2015年11月6日金曜日

毎日が宴会

先日、面白いイベントがありました。「演歌プレイズ・宴会ゴスペルコンサート」。
以下のポスター見ると、一瞬「何じゃこれは?」と思うでしょう。




 私は20数年前から「御霊音頭」があってもいいなあと思ってましたので、「ついに来たか!」という感じでした。日本人に馴染みのある演歌調のメロディーにのって着物を着て歌うゴスペルがあってもいい。プレイズは何もヒルソングだけじゃない。私は以前「島唄」にゴスペル歌詞をつけて歌っていました。

私の友人が演歌フレンズ応援団長ですが、残念なことに、当日は別の予定があり、参加できませんでしたが、あとで画像を見て楽しみました。

実は聖書にあるんです。「宴会」という言葉。


「こころに楽しみのある人には、毎日が宴会である。」(箴言15:15)


アーメン!昔の説教者が言いました。「イエスを信じると、枯れ木に花が咲き、焼いた魚が踊りだす。」イエスを信じると人生が変わる体験をします。今までにない平安と喜びが湧き出ます。


「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心(腹から)の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37−38)


これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのです。そして、ペンテコステの日以来、御霊は降って、今、イエスを信じる者のうちに住んでくださっているのです。喜びの水源を内側にもらっているのですね。イエス様が、祭りの日にこのことを語られたというのもベストタイミングですね。クリスチャンライフは祭りと親和性があるのです。主にあって人生はセレブレーションだからです。それで、クリスチャンは集まってきてはワーシップをするのです。ワーシップっていいですよね。主のご臨在を感じるし、霊的に励まされ力を受けます。

ヨハネ福音書には7つの「しるし=奇跡」が出てきますが、一番最初の奇跡は何だったでしょうか?そうカナの婚礼でイエスが水をワインに変えた奇跡です。場面は婚礼=宴会です。何でも第一印象が大事ですね。最初の奇跡がこれでした。水をワインに。質が変化する奇跡。イエス様は人生の質を変化させるのです。もう水っぽいつまらない人生ではなく、主と共に歩むセレブレーショ=宴会の日々なのです。

先日、新宿でエクレシアをやったとき、参加メンバーが「今日はメチャ笑いました。主に感謝」とフェイスブックでコメントしていました。笑える場があるって素晴らしいですね。御霊のあるところには自由があります。(IIコリ:17)解放があります。安心して自分をさらけ出せる自由があるのです。

丸の内エクレシアでもよく笑います。一緒に食べ、笑い、人生を分かち合い、みことばを学び、祈り合います。これは私たちの「宴会」です。お腹も心も満たされて帰途につきます。そういえば5000人の給食でもパンが余りましたね。神はケチな方ではありません。祝宴に食べ物や飲み物が足りなかったら寂しいですよね。主にあってはいつもOverflowingです!神は敵前であっても食事をととのえ、油を注いでくださいます。そして、私の杯はあふれているのです。(詩篇23:5)

どうも、日本のキリスト教の印象は「暗い」、「堅い」、「つまらない」の三拍子ですが、イエス様ほど退屈とは正反対の方もいません。マルコ書を読むとイエスのおられるところに常に「驚き」があるのです。感動があるのです。死から復活したイースターはエキサイティングな出来事です。十字架の前に静まる面もありますが、復活を歌って踊って喜ぶ面もあるのです。日本人でもブラックゴスペルのダイナミックさに触れるとき、それを感じるのではないでしょうか?

