2011年11月12日土曜日

霊的コミュニティを建て上げる (5)



ラリーは2つの部屋について説明している。1階と2階。1階は「この世」「肉」「現実の日常生活」と言ってもいいだろう。そこには常にコンフリクトがあり、罪があり、傷つけ合いがあり、痛みがある。なぜなら、人はそこでは自己中心であり、自分の価値を見せつけるプレッシャーの元にあり、自分を自分で守ることに精一杯だからだ。

「私の人生これだけなの?何かこれ以上のものがあるはず」と未信者でも2階の存在を意識している。アッパールーム(2階)には主がいて、COMMUNIONの用意が出来ている。そこはキリストによってのみ変えられた世界、変えられた自己がおり、自分中心の態度はキリストをワーシップする情熱に変えられ、人間不信はキリストへの信頼、自己破滅的な快楽はキリストにあって霊的に成長する情熱へと変えられる。自分の人生、自分でマネージできると思っていた自分は、キリストへ服従することへの思いが与えられる。

未信者でも人生が1Fだけじゃないことを感じている。隠れ場を求めている。だから、スピリチュアルにハマる。すべての孤独は神への渇きだから。しかし、未信者には2階があっても鍵がかかって入れない。鍵を解くことはイエスとの交わりを始めるということ。2Fを知っていることは何という幸いか。二階に行く事により、キリストと交わることにより、以下の移行が起こる。


1)自己にフォーカスする → 神をワーシップ

2)自分が判断基準 → 神のことばが判断基準

ちなみに、人は善悪を知る木の実を食べて、(神なしに)善悪をわきまえる、すなわち、自分が判断基準となった。だから、人間は神はいない、信じるに足りないと結論することさえできる。

3)自分の生活を自分だけで管理する → キリストを信頼する歩み。


それにより、自由になる。平安になる。Dead Endが無くなる。行き詰まっても、常に2階がある。そこへ行けば、キリストがいる。祝宴の用意がある。だから、Spiritual communityとは、この2階を知っている者の交わりなのだ。
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2011年11月6日日曜日

霊的コミュニティを建て上げる(4)



 ラリー・クラブは、霊的コミュニティは「奇跡」だという。人間的には作り出せない。参加者全員がへりくだり、キリストを見上げる(ワーシップ)態度が無いと起こりえない。形だけスモールグループをやっても、それが無いと全然違ったものになる。愛とは他人に関心を注ぐ事。そのためには他の人が言っていることに誠実に、耳を傾ける必要がある。スモールグループが失敗する一つの理由は、ある人が会話を牛耳ってしまい、自分のことばかり喋ってしまうことにある。

Are you really listening? Key to successful communication」(Paul J. Donoghue & Mary E. Siegel著)によると、アクティブリスニングは贅沢ではなく、必要であると。愛とはその人に注意を注ぐこと。それを妨げるものに4つあるという。


アクティブ・リスニングの障害となる4つのこと

1)     Defending (防御的になる)

2)     “Me, too” identifying (自分の事ばかり話す)

3)     advice giving (いわゆるお説教をする。)

4)     judging the speaker (相手を裁く)


お互いに相手を自分より優れた者と思う謙遜さ(ピリピ2:3)が無いと、競争心が生まれる。お互いの業績(あるいはミニストリー)の自慢話になってしまう。また相手を裁いたり、見下したり、あるいはお説教したりが始まると一気に雰囲気が壊れてしまう。安全な場所でないと、正直になれないから。誰も正直になることは怖いので、貝のようにちょっとでもアブナイ雰囲気を感じると閉じてしまうのだ。だからお互いの謙遜さが絶対に必要となる。

たとえ良い動機であっても一人の決まった人が一方的に長いメッセージを語って終わりというスタイルでは「お互い」にの部分が起こらない。その「お互いに」が霊的コミュニティの本質的な部分だからだ。ラリーは言う、霊的コミュニティがあまりに稀なので、人々はプロのカウンセラーに頼るようになると。逆に霊的コミュニティが機能すると、かなりの部分、お金を払って会いに行くカウンセリングが必要なくなるとラリーは見ている。しかし、また、あまりに仲良しグループになってしまうと、人間的なものが先行し、なあなあ主義になりチェック機能が効かなくなる危険がある。キリストの前に出ないとお互いの罪を容認してしまう危険があるのだ。愛をもって真理を語れる関係でなくてはならない。あるいは、注意しないと、単なるはけ口としての他人の批判や教会の批判、傷のなめ合い集団になる可能性もある。だから、霊的コミュニティは「奇跡」。しかし、追い求める価値あるもの。ラリーは言う。

It’s time to build the church , a community of people who take refuge in God and encourage each other never flee to another source of help, a community of folks who know the only way to live in this world is to focus on the spiritual life – our life with God and others. It won’t be easy, but it will be worth it. Our impact on the world is at stake.
(p.20)

今こそ、教会を建て上げる時だ。教会、すなわち神に隠れ場を求める人々のコミュニティ。彼らはお互いに励まし合い、神以外のものに助けを求めに逃れない。彼らはこの世に生きる術は霊的生活(すなわち神と他者と共にある我々の人生にフォーカスすること)しかないことを知っている。それは容易ではない。しかし、価値あることだ。この世へのインパクトが懸かっているから。
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2011年10月29日土曜日

霊的コミュニティを目指して (3)



アメリカの著名なカウンセラーであり、ライターであるラリー・クラブ著の「Becoming TRUE Spiritual Community」(真に霊的なコミュニティを目指して)から霊的コミュニティつくりについて、ご一緒に考えてみましょう。ラリー夫妻は最近、フロリダに引っ越した。

ある日、マイアミビーチを散歩していた。そこで見た光景が忘れられないという。15メートルくらいのベンチに年輩者たちが座っている。フロリダは退職後、老後を過ごすのに多くの人が選ぶ土地柄でもある。しかし、そこに座っている人々はまっすぐ前を向いたまま、隣の人とも話さず、誰にも触れず、前を通る人やバスにも注意を向けず、同じ姿勢で固まっている。コーヒーカップも見当たらず、新聞や本さえ読んでいない。人間関係をエンジョイするように、神のかたちに作られた人間の証拠がどこにもない。その悲しい姿にラリーはショックを受けたという。

長い人生で恨み怒りが蓄積してしまったのか?友達や家族に裏切られ人を信用できなくなってしまったのか。ともあれ、そこに座っている人々は無表情でただ、遠くを眺めているだけだった。

日本でも老人が、アパートの一室で一人寂しく死んでゆく孤独死というのが話題になった。無縁社会という言葉も出ている。人ごとではないだろう。特に男性は会社に献身し、退職すればタダの人で、友達もなく、妻に死なれれば、一日テレビを見て、酒を飲むしかなくなる。心を開けるコミュニティがあったならと痛切に思う。教会こそが、それを提供できる場所なのではないか?人々は霊的なコミュニティを渇望しているに違いないのだ。ラリーに言わせると「孤独」とは「神への渇き」であると。霊的な生き物である人間は単なる仲良しコミュニティだけでも満足できない。渇きは癒せない。だからこそ、キリストを中心にする霊的コミュニティつくりが重要となる。

ズバリ言ってしまえば、教会とは、神に向かう霊的なコミュニティなのである。教会とは人々のこと。そして、霊的とは砕かれている事。ここで鍵となるのは「砕かれている」(Brokeness)こと。霊的な人は愛の人。霊的コミュニティを出現させられる人はこういう人だ。


- Broken but Strong (砕かれているが、強さがある)

- Venerable but have Hope (弱さをわきまえているが、同時に希望を持っている)

- Respectfully Curious (他人を尊重しつつも、深い関心を持つ)


