2019年7月15日月曜日

御国=メシア王国とは何か?

御国=メシア王国とは何か?

「クリスチャンが復活の体をもらって何をするんですか?」パラダイスに魂がずっといるなら、なぜ「肉体の復活」が必要なのでしょうか?前回、体の復活について学びました。新しい体をもらって「活躍」する場があるのです。

そこで今日のテーマ「御国」です。これだけ大事なテーマである「御国」はあまり明確に語られることがなく、多くのクリスチャンは、よくわかってないのでは無いでしょうか?「御国」=死んでから魂が行く「天国」と思い込んでいるクリスチャンが沢山いるのではないでしょうか? 

天国へ行くのならなぜ、御国を「相続する」という法律用語が使われるのでしょうか?「相続」は普通、土地を所有する時に使う言葉です。英語では「御国」はKingdomです。Kingdomには王がいて、王が治める領土があるはずです。

「事実、天地創造の教義は受肉や復活の教義と合致しており、キリスト教がいかに強固な『物質主義者』であるかということがわかります。クリスチャンにとって、最終的に与えられる天国という未来も、物質的なものです。」(ティム・ケラー/NYリディーマー教会牧師)

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まずイスラエル人にとって「神の国」とは何だったのでしょうか?旧約には「土地所有」の話がかなり重要なテーマとして出てくるのです。それが神の祝福と結びついています。旧約聖書は死んでからの「天国」について書いていない。その代わり、祝福のコンテキストで、約束の地に入ること、この地に割り当て地をいただくこと、「約束の地」を所有することが多く書かれています。地上に成就する「メシア王国」が旧約のメインテーマで、そして、これは旧約的、ヘブル的な思想なのです。


祝福には土地所有が含まれる。
申命記11:8 「あなたがたは、今日、わたしが命じる全ての命令を守りなさい。そうすればあなたがたは強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有することができ・・・」つまり、祝福とは地を受け継ぎ、所有し、そこで繁栄すること。呪いとは離散、根絶やし。


アブラハム契約=アブラハムの子孫が受け継ぐ土地
「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、
 この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』
                         (創世記15:18)


*  ちなみにこれはダビデ王国時には、この範囲の領土は成就されてない。


ダビデの子孫による「メシア王国」の預言
IIサムエル7:16 ダビデ契約=地上に成就する「メシア王国」の預言。
「わたしはあなたの身から出る世継ぎの子を、あなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼は私の名のために1つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

ダニエル 7:14、「この方に、主権と栄光と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語のものたちがことごとく彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。


メシア王国を聖徒たちも共に受け継ぐという預言
7:18:「いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世よ限りなく続く。」

7:21−22:「わたしが見ていると、その角は、聖徒たちに戦いを挑んで、彼らに打ち勝った。しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、裁きが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。」

7:27「国と主権と天下の国々の権威とは、(今、サタンが支配している権威)いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。全ての主権は彼らに仕え、服従する。」 

旧約預言のハイライトは「メシア王国」。まずこれが死んで魂が行く「天国」ではないことを確認する必要があります。だからバプテスマのヨハネが「天の御国」が近づいたと聞いた時、ユダヤ人は死んでから行く「天国」をイメージしたのではなく、地上に成就する「メシア王国」をイメージしたはずです。

バプテスマのヨハネは宣言しました。(マタ3:2)「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」そして、イエス様も公のミニストリーに入って、開口一番「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから。」(4:17)と同じメッセージを語っています。イエスは「御国の福音」を宣べ伝えた。

「御国」とは、Kingdom。KingdomにはKingがいる。そして彼の領土があるのです。そうでなければ、「王国」とは言えませんね。イエスの福音は「王国」についての宣言でした。イエスの昇天間際まで弟子たちはイスラエルの復興=メシア王国を待ち望んでいた様子がわかります。(使徒1:7)それに対してイエスの答えも、メシア王国の地上成就の否定ではなく、父がその時を定めているからあなた方はいつかどんな時か知らなくていいいという答えでした。


