2011年3月27日日曜日

教会を再イメージする その3



 今回は教会のリーダーシップについてバイオラの見解を見てみよう。

まず、今日の教会における牧師というポジションにメスを入れる。

彼の疑問はこうだ。


新約聖書に

1) フルタイムで教会から給料をもらう牧師という職業が見出せるだろうか?

2) 毎週毎週、何十年も同じ会衆に向かって説教している一人の牧師を見出
        せるだろうか?


教会のミニストリーを一人の牧師に負わせてしまうことは聖書的だろうか?

聖書はつねに「お互いに」教会を描いている。ワンマンショーはありえない。

新約聖書はシングルパスター(一人の職業牧師が教会のほとんどのミニストリー

業務をする)の存在を否定しているという。またポジション、ステイタスとして

の長老もありえないと。では、なぜ、今日、職業牧師が存在するのだろうか?


信徒にとって、お金を払ってでも、自分が犠牲を払わず、牧師が他の人に仕える

こと(ミニストリー)を背負ってくれれば楽である。聖書的理由がないなら、

唯一の理由は信徒にとって「便利」だからということになる。これにより、

専門家である牧師が執り行う日曜礼拝という儀式に参加するゲストとしての

一般信徒という構造ができあがる。日曜礼拝に忠実に参加し、献金をしていれば、

一応の「任務」を果たしているという意識が信徒のうちに作られてしまう。


この慣性は非常に強く、動き出している汽車を止められないように、今日、

職業牧師制度をとりやめることは非常に難しい。牧師のほうも、その職業を

辞めても他の職を見つけるには難しい。しかし、一人の牧師に重荷を負わせる

ことで(神は決してそれを願ってない)牧師は燃え尽き、性的罪を犯しやすく

なる。つまり、牧師もかわいそうだというわけだ。しかし、聖書に長老や執事

といったポジションが書かれているだろうと反論する人もいる。

バイオラはこう解釈している。


長老(プレスビター)は単に経験ある年上のクリスチャン。文字通り長老。

執事(ダイアコニー)は仕える人、つまりお助けマン


さらにこれらはポジションではなく、(新約時代はけっしてポジションでは

なかった。それは3C過ぎ、コンスタンティンの時代から入り込んだ、聖職者・

信徒の分割から来ている。)つねに機能として表現されている。つまり

仕えている人魂を養っている人預言をしている人伝道をしている人それら

が教会の皆に認められ、されに使徒に認定された。教会に、始めからポジション

としていたのではない。自然に数年かけて、育て上げられてくるのだと

(エルサレム教会の場合、誕生から少なくも14年たってから長老が任命され

ている。使徒14:23)つまり、はじめに牧師ありきではない。


ただし、これはバイオラの牧師と使徒の働きの区分を理解しないとわからない。

確かに、エペソ4:11によると「キリストご自身がある人を使徒、・・・

ある人を牧師また教師としてお立てになった。」とあり、使徒と牧師は

同一人物ではないと取るのが自然だろう。使徒は今でいう、チャーチプランター

であり、諸教会に経済的にサポートされながら、巡回しながら伝道し、教え

(パウロは長くても2年)、教会の土台を築く人。牧師(といういうより

牧者)は長老の一人でローカルチャーチ(すなわち一定の場所)で魂を牧

する人。通常、教える賜物も兼ね備える。決して「牧師先生」という他の

信徒と区別されるような別格な存在、あるいは専門職ではなかった。

そして、彼らは教会のミニストリーを独占しなかった。


使徒がプラントしたチャーチから数年かけて、長老が育ってきている。また、

この長老は教会のために代表して意思決定をすることもなかった。新約の教会

の意思決定はすべての兄弟姉妹が携わった教会全体の出来事であった。

使徒はそれぞれの都市の教会に複数の長老(すでにその働きをしていた人々)

を任命した。つまりチーム牧会だったわけだ。CEO牧師、大教会の主幹牧師

なども存在しなかった。長老は基本的に世俗の仕事を持つ家庭人であった。

(つづく)
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2011年3月20日日曜日

「教会を再イメージする」その2



 新約の教会には「教会に行く」「church service 礼拝という儀式に行く」

というコンセプトがなかったという。教会が始め生み出されるための

「伝道集会」というものは確かにあったが、教会の通常の集まりは

「信徒」の集まりであり、プロフェッショナルによる説教を中心とした

礼拝儀式ではなかったという。初代教会を特徴づけるしるしは、

「お互いに」(新約では60回以上使われている言葉)というコンセプト

であった。神の言葉を語ることに関しても、例えばパウロは「あなたがた

はみなが、かわるがわる預言できるのであって。。。」(Iコリ14:31)