もちろん、人生には辛いこと悲しいことがあります。でも知ってください。私たちはどこに向かっているのかを。

私たちが目指している場所はどこでしょうか?暗闇ですか?恐れですか?裁きですか?いえ、聖書はこう言っています。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会=大宴会に近づいているのです。」(ヘブル12:22)


ハレルヤ!私たちが一日、一日近づいているのは「大宴会」です。そして今、この地上でその前味を味わっているのです。

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2015年10月23日金曜日

福音に生きる

日本では3:11東日本大震災を機に「教会」「宣教」「福音」について再考がなされています。つまり、今まで通りの伝道や教会形成でいいのかということです。その中から、もっと地域コミュニティに支えてゆく、そして、よき業をコミュニティのため行ってゆく「教会=よき業宣証共同体」という考えが出てきています。しかし、それは日本だけではなく、世界的にも今までの「福音」の理解に疑問が投げかけられている流れがあったのです。現代アメリカのアナバプテスト派の神学者でノーザン神学校教授のスコット・マクナイトの書いた「福音の再発見」が日本語にも訳されて話題を呼びました。マクナイトはこう言います。

「われわれ福音派の者は全体として、使徒的な福音と言う意味での『福音派(Evangelical)ではなく、むしろ『救い派』(Soterian)になっているということだ。なぜ私はそう言うのか。それは、われわれ福音派の者は、『福音』(gospel)という言葉を『救い』(salvation)という言葉と(誤って)同一視してしまったからだ。

福音をただ、神との個人的な関係としてしまうと、「誰が救われていて、誰が救われていないか」ということだけで形作られる「救いの文化」(福音の文化ではなくて)をもたらすことになるという。そして、そもそも聖書が神とメシアと神の民の「物語」なのに、そこから切り離され、個人主義へ移ってしまう危険があると指摘している。(よく聞く表現で、「救いはイエスとの個人的な関係」と言う具合に)

では福音とは何なのか?それは福音書を見るのが一番いいという。(事実、新約聖書の最初の4つは『福音書』と呼ばれている)4つの福音書はイスラエルの物語を完成させる救いの物語として、イエスの物語を語っているという。ちなみにパウロはイスラエルの完成について、ひいては被造物の最終的贖いと回復についてまでの壮大なドラマをローマ書で語っている。

最近、注目されているイギリス国教会元主教のNTライトも聖書は神が神の民に語られた『神の物語』で、そのテーマは『創造から新創造へ』であるとする。しかも、その物語は「あなた」を主役として招いていると。(つまり聖書は大昔の本ではなく、今、私たち自身が聖書で語られた「神の物語」の真っ只中にいるということ。)従って物語の起承転結を理解するには、創世記から黙示録までの救いの大きな「流れ」を読まなければならない。それは人間の魂の救いだけではなく、被造物世界の救いの達成も含まれている。ライトの理解では聖書の物語の結末では、この物質世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになるという。ローマ8:17には「私たちはキリストとの共同相続人である。」と書かれている。当然、相続するのは御父の所有する「御国」。この世の消滅ではなく、トランスフォーメーションとうい考え。そうすると、物質世界の連続性があることで、今この地上でなされる仕事や社会事業に意味が出てくる。

しかし、個人的には疑問も残っています。IIペテロ3:10からの「天の万象は焼け崩れ去り・・」という箇所の解釈をどうするか?世俗のシステムの廃止というだけならなぜ、「地と地のわざは焼き尽くされ」だけで止まらずに「天は大きな響きをたてて消え失せ」と書かなければならないのか?また、 Iテサロニケ4:16−17が黙示文学的な表現であり、「象徴的描写」とライトに言われると、「レフトビハインド」の世界をそのまま信じてきた私などには戸惑いもあります。しかし、「象徴描写」としたほうが平安があるのも事実です。空中携挙前にとにかく伝道し、自分はイエス様の元に引き上げられ、その後、地上がどうなろうと関係ない、というのもいかがなものかと思います。また、この天地が崩れ去り、全く新しく新天新地が形成されるのであれば、この地上で為す社会事業は究極的には意味がないことになる。実際、映画「レフトビハインド」を見ると、エンターテイメント映画としては面白いが、これを本当に信じているのかと言われると、どうも今の自分には違和感もあるのです。

