2015年9月22日火曜日

日本の大課題—貧困!?



ショッキングな事だが、今、この日本で6人に1人の子供が貧困だという。さらに現在、一億2700万の人口が2100年には4600万人(半分以下)になってしまう。ただでさえ、少子化で少ない子供が危機に面している。子供だけではない。超高齢化社会の中で、「貧困老人」「下流老人」という言葉も出てきている。(「下流老人」藤田孝典 朝日新書 帯には「年収400万でも将来、生活保護レベルの暮らしに!?—忍び寄る「老後崩壊」の足音。日本人の9割は他人事ではない!」とある)年金があまりに少なく、一人暮らしで高い家賃を払い続け、病気をすれば医療費がかさむ。さらに子供がブラッック企業で鬱になったり、ひきこもったりで、働かないまま同居するケースも増えている。そして、長生きするほどに預金は減っていく。悠長な老後生活はそこには無い。

そして、貧困女子と貧困シングルマザー。母子家庭の半分は年収200万円代だという。これには、DVや精神障害などが関連している。格差社会の中で底辺層はさらに増えるだろう。

明治時代は福祉の暗黒時代と言われ、富国強兵に突っ走る中、弱者への救済は後回しにされていた。そういう必要に目を向け、行動を起こしたのはクリスチャンだったのだ。現在のような養護施設が出来たのは明治の中頃。石井十次(1865−1914)キリスト教社会事業家で、孤児院の創設者)が明治20年に始めた岡山孤児院が皮切り。以来、幸いにも福祉といえばキリスト教というイメージができてきた。日本のキリスト教界は来たるべき高齢者社会問題に先駆けて老人養護施設「キングスガーデン」を設立し運営してきた。

経済大国と言われる日本の大問題が貧困といっても結びつかないかも知れない。しかし、あの池上彰氏が、「日本の大課題—子供の貧困」社会的養護の現場から考える。」(ちくま新書)という本を出している。現在は親が物理的に(病気など)養育できないケースより、親の精神的問題や虐待によるケースが増えているという。

○   親が物理的に養育できないケース 3割
○   虐待など精神的課題があるケース 6割
○   養育放棄            1割



全国で所在不明子供が5000人。多くは家庭内暴力の夫から他の町へ逃れた母子が夫に居場所を知られないように転入届をしないというケース。住所が無ければ職にもつけず、手っ取り早い風俗へと流れてゆく。貧困と幼児虐待は強い相関関係にあるようだ。池上氏は多重逆境という言葉を使っている。

A養護施設の場合、4分の3が親が離婚のケース。4−5割の母親が精神疾患を抱えている。子供は父親不明で父親を知らない。親子共に社会的に孤立し、父親のDVから逃れるため, 引っ越しを繰り返し、町々を転々とする。シングルマザーが働くために子供は預けられる。ぎりぎりの生活の中で、少しでも安い保育所を探すことになる。ネットで調べた安価な保育所で子供が殺害されてしまった事件もあった。「そんなところに預けて!」と批判することは容易いが、母親の状況をどれほどわかっているのだろうか?母親が精神的病気のケースも多く、親も低学歴なので、子供もスタート地点からハンディを負う。この背景で、社会性やコミュニケーション能力が低下。当然、将来の進学、就職に不利な環境が作られてゆく。これを自己責任論だけで片ずけられるのだろうか?


「最貧困女子」鈴木大著(幻冬舎新書)によると、貧困女子には3つの縁が切れているという。つまり・・

1.家族(DVやネグレクトで、家庭の体を為していない)
2.地域社会(差別の目、もともと人間関係が苦手、トラブルメーカー)男性ホームレスの場合も経済的貧困だけでなく、コミュニティの貧困が問題。
3.制度(補導され、自宅に戻される=解決にならない)

さらに障害を持っているケースも多い。

1.メンタル(精神的に病んでいる)
2.知的障害
3.発達障害 (アスペルガーや多動症)