そこでは批判もなく、道徳論もなく、お互いに主を見上げることをする。ワーシップの心がある。SPIRITUALでなければ、単なる、仲良し関係か、仕事関係か、いやし、慰めを求める傷のなめあい集団か、神なきカンセリングか、道徳論集団になってしまう。

真の霊的コミュニティは、弱さをわきまえながら、正直に、謙虚に、あきらめず、主のもとに共に集い、主とお互いにコミットし、主と共に神に向かって人生の旅を共にしてゆく仲間たちなのだ。
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2011年10月22日土曜日

Spiritual Community シリーズ 情緒的に健全になる (2)



続けて、Emotionally Healthy Spirituality  Peter Scazzero著、から、このテーマを掘り下げてみよう。前回の最後に、間違った自己価値の置き方を、この本から引用した。もう一度見てみよう。

1) I am what I do (Performance) 自分の業績で自分の価値を計る。

2) I am what I have (Possession) 自分の所有物で自分の価値を計る。

3) I am what others think (popularity) 人からの評価や人気で自分の価値を計る。

そういう危険性に陥る理由の1つは過去の家族関係の傷などだ。前へ進むため、後ろへ戻ることも時には大事。自分の育ってきた背景や影響を評価してみる。自分自身の限界や弱さに直面するために、(そうすることで、さらに本質的に成長するために)

神は、人生のどこかで壁にぶち当てさせる。うまくやっているうちは気がつかない。シェイラさんの証のように、どん底経験は神の祝福でもありうる。クリスチャンはどこかで以下の道をたどる。

1. Active life (doing stage)    
物事がうまくいき、アクティブなステージ。活動の範囲を広げている。

2. The Wall and journey inward  
壁にぶちあたって、自分の内側を見つめるようになるステージ。

3. The journey outward  - passing through the crisis of faith and “do” for God again.
信仰の危機を通して、もう一度、神のために生き始めるステージ。

4. Transformed by Love 
愛によって変革されるステージ。霊的な人は愛の人。自分の弱さをわきまえ、他者にフォーカスする。

未熟なうちは、人を使い、モノを愛してしまう。しかし、我汝の人間的関係が常に大事であることを悟ってゆく。組織の中で、ポリシーに縛られ、人をモノのように動かしてしまうことがある。確かに組織にとっては正しい決断であったかも知れない。それでも、モノのように扱われた人の感情は傷つく。マーケットで、レストランで、ともすると給仕している人を、ロボットのように扱ってしまう。ウエートレスだって感情を持った人間であるはずだ。常に意識的に「人」と考え、「人」として対処することが大事。我汝で対する訓練が必要だ。また、自分を見つめるには、STOPすることが必要。私たちはよく、忙しくしてないと罪悪感を感じるが、忙しい職場で、意識的に30秒でもいい、時間を取る。神の前に静まることで自分のあり方が変わってゆく。以下を職場で実践してみてはいかがだろうか。

1. Stopping – to be with God (not doing something for God)
神のために何かするのではなく、ただ神と共にいることにフォーカスする。

2. Centering – Be attentive and open, focus on God 神に心を向ける

- Sit still 静まる
- Sit straight 背筋を伸ばしてすわる。
- Breathe slowly, deeply and naturally  ゆっくり深く自然に呼吸をする
- Close your eyes or lower them to the ground 目を閉じるか、それが出来ない場合は目を下に向けてみる。

3. Silence   孤独と静けさなしに神との深い交わりはありえない。
     静けさの中で、神の声を聞く。


のべつ幕無しに忙しくてはいけない。生活にリズムをつけることが安息日の意味であり神の御心。人間性を取り戻す時を意図的に持とう。この本の著者は、スポーツやゲーム、ダンス、古い家族の写真を見る事、博物館に行く事などの神にあってのFUNは安息の一部だと言う。

安息は神の御心です。そういえば、笑いを無くしていませんか?

