに従うなら、その最後の運命も、サタンと共にすることになる。すなわち「火と硫黄の池」だ。(黙示録20:10〜15)

 

今日は救いの日

人々はどんどん頑なになる。そうであれば、「今」がチャンスなのだ。日本では、まだ路傍伝道できる。聖書や福音トラクトを路上で配布できる。特にクリスマスの時期は反応がいい。クリスマスは聖書が命じている行事ではないが、伝道のチャンスとして利用できる。サンタの格好をすれば、トラクトを取ってくれるなら、それでいい。伝道の扉はいつ閉じられるか分からない。

 

やがてキリストを王とすることは世界政府への反逆思想として取り締まられる日が来ることだろう。患難期後半では「獣」礼拝が強いられる。それを拒む多くのクリスチャンは殉教死する。獣の刻印がないと、売ったり買ったりできないので、通常の社会生活ができなくなる。そんな時代が来る前にキリストを信じた方がいい。そして、「今」伝える方がいい。

 

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あたなを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。II コリント6:2)

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年12月14日木曜日

残念な説教

 

「罪人」であることを覚えていなさい?

最近、あるクリスチャンの方から手紙を頂きました。その方は牧師の説教を聞いて、「一番大事なことは、自分が罪人であることを常に覚えていることだ」と教えられたそうです。謙遜であることは大事です。しかし、これは聖書的ではありません。引用された聖句は、あのルカ18:9−14。

 

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」 (ルカ18:9—14)

 

よく「謙遜」を学ぶために引用される聖句ですね。結論から言うと、これを救われたクリスチャンに適用するのは間違っています。まず、イエスは誰に対してこの話をしているのでしょうか?「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」であり、つまり未信者に向かって話しているのです。未信者は救われていないので、まず自分の罪を認める必要があるのです。特に当時のパリサイ人です。パリサイ人は自分を「罪人」と思っていないので「赦し」を必要とせず、救われていないのです。一方の取税人は自分を「罪人」と認識し、あわれみを求めたので「義」と認められ帰宅したのです。

 

クリスチャンはイエスを信じて「義」と認められました。義と認められた人は、もはや「罪人」ではないのです。裁判で無罪判決を受けた人は「罪人」でしょうか?「罪人」の認識は「救われる前提」なのです。救われる前には必要です。しかし、信仰によって義と認められ、救われたものは、「聖徒」であって「罪人」ではないのです。コリントの教会に書いた手紙で、パウロは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と挨拶をしています。問題多いコリント教会でしたが、「コリントにいる救われた罪人たちへ」ではないのです。

 

「罪人意識」は返ってクリスチャン生活を害する

クリスチャン生涯を通じて自分が「罪人」だと認識し続けることは贖ってくださったキリストに対して失礼でさえあります。ここまで犠牲を払って義と認めていただいているのに、まだ「私は罪人でございます」と言っているとしたら、キリストが成した御業は無駄だったと言っているのに、等しいのではないでしょうか?「聖徒としてくださって感謝です!」が本道です。

 

自分を「罪人」と認識していると、当然、罪悪感が生まれます。そして、罪悪感を消すために業に頼ろうとする誘惑が来るのです。もっと、献金、もっと奉仕・・と。でも平安は来ません。喜びが来ません。だって「罪人」のままなんですから。牧師も信徒を「罪人」にしておくことで「もっと、もっと・・と脅かす」説教ができるのです。残念ながら、そういう「解放されていない」クリスチャンが多くいるのではないでしょうか。

 

キリストが私の「義」となってくださった

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。  コリント1:30)

 

この御言葉が言うように、もう、悪魔の手の中にいる「罪人」ではないのです。今は、贖い出されて「キリスト・イエスのうちにあります。」そして、「キリストにある者が罪に定められることは決してないのです。」(ローマ8:1)キリストが私の「義」、「聖」、「贖い」となってくださったのです。よく「義認」、「聖化」、「栄化」と言う言い方をしますね。それらは、霊・魂・体の救いと関連します。これを整理することが重要です。

 

  義認:霊は「義」と認められ完成され、天上でキリストと共に座しています。

                        (エペソ2:6)