と言っている。預言だけでなく、様々な霊的賜物が「自由」に教会の徳を

高めるため使われるべきと薦められている。コリントの教会の集まりに

おける混乱があったこと自体が、当時の教会が人間のプログラムによって

統制されていなかったことの証拠でもある。(そして、神は秩序の神で

あるとパウロは言い、人間の権威やプログラムではなく、神が聖霊に

よって秩序をもって、導くことを示唆している。)ともあれ、この

「お互いに」コンセプトが信徒の成長に大きく貢献するとバイオラは

考えている。


しかし、それに反して多くの典型的な制度的教会では信徒を「成長」

させる手段は牧師や教会学校の先生によって学問的に準備され、一方的に

語られるメッセージだけに限られてしまっており、結果、人生の変革を

見ることが少ないことを指摘している。最後にバイオラが指摘する、

教会が健全に機能しているときに見られる要素を紹介しよう。



 - Interdependence instead of independence
  (孤立ではなく、健全な相互依存「お互いに」教会)

  - Wholeness instead of fragmentation
  (断片的であるより、全体的、包括的)

  - participation instead of spectatorship
  (お客さんでなく、全員参加型)

  - connectedness instead of isolation
  (孤独でなく、結び合うこと)

  - solidarity instead of individualism
  (個人主義でなく、団結、連帯)

  - spontaneity instead of institutionalization
  (ガチガチの制度ではなく、聖霊による自由さ、柔軟さがある)

  - relationship instead of programs.
  (プログラムより人間関係)

 - servitude instead of dominance
  (支配でなく、仕える態度)

 - enrichment instead of insecurity
  (権威や恐れによる押さえつけでなく、個人を解放し、豊かにする)

 - freedom instead of bondage
  (縛り付けることより自由さ)

 - community instead of corporation
  (組織というよりコミュニティ)

- bonding instead of detachment.
(バラバラでなく、絆があること)
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2011年3月13日日曜日

「教会を再イメージする」 1



前回のペイガンクリスチャニティを踏まえて、それではあるべき教会
とはどんな姿をしているのかを模索しているのが、Reimagining church 
(教会を再イメージする)という本。  

本書は大きく2つのパーツからなっており、パート1がCommunity and 
gathering教会の本質について、パート2がLeadership and accountability
で牧師論、霊的指導者を取り扱っている。今回はパート1の教会の本質
について見てみよう。

第一に教会とは「人々」のことであり、教団、組織、ムーブメントと
同一視してはならないとする。人々がイエスに出会って自然に生まれ
るものであり、キリストの体ゆえに組織というより生命体(organic
なものであるとする。興味深い着眼点は、教会の本質を三位一体の神に
求めているところだ。神は三位一体がゆえに、コミュニティであり、
関係的、社会的存在である。教会はこの三位一体の神の延長であり、
地上で現された神の命なのであると。(エペ1:22-23)

三位一体の神がお互いの間でそうであるように、教会も人々がお互い
に愛し合い、お互いに交わり、お互いに高めあい、助け合い、従い合う、
本物のコミュニティなのだと。よく一神教ということでイスラムと一緒
に括られるが、本質的に聖書の神は三位一体であるがゆえに、ユニーク
なのだ。オーガニックであり、家族であるがゆえに、命令系統、階級、
観察者、スーパーマンの独り舞台、宗教プログラムは堕落した人間の
産物であり、教会からは排除すべき要素とバイオラは考える。

よく制度的、組織的教会へのアンチテーゼとして自由なハウスチャーチ
やスモールグループが提唱されるが、ともすると制度的教会で負った傷
のなめ合い的な集まりになって批判に終始したり、自由さを強調する
あまり、聖書からずれたりする可能性もある。バイオラの強みは徹底して
キリスト中心、三位一体の神中心であり、ポストモダンのコミットメント
なき、コミュニティを批判している。第1世紀の教会は見える形で特定
地域に定期的に存在していたことを強調する。(バイオラは集まりたい
ときだけ、スターバックスに集まるようなものは教会と考えていない)

教会は特定の場所に可視的に、定期的に集まっていなければならない。
そして、キリストだけが権威者であり、すべてのメンバーが体として機能
することが励まされる。新約の神学に立脚し、三位一体の神を交わりの
ベースとしている。
(つづく)
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2011年3月6日日曜日

「ペイガン・クリスチャニティ」 その2



 前回に引き続き、フランク・バイオラの「異教的なキリスト教?」から
その主張の幾つかを挙げてみよう。


1)新約教会には一人の牧師が同じ会衆に毎週、何十年も説教してる
例はない。3世紀までは一人の牧師という制度は広まって
いなかった。新約教会では、すべての人が預言していた
(Iコリ14)のであり、牧師を通してだけ神は語りかける
のではない。神は教会が機能するように、教会に賜物を
与えている。牧師(実は牧者=羊飼い)はケアテイカー、
執事はサービスマン、で教会には「複数」いる役割。長老は権威者、
ポジションではなく、年配の成熟したクリスチャン。