イエスご自身が語るメッセージのテーマも死んでから行く「天国」のことではなく、到来する「神の国」のことでした。(使徒1:3)そうでなければ、主の祈りは「天国へ行けますように!」だったはずですが、実際は逆方向の祈り、すなわち「御国を来らせ給え!」となっています。「御国」をどこに来たラスのですか?この地です。これは単に絵に描いた餅なのでしょうか?本当に地に成就する「神の国」が到来すると考える方が妥当なのではないでしょうか。


イエスは再びこの地上に「やって来る」のです。私たちの最終目的が「天国へ行く」ことならば、イエス様は再び地上に戻ってくる必要は無いのです。黙示録は「見よ、わたしはすぐに来る。」「アーメン主イエスよ、来てください!」で終わっています。「あなたのところに行かしてください。」ではない。イエスは地上に来る必要があるのです。悪を滅ぼし、ご自分の王国を確立するために。

そして、その「神の国」を我々は相続(土地所有)するのです!黙示録20章には、地上に成就するメシア王国(千年王国)のことがちゃんと書かれています。次回はその話です。
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2019年7月9日火曜日

キリスト者の希望

キリスト者の希望

NTライトの著書「驚くべき希望」が翻訳出版されましたね。この本の貢献はとても大きいと思います。多くのクリスチャンが漠然と死んだら天国と思い込み、体の復活まではよく理解していないのが事実ではないでしょうか。「多くのクリスチャンにとってキリストの十字架は地獄の火を免れる『火災保険』に成り下がり、この地上は天国行きのバスの待合室となっている」とのライト氏の指摘は鋭いです。

今でも多くのクリスチャンが死んだら魂が天国に行き、そこで永遠に暮らすと思っているのではないでしょうか?ライト氏は聖書にはストレートに「死んだら魂が天国」と書いてあるところはないと言います。えっ!でも確かに。

だって十字架上の罪人に「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と書いてあるでしょう。はい、「死んだら天国に行く」は正確には「パラダイス」です。そしてパラダイスは一時的な「場所」です。ちなみにライト氏はヨハネ14章の「場所」を備えに行くの「場所」は宿泊所であり一時的な場所であることを指摘しています。そこに魂だけが永遠に「いる」のではありません。人間は本来、体と魂でできており、(創世記2:7)魂だけ存在するのは不自然なのです。やがて「からだ」をもらうことになります。パラダイスは一時的な「場所」という意味はクリスチャンには「死後の命の後の命」があるということです。アーメン!


ではピリピ3:20の「私たちの国籍は天にある。」はどうなんでしょうか?
ライト氏はこれは、「国籍=アイデンティティ」の話なのであり、天国へ行くというコンテキストではないと言います。アメリカ国籍の人が宣教師として日本に「住んでいる」ことはあり得ますよね。同じように「天」の国籍を持ちながら、「地」で生活するのがクリスチャンなのです。「私たちはキリストの大使」(IIコリ5:20)でパウロが書いていることと同じです。ピリピ3:20の後半を読むと、天国に「行く」話ではなく、そこからキリストが「地上」に来るのを待ち望んでいるというコンテキストです。

ライト氏の一番大きな貢献はクリスマスよりイースター、すなわち体の復活の再認識でしょう。復活とは魂の永続ではなく、新しい「からだ」をもらうことなのです。ライト氏はこの点を強調しています。

そもそも「福音」とはなんでしょうか?パウロが福音について一番よくまとめて説明している箇所を見ましょう。第一コリント15章を見てみましょう。パウロが最も大切なこととして伝えたことが15章3節から語られています。

確かに3節に「私たちの罪のために死なれた」とありますが、たった1節であり、その後57節まで15章の大部分が「復活」の話しであることに気づきます。明らかに福音の重要部分は「復活」なのです。

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15:13-19:「復活がなかったら信仰も実質のないものになる。」キリスト教が寄って立つ基礎は「復活」です。これが無いなら、キリスト教の中身は空っぽだとパウロ自身が告白しています。

