まず、最近出版された本を紹介しよう。英語のタイトルはWhy God won’t go away (SPCK出版)でキリスト教界では広く支持されている英国の神学者 アリスター マクグラスが著者である。
事の発端は利己的遺伝子の提唱者のリチャード・ドーキンス博士が書いた「God Delusion」(和訳あり)での攻撃的なまでの無神論提唱にある。しかし、ドーキンス博士はなぜ今更、そこまで攻撃的に1昔前に型のついた無神論を蒸し返すのだろうか。それは裏をかえせば、ニーチェが「神は死んだ」と宣言して以来、今日まで神は死ぬどころか、居なくなりもしていないということではないか。
本書ではドーキンス博士の他、この新無神論の提唱者としてThe End of Faithの著者、Sam Harris, Breaking the spellのDaniel Bennett, そして、新無神論のネットワークである“Edge” のJohn Brockmanを取り上げている。
ドーキンス博士の主張は「神は証明できず、したがって宗教は、非合理で非科学的である」とするもの。何ら一昔前の無神論と違わないように思えるが、9・11からのパラダイムではモノを言う。つまり、
「証明できない神を信じる宗教は非合理で非科学的。それどころか非道徳的でさえあり、放置しておくと9・11のように破壊的活動に出る可能性がある。従って、世から神と宗教を抹殺することが世界の平和につながる。」
要はそういう論理で、単なる哲学以上に実践的、政治的色合いの濃いのが特徴である。思想とそれを語っている人間をも区別せずいやみは攻撃をしてくるようだ。(彼らが自負するほど理性的、道徳的とは思えないが)
生物学者のドーキンス博士の論理はユニークである。Memeという神を信じさせる遺伝子がビールスのように人間の頭脳に伝染しているという。一見、科学者らしい論理に見えるのだが、実はなんら証拠がない。それこそイリュージョンなのではないかと言いたくなる。マクグラスが指摘するように、それが遺伝子の働きなら、無神論を信じるのも遺伝子の働きとなるはずだ。科学と人間理性を、ことさらに賛美する新(新しくもないが)無神論はポストモダン哲学からは「遅れている」ということにならないか。新無神論者は18Cの啓蒙主義こそ帰る場所だとするが、ポストモダン哲学者達は、とっくに理性の限界を認識して、理性を信じていない。彼らに言わせれば時代錯誤もはなはだしいとなるだろう。また、彼らの言う科学認識もアマチュア的で、科学が何でも解決する的なナイーブなものだ。実際は、科学の「仮説」もどんどん変わっている。また、真の科学は第三者的批判に公平に耳を貸す。ところが、宗教の偏狭性を指摘する新無神論者は、人の話に耳を傾けない、自らが偏狭なファンダメンタリストとなってしまっている。
真の問題はここだ。それが宗教であれ、政治であれ、何であってもファンダメンタリストにはそれなりの律法や儀式、主義、ヒーローが存在する。彼ら自らも他を攻撃するアブナイ存在になってゆくのだ。ブログでの中傷はエスカレートし、仲間うちで内ゲバ闘争のようになっていく。マクグラスが指摘するように、要は宗教の問題というより、宗教であっても政治であっても哲学であっても、白黒をつけ、自分以外を異端とする「fanaticism - 熱狂主義」に問題がある。本当に神がいないのなら、誰も人々にテロをやれと語るものもいない。つまり、自分たちの判断で動いているわけで、すべては人の側の問題となる。純粋な人災である。いない神を非難できないのだ。しかし、反対者たちにとっては罪をなすりつけられる神がいてくれたほうが便利なのではとまで思いたくなる論の展開だ。
神がいないなら、神を非難できない。すべては人間の問題となり、ボールは自分に戻ってくる。この新無神論運動も、結局、神を消し去ることはできないようだ。実際、神を信じる人々は増え続けている。世界のクリスチャンは増加している。世俗化の進むアメリカでもはっきり無神論を宣言する人は4%にとどまる。
どうやら、神はいなくならないようだ。自分の推測としては、純粋な無神論より、物理科学と融合したようなニューエイジ的スピリチュアリズム(多次元、集団無意識、宇宙意識など)がポピュラーになっていくのではないか?
それでは次回からは、実際に現代人がよくする質問にクリスチャンはどう答えるのかを見てゆこう。
—————————
TMCでは毎月土曜日に、定例会を持っています。東京を変革して
ゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか、どのように
キリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成していったら
いいのかについて話し合う「場」を持っています。ご関心のある方は
メールください。ご案内をお送りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