もともと社会で「生きにくい」人たちなのだ。貧困シングルマザーのメンタリティはこうなっている。

1.            DVの夫からは養育費は取れない。訴えて投獄されても出て来てからの 
  復讐が怖い。
2.            民生委員は地域の目、噂の発信地。知られたくない。
3.            生活保護受給者は差別の目で見られる。
4.            仕事ない、給料安い。子供をかかえて生活できない。
5.            介護の仕事は重労働
6.            生活保護、子持ち、定収入は再婚の妨げ


子供の心理状態はどうなるのだろうか。離婚による親からの離別や引っ越しによる友達との離別を繰り返すが、その悲しみをまとめていく暇もなく、(喪失したものや人を悲しむ感覚をまとめていく作業ができない。)次の離別が来る。第一ネグレクトが、第二ネグレクト(構われなかった自分が今度、自分をも構わなくなるーどうにでもなれ、場当たり的—低いセルフイメージ)が起こる。

つまり、単なる貧困ではなく、このように恒常的なコミュニティの貧困が起こっているのだ。世界への敵対意識あるいは、強度の防衛機能。遮断。引きこもり。社会不適応。ついには自分について考えることをやめてしまうのだろう。

東京都内の児童相談書でのケースのうち、親の精神疾患が7割だという。以上のような環境で子供たちは「生活の連続性の喪失」を味わう。思い出を親と分かち合えない。自分のアイデンディディが作り難い。継続して住むことのできる養護施設は「共」に生きることで、「思い出の共有つくり」を通し「生活の連続性の担い手」になるのだそうだ。あるいは養子縁組や里親制度で「生活の連続性」を提供することもできる。


まずは、「居場所」つくり、安定。そして自分を考える機能の回復。「自分が変われる可能性を知る体験」、「ダメな自分からの脱却」を助けられる環境を提供する必要がある。家庭から逃走した女子が必要なのは、住む場所、食事、携帯だという。間違ってはいてもセックスワークはこれらを提供してくれるシェルターなのだ。夜の新宿で声をかけてくれるのはセックス産業のスカウトだけだという。クリスチャンの「夜回り隊」ができないだろうか?

子供の貧困、シングルマザーの貧困、そして貧困老人。今までも政府が手が回らない部分に教会やNPOが手を差し伸べてきた。これからの日本社会、ますます、「良き業共同体」としての教会、「宣教」ではなく、「宣証」が求められるのではないか? インタビューした女子達からは「学童が夜も使えたら。」「家庭内暴力があったときの逃げ場があったら」「夕食が食べれたら」という声があったそうだ。彼らが必要なのは、「居場所」。安全で詮索されない「住む場所」と「愛してくれる人」なのだ。

私が参加している土曜朝の代々木公園ホームレス礼拝も「居場所」を提供している。そこでは普段、誰とも話さない年配の男性達が口を開く。「ここに来ると皆、笑顔で暖かく迎えてくれる。」と何かを感じている。先週、一人の男性が受洗した。


「父なる神の御前で、きよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」
                          (ヤコブ1:27)

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2015年9月14日月曜日

新しい創造

義はどこに
イスラム国に殺害される女子高校生。ヨーロッパに流れてくる難民。アフリカの飢餓の中の子供達。私たちの心は痛む。クリスチャンであろうと、なかろうと。戦争法案反対デモに10万人が集まる。そして「それは間違っている!」と叫ぶ。何を基準に間違っているのか?人の命が尊いから。それを言う根拠は?進化論が正しいなら弱肉強食、適者生存でいいのだ。しかし、私たちはどこかで、「それは違う」と思っている。だから学校でも「弱いものイジメはいけません」と教える。ジョンレノンは「イマジン」を歌って、宗教も天国も地獄もない平和な世界をイマジン(想像)した。それは想像なのか、本当に実現し得るのか? バベルの塔以来、人が試みる楽園は崩れ去っている。夢は夢として、現実では指をしゃぶって見ているだけなのか? 現実は悪に染まっているので、せめて小説や音楽で夢の世界に逃避するだけが唯一できることなのか?神の世界と地上は交わることがないのか?しかし、神がこの世に介入することを信じていたキング牧師は ”I have a dream” と叫び、差別の無い、正義の行われる社会を夢見て行進した。彼は夢を一歩、進めた。神の世界と地上は交わることがあり得るのか?