15:20:   キリストは眠ったものの初穂として死者の中からよみがえった。
ですから、キリストが復活したことは重要です。しかし、キリストの復活は「初穂」なのであり、後に続くものがいるということです。

15:23「順番がある。まず、初穂であるキリスト。」次に来臨の時、キリストに
属しているもの(クリスチャン)の復活があるのです。それから終わりが来る。この地上の悪の秩序の終わり。精算がつく。新しい次の世界が来る。

復活とは「死後の霊の存続」ではなく、「体の復活」です。

15:40: 「天上の体もあり、地上の体もあり」

15:44:「御霊に属する体」

15:49: 「天上のかたちを持つのです。」

15:50:「血肉の体は神の国を相続できません」朽ちるものは朽ちないものを
    相続できない。復活の体をもらって「神の国」に入る。

15:52:  終わりのラッパとともに一瞬のうちに変えられる。いつ変えられるの
    か?それは終わりの時、イエス様が来られる時。ラッパのなる時。
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朽ちるものが朽ちないものに変えられる。私たちは変えられるのです!これはラザロの「生き返り」と違います。ラザロはこの肉体のまま「生き返った」のです。キリストは新しい体を持って蘇りました。だから今までとは違う意味で「初穂」なのです。そして、それに続く我々も「生き返り」ではなく、朽ちないものに「変えられる!」のです。恐らく今の原子や分子とは違う物質で造られるのでしょう。ところで我々の知っている物質は宇宙のたった4%。96% が未知の暗黒物質と暗黒エネルギーです。ともあれ、この新しい体は「朽ちない体」つまり老いることがない。朽劣化しない。年取らない。病気が無い。死なないということです!!


単に魂が天国へ行くという話じゃないのです。まだまだその後の話があるのです。朽ちない体をもらうのです!だからライト氏が言うように「驚くべき希望!」なのです。「こうなるかもしれない」、「こうなったらいいね」じゃない。「変えられるのです!」これは大胆な宣言です。これがデタラメならパウロは神の前に嘘をついたことになります。しかし、事実、私たちは「朽ちない体」に変えられるのです。聖書はそうはっきり宣言しているのです。ハレルヤ!

ここで質問です。「クリスチャンが復活の体をもらって何をするんですか?」
パラダイスに魂がずっといるなら、なぜ「肉体の復活」が必要なのでしょうか?

雲の上で毎日ハープを聞いてるだけでしょうか?この朽ちない体を持って活躍する場がなければおかしな話です。

次回は地上にやってくる「御国」の話です。
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2018年10月7日日曜日

御国の福音


「御国の福音」を説明した本が少ない

アメリカでのオーガニックチャーチ推進者のフランク・バイオラはここ数年語ってきたメッセージを集大成してInsurgence(反乱者)という本を出しました。この副題はReclaiming the Gospel of the Kingdom(御国の福音を取り戻す)となっています。前書きのところで、「御国」について先輩たちが書いたことを学ぼうとしたところ、意外とそれに関しての本が少ないこと、あっても難しい神学書で一般の人には理解し難いことを発見し、この本を書く必要を感じたそうです。


聖書のテーマは「御国の到来!」

新約聖書の最初の本、マタイの福音書のテーマは「御国の王としてのイエス」ですね。まず、先駆者ヨハネが宣言します。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタ3:2)そして、イエス様も公のミニストリーに入って、開口一番「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから。」と同じメッセージを語っています。4:23には「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」とあり、ただの「福音」ではなく、「御国の福音」と言っています。


9:33〜35節でも同じ内容が丁寧に繰り返されており、「御国の福音」が「悪霊追い出し」、「病人の癒し」と3点セットで語られています。「あらゆる病気、あらゆるわずらい」が直されていることと「御国」とが連結しています。12:28「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」では「悪霊追い出し」と「神の国の到来」が連結しています。


