2023年12月7日木曜日

肉体の逆襲

 

カトリック司祭の児童性加害問題

2022年4月14日の文春オンラインに以下の記事が掲載された。

 

2002年、アメリカのメディアによる報道がきっかけで次々に明らかになっている世界各国のカトリック教会での性虐待問題。202241日には、19世紀から1990年代までカナダの寄宿学校で、カナダ先住民の子供たちへの虐待があったと、ローマ教皇自らが謝罪した。この問題は収束する気配を見せず、いまだに波紋を呼んでいる。そんななか、特に衝撃的だったのが2021105日、フランスでの調査報告だ。1950年以降、フランス国内では推計21万人以上の未成年者がカトリック教会の聖職者など3000人以上から性被害を受けたことが発覚したのである。

実はこの現象は世界的に広がっており、アメリカでの聖職者による性被害問題は「スポットライト」というタイトルの映画として公開され話題を呼んだ。「天使を装うものは野獣になる」ということわざがある。肉体や性欲をないもののように装って覆い隠すと返って、肉欲に逆襲されるということか。

 

親密さを求めて・・・

カトリック司祭で日本の福音派にも影響を与えているヘンリー・ナウエンはこう語る。

 

霊性ということが、肉体を離れた精神化になってしまうと、肉体のいのちは、肉欲に陥ります。牧師や司祭が、ほぼ観念の世界だけの務めに生き、自分が伝えている福音を一連の価値ある認識や思想というものにしてしまうと、肉体は、愛情と親密さを求めて叫びをあげ、すぐに復讐をしかけてくるでしょう。

 

人々の前で常に道徳的規範であり続けようと重圧を受けたまま進むと孤立し、「親密」さを求め、多くの場合不倫へ至ると言うのだ。牧師や宣教師は特に、「道徳的」、「霊的」であることが期待され、求められ、本人もそのように人々の前で振る舞う。しかし、同時に牧師は、多くの場合「親密」な関係の人が周りにいないので、「孤立化」しやすい。そうするとその「欲求」が、そのはけ口を求めて、さ迷い始める。

 

かつて、アメリカのTV伝道者の不倫問題が話題となった。多くの場合、初めから肉欲という訳ではない。集会の興奮がさめ、一人ホテルの部屋に帰ってくると肉欲の逆襲が始まる。「親密さ」が無いまま、成功の興奮だけの生活を送っていると、「親密さ」は獲物を求めて貪欲になる。霊的成功の後の肉的逆襲は、あのエリアも体験した。(列王19)

 

大教会の牧師が秘書と不倫関係になる事もある。メガチャーチの牧師は神格化された英雄であり、スーパースターだ。本当の自分とかけ離れたイメージが出来上がっていく。本当の自分になれる場所が少なくなっていく。そこに、自分が心を開ける異性が現れ、話しているうちに、役職や責任を離れて、「この人の前では自分は自分でいられる。」と思えるようになるのだ。それは大きな魅力となりマグネットのように惹きつける存在となる。そうなると、その異性の存在はどんどん自分の中で大きくなり、ついには、必要不可欠な存在になる。初めから「不倫」をしようと不真面目な態度で臨む場合は少ないのだ。単なる好色という問題ではない。むしろ、真面目に、真剣に生きよう、愛そうとするからこそ、渇きの求める方向に行ってしまうのだ。

 

ある宣教師のケース

あるアメリカ人宣教師(既婚者)が婦人たちのスモールグループ・バイブルスタディを導いていた。そのうちにシングルマザーの婦人と親しくなり、同棲するようになってしまった。このケースでも、初めから不倫をしようという不真面目さはなかった。むしろ真面目に婦人たちを愛し、ケアしている中で、ある女性との「親密」さが線を超えてしまった。「憎む」のではなく「愛し、ケア」したからこそ起こってしまったケースなのだ。

 

向き合ってきたのか?

教会では「霊的」であることが尊ばれる。しかし、「霊的」とは、どういうことだろうか?肉体や性欲はあたかも存在しないかのように、神と自分の精神的融合のことを指しているとすると、肉体の逆襲が起こるのではないか?神は土から、この体を造った。そして男と女に創造された。「生めよ、増えよ」と命じられた。

 

人は思春期を迎え、女性は生理が始まり、男性は精射できるようになる。男性はテステステロン(男性ホルモン)により攻撃性や性欲が爆発する。教会は格闘技やスポーツに向かう青年たちをどう指導するのだろうか?ただ、「礼拝を守りなさい」としか指導しないのなら片手落ちなのではないだろうか。自分は高校2年でクリスチャンになったので、血気盛んな頃の性欲に苦しんだ。尾山令仁氏の「結婚の備え」には男性は自慰をしないように、布団から手を出して寝るようにアドバイスがあったが、そんなアドバイスは性欲が爆発している男子青年には無に等しい。しかし、他のクリスチャン男性たちは、そんなことは「存在」しないかのような仮面をつけて礼拝している。性の悩みは、なかなか教会では、話せない。「きよめ」を強調する教派だったので、自分は清められていないという罪悪感だけが大きくなった。

 

最近は、それでも「ポルノ問題」などを若いクリスチャン指導者たちが、正直に話し合う場が広がってきた。これはいいことなのだが、お互いにアカウンタビリティの関係を作って「見ないように」見張り合うといった「対処法」しかない気がする。根本的な解決にはなっていない。

 

「中年の危機」に関しても、ようやく最近、日本語訳の本が出たが、自分がその時期には日本語ものは全く見つからず、英語のものを数冊読んで「迷ってもいいんだ」という慰めを得たことがある。歳を重ねると、今度、女性は更年期の精神的、肉体的悩みが出てくる。男性も男性ホルモンを失っていく。「枯れていく悔しさ」に悩むのだが、これまた、そういう話をする場がない。肉体や性欲の問題に、教会は向き合ってきたのだろうか。肉体や性欲が悪いという2元論に逃げることは容易いが、それでは聖書的な解決にはならない。何しろ、肉体や性欲を造ったのが、神ご自身なのだから。否定ではなく、まずは肯定することろから始めることだろう。

 

おすすめ本

「今日における『霊性』と教会」 

いのちのことば社 21世紀ブックレット4

------------------------------------------------------------------------------------------

 

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

 

0 件のコメント: