さまざまな難問にクリスチャンとしてどう答えるのか。これを、キリスト教弁証論、英語ではApologeticsといいます。現代のインテリ都会人に伝道するのに、避けて通れないことでしょう。また、キリスト教、聖書に関して多くの誤解もあります。それを解いてゆくことも伝道の大きなステップでしょう。しばらく連載で、このテーマを扱ってみましょう。まず、第一問。
「聖書って現実離れした精神主義の世界でしょ。キリスト教は禁欲主義だから、オレなんかはついていけないな。」
答え:
キリスト教は精神主義ではありません!
えっ、そうなの? まず、旧約聖書を土台とするユダヤ教は精神主義ではないし、禁欲主義でもありません。旧約に登場する人々は、生身の人間で、非常に人間臭いのです。雅歌はソロモンが書いたといわれるラブソング集ですが、ホットな性的な関係を描いています。神が世界(目に見える物質世界)を創造された時、すべては良かったと言われました。神の姿に造られた人間は肉体を持つ者として、創造されたのです。そこに矛盾はありません。神は土から人間の肉体を作り、ご自身の荷姿(内面)を造られたのです。
キリスト教は、精神主義や禁欲主義ではありませんが、ギリシア哲学(とくにプラトン主義)の影響を受けた神学者たちが、ずれた解釈を始めたのです。目に見えぬ神がイエスとして、肉体をとってこの世にこられた。これが聖書のメッセージです。かえって、異端のグノーシス主義が、神は悪しき肉体をもって人間になることはありえない。イエスは仮に肉体として現れたのだと主張しました。これを仮現説と言います。しかし、これは聖書の主張ではないのです。
もう一度言いましょう。神は人間を男と女に、肉体を持ったものとして造られたのです。そして、造られた後で「良かった。」と言われたのです。これは肉体の肯定です。否定ではありません。雅歌では男女の愛、それも肉体的な愛の表現を肯定しているのです。もちろん、奔放な性は慎むべきですが、夫婦間のセックスはむしろ勧められているのです。神は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と命令までされているのですから。
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