さて、福音書の中心はイエスであり、ではイエスは何を教え、何をしたのでしょうか? 以前にも書きましたが、イエスは

1.      悪霊を追い出し。
2.      病人を癒し
3.      「神の国」を宣べ伝えた

いつも、この3点セットです。弟子たちが悪霊を追い出せずにいた時、イエスは「この種のものは祈りによらなければできない。」と言われました。現代でも多くの場合、悪事を行う時に悪い者の誘惑の声を聞くのではないでしょうか?個人のレベルでも国家レベルでもそうでしょう。だから、祈りが必要なのです。祈りによって霊の流れを変える、霊的な環境を変える、悪霊の働きを縛ることが必要なのです。つまり、この第1点目は「祈りのミニストリー」と言えます。私は山手線一周祈祷に参加していますが、決して無駄なことだと思っていません。天と地を結ぶ祈りができるのはイエスの名によって祈るクリスチャンだけです。総理大臣でもできないことなのです。名もない我々がイエスの名によって祈る時、「宇宙の主」である神は聞いてくださるのです。

2番目は体の癒しはもちろんのこと、精神の癒し、ひいては社会の癒しも含まれるでしょう。物質世界をお造りになった神は我々の肉体面もケアされます。そのお心を持って、個人の病の癒しから社会奉仕に至るまで、罪が入って傷ついているこの世の痛みに仕え、奉仕することではないでしょうか?具体的にはホームレスや貧困シングルマザー、被災地の人々に仕えるなどがあります。

そして、3番目には「神の国」を説くこと。神の国とはロケーションのことではなく、神が支配するところです。神がいるとはどういうことかを生活、仕事共同体=エクレシアを通して証することです。神はアダムを作ってから園を管理するという「仕事」を与えられました。人とは仕事を通して神の栄光を現す存在なのです。仕事を通してこの社会を機能させてゆくこと、そして、1ミリでも天国に近づけること。私たちの生活と仕事は神の国を広げることに緊密に関係しています。「エクレシアに来ると会社と180度違うんですよね。」と言うビジネスマンがいます。ある家庭集会に参加したビジネスマン男性が「こんな世界があるんですね〜」と感動していました。クリスチャンの集まるところ不思議な魅力が生まれます。この東京砂漠に「神はいる!愛はある!こんな世界がある!」ということを証してゆくのです。とくに共同体=エクレシアの証です。クリスチャンが互いに愛し合い1つになっていることがこの世への一番の証なのです。(ヨハネ17:21)

祈り、奉仕(仕事)し、神の国を証していきましょう。
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2015年9月30日水曜日

「聞かれない祈り?」


 皆さんは祈りについてどんなイメージを持っているでしょうか? 徹夜祈祷、断食祈祷なんていうのもありますね。一生懸命お願いしているイメージではないでしょうか?ある人は、祈らなくては・・と祈り課題のリストを義務として祈っているかもしれません。

ある大会の分科会で「祈り」セミナーに出ました。その先生はセミナーの初っぱな、「神の声を聞いた事がありますか?一人ずつ、その体験を話してください」と言いました。ちょっとびっくりしました。そして、皆の話を聞いた後に、「祈りは聞く事です。」と言われたことが印象に残っています。

ダマスコ途上のパウロのように直接、神の声を聞いた人もいるし、印象として思いが来る場合もあでしょう。「日本の宣教に召された」と、日本に来る宣教師はある意味で神の声を聞いてやってきたのだと思います。

祈りは双方向ですね。祈りは本質的には神との交わり/コミュニケーションのことと言えるでしょう。キャッチボールなので神の声を聞き、神に申し上げるという双方向です。

それは信頼の中でかわされる会話です。信仰の関係は恋愛関係に例えるとよくわかります。恋人同士はお互いに話したいし、相手の言葉を聞きたいのです。そうやって愛を確かめます。神との愛の確認をするんです。

この祈りという行為には通常以下の4つの要素があります。(順番も大事。)


A: Adoration  神を慕うこと、礼拝や賛美を捧げる事
       まず賛美。神の大きさを思い起こす。神がどんな方か?

