無表情な人々
アメリカの著名なカウンセラーであり、ライターであるラリー・クラブ著の「Becoming TRUE Spiritual Community」(真に霊的なコミュニティを目指して)から霊的コミュニティつくりについて、ご一緒に考えてみましょう。ラリー夫妻は最近、フロリダに引っ越した。ある日、マイアミビーチを散歩していた。そこで見た光景が忘れられないという。
15メートルくらいのベンチに年輩者たちが座っている。フロリダは退職後、老後を過ごすのに多くの人が選ぶ土地柄でもある。しかし、そこに座っている人々はまっすぐ前を向いたまま、隣の人とも話さず、誰にも触れず、前を通る人やバスにも注意を向けず、同じ姿勢で固まっている。コーヒーカップも見当たらず、新聞や本さえ読んでいない。人間関係をエンジョイするように、神のかたちに作られた人間の証拠がどこにもない。その悲しい姿にラリーはショックを受けたという。長い人生で恨み怒りが蓄積してしまったのか?友達や家族に裏切られ人を信用できなくなってしまったのか。ともあれ、そこに座っている人々は無表情でただ、遠くを眺めているだけだった。
日本でも老人が、アパートの一室で一人寂しく死んでゆく孤独死というのが話題になった。無縁社会という言葉も出ている。人ごとではないだろう。特に男性は会社に献身し、退職すればタダの人で、友達もなく、妻に死なれれば、一日テレビを見て、酒を飲むしかなくなる。心を開けるコミュニティがあったならと痛切に思う。教会こそが、それを提供できる場所なのではないか?人々は霊的なコミュニティを渇望しているに違いないのだ。ラリーに言わせると「孤独」とは「神への渇き」であると。霊的な生き物である人間は単なる仲良しコミュニティだけでも満足できない。渇きは癒せない。だからこそ、キリストを中心にする霊的コミュニティつくりが重要となる。
教会は霊的コミュニティ
ズバリ言ってしまえば、教会とは、神に向かう霊的なコミュニティなのである。教会とは人々のこと。そして、霊的とは砕かれている事。ここで鍵となるのは「砕かれている」(Brokenness)こと。霊的な人は愛の人。霊的コミュニティを出現させられる人はこういう人だ。
- Broken but Strong (砕かれているが、強さがある)
- Venerable but have Hope (弱さをわきまえているが、同時に希望を持っている)
- Respectfully Curious (他人を尊重しつつも、深い関心を持つ)
そこでは批判もなく、道徳論もなく、お互いに主を見上げることをする。ワーシップの心がある。SPIRITUALでなければ、単なる、仲良し関係か、仕事関係か、いやし、慰めを求める傷のなめあい集団か、神なきカンセリングか、道徳論集団になってしまう。
真の霊的コミュニティは、弱さをわきまえながら、正直に、謙虚に、あきらめず、主のもとに共に集い、主とお互いにコミットし、主と共に神に向かって人生の旅を共にしてゆく仲間たちなのだ。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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