神が死に、キリスト教的有神論という絶対の世界観(メタナレティブ)は喪失した。どの世界観も他より優越であってはならない。どの世界観も、そのコミュニティに住む人々にとって意味のあるものである。これがポストモダンの主張である。整理してみよう。宗教的には多元主義を取らざるを得なくなる。
1.客観的に何がそこにあるのかが、大事なのではなく、どうやってその意味つけを言葉によってするかが大事なポイント。コミュニティと個人に意味を構築する自分が大事。はじめから意味や価値や正義がそこにあるのではない。真理がそこにあるのではなく、あなたにとって役立つなら価値がある。
2.リアリティに関しての真理は永遠に我々から隠されている。できることはストーリーを語る事。人間の言語の外にリアリティなし。
3.ストーリーが、そのコミュニティを束ねる力である。
4.大きな物語(メタナラティブ)は権力としても用いられる。政治はそれを利 用することもできる。
5.自分という実体があるのではなく、言葉によって自分が作られ、存在する。 自分が言葉 によって描くがごとくに自分はある。
倫理も言葉によって構築される。有神論では超越神のキャラクターが倫理の基準となり、自然主義では人間理性がその基準であった。しかし、ポストモダンにおいては、善悪を描写する言語の多様性にゆだねられる。客観的「本質」なぞ無く、すべては言語ゲームとなる。
サマセットモームやヘミングウエイなどの、神無き世界に「美」を求める文学も実存主義の親戚といっていい。アートや美により不条理な世界に「価値」を生み出そうとする。しかし、人間が美を意識し、美を求める事こそ神の姿の反映と言えるのではないか?(伝道者の書3:11)そうでなければ「美」の根拠さえ失ってしまう。
日本では80年代、浅田彰などのニューアカと呼ばれるポストモダンムーブメントが起こった。パラノ的伝統的文化的本流から「逃走」し、スキゾ的に生きる事を通して「脱構築」し、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という精神構造が若者に浸透していった。やがて中心から外れたサブカルチャーの時代がやってくる。関心は半径5メートル、自分の小さなストーリーにだけ生きる「オタク」が出現するのである。そして、インターネット、携帯の普及により、プライベート化、コンパートメント化されたライフスタイルが一般化してゆくのである。
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