Resting from (以下のことから離れて休みましょう)
- physical exhaustion (肉体的疲労)
- hurriedness (急ぐ事)
- multitasking (あれこれ多様な仕事に没頭していること)
- competitiveness (競争心)
- worry (心配)
- decision making (決断を下す事)
- catching up on errands (たまっている仕事をかたずけること)
- talking (話す事)
- technology and machines (インターネットや携帯の使用)

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2011年10月15日土曜日

Spiritual Community シリーズ 情緒的に健全になる (1)



 神の似姿に造られた人間にとって全人間的であること、すなわち知性だけではく、感情をみとめることが大事。どこかで読んだ本の中にあった。「狂人とは理性を失った人のことではなく、理性以外のすべてを失った人」。自分は芸術や音楽に興味ない人を、心から信用できない。信仰が強いとは感情を押し殺す人ではない。

ダビデは泣いた。ヨブも苦悶して泣いただろう。イエス様でさえ、ラザロの墓の前で泣いた。それでいい。自分の内側に何が起こっているか(Emotional self awareness)を認識することは大事。天使を装うものは野獣になる。内側がカラカラなのに、人々の前だけでいいかっこうしていると、いつか急に崩れる。

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アメリカの有名なクリスチャン番組 700クラブのホストの一人、歌手、ライターでもある、シェイラ・ワルッシュ(Sheila Walsh)が1992年に語った証より。

ある朝、私はかっこいい髪型とびしっとキメタ服装で全国版テレビ番組のためにスタジオに座っていたの。その夜、精神病院の病棟に閉じ込められていた。でも、それは神様が私に、してくれた最高に優しい行為だった。

病院での初日、精神科医が私に尋ねた。

「あなたは誰ですか?」

「私は700クラブのホストの一人です。」

「いえいえ、そうじゃなくて、」

「それなら、私はライターであり、シンガーです。」

「そういう意味じゃなくて、あなたは誰ですか?」

「えっ!どういう事か全然わかりません。」

医者は答えた。

「そうでしょうね。だから、あなたは、ここに居るのですよ。」

私は他の人が自分をどう見るかで、自分を計っていた。段々にそれが私を蝕んでいった。入院する前、700クラブのスタッフの何人かは私を止めて、こう言った。

「やめなさい。立場を失うよ。もし、人々が、あなたが精神病院に入って薬の世話になっていると知ったら、すべて終わりだよ。」

私は言った。

「どうせ、すべて終わりなの。そんな事、考えても無駄。」

本当にすべてを失ったと思った。家も、給料も、仕事も。すべて。でも、私は自分の人生(I found my life)を見つけたの。自分の一番最低の状況の中で、真実の自分を発見したの。神様は知っていたんだわ。

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Emotionally Healthy Spirituality  Peter Scazzero著、から、このテーマを考えてみよう。著者は自己価値の誘惑についてこう言っている。(PP79-80


1) I am what I do (Performance) 自分の業績で自分の価値を計る。

2) I am what I have (Possession) 自分の所有物で自分の価値を計る。

3) I am what others think (popularity) 人からの評価や人気で自分の価値を計る。

しかし、この計りでは、平安は与えられない。クリスチャンでも、一歩間違うとこのような世的な価値観に陥ってしまう。あなたは自分の価値観、アイデンティティをどこに置いているだろうか?
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2011年10月8日土曜日

キリストの復活は本当か?



「この時代、キリストの復活は信じられないな。それって弟子のでっちあげでしょ?」

まず事実確認をしよう。復活に関する12の歴史的事実 

 (by Resurrection of Jesus by Gary Habermas)