また、12弟子たちを宣教に遣わしたとき、10:7−8「行って、神の国は近づいたと宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、ライ病人をきよめ悪霊を追い出しなさい。」ここでも3点セット、さらに「死人の復活」が加わっている。

マタイ4〜7の「山の上の教え」は御国の王であるイエスが「権威あるもののように語った」(8:29)御国での原則の教えであり、8章からの山を降りてからのイエスは御国の王としての「権威」の行使としての「病人の癒し」「悪霊の追い出し」「嵐を鎮める奇跡」なのです。神が100%統治する御国では病気も悪霊も自然災害も無いのです。

基本的にその後の章は「天の御国は・・・」と言うフレーズで「天の御国」の説明です。しかも、どうも読んでいくと「天の御国」とは死んでから行く「天国」のことではなく、地上での生活の描写のようです。


主の祈りは、逆方向の祈り


イエスは「主の祈り」の中で「天国へ行けますように!」ではなく、「御国が来ますように!みこころが天で行われるように地でも行われますように!」(マタイ6:9)と天が地に降りて来る逆方向の祈りを教えておられるのです。再臨のイエスはこの地上に「やって来る」のです。救われた魂が天国へ行くことが目的ならイエスは再び地上に戻ってくる必要は無いのです。黙示録21:2には、聖なる都、エルサレムが天から下ってくることが書かれています。下ってくるからには「この地」の回復と関係あるのではないでしょうか?21:1には「新しい地」があるのです。天だけではないのです。ちなみにこの「新しい」というギリシャ語は無かったものが始めて存在する「創造」ではなく、すでにあるものが「新しい性質を持つ」という意味だそうです。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」ついに花婿イエスは花嫁(21:9では「子羊の妻」と表現されている!)である贖われた民と一体となり、神が人と住むエデンの園は見事に回復されるのです。

これだけ大事なテーマである「御国」はあまり明確に語られることがなく、多くのクリスチャンは、よくわかってないのでは無いでしょうか?また何となく、「御国」=死んでから魂が行く「天国」と思い込んでいるクリスチャンが沢山いるのではないでしょうか?


福音は「御国」に関するGood News

福音は「御国」に関するGood Newsなのです。「王」と「王国」(The Kingdom of God) の話なのです。もちろん、ここで言う王はイエスです。全能なる暴君が宇宙の主であれば、私たちにはただただ絶望するだけでしょう。しかし、宇宙の主は「聖」であり、「義」であり、「愛」である方なのです。「御子は万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16)キリストが万物の根源であり、起源です。いわばキリスト宇宙論です。しかし、今は「この世の神」(第二コリ4:4)とか「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2)と呼ばれる敵であるサタンが一時的にこの世を支配しています。やがて神の国はフルバージョンでやって来るのです。指を咥えて待っているだけではありません。イエスの到来ですでに始まってもいるのです。(ルカ11:20)ですから聖書の時間軸で言うと、神の国は「すでに」始まっていますが、「まだ」フルバージョンでは来てない、その間の時代を私たちは生きていることになります。NTライト的に言えば「神の新しい世界がすでに現在に割り込んできた。」つまり確固たる希望が未来から現代へ侵入して来ているとなります。


被造物全体の回復

どうも、私たちは「福音」というと「自分の罪が赦されて天国へ行けるようになること」という「個人的」なもとして考えがちですね。しかし、罪により傷ついているのは人間だけではありません。ローマ書には「被造物全体が今に到るまでともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:22)とあります。はじめに神が天地を創造された時、すべては良かったのです。(創1:31)神と人、人と人、人と自然とは平和で調和ある関係(シャローム)が実現していたのです。それが罪ゆえに現在、歪められているのです。イエス・キリストの贖いは「万物の和解」であり、回復のためです。(コロサイ1:20)「私の罪の赦し」はそのコンテキストの中に起こる一部分なのです。