地上に介入される神
この興味ふかいテーマを書いたNTライトの「クリスチャンであること」が売れている。ライトの結論から言うと神と地上が出会うところが「神の国」であり、祈りであり、神は未来からも現在に介入するという。もし、世界を造った神がいたとしても、この地上のことには一切手を出さない方だとしたら、(これを「理神論」といい、18C流行った学説)祈りは虚しい。神はどうせ何もしないのだから。

しかし、聖書を読んでみると、神は確実にこの世に介入される方、歴史を導く方なのだ。神の救いのドラマのただ中に私たちは生きている。「私たちがそのような夢(義の実現する世界)を見るのは、つまり、その声の響きにどこか聞き覚えがあるのは、私たちに語りかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。それは、現在の世界と私たちのことを深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を創造した誰かである。その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。」聖書はこの立場を取っているとライトは言う。


現代人が慕い渇き求めているもの
義の他にも人が渇き、慕い求めているものがある。ライトは、「霊的なのも」「かかわり」「美」「コミュニティ」であるという。

20世紀初頭、科学の時代が幕開けて、宗教は無くなると言われたが、今日まで宗教は無くならず、カルト宗教も後を絶たない。小説や音楽の中にも何か霊的なものへの探求が語られる。「霊的なもの」は蜃気楼なのか、本当にある世界なのか?

「かかわり=理想の関係」理想の結婚、家庭、友情関係、職場の人間関係、これまた蜃気楼なのか、はたまた現実にある真理の影を地上で見ているのか。現代人でさえ、これらの関係をあきらめきれていないのではないか? 幸せそうなカップの写真がのっている結婚式場の車内広告。「結婚はそういうべきものなのだ」という思いがどこかに潜んでいるからではないだろうか。

そして、「美」。前衛芸術家は「美しいものは醜く、醜いものは美しい」と言うかも知れないが、私たちは直感的に知っている。「美しいものは美しい」富士山頂から見る朝日。夕焼け、咲き乱れる花、そして若き乙女たち。それはこの世界を創造した神が美しいからではないだろうか? 

コミュニティ:ホームレス問題の本に必ず書いてある。「貧困」は経済の貧困だけではない、「コミュニティの貧困」なのだと。助け合う仲間がいない。高齢者が一人寂しく孤独死する。それでいいとはどうしても思えない。マザーテレサは道端で倒れて死んでゆく人を見て、せめて死ぬ時に寄り添って「人間らしく」死なせてあげたいとして「死を待つ人の家」を設立した。人は一人では生きて行けない。人はもう一人の人格を必要とする。三位一体の神はコミュニティの神。そこから始まった。単に仕事の仲間ではない、人生を分かち合う人々が必要なのだ。人は一人では生きてゆけない。共同体的存在なのだ。地上で人が飢え渇き、慕っている、これらのものの本体があるはずだ。つまり、「神がいるはずだ」ということだ。

神がいて、地上に介入する。天と地が重なるところがある。その世界観だけが「認知的調和」をもたらす。愛であり、義である神が世界を美しく創造し、人をご自身の似姿に造られた。人はこの神と会話ができ、この神のお心を実現するために地上にいる。人の罪ゆえ、この世界は汚れ歪んではいるが、今、回復の途上にある。やがて贖われ、回復され、完成される。人はこの神のドラマの中に生きている。神の協力者として神の国を建設している。


新しい創造
ライトは言う。

「イエスのよみがえりは、私たちを受動的で無力な観客にしたままではおかない。私たち自身で身をもたげ、自分の足で立ち上がり、肺に新しい息を吸い込み、出て行って、世界に新しい創造をもたらさずにはおかないのである。」

「イエスの書き記した音楽は、いま奏でられなければならない。初代の弟子たちはこのことを見て、それに着手した。イエスが墓の中から立ち上がり、出てきた時、義と霊性と、関わりと、美が、イエスと共に立ち上がったのである。イエスの内に、またイエスを通して、何かが起こり、その結果、世界は異なった場に、すなわち天と地が永遠に結びつく場となった。神の未来が現在に到来した。単なる残響の代わりに、私たちはあの声そのものを聞く。それは悪と死からの解放を告げる声、すなわち新しい創造の声である。」