1.    イエスは十字架の極刑によって死んだ。

2.    イエスは葬られた。

3.    イエスが死に、希望を失った弟子たちは絶望し、疑いの中に  あった。

4.    数日後、イエスの墓が空であることが発見された。

5.    弟子たちは復活のイエスに出会った。

6.    弟子たちは変革され、復活の事実のため命をも賭ける者になっ  た。

7.    初代教会において、イエスの復活は中心的メッセージであっ   た。

8.    イエスが死んだ現場であるエルサレムの町で福音が語られ始め  た。

9.    キリスト教会はこれらの弟子たちによって形成されていった。

10. 初代教会では日曜、すなわちイエスの復活が起こったと       される日に礼拝を持った。

11. イエスの懐疑的な弟ヤコブは復活したイエスに会い、信じて回    心した。

12. 復活のイエスに出会った体験によってクリスチャン迫害の第一 人者だったパウロは回心した。



「弟子が盗んだってことは?」

  「復活なんてことにならないようにユダヤ指導者はローマ政府に頼んで、墓に兵士を配置してもらった。これを犯せば犯罪になる。だいたいイエスが捕まったとき、逃げてしまった腰抜け弟子どもが、ローマ兵を倒してまで死体を盗み出す勇気があったとも思えない。盗んでも死体をどこに隠すかだ。弟子の心理として愛する教祖の死体は大事に保管したいだろうから。未だに死体が見つかってない。死体が証明できれば、復活話はおじゃんだからね。じゃ、仮にローマ兵やユダヤ指導者が盗んだとすると、それも全く意味をなさない。イエスを抹殺するのが目的だったのだから、復活の神話をつくるような要素は全く排除したいはずだ。」


「十字架上で仮死していてあとで息を吹き返したとか?」

「そういう説もあるが、何せ、死んで3日目だ。それに死刑なんだから、死亡の確認をして十字架から取りおろす。兵隊がイエスのわき腹を突き刺すと水と血が分かれて出てきたと聖書に記述されているが、これは医学的にものすごいストレスがかかって死んだときに起こるそうだ。さらに死を早めるため、ある場合はすねの骨を折るが、兵隊が近づいてみるとイエスはすでに死んでいたのですねの骨を折らなかったとわざわざ記されている。(死を早めるため当時そのような方法が取られていた)」


「うーん、だったら、弟子が幻想を見たというのは?」

「これは一番ありそうだよね。弟子たちはイエスに会いたかったのだから。しかし、クリスチャンを毛嫌いしていたサウロ(ローマ名はパウロ)はダマスコ途上で復活のイエスに出会って、生涯が180度変えられた。そもそも幻想というのは恋い慕っていた人が出るもんだろう。ともかくも、毛嫌いしていた相手なんだから、夢にも見たくない存在だったんだよ。普通、幻想は有る特定の場所で起こるのが普通で、違った場所で違う人々が同じ姿を見ることはない。100歩譲って、復活のイエスは幻想でかたずけたとしても、空の墓の問題は依然として残る。つまり、空の墓という問題と復活のイエスにあったという2つの問題を同時にクリアしないと説明にならないんだ。」



「やっぱり、弟子たちの作り話が一番現実的のような気がするな。何といっても弟子たちはイエスを熱烈に愛していたんだもの。夢にだって見るだろ。」

「最大のポイントはでっち上げと自分たちでわかっている嘘のために命を賭ける人がいるかという問題だ。ネロ皇帝の時の激しいクリスチャン迫害は知ってるよね。生身の体で飢えたライオンと戦わされるんだからね。迫害の時、ああ、あれは嘘でしたと一言言えば命が助かったのに。そして、なぜ、臆病だった弟子たちが180度変革して大胆に、それも事件の現場であるエルサレルでイエスの処刑後たった50日後に堂々と命をかけてまで、復活の証をはじめたのかだ。 何かラディカルなことがあったとしか考えられない。」

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コメントお待ちしております。asktmc@gmail.com (栗原)まで、TMCでは、東京を変革してゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか、どのようにキリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成していったらいいのかについて話し合う「場」を持っています。ご関心のある方はメールください。ご案内をお送りします。

いかがでしたか?キリスト教弁証論シリーズ。お役に立てれば幸いです。 伝道版キリスト教弁証論「ジーザスくん」を以下のサイトで連載中。www.ameblo.japantmcjesuskun/
ノンクリスチャンの方にご案内ください。