キリストにある新人類=生ける神の神殿

エペソ書2章の後半をみると、十字架が個人の救いのためだけではなく、救われた人たちをキリストにあって融合し「新しいひとりの人」つまり、「キリストにある新人類」を生み出すのが目的であることがわかります。エペソの2:21−22ではクリスチャンの集まり(エクレシア)は「聖なる生ける神殿」であり、「神のみ住まい」=「神の国」であることが明確です。神の国はキリストの体である「エクレシア」の中に体現されるのです。言い換えれば天と地が出会っている「場」です。
クリスマスのメッセージは「インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)の神が来られた(マタイ1:23)ことなのです。その神はキリストを信じる私達の中に住まわれるのです。神が住まわれ、神がご支配されるところが「神の国」=「天の御国」です。神は、この地に「神の国」を広げ、失ったエデンの園(神と人が平和に暮らしていた)を取り戻したいのです。


地上でのクリスチャンの役割

もし、死んで天国に行くことが目的なら、なぜ信仰を持った瞬間に天国に引き上げられないのでしょうか?「それは福音を伝えるため。」という答えが返ってきそうです。まず、「福音」とはなんでしょうか?「罪の赦しを受けて天国へ行くことでしょう。」「それなら第一コリント15章のはじめに書いてある。」と多くのクリスチャンは答えるでしょう。さて第一コリント15章を見てみると、パウロが最も大切なこととして伝えたことが15章3節から語られています。確かに3節に「私たちの罪のために死なれた」とありますが、たった1節であり、その後57節まで15章の大部分が「復活」の話してあることに気づきます。明らかに福音の重要部分は「復活」なのです。単なる「死後の霊の存続」ではなく、「肉体の復活」です。死への完全勝利です。これほどのスペースを割いてパウロが語り、「使徒の働き」で使徒たちが非常に力強く証しした「復活」(使徒5:33)を私たちは同じボリュームで語っているでしょうか?教会でもイースターよりクリスマスの方が大事なイベントになってないでしょうか?

それでは、もう一度、なぜ私たちはクリスチャンとしてこの地上にいるのでしょうか?罪が赦されて感謝ですが、そこで止まってしまってないでしょうか?バプテスマを受けたのは「必ずキリストの復活とも同じようになる」という驚くべき希望を持って、「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」(ローマ6:4〜5)なのです。もう一度言いますが、「新しい歩みをする」ためです。この地上は天国行きのバスの待合室ではありません。ちなみにNTライトは面白い指摘をしています。ピリピ3:20の「私たちの国籍は天にある。」は「国籍=アイデンティティ」なのであり、天国へ行くというコンテキストではないと。

多くのクリスチャンにとってキリストの十字架は地獄の火を免れる「火災保険」に成り下がってないでしょうか?十字架と復活は、クリスチャンがこの地上でよき業に励むため(テトス2:14、エペソ2:10)の準備をさせるものなのではないでしょうか?世にも善行する人たちはいます。しかし、神の聖霊を宿し、神の御心をわきまえたクリスチャンこそが「御国」の拡大のために、真に働きができる存在なのです。世の社会改革や革命では「御国」は来ません。聖霊の働きが必要なのです。同時にクリスチャンが天国への「逃避思考」であれば、この地上には「御国」が来ません。「御国が来るように!」と祈ってさえすれば、あとはソファーに寝転んでポテトチップスを食べながらテレビを見、天国を待っていればいいという訳ではないでしょう。神様チームの一員として神と共に、「御心が天でなるように地でもなるよう」働くことが期待されているのではないでしょうか。

ローマ書8章17節をみると「私たちはキリストとの共同相続人」とあります。つまり「御国」を受け継ぐのです。父から遺産として土地や財産を相続すれば、当然それを管理する責任が生まれますね。被造物は私たちクリスチャンにそれを期待しています。8:19を見てください。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」ここで「神の子=イエス」ではなく、「神の子供たち」となっていることに注意してください。これは私たち贖われたクリスチャンのことです。この被造物解放のコンテキストの中で語られているのです。私たちに「役割」があるのです。アダムが神から与えられた創世記1:28の「被造物管理」の命令は消滅した訳ではありません。第二のアダムであるキリストに連なることにより、その責任が回復しているのです。人や自然をケアすること(creation care)が期待されているのです。