そして、聖書は言う。

「大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)
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おススメ本
N.T.ライト
「クリスチャンであること」
発行:あめんどう
2500円
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2015年9月8日火曜日

「視座を変える」


「悔い改める」ギリシア語でメタノエオーを通常、「180度向きを変える」と訳しますが、ある牧師は「視座を変えて見直す」と訳したそうです。通常私たちは自分の視点でしか物を見ていませんね。それもかなり自己中心的な。例えば、「今日は電車が混んでるなあ」と文句言いますが、他の人から見れば「またもう一人乗り込んできた」「あんたもその原因だよ」ということになる訳です。

皆さんは自分をどう見ているでしょうか?他の人が見ている自分。自分にしか見えない自分。自分でも見えない自分。先日、エレベーターに乗ったらセキュリティー用のビデオカメラがありました。ちょうど自分の頭、ななめ後ろ上方から映しています。それが階ボタンの上あたりのスクリーンに映るのです。自分の頭の上部は自分では普段見えない部分です。「あれっ!こんなに禿げてるのか!」とショックでした。自分に見えない自分を見るには、もう一台のカメラが必要です。ある意味でもう一つの視座を与えるのが聖書であり、神の視座なのではないでしょうか?聖書を読むと物差しがずれるのです。今まで自分を基準にものを見ていました。それが神の基準で見えてくるのです。

パリサイ人は「私は、律法を守っています。」と高ぶっていました。まず、その高ぶりが罪ですけどね。「人殺しなどしてません。」イエスは、兄弟を憎んで、バカのもと言う者は人殺しと同様に燃えるゲヘナに投げ込まれると言いました。「姦淫などしていません。」という者には「情欲を抱いて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言いました。神の視座で見ると彼らも罪人だった訳です。周りを見渡して人と較べ、「まあまあ、俺はいいほうだろう。」と納得していても、神の視座からは「汚れた罪人」と見なされるのです。あなたの夫婦関係はどうですか?と聞かれて、多くの男性は「まあまあ、いいんじゃないか。」と答えるそうです。同じ質問を奥さんに尋ねると「うちは問題だらけです。」と言うことになるのです。違う視点から見ると同じものが違って見えますね。

また逆に自虐的に「自分なんかクズのような人間だ。生きてる価値が無い。」と言う人に、神は「あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」と言われるのです。これも自分の視座と神の視座のずれですね。弟子たちはガリラヤ湖の嵐の中で、「もうダメだ。全員溺れる。」と思ったのです。しかし、主は嵐を静めます。主の視座では嵐の只中でも「平安」なのです。だからイエス様は舟の中でぐっすり眠っておられたのでしょう。

視座には「上から目線」と「下から目線」もあります。ザアカイは木の上からイエスを見ていました。はじめは「どんな人なのかひとつ、見てやろう」という思いだったかも知れません。イエス様のほうが見上げてザアカイと会話しています。しかし、イエスが誰かわかると、ザアカイは木から「降りて」イエスの立っておられるところに来ます。詳しくは書いていませんが、イエスが救い主とわかった時、イエスの足元に跪いたかも知れません。そう、下から目線に変わったのですね。奥さんに連れられてきたノンクリスチャンのご主人は初めて教会に来て、メッセージを聞いて、「キリスト教えとはどんなもんか、ひとつ見てやろう。」という「上から目線」の場合が多いかもしれませんね。しかし、イエス様がわかるとひれ伏して礼拝するようになるのです。まさに「悔い改め」です。

クリスチャン生活は何も問題が無いバラ色の人生という訳ではありません。イエスご自身「世には多くの患難があります。」と言っています。しかし、この人生という舞台の裏で指揮している監督がいることを忘れてはなりません。神が総監督なのです。見ている観客は主人公が敵に命を狙われ危ない場面でひやひやします。しかし、監督は最後に彼が恋人と結ばれハッピーエンドになることを知っているのです。神の私たちへのご計画は「平安と希望」(エレミヤ29:11)なのです。神はすべてのことを働かせて益とするのです。(ローマ8:28)もちろん、場合によっては「殉教」というシナリオもあります。しかし、それは神がベストと知って決めたシナリオです。