次回からは、Spiritual communityを建て上げる事について、共に考えてゆきたいと思っています。お楽しみに。



2011年10月1日土曜日

聖書の信頼性



「聖書に書いてある事は信じがたく、そのまま信じるわけにはいかないね。だいたい、弟子たちがでっちあげたんじゃない?」

実は、でっちあげと考える方が難しいのです

1. 福音書の内容がでっちあげであるためにはタイミングが短すぎる。

 ルカは目撃者のいるうちにイエスの生涯をまとめあげた。(ルカ1:1−4)ということは、事実でなければ、反対する事が出来る人たちもまた生きていたことになる。事実確認ができるうちに書かれている。

2.福音書の内容は具体的で、書き方がおとぎ話とは違う。

 「昔々、ある所に、おじいさんとおばあさんがいて・・」的ではなく、例えば「クレニオがシリアの総督であったとき、皇帝アウグストから全世界の人口登録をせよとの勅令が出た。」(ルカ2:1−2)など、かなり具体的。


「それは、いいけど、原典が無くなっているのに、写本が正しいとどうして言えるの?」

ほほう、いい質問だね。プラトンやアリストテレス、シーザーなどの書いた古典の写本は1−20ほどしかない。それに比べ新約聖書の場合はギリシャ語の写本が5000、ラテン語の写本は8000もある。しかも、原典と最も古い写本のギャップは、たった100年から200年。それに比べ、他の古典は近くても1000年のギャップがある。新約においては99.5%正しく伝えられている事が証明されている。聖書66巻は40以上の記者が1500−1800年かけて書いているが、そこに不思議なテーマの統一がある。すべてはイエスキリストを指している。

イエスに関する預言も大事な要素だ。旧約にある約300のイエスに関する預言が成就している。また、4つの福音書の内容の差異については、記者のセレクティブリポートによるものが多い。(2人の盲人がいても、1人の盲人にフォーカスして、リポートを書いた場合もある)

新約の27巻はすでに信憑性があったものがAD397のカルタゴ会議で正式に承認されている。イエスが神であることはすでに使徒の働きに見られるように弟子の間では信じられていたことで、27巻の承認時に創作されたとするダン・ブラウン(ダビンチコードの著者)の見解は全く間違っている。

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2011年9月24日土曜日

愛の神と悪の問題



「今回の東日本大震災で2万人以上の犠牲者が出ている。なぜあなたは愛の神なんか説けるの?」

テロなら人災だ。自然災害は解釈が難しい。クリスチャンの死はこの地上の使命が終わったという解釈ができる。行き先はこの世よりベターな天国だから文句は言えない。しかしだ、ノンクリスチャンの場合、どう解釈したらいいのか?裁き?じゃ、東北の人がより罪深かったというのか?それはありえない。

イエス様もシロアムの塔が倒れた時、あの人たちは特別罪深かったというのか、いや、悔い改めないならあなたがたも同じようになるとおっしゃった。(ルカ13:4−5)他の人への見せしめ?それにしても、すでに今回、2万人もの人が悔い改めのチャンスを奪われた。どう解釈しても釈然としない。すべては説明つかないのだ。神のやることにはかならずミステリー(謎)がつきまとう。まず、それを素直に認めよう。

まず、エモーション(情緒)的問題なのだ。誰もがフラストレートしている。やり場の無い怒りを抱えている。ある被災者は「天に文句言った。」と。それはある意味、自然な応答ではないだろうか。神はその文句さえ受け止められるのではないだろうか? 癒しの前に感情を吐き出すステージがあるだろう。

怒り、文句、批判、フラストレーションをぶちまける必要がある。まず、相手の感情を扱う必要があるのだ。そして、みんなが共有できる思いから入ってゆく。

1.人々が死んでほしくないよね。僕は死んでほしくないと思ってる。神は人が死んでほしいと思ってると思う?

「わたしは決して悪者の死を喜ばない。悪者がその態度を悔い改め、生きる事を喜ぶ」(エゼキエル33:11)「私が来たのは羊が命を得、それを豊に持つためです。」(ヨハネ10:10)「神はその一人子をお与えになるほどに世を愛された。それは御子(キリスト)を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」聖書の中で神が語ってることだ。これを読んでどう思う?