私たちがこの地上でなす主にあってのすべての労苦、宣教活動に限らず、人権擁護、障害者、高齢者ケア、医療、弁護活動、教育、子育て、防災、災害支援、水一杯差し上げることなどなど(神の国を前進させる働き)は無駄になることはないのです。(第一コリント15:58)

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。堅くたって動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄で無いことを知っているのですから。」
(第一 コリント15:58)

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お勧め本

「驚くべき希望」NTライト著 あめんどう出版



「Insurgence~Reclaiming the GOSPEL of the Kingdom」
  By Frank Viola BakerBooks


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2018年8月23日木曜日

「神の国=大日本帝国」VS「神の国=天の御国」


310万人の戦争犠牲者を出したアジア・太平洋戦争

8月15日、終戦記念日。夏が来ると思い出す先の戦争のこと。戦争の終結目標を立てずに始めた戦争。関東軍のフライングで始まった日中戦争。当時、軍は政府の言うことを聞かなくなっていた。大東亜共栄圏という名の下に本音は南方の資源獲得。資源がないから始めた戦争。戦闘地域はどんどん拡大。当然、守りは薄くなる。国力は持たない。結局は310万人の死者を出すことに。しかも、病気や飢えで死んだ兵士は戦場で死んだ兵士よりも多いという。日本から遠く離れたインドネシアやビルマのジャングルの中でついに故郷に帰れず、飢えと熱病で苦しんで死んでいった同胞を思うと心が痛い。


無謀とわかっていながら始まってしまった戦争

真珠湾攻撃の発案者、山本五十六は初めから日米戦争が無謀であることを知っていた。近衛文麿に戦争の見通しを聞かれ「やれと言われれば初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら2、3年となれば全く確信は持てぬ。」と答えている。ノンフィクション作家の保坂正康氏は「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)で「無謀とわかっていながら、しかし、誰も『ノー』とは言えず、曖昧なまま始まってしまった太平洋戦争。」と記している。

真珠湾奇襲攻撃からフィリピン、マレー半島、そしてシンガポール攻略と破竹の勢いで勝ち進んだ日本軍だったが、ミッドウエイ戦より敗戦色が濃くなる。ガダルカナル島での戦いで約2万人の死者を出す。戦死者のほとんどが飢と疫病での死であった。大本営発表のウソはこの頃から肥大化する。国民にはウソをつき、無謀な戦略で若い兵士たちを無駄な死に追い込んだ。アリューシャン諸島のアッツ島の戦いから「玉砕」が始まる。昭和18年から狂気を帯びて来る。マキン島守備隊「玉砕」、タラワ島守備隊「玉砕」、サイパン島守備隊「玉砕」グアム島守備隊「玉砕」。
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さらに詳しく知りたい人は
「あの戦争は何だったのか」 保阪正康  新潮新書
「すべてわかる図解 太平洋戦争」 世界情勢を読む会 編著 日本文芸社


無謀な作戦の代名詞「インパール作戦」

体制を立て直そうと打って出たインパール作戦。もともと太平洋戦争は日中戦争から始まった。当時の敵国、蒋介石率いる国民党軍のバックアップをしていた英米国の補給路(援蒋ライン)を断つため、中継基地としてのインド領インパールをビルマ側から攻める計画だった。3つの師団長が反対する中、軍司令官牟田口廉也中将の恫喝的命令で事は進められた。反対する師団長は更迭された。日本軍は補給路もなく、兵士は雨期のジャングルを食料、武器の補給ないまま行軍した。敵の食料、武器、兵士の補給は空路により十分調達されていた。勝ち目はなかった。再び、日本軍は飢えと熱病で死んでいった。作戦は失敗。ついに退去命令が出て引き揚げが始まった頃には、兵士は力付き、道端で死に白骨化した。その撤退路は「白骨街道」と呼ばれたという。無謀な作戦を神がかりな精神論でカバーする。(今でも、一部の運動部や会社で続いていますね。)敗戦色が濃くなっていたが、「神国」日本が負ける訳が無いというプライドと信仰。再び神風は吹くという神がかった狂乱思想で突き進んでいた。