   義認とは罪の罰からの解放であり、救いです。

 

   キリストが私の「義」となってくださり、「霊」の救いは完成してい

   るので、失うことはありません。

 

  聖化:魂は「聖化」のプロセスにあります。聖霊により日々、キリストの似

   姿に変えられつつあります。(II コリント3:18)これは御霊のワ

   ザであって自分の努力で達成されるものではありません。聖化は主の

   再臨の時に完成します。(II テサロニケ5:23)

 

    聖化とは「罪の力」からの解放、救いです。

 

   この地上にいる「魂」は霊的戦いの中にいます。神が聖さに預からせ

   ようとして訓練されることもあります。(ヘブル12:10)キリス

   トが私の「聖」となり、完成してくださいます。

 

  栄化:体の贖いの事です。完成は主の再臨の時です。朽ちない体に変えられ

   ます。しかし、これは将来の出来事です。

 

    栄化とは、「罪の存在」からの解放、救いです。

 

   この贖いが完成してから入る新天新地には「呪われるものは何もない」

  (黙示22:3)のです。罪の存在がないからです。キリストが私の「贖

   い」となってくださいました。この贖いが完成される再臨の時が近づ

   いています。(ルカ21:28)

 

これらは自分の力では達成できません。だから、キリストご自身が私たちの義と聖と贖いになられました。  

 

このようにきちんと整理されて聞いたことがないと、「救い」に関して混乱してしまいます。最悪、自分は救われていないのでは?と疑ったりします。そのまま異端に引っ張られてしまうこともあります。自分も、もっと早く、この整理ができていたら助かったなと思います。しかしながら、残念な説教が多いのです。

 

キリストはすでに信者の心の中に住んでいます。(コロサイ1:27)そういった聖書的事実を確認する説教より、「もっと祈って、もっと聖書を読んでキリストの御そばに近づきましょう!」的な、旧約マインドの説教をしているとしたら残念です。新約の驚くべき霊的事実=希望が語られるよう願います。そして人を解放する「福音=グッドニュース」が語られるよう心から願います。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年12月7日木曜日

肉体の逆襲

 

カトリック司祭の児童性加害問題

2022年4月14日の文春オンラインに以下の記事が掲載された。

 

2002年、アメリカのメディアによる報道がきっかけで次々に明らかになっている世界各国のカトリック教会での性虐待問題。202241日には、19世紀から1990年代までカナダの寄宿学校で、カナダ先住民の子供たちへの虐待があったと、ローマ教皇自らが謝罪した。この問題は収束する気配を見せず、いまだに波紋を呼んでいる。そんななか、特に衝撃的だったのが2021105日、フランスでの調査報告だ。1950年以降、フランス国内では推計21万人以上の未成年者がカトリック教会の聖職者など3000人以上から性被害を受けたことが発覚したのである。

実はこの現象は世界的に広がっており、アメリカでの聖職者による性被害問題は「スポットライト」というタイトルの映画として公開され話題を呼んだ。「天使を装うものは野獣になる」ということわざがある。肉体や性欲をないもののように装って覆い隠すと返って、肉欲に逆襲されるということか。

 

親密さを求めて・・・

カトリック司祭で日本の福音派にも影響を与えているヘンリー・ナウエンはこう語る。

 

霊性ということが、肉体を離れた精神化になってしまうと、肉体のいのちは、肉欲に陥ります。牧師や司祭が、ほぼ観念の世界だけの務めに生き、自分が伝えている福音を一連の価値ある認識や思想というものにしてしまうと、肉体は、愛情と親密さを求めて叫びをあげ、すぐに復讐をしかけてくるでしょう。

 

人々の前で常に道徳的規範であり続けようと重圧を受けたまま進むと孤立し、「親密」さを求め、多くの場合不倫へ至ると言うのだ。牧師や宣教師は特に、「道徳的」、「霊的」であることが期待され、求められ、本人もそのように人々の前で振る舞う。しかし、同時に牧師は、多くの場合「親密」な関係の人が周りにいないので、「孤立化」しやすい。そうするとその「欲求」が、そのはけ口を求めて、さ迷い始める。

 