C: Confession  罪の告白をすること。神とのパイプをクリーン
T: Thanksgiving  感謝をささげる
S: Supplication: お願い


Adorationには声に出す賛美もありますが、静かに神を思いめぐらすことも含まれます。カトリックは瞑想を大事にしますね。プロテスタントももっと「黙想=メディテーション」を礼拝に入れた方がいいと思います。神を待ち望む姿勢は大事です。

そう待ち望むのです。多くの場合、玄関ベルを押して神様が出て来る前に玄関を去ってしまいます。本来礼拝はゆっくり神とお会いする時ですね。しかし、礼拝がプログラム化する危険があります。次から次へプログラムが目白押しで、プログラムを「無事終える」ことで安心してしまうような。でも、礼拝は本来、何か起る場所なのです。神に遭遇する場なのです。神が語る場なのです。神に出会い、神に取り扱われる場なのです。

さて、すぐに聞かれない祈りをどう考えたらいいのでしょう。ヨハネ5:1から38年間病に臥せっていた人の話が出てきます。あの池の周りには大勢の病人がいたのです。ユダヤの神殿隣接の回廊です。多くは神を信じていた人でしょう。当然、癒しを祈ったでしょう。祈っても、祈っても、癒されなかった多くの人がいた訳です。三浦綾子さんは13年カリエスでベッドに寝たままでした。星野富弘さん下半身麻痺で寝たきりとなりました。当然、彼らも癒しを祈ったでしょう。祈り続けたでしょう。

三浦さんも星野さんも、すぐに癒されない中で、恐らく彼らは沢山、神と会話したでしょう(文句も含めて)。沢山祈ったのです。神と交わったのです。時に文句、神への非難も。それさえも含めて神との会話がなされました。そして、神はそれを拒んでおられないのです。ですから、何でも祈ればいいのです。何でも話せばいいのです。祈りは神との会話です。ハワイのホープチャペルのラルフモア牧師は、「無責任に祈りなさい!」と言います。祈りに応えるのは私たちの責任ではありません。私たちはただ問題を神にもっていくだけです。祈りが会話であり、交わりが祈りの本質であれば、ある意味で「祈りの目的」は達せられているのです。

「お願い」は祈りの中の1つの要素にしかすぎません。祈り=お願い ではないのです。そこだけ取り出して、祈りが聞かれる、聞かれないという論争はあまり意味がありません。神との関係はどうなっていますか?が正しい質問です。実は賜物、いやし、問題解決より、神ご自身を求めて行くことが祈りの本質であり、神が喜ばれる事です。なぜなら問題は解決されても、また次の問題が来るからです。地上にいる限り問題は無くならないでしょう。

バンクーバーのリージェントカレッジのジェームス・ヒューストン教授も、「祈りは、神との交わりである。」と言っています。そして、その交わりを妨げるものとして、以下の3つを挙げています。

1.心の傷 — 親との関係など、父なる神のイメージがゆがむ。
2.行動主義 — 心の傷をかくすため、自分の弱さを直視しないため行動し   
       てしまう。神より先に動いてしまう。自分でやってしまう。
3.神への不信 —神の無条件の愛を信じられない。「何かしないと神に受け入
       れられない。」と思っている。神の子供の特権を忘れている。

聖書は言っています。
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
                           (詩編37:4)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と続きます。


このように、神との関係が祈りの答えに関連していることが分かります。神に信頼している時、神が成し遂げてくださるのです。神があなたの人生に責任もってくださいます。

ある意味では聞かれない祈りを通して神との交わりが深まることもあります。もちろん神は知っておられるのです。無視していないのです。

(6節、彼が伏せっているのを見、それが、もう長い間のことなのかを知って、彼に言われた。よくなりたいか?)

彼が伏せっているのを「見」、長い間のことなのかを「知って」その上で、語りかけたのです。ときどき、長いトンネルに入って「もう出られないのではないか。」と思うこともあります。しかし、神の目の前で起こらないことは何一つ無いのです。

あなたの髪の毛の数さえ知っておられる神は、あなたの問題も課題も、祈りの言葉に上る前から知っておられます。神の目の前で起っていない問題は無いからです。そして、神は、あなたのことを心配して(ケア)おられるのです。


「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)


何よりも神を信頼することが大事なのです。神は御子キリストさえ私達に下さったのです。それ以上何を惜しまれるでしょうか?正直にあなたの思いをなんでも神にぶつけてください。神は受け止めてくださいます。信頼関係がある友達には何でも言えますよね。ただ、何度も言うように、これは神との「関係」の話ですから、