(コメント)
確かに、「あの大教会の執事様ですか。」といった会話は新約教会に
はない。ポジションではないからだ。また、給料もらう
フルタイムの職業牧師もいなかった。4Cにコンスタンティン
によって給料をもらう教職者制度ができた。

2)教会には階級制度はなく、命令系統もない。教会は家族であり、
生命体である。ヘッドはキリストのみ。教会の階級制度は4C
にこれもコンスタンティンによって持ち込まれた。

3)聖餐式は基本的に愛餐会であり、フルミールだった。特別の
儀式ではない。そのムードは罪赦された祝宴のムードで
鎮痛な堅苦しいものではなかった。

4)礼拝の順番は16Cのグレゴリアン ミサ(カトリック)を
踏襲している。ルター、カルビンがリバイスしたが、牧師の
説教を中心とする基本は変わっていない。新約教会には明確
な礼拝オーダーがない。メッセージ前の長い牧師の祈りは
17Cのピューリタンが始めた。説教スタイルはもとを正せば、
ギリシアの哲学者からの借り物。その後、クリソストムや
アウグスチヌスがはやらせ、キリスト教信仰の中心的なもの
にした。
注)バイオラはパウロやテモテは使徒であり、ローカルチャーチの
  牧師とは区別している。使徒は巡回使徒であり、基本的には
  一地域、一教会に定着していない。

5)マラキ書の10分の1はイスラエル国家の税金であり、祭りと
貧しいものへの配給のためであった。(つまり社会福祉税のよう
なもの)レビ人(祭司階級)は10分の1から生活費を支給され
たが、今は万人祭司の時代で、(キリストは至聖所の幕を破った)
大祭司キリストと、すべての信徒(祭司)がいるのみ。レビ人の
サポートは現在の牧師のサポートと解釈できない。ただし、巡回
使徒や、巡回伝道者をローカルチャーチが支えていた事実はある。
また、他教会の必要のため、折々、必要に応じてのささげものが
あった。

コメント)新約では、ささげものの強調点は10分の1でなく、
私達自身をささげるという霊的礼拝行為(ローマ12:2)である。
マタイ23:23もイエスの十字架と復活以前の旧約のパラダイムの
中でのご発言で、イエスご自身、ユダヤ教のラビとして生きて
おられた。エルサレム会議での異邦人への取り扱いでは10分の
一献金の義務はなかったように思われる。(使徒15:28−29)


(コメント)
長い間のキリスト教の歴史の中で、新約の律法、プロテスタント教会の
律法が生まれてきた。屋根の尖ったゴシック建築の教会堂、固定された
長椅子。司会者用のさらに上段にある、牧師説教用の荘厳な説教台。
決められた祝祷文、正装しての礼拝出席などなど。新約教会には無かった
ものが開発されていった。歴史的には、はじめの300年は、教会堂が
なかった。アメリカでは献金の80%(50億ドル)は会堂に使われている
ことを考えると、会堂費と牧師給がなければ、何と多くの献金を宣教師や
貧しい人にささげられるか?これは考えてみるに値するのではないだろうか。

私の印象としては、新約ではローカルチャーチは極めてシンプル。
まさにエクレシア(集まり)であり、制度組織というよりは、キリストの体
(生命体)。新約教会は「お互いに」教会。今日、確かに牧師中心の頭
でっかちな教会になっているのではないか。「牧者」という役割は聖書に
ある。しかし、それはいろいろある役割の中の1つである。(エペ4:11)
そして、使徒と牧師は区別されている。むしろ、牧師は教師と1括りに
されている。牧師(牧者)は組織のヘッドというより、教える賜物のある、
また、魂をケアする(神学校の資格ではなく、すでにしている人)成熟した
長老の一人である。ポジションではない。1コリ12:28には教える人
とはあっても、牧師という言葉すら出ていない。CEO牧師は聖書には無い
概念なのだ。教会は、すべての人が参加する(つまりお客さんがいない)
家族としての、体としての教会になっているだろうか?

ローカルチャーチはシンプルだが、社会にニーズのために率先して様々
なミニストリー(やもめ支援、貧困者支援、病人の癒しなど)が神の導きと、
信徒の賜物によって行われていた。シンプルな教会(交わり)と沢山の
ミニストリー、そんなイメージだ。「壁なき教会」という表現を最近聞くが、
新約の教会はそうやって社会の癒し、回復の役を担っていた。今日、信徒を
神の国のため励まし整え、解き放つことが必要なのではないだろうか。
そのために牧師への1点集中ではなく、キリストのヘッドシップをシリアス
に受け止め、教会メンバー全員が、それぞれのミニストリーを展開することを
励まし、神の国のために共に仕えるという広い視野が必要だろう。
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