覚えてください。誰がやっているのかを。あなたの人生のシナリオを書いている方がいるのです。そして、その方はあなたを愛しているのです。そのお方の「視座」でものを見るのが「信仰」です。

視座を「自分」から「神」に移すこと。それが信仰生活です。信仰の成長とはそれを常にやり続けることです。そう、常に「悔い改める」のです。この地上では神に信頼する訓練をさせられているのです。

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がありますように。アーメン」(ローマ11:36)

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2015年8月24日月曜日

日本キリスト教史と7つの数字


 東京基督教大学(TCU)の山口陽一先生によると日本キリスト教史に関してキーとなる7つの数字があるといいます。TUCでの模擬授業に参加した時の話が大変興味深かったので、お分かちします。7つの数字とは・・・

1549
1614
370000
1620
5500
1859
1884

さて、これが何かお分かりでしょうか?

1549年は言わずと知れた宣教師ザビエル(最近では、シャビエルと表記するらしい)が鹿児島に上陸しカトリックの宣教を開始した年です。教科書ではキリスト教伝来の年として習ったでしょうね。先に37万人の説明をすると、これはピーク時のクリスチャン人口。諸説では最高70万いたとも言われています。37万はかなり固い数字と言えるでしょう。これは大きい数字なのか、少ない数字なのか?実は当時、日本の人口は1200万人くらいで、今の10分の1でした。現在、クリスチャン人口は111万人(うちプロテスタント人口は66万)。それを考えると結構、大きな数字と言えるかも知れませんね。




1614年は徳川幕府がキリシタン禁教令を出した年。それにより、5500人の殉教者が出ました。殉教者数も諸説あり、島原だけで20万と書いている本もあります。島原の乱の犠牲者なども入っている数字でしょう。しかし、5500は純粋に信仰のゆえに殉教した人としてカトリックが正式にカウントした人の数だそうです。それにしても、現在、あなたの教会で一人殉教者が出たら大変なニュースですよね。5500人もの日本人が純粋に信仰ゆえに命を捨てたのです。これは大きな事ではないでしょうか。


さて、1620年。これは何でしょうか?これはメイフラワー号に乗って、ピューリタンたちがアメリカに到着した年です。アメリカの歴史がここから始まりました。だいぶ、日本の歴史より遅いですね。ということはアメリカのキリスト教の歴史も新しいと言える訳です。

1859年は日本でのプロテスタント宣教開始の年。1884年は韓国でのプロテスタント宣教開始の年。今では、国民の25%がクリスチャンとも言われる韓国ですが、宣教の歴史は日本のほうが長いのです。ちなみに、1846年に沖縄でプロテスタントの宣教は始まっており、これをカウントすれば、もっと早くなるそうです。






いずれにしても、日本のキリスト教の歴史はクリスチャン人口の多い、アメリカ、韓国より長いのです。アメリカにまだクリスチャンがいなかった時代に、日本ではすでに37万人のキリシタンがいたということになります。信仰においては先輩なんですね。大きな違いは、アメリカはクリスチャンが移民してできた国で国の基礎がクリスチャン信仰なのです。日本は宣教師が伝えてクリスチャンが起こされた国です。


確かに、これだけ長い間、宣教がなされてきてクリスチャンが少ないという、がっかりする面もありますが、逆に、これだけ長い歴史・・・そこには殉教、日本文化との葛藤、近代化と和魂洋才、先の戦争での「国体」と信仰問題、高度成長と物質主義、ポストモダンとの対峙などなど、豊富な経験と体験という財産があるという面もあるのです。3:11東日本大震災を通してもさらに日本の教会は深化しました。苦闘しながら、いろいろ学んできているのです。



日本昔話に「うさぎとカメ」の話がありますね。先発のカメを後発のうさぎが追い抜いてゆきます。日本はカメのような歩みです。しかし、競技が終わったわけではありません。ゆっくり歩む中で得てきた「体験」と「知恵」に、やがてうさぎが付いてくる日が来るのかも知れませんね。

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