繰り返しますが、あなたが祈る時、神は聞いています。無視している訳ではありません。でも時に答えをくださるまでに時間がかかる時があります。私が銀座を歩きながら都心でエクレシアを始めたいと主に願ってから、実現するまで10年かかりました。しかし、それは実現したのです。

では、祈りが妨げられる要因とは何でしょうか?—動機が大事なのです。

●   悪い動機で求める(ヤコブ4:3)自己中心の祈りは聞かれない。

●   告白していない罪がある (第一ヨハネ1:10)
⚫ 兄弟を赦していない  (マタイ5:23−24)


こういった場合には祈り(神との関係)が妨げられます。5:14「もう罪を犯してはなりません」 折々罪と病が関係しているのです。特に「憎しみ」「赦せない心」です。この男も誰かを38年間赦せない思いがあったのかも知れません。あるいは、「直りたくない」直らないことによるメリットが直ることより大きかったのかも知れません。7節は、変な答えですね。すぐに「はい、直りたいです」ではないのです。病気であることで「働かなくていい」「ケアされ、注目しつづけられる」からなのか、家族が食事を運んでいたか?分かりませんが・・「してくれない病」という「病気」だったのかも知れません?いずれにしても主は「罪があった」と言われたのです。


それでも聞かれない願い?
あの大使徒パウロには祈っても取り除かれない「肉体の棘」があったというのです。(第二コリント12:7−9)あのパウロ大先生でさえ、「棘」が取り除かれない、つまり祈りが聞かれないという状況があったのです。しかし、神は「わたしの恵みはあなたに十分です。」とパウロに言われたのです。つまり、以下の3つのケースがあるのです。

1.祈って状況が変わる(祈りが聞かれる)あるいは、願ったものがそのまま与えられる(奇跡)
2.状況に対応する力(恵み)が与えられる。
3.祈った人が変えられる(忍耐など品性が練られる、神の視点が与えられるなど)

星野富弘、レーナマリア 片腕のソウルサーファー。彼らは、非常な困難の中を通りましたが、今は前向きに主と共に、笑顔さえ見せて、主のために歩んでいるのです。

祈りは神との関係なので、機械的なパターン(方程式)はありません。そして神の為さる事は不思議なのです。ワンパターンではありません。

ペテロは獄中から救い出され、ステパノは石打で死んだのです。どっちが信仰深かったという問題ではありません。神がそうお決めになったのです。日本のキリシタンもそうですが、多くの場合、迫害の中の人は助け出されず、殉教しています。

しかし、聖書は言っています。「神を愛する者には神はすべての事を働かせて益としてくださるのです。」(ローマ8:28)すべてを働かせて益とする。それは必ずしも自分中心の欲を満たす意味での「益」ではなく、神のご計画の中での、神の「益」という意味です。

神の思いは私達の思いより高いのです。繰り返しになりますが、祈りの目的が単に、問題の解決なら、また問題は来るのです。問題のただ中で、神が共に居る。それを確認するのが祈りです。そして主の答えはいつも

「わたしはあなたと共にいる」


人生の次のステージへ
5:15 この病を癒された人は、人々にイエスの事を伝え始めました。ただ、伏して自分の事だけ考えていた人が立ち上がり、他の人に祝福を分つ者と成ったのです。今までとは違う生活へ移行したのです。違うライフステージへ進んだのです。そして、神に働く余地を与えるなら、すべての人に転機があるのです。

もうステージに立てないのか?お役にたてないのか?寝たきりで、終わりなのか?引退なのか?星野さんはそう思ったでしょう。でも神の時があるのです。例え肉体的に癒されなくても魂がよみがえり、リフレッシュされ、活き活きとした人生のステージに入るのです。イエスを信じる人生は「そのままでは終わらない人生」なのです。That is not the end!


最後に御言葉に聞いてください。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
                        (マタイ28:20)

「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。それは、わざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」(エレ20:11)

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ブログ執筆者:栗原