そして、カミカゼ特攻隊、人間魚雷「回天」、エンジン無しの爆弾機「桜花」と自爆攻撃に頼るようになる。小学生に「出てこい、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ、地獄に逆落とし」という品の無い歌を教える末期症状。ついには米軍の沖縄上陸。本土侵略の盾となって10万の兵士と20万の市民が亡くなった。「お国のため」とは何なのか? 誰を守るのか?当時、国とは「国民」ではなく、天皇制という「国体」であったことを忘れてはならない。「人権」という思想が無かったのだ。
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さらに知りたい人は小説「インパール」(高木俊朗著 文春文庫)


戦争はいつ終わったのか?

まずは、「終戦」なのか、「敗戦」なのかという議論がある。敗戦を認め、ゼロサムスタートで、自主憲法、独立主権国家を目指さなかったため、敗戦が永続しているという論もある。(「永続敗戦論」 白井聡 太田出版)ここではこの議論は割愛する。

ともあれ、戦争はいつ終わったのだろうか?日本人は8月15日が終戦の日と思っているが、いつが終戦なのか決めるのは実は難しい。7月26日にポツダム宣言が出され、日本はそれを受け取っていたが、国体維持できるのか議論中、連合国側には「黙殺」と伝わり、米国はこれを「否定」と取って、完成したばかりの原爆を長崎、広島の2箇所に落とすことになった。どうせ後に受諾したのであれば、7月の時点で受諾していれば、原爆の被害はなかったことを思うと何ともやるせ無い。

8月10日未明の御前会議で聖断が下され、14日に受諾通達。8月15日に玉音放送で日本国民は敗戦を知ることとなる。しかし、ポツダム宣言受諾の正式調印は9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリー上で行われているので、海外では終戦は9月2日となっている。さらに7年間の連合軍の(実質米軍)占領期間を経過して、1952年、サンフランシスコ講和条約にてようやく敵国との講和が結ばれ、戦争賠償、領土の線引きなどの整理をし、(この時、国後、択捉2島を含む千島列島は放棄しています。)戦争が正式に終結し日本は独立主権国家(名目上)として認められる。サンフランシスコ講和条約と同時に現在の日米地位協定が結ばれ米国は実質、「好きな場所に好きなだけ軍を置き、しかもそこは治外法権とする。」ことが約束された。今でも米軍空軍基地の上空は米国の制空権であり、日本の旅客機は迂回して通っている。
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さらに知りたい人は
「日本はなぜ『戦争ができる国』になったのか? 矢部宏治 集英社


単純ではない9条問題

絶対平和主義の思想で作られた憲法9条(当時の吉田首相は野党の質問に『自主防衛のためでも軍隊を持たない。』とまで発言している。)は朝鮮戦争時のいわゆる「逆コース」で警察自衛隊を持つこととなり、それが現在の自衛隊(実質の軍隊)となった。そして、9条をかざし「戦争をしない」、「軍を持たない」と言ってながら、自衛隊という「軍」を持ち、世界最強の米軍の基地を国内に配置、米軍の核の傘の元に守られている。いわゆる「ずるい9条」状態を理解しないと9条の議論はYes, Noだけでは拉致があかない。9条は結局、米軍を抜きにした場合、軍隊を持たない丸腰絶対平和主義か、自衛の国防軍を持つという現実主義に帰結するしかない。永世中立国のスイスでも軍隊はある。



