2011年7月31日日曜日

「ポストモダン」(2)



ポストモダンは神学にどう影響したのだろうか?

ニーチェの「神は死んだ」の宣言に象徴されるように、西洋社会にも文化的「神の死」が実感されるようになってくる。キリスト教神学界の中には、これを逆手に取って、何とか現代人にコミュニケートするために、「神は愛である」を逆転させた「愛は神である」と唱えるATロビンソン主教。神は天にはいないので、90度軸を傾けて、未来の希望を神としたユンゲン・モルトマン、さらに神は、十字架で文字通り死に、人類に全く受肉してしまったとするトーマス・アルタイザーの「神の死の神学」、都市化、世俗化を神のご計画と積極的に捉えた「世俗都市」のハービーコックス、福音の真理を社会的抑圧からの解放ととらえた「解放の神学」などが現れた。しかし、それらの急進的神学は興味深いテーマを投げかけたものの、やがて廃ってゆく。神が死に、同時に人間が死んだ。人間の意味や価値、普遍的な真理がもはや消し去られようとしていた。存在のあり方で意味や価値を創造しようとした実存主義。しかし、ブルトマンらの提唱する実存主義神学は結局、神との遭遇という体験を重視するあまり、伝統的教理からは遠ざかり、やがては、ヒックスなどの宗教多元主義に門を開いてしまう。

ポストモダンのキーワードは「相対主義」。神は死に、客観的真理は存在せず、すべてが相対化される。文化人類学者のレビ・ストロースは、どの文化も平等であり、それぞれの社会的構造の中でそれなりに意味を持っているとする。もはやキリスト教のみが真理で正しく、異教の地に唯一の真理を伝えてゆくということは許されない。それは傲慢な行為と理解される。どの宗教も等しく価値があり、1つの文化による、他の文化占領は許されない。個人レベルでも「あなたにとってキリスト教が役立つなら、それはいい事でしょう。でも私を改宗させないで。私は私に合ったものを探すから。」という会話はアメリカのキャンパスでよく聞かれる会話になっている。

当然、道徳も相対化される。婚外交渉も同性愛も個人の好みの問題となる。それに関して他人がとやかく言えないのだ。思考も社会組織構造も、もはや中心がない。幹と枝ではなく、細胞のようにヘッドなしでフラットに増殖してゆく。伝統、歴史は1つではなく、解釈の仕様によって幾つもの歴史が存在する。これが正しいというものがない。むしろ意識的に中心をずらす、いわゆる「脱構築」しなければならないという。また、定まったメッセージが無いのだから、テキストは読み手により、いかようにも解釈されるようになる。聖書のメッセージは客観的な真理ではなく、読み手の解釈に全くゆだねられる事になる。世界観が違うと、こうも違ってくる。話がまともにできなくなる。

しかし、ラディカルなポストモダンの絶対相対主義では、自分達のメッセーですら脱構築され、読み手の解釈にゆだねられるので、その主張を伝える事が出来ないという事態になる。これでは科学論文も出せなくなるのではないか? 特定のメタナレティブ(世界観・大きな物語)を真理として教える事に抵抗する。個々人は好みにあった小ストーリーの世界に生きる事になる。そうは言っても、新宗教や、政治家の国家ビジョンなど、違うかたちでの大きな物語は次から次に出現してきているのではないか? 人間としての普遍的共通項を失ったまま、個人で完結する小世界だけで、本当に満足できるのだろうか? 

次回は新しく起こっている「新無神論」について一言述べておこう。

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