かつて、アメリカのTV伝道者の不倫問題が話題となった。多くの場合、初めから肉欲という訳ではない。集会の興奮がさめ、一人ホテルの部屋に帰ってくると肉欲の逆襲が始まる。「親密さ」が無いまま、成功の興奮だけの生活を送っていると、「親密さ」は獲物を求めて貪欲になる。霊的成功の後の肉的逆襲は、あのエリアも体験した。(列王19)

 

大教会の牧師が秘書と不倫関係になる事もある。メガチャーチの牧師は神格化された英雄であり、スーパースターだ。本当の自分とかけ離れたイメージが出来上がっていく。本当の自分になれる場所が少なくなっていく。そこに、自分が心を開ける異性が現れ、話しているうちに、役職や責任を離れて、「この人の前では自分は自分でいられる。」と思えるようになるのだ。それは大きな魅力となりマグネットのように惹きつける存在となる。そうなると、その異性の存在はどんどん自分の中で大きくなり、ついには、必要不可欠な存在になる。初めから「不倫」をしようと不真面目な態度で臨む場合は少ないのだ。単なる好色という問題ではない。むしろ、真面目に、真剣に生きよう、愛そうとするからこそ、渇きの求める方向に行ってしまうのだ。

 

ある宣教師のケース

あるアメリカ人宣教師(既婚者)が婦人たちのスモールグループ・バイブルスタディを導いていた。そのうちにシングルマザーの婦人と親しくなり、同棲するようになってしまった。このケースでも、初めから不倫をしようという不真面目さはなかった。むしろ真面目に婦人たちを愛し、ケアしている中で、ある女性との「親密」さが線を超えてしまった。「憎む」のではなく「愛し、ケア」したからこそ起こってしまったケースなのだ。

 

向き合ってきたのか?

教会では「霊的」であることが尊ばれる。しかし、「霊的」とは、どういうことだろうか?肉体や性欲はあたかも存在しないかのように、神と自分の精神的融合のことを指しているとすると、肉体の逆襲が起こるのではないか?神は土から、この体を造った。そして男と女に創造された。「生めよ、増えよ」と命じられた。

 

人は思春期を迎え、女性は生理が始まり、男性は精射できるようになる。男性はテステステロン(男性ホルモン)により攻撃性や性欲が爆発する。教会は格闘技やスポーツに向かう青年たちをどう指導するのだろうか?ただ、「礼拝を守りなさい」としか指導しないのなら片手落ちなのではないだろうか。自分は高校2年でクリスチャンになったので、血気盛んな頃の性欲に苦しんだ。尾山令仁氏の「結婚の備え」には男性は自慰をしないように、布団から手を出して寝るようにアドバイスがあったが、そんなアドバイスは性欲が爆発している男子青年には無に等しい。しかし、他のクリスチャン男性たちは、そんなことは「存在」しないかのような仮面をつけて礼拝している。性の悩みは、なかなか教会では、話せない。「きよめ」を強調する教派だったので、自分は清められていないという罪悪感だけが大きくなった。

 

最近は、それでも「ポルノ問題」などを若いクリスチャン指導者たちが、正直に話し合う場が広がってきた。これはいいことなのだが、お互いにアカウンタビリティの関係を作って「見ないように」見張り合うといった「対処法」しかない気がする。根本的な解決にはなっていない。

 

「中年の危機」に関しても、ようやく最近、日本語訳の本が出たが、自分がその時期には日本語ものは全く見つからず、英語のものを数冊読んで「迷ってもいいんだ」という慰めを得たことがある。歳を重ねると、今度、女性は更年期の精神的、肉体的悩みが出てくる。男性も男性ホルモンを失っていく。「枯れていく悔しさ」に悩むのだが、これまた、そういう話をする場がない。肉体や性欲の問題に、教会は向き合ってきたのだろうか。肉体や性欲が悪いという2元論に逃げることは容易いが、それでは聖書的な解決にはならない。何しろ、肉体や性欲を造ったのが、神ご自身なのだから。否定ではなく、まずは肯定することろから始めることだろう。

 

おすすめ本

「今日における『霊性』と教会」 

いのちのことば社 21世紀ブックレット4

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執筆者:栗原一芳