「神の国」大日本帝国VSキリストの「神の国」  

この似て非なるもの。2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会において森喜朗内閣総理大臣(当時)が行った挨拶で「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く・・」と発言。これが問題の「神の国」発言。戦後55年も経っているのに、当時の総理大臣がこのような発言をしたことは驚きだが、戦中は当たり前のように天皇は現人神であり、日本は「神の国」であった。ここに2つを比較してみる。
 

大日本帝国               キリストの神の国
日本は天皇を元首とする「神の国」    キリストを王とする「神の国」
天皇陛下万歳!天皇参拝         Praise Jesus! 創造主を礼拝
皇帝史観—万世一系 世界観    創造、堕落、贖い、再生の神の物語
八紘一宇=世界は天皇の家族       すべてのものはキリストの足台
五族協和の王道楽土=満州        キリストにあって1つ
大東亜共栄圏              多文化共栄の御国
一億火の玉 一億一心          1つのキリストの体
大和魂精神注入(精神棒)        御霊の満たし   
滅私奉公 —お国のために       献身—御国のため、福音のため、
動機:権威主義、義務、恐れ       動機:自由意志、愛 


地上の帝国はいつか滅びる

1945年、終戦を迎え「大日本帝国」は滅んだ。これが事実。戦後、180度違う価値観で教育が行われるようになり、軍国主義から民主主義の国に転換した。今、我々は「大日本帝国憲法」下にはいない。新しい「日本国憲法」の下にいる。世の体制は移りゆく。エジプト帝国も、バビロニア帝国も、ギリシア帝国もローマ帝国も滅びた。しかし、キリストの「神の国」は滅びない。永遠であり、揺るがされることがない。戦時中、日本の民は「お国」のため死んだ。「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンの元、犠牲を払った。その国は滅んだ。国体護持で守った天皇は国民のためには死ななかったが、神の国の王、イエスは我々のために死んだ。キリストの御国のためには本当に犠牲を払う価値のではないか?



愛は献身に先立つ

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供
 え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
                         (1ヨハネ4:10)

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
                         (1ヨハネ4:19)

この順番を間違えると律法主義になってしまうのです。もちろん、聖書は「服従」、「献身」を要求しています。それは、私を愛し、私のために命を捨てた方(キリスト)に対して献身するのです。愛のゆえに献身するのです。イエス様があまりに素晴らしいので服従するのです。それ以外であってはなりません。

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神の御心を行うものはいつまでも長ら 
 えます。」 (第一ヨハネ2:17)

「こういうわけで私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感
 謝しようではありませんか。」        (ヘブル12:28)

あの310万人は無駄死にだったのでしょうか?インパールの白骨街道やガダルカナルで亡くなった兵士は思ったはずです。「日本へ帰って、本当の仕事がしたい。」と。「なんで、ビルマのジャングルの中で、馬鹿なリーダーの馬鹿な作戦を実行するため、雨の中を夜行軍し、アメーバ赤痢に犯され、マラリヤになり、死ななければならないのか。」と。実際、死んでウジが湧き。行軍についてゆけず見捨てられ、「捕虜となって辱めを受けず」と教えられ手榴弾で自殺させられたのです。そして、誰にも看取られず、ジャングルの中で死んでいったのです。何のために!それが本当に「お国」のためなんでしょうか?

神風特攻隊や、人間魚雷はSuicide bomb (自殺爆弾)と英語で訳され、アメリカの博物館ではStupid bomb(バカ爆弾)とまで書かれているそうな。ああ、私は、キリストの「神の国」のために献身できて嬉しい。神の聖、義、愛、平和が支配する国。それが御国。バプテスマのヨハネも、イエスもこの「御国の福音」を宣べ伝えた。福音とは「国」に関する知らせなのです。イエスの王国、神の国の到来。命と光の到来。希望の到来。誰も見捨てられず、一人一人が大事にされる王国。このためなら命を捧げる価値がある。パウロは言いました。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」
                      (ピリピ1:21)

「けれども私たちの国籍は天にあります。」   (ピリピ3:20)

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