2.神は始めから世界をこのように苦難に満ちた場所として創造したと思う?

神の造った世界は良かったんだ。もし、神は始めからこのような世界を創造したなら、ボードレールがいうように「神が存在するなら、それは悪魔だ」ということになる。今ある世はアブノーマルなのだ。神の目から見ても。神は満足してない。手放しで喜んでる訳じゃない。この世界がこのままでいいと思っていない。神が悪や苦難の作者ではない。神もそれを憎んでいる。イエスはラザロの死に直面し、涙を流された。エデンの園には天災は無かった。聖書は人の罪ゆえに地が呪われたとある。神のせいじゃない。

3.でも、神は呪われたこの世界を指をくわえて見てるだけなのか?解決に向けて何かしないのか?愛の神なら人々を救うため何かすべきでしょう?

はい、その何かをもうすでに神はしたのです。一人子イエスを地上に送って呪いを全部引き受けて十字架で死なせたのです。イエスは十字架上で言いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているかわからないのです。」イエスは十字架の上で苦しんだ。(十字架につくべき罪を何も犯してないのに。これは非合理的だ。不条理だ。)だから、今、苦しんでいる人の気持ちを理解することができる。イエスは、あなたの苦難に無関心ではないのだ。弱さに、痛みに同情できない方ではないのだ。
(ヘブル4:15)

4.神は苦難が永遠に続く事をお許しになると思いますか?

  いいえ。それを終わらせるためにイエスを送って購いの業を完成させたのです。神は新しい天と地がくる事を約束しています。実は苦難の問題には2つの神学的命題がつきまとう。神は苦難を止められないのか?止められないなら神は全能ではない。ならば、神は止められるけど止めないのか?ならば、神は愛ではない。もちろん、神は止められる。問題は、タイミングなのだ。止められるけど、今すぐではない。なぜ、すぐではないのか?伝統的に理由は2つ、1つは終わりを遅らせることで、一人でも多くの人が福音を聞き永遠の御国に入れるチャンスを与えるため。もう一つは救われた人々の魂の成長のため。もちろん、これで100%釈然とするわけではないが。

5.逆の立場からアプローチしてみよう。もし、本当に神がいないなら、どういう解釈になるのか。選択はこの大自然の為すがまま、つまり適者生存、弱肉強食となる。あるいは、利己的遺伝子に操られた乗り物としての人間がいるだけになる。怒りをぶつけられる相手は誰もいない。天災は、ただの自然現象であるにすぎない。雨が降り、風がふくように、地震も起こるべくして起こっているにすぎない。そこに居合わせた人は単に運が悪かったとしか言いようがない。しかし、多くの人はそれでは納得いかない何かを感じている。

つまり、神に対して怒りを持っている人は(そして、ある期間それが当然なのですが、苦難を受けたヨブもそうでした)、愛の神を信じたいけど、目の前の現実がそれに一致しないので、悩んでいる訳です。それはある意味での信仰告白なのです。信じるとは質問すること。不信仰とは無関心。無視して通りすぎること。神にからむのは神が気になるから。もう一つ、知らなければならないのは、死は1つではないということ。(ルカ12:4−5)肉体の死だけではなく、永遠の死(神との永遠の離別これを地獄という)があると聖書は明言している。神が新天新地を送らせている理由は一人でも多くの人が永遠の死を免れるよう、福音を聞けるようチャンスを与えるためである。

何度も言うように、ミステリーは残る。説明しきれない何かが。それはそれとして認めよう。素直にノンクリスチャンにも、「わからないよ」ということも必要だろう。議論に勝っても、相手が心を閉ざしてしまったら何にもならない。

Apologetics(キリスト教弁証論)の目的は自分の正しさを証明し議論に勝つことではなく、相手の魂が救われる事にある。

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